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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 縄文式土器の編年の概要

 編年研究に登場の平城式土器

 すでに前項でも若干触れたごとく、戦前における考古学的研究は、横地石太郎・西園寺源透・長山源雄らによって鋭意進められたものの、そこでの資料の弱少さにも由来して、ついにその編年的究明はなされないままに終わった。
 ようやく戦後の昭和二九年(一九五四)、南宇和郡御荘町平城貝塚の一画を対象とする発掘調査を契機とし、その編年的研究のスタートが切られた。ここでの出土土器は、第一類土器―第五類土器、それに無文土器を加え六つに類別されたものの、その編年的位置の設定は、すでにその大綱が確立されていた九州及び瀬戸内側との対比という方法を採らざるを得ないものであった。愛媛を含め四国の縄文土器の編年に関わる研究は、当初から他地域と比較し格段の遅れのあったことが指摘される。
 かかる意味で記念さるべき平城貝塚出土の第一類土器は、磨消縄文手法で飾る入組文様や渦文を胴部に集約的に持ち、口縁部での山形突起や橋状把手で特色づけられ、この時、福岡県鐘ケ崎貝塚出土の鐘ケ崎式土器そのものとし得るとの評価がなされた。また第二類土器は、第一類でみられた口縁部文様集約部と胴部文様がそれぞれ接触せず、竹管押捺文・同心円文・渦状文を口縁部に付す縁帯文土器で、胴部文様帯での縄文の盛行などの差異はあるものの、岡山県津雲貝塚での津雲A式土器の範躊とし得るものとされた。第三類土器は浅鉢形土器が一括された。第四類土器とされたものは、器面から縄文が消失し、口唇部に鋸歯文・複合鋸歯文などの沈線文様を持ち、時として粗雑な垂下条線を胴部に付す縁帯文土器で、岡山県彦崎貝塚での彦崎KⅠ式土器として把握された。第五類土器は、縄文のみで施文効果をあげる土器が一括された。これらのうち、第三類・第五類それに無文の土器は、他類の土器と共伴するものとの見解がこの時すでに出されているが、この見解は現在も変わっていない。しかしながら、鐘ヶ崎式土器とされる第一類土器、津雲A式土器・彦崎KⅠ式土器とされる第二類・第四類土器と、その編年的位置はほぼ明らかにされたもののいわばそれぞれに個性を持つ土器型式の集合体としか把握されなかった平城式土器の持つ主体性・独自性に対する疑問が残されることとなった。この疑問に対しての究明の最初の視点は、平城式土器の出自に関わる問題である。幸いにして、貝塚北部分で小規模の家屋改築が、昭和三七(一九六二)・四七(一九七二)年の二度にわたって実施され、この時の発掘資料の中に、平城第一類土器と高知県宿毛貝塚出土土器(その第一類土器)をつなぐ良好な土器の存在が確認されたこと、宿毛貝塚における精緻な土器の再検討と宿毛貝塚での平城式土器の様相の究明、さらには大分県小池原貝塚において、その下層から宿毛式土器に対比し得る小池原下層式土器、その上層から小池原上層式土器と呼称されまさに平城第一類に対比し得る土器が、大分県下に散見される津雲A式的な土器を全く混在せずに出土したことなどから、平城第一類土器は、その第二類・第四類土器に若干先行し、かつ宿毛式土器からの系譜を引くものと考えられるに至った。この間、鐘ヶ崎系統土器と汎称されこそすれ、玄海灘を中心とする鐘ヶ崎式、有明海一帯を基本とする御手洗B式、ここ豊後水道に立地する平城式・小池原上層式とで、その器型・文様の上で微妙な差異を持つことが指摘され、従来からの鐘ヶ崎式土器そのものとする平城第一類土器に対する見解が改められたこと、また平城第二類・第四類土器がその第一類土器からの系譜を引くことは、器型・文様推移の上からも、全く矛盾のないことなどから、宿毛式土器→平城第一類土器→平城第二類・第四類土器の発展的系譜が設定され、この地域の持つ縄文後期文化の独自性・主体性が強調されるに至った。
 また、昭和四八年(一九七三)二月発掘調査の実施をみた高知県土佐清水市下川口の片粕遺跡出土の片粕式土器は、その器型・文様の上から平城第二類土器の系譜を引くものとして注目を浴びた。この片粕遺跡は、平城貝塚の南東方、その直線距離約四〇キロ、太平洋を望む片粕港へ伸びる舌状の微高地上に立地し、現県域を越えるとはいえ、この時期として当然ながらひとつの領域の中にあった。片粕式土器の主体を成すその第一類土器は、口縁波頂部にみられる横S字状(W字状)粘土紐貼付、胴部文様にみるS字状に近い曲線文の縦位垂下や数条の平行沈線で描く連続山形文的図柄などで特徴づけられるが、これらはともに平城第二類からの発展的変容として把握し得るものであった。すなわち、口縁波頂部のそれは、平城第二類に認められる口縁をめぐる沈線がそのまま延長され山形突起にまきつく手法の痕跡であり、胴部文様のそれは、平城第二類の縄文地に大きく波打つ波状文が著しく斜行直線化したものであり、S字状縦位垂下は入組文様の衰微したものとも受けとれる。
 ところで、この片粕式土器は昭和五二年(一九七七)、平城貝塚での貝層の最上部分たることが推定される岡原実宅の玄関補修時に、一括多量に発見されるところとなり、平城式土器の範疇で把握する必要に迫られることとなった。このことから、片粕式土器を県下では一時平城上層式土器と仮称したこともあったが、改めて前述までの研究成果を総括し、宿毛式土器を祖型とする平城式土器を、若干の時間差の存在を基本として、平城Ⅰ式土器(第一類土器)、平城Ⅱ式土器(第二・第四類土器)、平城Ⅲ式土器(片粕式土器)の系譜のもとに整理しえた。
 もとよりこれらの土器型式は、平城貝塚の持つ領域の中できわめて閉鎖的に発展したものでは勿論なく、九州を含む西日本という広い視野のなかにおいて、それぞれの地域が特有の要素をそれぞれに保持しつつ、かつ強い相関関係のもとに生み出されたものである。

 平城式と関連する土器

 つぎに西平式系統土器(西平式土器は熊本県八代郡西平貝塚出土土器を標式とする)として、昭和三二年(一九五七)報告された宇和島市伊吹町出土土器が後続する。
 ここでの出土土器は、内折する口縁部に球形に誇張された胴部、極端な上げ底を呈する底部などの器形に、波状を成す口縁波頂部でのV字状切り込みや上胴部文様帯での平行沈線と連続刺突文に加え、c状剣突・x状刺突・()状刺突を沈線間に繰り返し用いることなどで特徴づけられるが、その基本となる器形や口縁帯を回る平行沈線、上胴部での数条の平行沈線にS字状縦位垂下の痕跡ともされる沈線間刺突などは、明らかに平城Ⅲ式土器からの流れを汲むものとしての位置づけが可能である。もとより、これは平城Ⅲ式土器に対比される西瀬戸内での岩田第一類土器からの系譜を引く第二類土器、九州での北久根山式からの系譜をもつ西平式土器、中瀬戸内での津雲A式(彦崎KⅠ式)に後続する彦崎KⅡ式土器、山陰・中国山地での崎が鼻式の流れを引く権現山式土器、さらに近畿での元住吉山Ⅰ式などに相関関係をもつ文化波の中で生成されたことはいうまでもない。なかんづく、平城Ⅰ式土器と強くかかわる鐘ヶ崎式・御手洗B式などの縁帯文を祖型とする西平式土器との類縁関係は強く、伊吹町出土土器が、それとの差異とし得るものは、器形において強い上げ底を呈すること、磨消縄文を全く持たぬこと、西平式土器で圧倒的に優位を占める右巻きの撚りによる縄文施文に対し左・右とほぼ同率(このことは平城Ⅲ式土器からの系譜を証する)を示すことなどがあげられるに過ぎない。これらの差異やその祖型の確認を通して、この伊吹町出土土器は伊吹町式土器との型式名が冠されている。
 伊吹町式土器に後続する縄文後期後半の土器は、南予ではよい遺跡に恵まれず、わずかに北宇和郡広見町岩谷遺跡出土の第六類土器が三万田式土器(熊本県菊池郡三万田東原遺跡出土の土器を標式とする)に、東宇和郡宇和町久枝遺跡出土の土器が御領式土器(熊本県下益城郡御領貝塚を標式)にそれぞれ比定されているものの、数量的にも貧弱で今後の究明が待たれる。

 その他の後期前半の土器

 一方、平城貝塚の調査を契機に県下の各地で縄文後期の編年に関わる究明が、意欲的に進められた。まず昭和四二年(一九六七)に報告された東予市六軒家遺跡及び世田山麓遺跡出土土器は、瀬戸内での縄文後期初頭の指標とされる中津式土器(岡山県倉敷市中津貝塚出土土器を標式とする)のもつ土器内容をほぼ変容なく伝えるものとして注目された。ただし瀬戸内の東寄りや近畿さらに中部西域に認められる最古式に属するとされる中津式土器は、県下では存在しない。すなわち頸部がややくびれる深鉢形・鉢形土器や、口縁が直立もしくは内湾また波状を成す深鉢形土器に、文様集約部にむかう横位ぎみに奔放に走る区画沈線文に、磨消縄文・貝殼疑似縄文・刺突文を付すものを基調とし、条痕やへらみがきの器面をもつ無文土器、それに口縁端刻目を加味する土器などで総括されるものであり、明らかに東からの波及が観取できる。これらは県下で最初に確認された遺跡名を採り、六軒家Ⅰ式土器と呼称する。
 この六軒家Ⅰ式土器は、多量にその出土をみた周桑郡小松町小松川遺跡・越智郡波方町水崎遺跡・北宇和郡広見町岩谷遺跡などを含め、県下のほぼ全域から発見され、その出土地はほぼ九〇個所を数える現状にある。ここでは、その前史たる県下における縄文中期、なかんづくその後半期での遺跡の僅少さから推して、中津式土器集団そのものの北ないし東からの移動が想定される。集団は海浜や河川端の適地を選んで立地し、漁撈さらには周辺での狩猟に基盤を置く生活実相を確立したに相違ない。ちなみに中津式土器の変異の少なさについて、中津式土器を構成した集団が、生業に伴う労働編成の上で狩猟採集民として過度適応を成しとげたと評価されることから、土器製作の過程で製作者の意志決定の域がおのずと狭いものになったとの見解がある。もとよりこれは否定さるべきでないものの、県下においては土器そのものを保持する集団移動に起因する土器型式の同一性が指摘されるのであり、さらにそこでの集団の分化が集団の拡散に至らないだけの集団規制と生活基盤にこそ注目すべき点が所在する。
 さて六軒家Ⅰ式土器は、漸移的に変化し瀬戸内での福田KⅡ式(岡山県倉敷市福田貝塚出土土器を標式とする)に比定し得る土器への変容をみる。しかし周桑郡小松川の川床から採集された土器は、この両者をつなぐ位置を占めるものとして小松川式土器と呼称しうる。また福田KⅡ式に対比される土器は、県下で最初に確認された六軒家遺跡の名を採り、六軒家Ⅰ式土器と呼称したが、南予ではほぼ同じ土器内容をもちながらも、後述のごとく、宿毛式土器からの影響が認められ、岩谷式土器の名をもって呼ばれている。
 まず小松川式土器は、六軒家Ⅰ式(中津式)の文様構成を強く残存させる土器で、区画文を基調とした個々の文様の独立性が失われ、むしろ縦位の垂下傾向が生じ、文様どうしが接近し他から伸びてきた沈線とのからまりで、なお区画的意志を表現しようとするが、沈線末端を明確には結ばず流れる傾向を持つ土器として総括される。つぎに六軒家Ⅱ式土器では、まずその深鉢形土器は、小松川式の頸部のもつなめらかさが若干「く」字状に細めたものが一般的となり、沈線もやや細めとなり、曲線文も直線化の傾向をもち始め、殊にその三本の沈線は特徴的で、流れを持つ沈線末端が他方をだきかかえるように変化しわらび状の組み手を形成する。また文様が器面全体にわたって付されることが多いのは小松川式と同様とするが、口縁端を拡張・肥厚させ口縁部文様帯と胴部文様帯が分離していく傾向がみえはじめることや、磨消部が広く縄文の残される部分が狭くなるなどの変化が観取できる。このほか植木鉢状を呈する浅鉢形や、口縁端を若干肥厚させる無文土器もみられる。以上述べた土器の特徴は、まさに福田KⅡ式土器に通じるものである。岩谷遺跡では、ほぼその土器様相を同一としながらも二本沈線で器面を飾る一群の土器が存在し、そこに占めるこれらの土器の比率は高い。これらの土器の占める比率は県下の北ないし東に進むに従い減少していくとの指摘もある。この二本沈線施文は、岩谷式土器(瀬戸内での福田KⅡ式)との強い類縁関係のもとにありながらも、宮崎県東諸県郡尾立遺跡出土の土器を標式とする綾式土器の強い文化波の中にあったとされる宿毛式土器との関係が考慮される。

 瀬戸内斜面での後期後半の土器

 さて巨視的にみる限り小松川式・岩谷式土器として把握が可能な宿毛式土器からの系譜は、すでに述べたところである。しかし県下での瀬戸内斜面や山間部では、それらと微妙に異なる様相で推移したことが指摘されている。すなわち、豊後水道側での平城Ⅱ式土器や、堀之内系統土器とも汎称される東日本的な土器とも強い近隣関係をもつ、中瀬戸内の彦崎KⅠ式・津雲A式土器の強力な波及である。その出土地は周桑郡小松町川原谷遺跡・越智郡波方町水崎遺跡・松山市畑寺・東山・谷田Ⅱ(上野)・古照遺跡などがあげられ、その土器は、平城Ⅱ式土器に比べて口縁端の肥厚が顕著でまたその施文部が若干狭小である。そのほか胎土・施文文様・沈線の深さなどに微妙な差異が観取できる。現段階では古くからこの種の土器の出土で知られていた地名にちなみ川原谷式土器(仮称)としておきたい。
 この川原谷式土器には、昭和四九年(一九七四)、愛媛県総合運動公園内遺跡第二次調査での谷田Ⅱ(上野)遺跡出土のⅢ式土器が後続する。上野Ⅲ式土器はすでに述べた高知県の片粕式土器や県下での平城Ⅲ式土器と強い類縁関係をもち、器面文様帯の随所に曲線的文様の痕跡を留めつつ、直線平行文に移行する過渡的時期を占める土器である。  
 上野Ⅲ式土器に後続する土器は、上野Ⅳ式土器があげられる。この上野Ⅳ式土器はⅢ式土器を祖型とし、すでに述べた伊吹町式土器と類縁関係を強く持ちつつ彦崎KⅡ式土器(岡山県児島郡彦崎貝塚出土土器)との相関のもとに形成された土器である。
 上野Ⅳ式土器には、昭和四八年(一九七三)その調査の実施された上浮穴郡久万町山神遺跡での山神Ⅱ式土器が後続する。この山神Ⅱ式土器は巻貝による凹線を付すことや巻貝を回転させての扇状の押捺文様で文様集約部とすることで特徴づけられ、近畿の宮滝式土器や中瀬戸内の福田KⅢ式(馬取式)土器に対比し得る。
 以上、豊後水道側での後期末葉での様相をやや不鮮明としながらも、県下での縄文後期全般にわたる編年に関わる系譜はほぼ完備されたものとみられる。すなわち、六軒家Ⅰ式―小松川式―岩谷式(宿毛式新)―平城Ⅰ式―平城Ⅱ式―平城Ⅲ式(片粕式)―伊吹町式―(御領式)の系譜で把握される豊後水道側と、六軒家Ⅰ式―小松川式―六軒家Ⅱ式―川原谷式(仮称)―上野Ⅲ式―上野Ⅳ式―山神Ⅱ式の推移をたどる県下の瀬戸内斜面側である。県下においてこのように二分される編年上の系譜は、漁撈面での生業形態の差異に由来するとの見解もあり、今後これらに関わる遺物の究明などを通し解明されることが期待される。

 縄文草創期・早期土器の編年

 一方、縄文草創期~前期にわたる土器編年に関わる究明は、昭和三六年(一九六一)~四五年(一九七〇)にかけ五次にわたる上浮穴郡上黒岩岩陰遺跡調査、昭和四六年(一九七一)~四九年(一九七四)間の三次にわたる東宇和郡城川町穴神洞遺跡調査、昭和四六年(一九七一)~五三年(一九七八)間の四次にわたる城川町中津川洞遺跡調査などを通じて行われ、ほぼその大綱が確立されていった。
 まず土器始源期に相当する縄文草創期の土器のひとつとされる上黒岩岩陰遺跡第九層出土の土器は、長崎県福井洞穴・長野県狐久保遺跡出土の同類土器とともに細隆起線文土器として把握される。また穴神洞第八層出土の土器は、口唇部下に平行横走する細隆起線を二条、さらに口頸部に五条の微隆起線文を付す深鉢形土器で、微隆起線文土器とされる長野県石小屋洞窟・埼玉県橋立岩陰・山形県一の沢岩陰出土の土器などに対比される。県下では前者を上黒岩Ⅰ式土器、後者を穴神Ⅰ式土器とし、両者の編年的位置は、「概して前者が古いタイプで時代が下降すると口縁に平行に、口頸部には数段ほぼ等間隔に帯状に微隆起線文を付す施文が盛行する」との一般的知見に従い、上黒岩Ⅰ式土器→穴神Ⅰ式土器と編年されている。
 縄文早期初頭に位置づけられる土器は、上黒岩第九層(細隆起線文土器)と、同じく第四層(押型文土器)をつなぐ第六層出土の無文土器があげられ、上黒岩Ⅱ式と呼称する。
 縄文早期中葉の土器は、上黒岩第四層出土の押型文土器を標式とする一群の土器を総括し、上黒岩Ⅲ式土器と呼称される。中津川洞第四層出土の上黒岩Ⅲ式土器には、内面に指圧擦痕文をもつ撚糸文土器や押圧条痕文土器が伴出し、上黒岩第四層でも指圧の跡の顕著な厚手無文土器が確認されたことなどからも、瀬戸内の黄島・小蔦島式土器に対比し得る。しかしてこの指圧痕をもつ無文土器は、松山市土壇原Ⅱ縄文遺跡から一括単純遺物の様相で検出され、上黒岩Ⅲ式土器に後続し一時期を画するものかとの想定のもとに、県下では土壇原式土器との標式名が付されている。
 縄文早期後葉においては、土壇原式土器に後続し、器面全体に斜走する大型の楕円文を付す穴神第三層出土土器を標式とした穴神Ⅱ式土器が広く分布する。これは和歌山県高山寺貝塚出土の高山寺式土器に比定される。
 縄文早期終末では、口縁部の外反の顕著な押型文土器やアナダラ属の貝によって器壁の表裏に条痕を付す土器などの存在が知られているものの、なお明確さを欠きその究明は今後に残されている。

 前期土器の編年

 縄文前期初頭の様相については、古くから南予ではミミズばれ状の隆帯文をもつ轟B式的土器が、また東予方面からは連続刺突施文を付す羽島下層式的な土器が知られていたことから、長く瀬戸内的土器と九州的色彩の濃い土器という二元的な様相のもとで把握されてきた。しかし東宇和郡中津川洞遺跡の発掘は、この見解を大きく修正させた。中津川第二層からは、その条痕調整や隆帯に若干の差異を保持しつつも両者が混在して出土したのを始め、隆帯+刻目(刺突)をもつ土器が多量に確認された。その後の県下各地での調査を通しても両者は併存する形が本来的なものとの見解が強まり、これらを一元的に総括して中津川式土器と呼称される。またその後の松山市谷田Ⅱ(上野)遺跡調査では、この中津川式土器に加えて不規則な隆帯に弧状沈線を付す一群の土器も検出され、島根県東長江町後谷遺跡や帝釈観音堂B群土器などとの類縁関係も強調された。
 縄文前期中葉から後半にかけての県下での出土遺物は少なくて、今後にその究明が問われている。わずかに一本松町広見遺跡や松山市谷田Ⅰ遺跡での彦崎ZⅠ式併行土器、波方町水崎遺跡での里木Ⅰ式ないしは彦崎ZⅡ式併行土器、一本松町茶道遺跡、松山市谷田Ⅰ遺跡、上浦町萩ノ岡貝塚での田井式併行土器、それに松山市古照遺跡の堰周辺の砂礫層から採集された大歳山式併行土器などがあげられるに過ぎない。しかし、現状としては比較的良好な資料とし得る水崎遺跡出土の前期末の土器を指標とし、水崎Z式土器なるものが採り上げられる。

 縄文中期土器の編年

 縄文中期土器の編年については、昭和四九年(一九七四)の越智郡波方町水崎遺跡の調査によるところが大きい。本遺跡からは、昭和四四年(一九六九)、精密な調査が実施された岡山県浅口郡船穂町里木貝塚で、船元Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ、里木Ⅱ・Ⅲと細分された土器にそれぞれ対応する土器が出土した。このような土器の様相は、県下の瀬戸内斜面において見られるだけでなく、南予でもこれらに対比される好個の土器が検出され、ほぼ県下を被うものであったと考えてよい。この水崎遺跡での出土土器は、水崎式土器の名のもとに、それぞれⅠ―Ⅵの型式名が付されている。

 縄文晩期土器の編年

 すでに述べた縄文後期につづく晩期は、宮滝式や御領式と強い類縁関係をもつ山神Ⅱ式土器からの系譜を残し、口縁部表裏の横位凹線と、弧状沈線で代表される晩期Ⅰ期土器(萩の岡Ⅰ式・山神Ⅲ式土器)で始まる。
 つぎに、口縁端や口縁内のきざみ目やヒレ状突起、頸部の縦位刺突文や斜十字沈線で特徴づけられる晩期Ⅱ期土器(船ヶ谷式・叶浦BⅠ式土器)がつづく。
 叶浦BⅠ式土器につづく晩期Ⅲ期(叶浦BⅡ式)の土器は、口縁下にきざみ目を付す突帯文の盛行で知られる岡山県笠岡市黒土遺跡出土の黒土BⅡ式土器と対比し得るものである。
 叶浦BⅢ式土器は、突帯が口縁端にまで極端にせり上がり、かつ衰微したとも受けとれるきざみ目を突帯部に付すもの(晩期Ⅳ期土器)で、弥生式土器との伴出も推定されるが、これらは弥生式土器の項で詳述することとしたい。
 以上、県下における縄文草創期から縄文晩期にわたる土器編年について述べたが、その研究史の意味も含め、縄文後期の土器編年から筆を起こし、多少難解になったと思われるのでここに「縄文土器編年表」としてまとめ、参考に供したい。なお、土器の細部にわたる考察については、つぎの「縄文式土器文化の様相」の項を参照されたい。

2-4 平城式土器 1-11(平城Ⅰ式土器)12・13(同Ⅱ式土器)

2-4 平城式土器 1-11(平城Ⅰ式土器)12・13(同Ⅱ式土器)


2-5 伊吹町式土器(1)と平城Ⅲ式土器(2)

2-5 伊吹町式土器(1)と平城Ⅲ式土器(2)


2-10 愛媛県の縄文土器編年表

2-10 愛媛県の縄文土器編年表