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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 穴神洞遺跡などからの石器

 楔形石器など

 ほぼ土器始源期(微隆起線文土器―穴神Ⅰ式土器)にまで遡って人々の生の痕跡を留める穴神洞遺跡、それに中津川洞遺跡及びその周辺の遺跡での縄文草創期・早期における石器について一括しその概略を述べておきたい。
 中津川洞第七層は、無文土器の破片一点の検出をみているものの、その出土の様相は微妙で(第六層基面での大石の下からの出土)、土器包含層か先土器層かの判定に困難さをもつ層である。この層からは礫核を素材とし上下の縁辺を剥落する楔形石器、縦長剥片を素材とするサイドスクレイパー、同様に縦長剥片を素材とし、若干の基部加工、それに一側縁を背面からブランティングしたナイフ形石器、使用痕をもつ剥片、また節理面を打面とし、これを打撃し、小口の部分から縦長剥片を剥取した様相をもつ細石核、それに細石刃の可能性のある小形縦長剥片が検出された。今後にその同例の集積を進め一層の究明が望まれている。
 特に中津川六層(上黒岩Ⅱ式の範疇で把えられる無文土器が出土)を中心として盛行する楔形石器が、この時期(中津川七層)すでにその石器組成のなかで認められることは注目され、すでに前章において、後期旧石器時代終末期に始源をおくとして紹介されている。
 楔形石器の名称は、必ずしも明確に概念規定された結果から付与されたとは言い難い。またその類例も現状では中津川洞遺跡からの楔形石器を、八幡浜市徳雲坊遺跡のほかには、大分県玖珠郡九重町二日市洞穴の名をあげ得る程度で僅少といわざるを得まい。とはいうものの、中津川洞遺跡での出土の様相から推して、県下での縄文早期の集団の生業に関わるきわめて重要な資料として論述する必要に迫られ、以下述べることとする。
 楔形石器の用途については、その類例の僅少さからも明確さを欠いているが、(2―48)の石器組成図に見られる如く石鏃と反比例的に下層で多量を占めることから、投槍または手持ち槍に着装され、何らかの狩猟に関わる道具とするもの、その形状の様相から推してエンドスクレイパー的用途を持つとするもの、また木材等を縦割り的に剥離する文字通り「楔」としての用途を持つとするものなどがある。「楔」としての用途とすれば、強いて石鏃との競合は考えられず、縄文各期にわたっての出土も想定され、今後に究明がせまられる。
 中津川洞遺跡からの楔形石器を(2ー49)に図示する。その(1)から(8)は、上黒岩Ⅲ式の範疇で総括される押型文土器、それに撚糸文土器、押圧条痕土器が共伴の形で出土し、ほぼ縄文早期中葉の文化層とし得る第四層から採集された。(1)~(3)はこの層の上部から、(4)~(9)は下部からの出土である。(1)は礫核を素材とし、上下縁辺に階段状剥離を施す。(4)は厚い縦長剥片を素材とし、加工は全体に及ぶものの上下縁辺の階段状剥離がみられる。(5)も縦長剥片の上下端に階段状剥離痕を持つ。(6)は礫核を素材とし形状は紡錘形を呈する。上下の両方向から平行に剥離面が走り、先端の階段状剥離痕と合わせて両極打法により製作したことがうかがえる。(8)は下部が欠損している。これらの原材は総てチャートである。
 第五層は、その下部から上黒岩Ⅱ式として総括し得る無文土器が出土し、ほぼ縄文早期前半の文化層で、この層からのものは図示するうち(9)から(16)の楔形石器が相当する。(10)(11)は縦長剥片、(9)は横長剥片、(12)・(13)は礫核、(14)~(16)は縦長剥片をそれぞれ素材とし、第四層同様の剥離痕を持つ。このうち(15)は剥離が全体を鱗状におおうものの、楔形石器の範疇とされた。第六層からのものは図示するうち(17)~(19)が相当する。第五層以下においても原材は総てチャートであった。
 以上述べたごとく、チャートを原材とし、ほぼ長方形、平行四辺形、ないしは紡錘形といった形状の上下縁辺に、階段状剥離痕を持つこ
の楔形石器は、県下でどのような広がりが見られ、また西日本といった広い視野でどのように位置づけられるか、今後に解明を待ちたい。

 始源期の石鏃

 つぎにきわめて瞥見ながら御荘町深泥遺跡の資料をもとに、縄文早期初頭から縄文早期前後にわたっての石鏃の様相をみておこう。
 (2―50)の(1)(2)は抉りの浅い二等辺三角形鏃で、上黒岩第六層での始源期の石鏃との共通性が観取できる。(3)~(26)は押型文Ⅰ期(県下では上黒岩Ⅲ式)での石鏃とされる。このうち(3)~(13)は、長さほぼ約三センチ程度、幅一・五センチ前後の大きさをもつ比較的長身の類で、入念な押圧剥離により作られ、背部には稜をもつ出来上りの端整なものである。基部の抉りは比較的深く、弧状・U字状の抉部を呈している。基部の両翼端は(3)・(5)・(6)・(7)・(9)・(10)にみられるように、切断したごとく直線状を成しているのが特徴的である。(14)~(17)は、その形状をほぼ前者と共通するものの、幾分か身幅が広くて、翼部の両側がやや内側に入りこんでくるなどの差異をもつ。(15)にみられるごとく基部の抉りが深く、抉部が梯形を成すことが特徴的である。いわゆる鍬形(石)鏃とされるものである。(18)~(26)は翼部が左右に大きく広がる小形三角形鏃で、(1)・(2)からの系譜を引くものと考えられている。作りは比較的精巧で、翼部は身の割に細長く作られ、左右相対的なもの(22)・(26)、非対称のもの(18)~(21)の二種類があり、全体的には、その形状は「ハ」の字形
を呈している。

 尖頭状石器

 つぎに県下においてその資料の増加をみつつある尖頭状石器について触れておく。これは土器始源期までは明確に存在した各種の尖頭器、なかんずく楕円形の尖頭器や杏仁形尖頭器などからの系譜と考えられ、押型文Ⅰ期(上黒岩Ⅲ式)以降を中心にして検出される。その用途は手持ち槍として着装され狩猟を対象としたもののほか、スクレイパー的な機能ももつと考えられている。資料として図示(2―51)したものは、穴神洞遺跡第四層出土のものと深泥遺跡のものである。(1)は、周辺部は大きく粗い打調によって剥取られ、その表面は幾分か肉厚く作られ、裏面は扁平である。基部は扁桃形を呈し、丸味を帯びるが中ほどに浅い凹みがみられる。
 (2)・(3)は、基部は両者とも直線に近く、特に(2)は左右側縁に小さく押圧剥離による整形も認められる。穴神洞出土の(4)は、全縁に打調による剥取りが施され、裏面が扁平で基部は直線的である。石鏃より大形で、打撃調整を主とするこの尖頭状石器は、まさに大形獣の息の根をとめる必須の道具であったのであろう。

2-48 中津川洞遺跡第4層~第7層の石器組成図

2-48 中津川洞遺跡第4層~第7層の石器組成図


2-49 中津川洞遺跡第4~第7層出土の楔形石器

2-49 中津川洞遺跡第4~第7層出土の楔形石器


2-50 深泥遺跡採集の石器

2-50 深泥遺跡採集の石器


2-51 尖頭状石器

2-51 尖頭状石器