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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 食生活の変化

 食糧の変化

 先行する縄文時代は自然採集経済の社会であり、狩猟・漁撈・採集によって食糧を得ていた。縄文時代の後期から晩期になると原始的な稲作以外の農耕によっても一部食糧を得ていたことは間違いなかろう。それはこの時期の山神や船ヶ谷遺跡などから、石鍬状石器や石庖丁状石器が出土したり、栽培栗が出土することからもうかがえる。しかし、それは食糧獲得の中心的手段でなかったことは確かである。
 弥生時代の前期になると、北九州に流入伝播した稲作がいち早く本県にももたらされ、短期間のうちに全域に広がったが、これは急速に広がる条件がすでに内在していたからである。その最大の原因は狩猟・漁撈・採集経済が、いつも自然環境に左右される不安定な食糧獲得方法であって、当時の人びとが常に食糧確保に骨身を削っていたからであろう。そういう状態のところに稲という一度に大量の栄養豊かな食糧が得られ、かつ貯蔵がきくものであることが解れば、人びとはすべてに優先してこの稲作を取り入れたのは当然である。さらに稲作そのものが全く異質的なものでなくなってきており、根菜類や葉菜類などを原始的に栽培する技術を持っていたからであろう。
 稲以外にも中予では前期に鶴ヶ峠から麦の遺体が出土しているといわれているから、稲とともに水稲栽培の不可能な畑地では麦が栽培されていたといえる。これら稲・麦は窪田ⅣやⅤ・鶴ケ峠では、甕や壷に入れられたものが直径一メートル前後、深さ七〇~八〇センチの円形の貯蔵穴(サイロス)中から発見された。これら稲・麦を栽培し、食糧としたことは食生活にも大きな変化をもたらす結果となった。縄文時代は深鉢でもって煮ることを主体としていたが、稲・麦が生産されるようになると、これを食糧とするため、深鉢や甕の底部に孔を穿って蒸すという調理方法があらわれた。稲・麦栽培は社会構造に大きな変化をもたらしただけではなく、食生活上も焼く文化・煮る文化から蒸す文化中心へと大きな転換をもたらした。

 弥生時代の狩猟・漁撈

 稲作や麦作が開始されだしたといっても、縄文時代に行われていた狩猟・漁撈・採集といった食糧獲得手段が全く放棄されたわけではなく、並行して行われていたことは事実である。狩猟は弥生前期遺跡から石鏃や石槍が出土することからも、野生の小動物を獲っていたことが明らかで、阿方貝塚から鹿・猪・タヌキの獣骨が出土していることがそれを証明している。
 来住Ⅴ・窪田Ⅳ・同Ⅴ遺跡では石鏃などの量は非常に少ない。したがって、稲作開始当初は稲作そのものにすべての労力を投入していたともいえる。これら前期遺跡はいずれも沖積平野にあって、台地や山地に比較的遠く離れているので、狩猟をする場所がなかったのかも知れないし、よしんば狩猟をしたとしても季節的なものであったかもわからない。
 漁撈も狩猟とともに行われていたことは、魚貝類や鹿角製釣針・石錘・土錘などの漁具の出土で明らかである。特に貝類の採取は今治市阿方貝塚・片山貝塚・北条市南宮ノ戸貝塚が形成されていることから、かなり活発に行われていたことが判明している。弥生時代の貝塚はいずれもが瀬戸内海に面する地帯にあって、縄文時代の貝塚とは若干分布の状態が違っている。
 愛媛県は海岸線の長さが全国有数であるにもかかわらず、弥生時代の貝塚は前述の三ヶ所のみで他では発見されていない。このうち阿方貝塚は弥生前期前半より約二〇〇年間の長きにわたって形成されている。阿方貝塚からは海水産のアサリ・アカニシ・イタヤガイ・イガイ・イモガイ・ウミニナ・オオノガイ・キサゴ・サザエ・ツメタガイ・ハマグリ・ハイガイ・マガキ・マツカサガイ、淡水産のカワニナ・マルタニシの貝類が出土しているので、これらを食糧としていたものであろう。なお叶浦遺跡のごとく直接海に面していながら貝塚が形成されていないところがあり、今後解明しなければならない点が多分にある。
 採集の対象であるクリ・ドングリ・シイ・トチ・クルミなども集められ、あく抜きをしたあと、食糧や酒などに加工して利用していたであろうことは、弥生中期から後期の遺跡でこれらが出土していることからも想像できる。
 食生活に直接関係するものではないが、食糧である稲や麦、それにヒエなどの雑穀の貯蔵が行われるようになったことや、それに伴って貯蔵用の土器である壷が弥生時代になってあらたに出現したり、食物を盛る高坏が出現することも広い意味での食生活の変化に含まれるであろう。