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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 海水準の上昇と沖積・地殼変動

 海水準の変化

 上部洪積世の末葉・マキシマムウルム亜氷期の最寒冷期(一万八〇〇〇年~二万年前)には海水準の低下が現状よりマイナス約一三〇メートルにも達していたことは前章において述べたところである。その後、最古の縄文土器の出現した約一万年前の沖積世初頭(ちなみに細隆線文土器を出土した上浮穴郡上黒岩岩陰遺跡の第九層はCの14乗の測定で、一万二一六五±六〇〇B.P. (Before Physicsの略」の数値が出された)は、先ボレアル期・ボレアル期と呼ぶ小寒期をはさみながらも、全体として強い暖化現象に浴していた。当然ながら、この時期、現海水面にむけての海水準上昇は激しく、現日本列島周辺で多くの湾入や沈水谷の形成が顕著に進行したのである。
 このように、巨視的な列島の様相は、汎世界的規模の海水変動量を基礎にしてほぼ推定し得る。しかし、沖積世初頭から現在に至る列島の微視的な様相については、なお局地的な地殼変動や侵食・堆積などの地形的諸要因が微妙にからむことはいうまでもない。
 幸いにして、県下での第四紀に関わる研究は、洪積層段丘の究明を始め沖積平野の研究など、次第に成果をあげつつある。
 ここで、新居浜・西条両沖積平野の地質学的研究を進めた栗原(一九七二)らの報告をもとに、その概略を述べるとおよそつぎのようになる。すなわち最後の氷河極寒期(マキシマムウルム亜氷期)の後、つまり後氷期での海水準上昇は、まず旧河川下流部での堆積作用を拡大させ、さらに旧河川の形成した谷地形をもつぎつぎと河成砂礫で埋没させた。新居浜・西条両平野の下部に潜在するこの埋没谷地形の先端部は、現瀬戸内海の海底下を縫って伸び、外洋でマイナス約一〇〇メートル前後の大陸棚に連なっている。
 下部沖積ともさるべき前述の沖積層の上部には、シルト・粘土層を主体とし、貝殻片を含む海成層(中部沖積層)が存在する。その層厚は、新居浜・西条両平野下の埋没谷では、五~二五メートルと変化が激しいものの、その上限深度は、マイナス五メートル前後を示して比較的一様である。この海成堆積は、明らかに瀬戸内海の海水準の上昇速度が、石鎚山崖河川からの運搬堆積速度を上まわったことを示すものである。
 このような、谷地形の埋没、海水準の上昇のもとで迎えた土器始源期は、きわめて厳しい自然環境のもとにあったと言わざるを得まい。この期の遺跡が、旧河川に連なる古河川としての性格を持つ河川の先端部にしばしば立地する様相がみられるが、このような自然環境と全く無関係とはし得まい。
 この期における海水準の上昇は、当然ながら均一的な速度で把握することはできない。新居浜・西条両平野の現地表マイナス二〇メートル附近の中部沖積層中には、明確に堆積サイクルがみられ、海水準の一時的な安定・停滞ないしは小変動の繰り返しの時期を想定させるものが存在する。かつ、この層準は、瀬戸内海のほぼ現海底平坦面の基部礫層に乗る砂層に連続している。
 さらに内陸部にむかっての海進は、この時期以降においてひときわ(縄文時期区分では、ほぼ縄文早期中葉に比定し得よう)急速な進行をみる。押型文Ⅰ期の時期(県下では上黒岩Ⅲ式土器)は、このような海進の始源期にあたり、特に注目されるものに岡山県牛窓町黄島貝塚がある。牛窓湾の沖に浮ぶ小島に立地するこの貝塚ではその下層に淡水産のヤマトシジミが集中し、上層になるにしたがい海産のハイガイの増加する傾向が把握されている。これは、播磨灘汽水湖(2-1)が消失し、この付近にまで海水の侵入しはじめた環境を、間接的ながら示唆するものである。この時期、海面は現海水準マイナス一五メートルよりやや高いところまでに上昇したと推定されている。
 ほぼ縄文早期中葉を始源とするこの海進は、さらに進行し、現海面レベルを越え、これをはるかに凌ぐ現海水準プラス五~一五メートルにも達したという。その最大海進時は、約五〇〇〇年前、縄文時代区分では縄文前期中葉(関東地方縄文前期の諸磯式土器諸型式を包含する千葉県加茂遺跡でのCの14乗測定では、三一五〇B.C.±四〇〇の数値が出されている)に比定されている。
 しかし、この期の沖積は意外に現平野部の奥部までは浸透しておらず、特に新居浜平野では、わずか現海岸線から三キロ程度の追跡に留まる。その最大の理由は、中部沖積層期前半においての河川上流部の排出能力の低下で、ほぼ現状にみられる扇状地性堆積へと変容し、その海進を阻んだものと考えてよい。これらの扇状地の先端部には、縄文早期中葉から縄文前期にわたる遺跡がしばしば発見され、この期の人々の立地選択の様相が推定される。
 ちなみに新居浜・西条両平野周辺でのこの期の遺跡立地を、瞥見しておこう。縄文早期中葉(上黒岩Ⅲ式)・早期後半(穴神Ⅱ式)の土器を出土する新居浜市中萩中村の横山遺跡は、横山丘陵の西南端部に位置し、現国領川河口まで約六キロ、標高約七〇メートルを測る。加茂川が山間部から平野部へと流出する渓口の左岸、弱少な扇状地的地形を川みずからが掘削した形状を呈する西条市中野の市倉遺跡は、横山遺跡とほぼ同様に、標高約七〇メートル、海岸線まで約五キロ余を測る。この市倉遺跡からは良好な縄文前期初頭の土器(中津川式土器)が発見されている。また海岸線からの直線距離三・五キロ、標高二六メートルを測る西条市中野の真導廃寺跡は、前述の市倉遺跡附近の渓口部から大きくカーブし、河口部へと注ぐ加茂川の曲点部へ突出する丘陵先端部、ゆるやかな傾斜面に立地し、西条平野を一望する位置にある。この真導廃寺跡からは、弥生中期後半の土器、さらに歴史時代の遺物が検出されたが、その上限は縄文早期後半(穴神Ⅱ式土器)であり、その遺跡立地が注目される。これらの遺跡は、当時の海水準の位置を推定する場合、きわめて強固な資料たり得るであろう。今後さらに微細な遺跡の究明が必要である。
 この中部沖積層期の海進の最頂時、すなわち縄文前期海進の後は、海水面はやや低下し現海水準に及ぶが、この海退で、小規模な浜堤が新居浜・西条両平野さらには三豊平野にわたる海岸線の一部で形成された。上部沖積層期の活動が、現在この浜堤背後の湿地帯でみられている。

 上部沖積と地殼変動

 現在進行しつつある上部沖積層は、現河川からの扇状地性の河成堆積物と浅海性の堆積とから成っており、中部沖積層上に整合する砂礫・砂・シルト層であって、その層厚は、両平野の海岸部で五~七メートルを示す状態にある。
 一方、地殻変動の側面においては、下部沖積層期以降、西条平野を中心とする落ちこみ状の断層活動の存在が指摘されている。この現象は、例えば水源を石鎚山系に持ち、ともに中瀬戸内に注ぎ、河川延長・河川勾配と共通点の多い加茂川、中山川の両水系において、大規模かつ典型的ともされる扇状地形を形成した中山川と、谷口から扇状地を持たず直ちに海岸平野の形成をみる加茂川との差異からも観取できる。さらには、下流部においての両水系の分水嶺の移動、すなわち中山川の川筋が徐々に西側に移動したこと、また高縄半島西側では認められる海岸段丘が、半島の東地域や県下の中瀬戸内斜面では、この種の段丘の発達すら全く認められないなどの地形的現象からも裏付けされている。
 この差異は、沖積層の堆積基盤たる埋没谷地形の形成時から、その後の沖積層の堆積過程において強い断層運動を受けて、西条平野を中心に、南高北低、かつ東西方向に対しても相対的に低下するという、いわば落ちこみ型の地殼変動のあったことによるものである。
 以上、海水準の上昇と沖積・地殼変動にわたって言及した地形的変貌は、長い縄文期を通じ、きわめて漸進的に進行したとはいえ、縄文時代の人々の生活立地選択に重要な要因をはらんでいたものとして理解される。
 つぎに、宇和海沿岸部の沖積層について、土井・宮久ら昭和五三年(一九七八)の報告をもとに、きわめて概略ながら触れておこう。
 宇和海沿岸部の沖積層序の様相も、前述の新居浜・西条両平野とほぼ共通するものといえる。すなわち、上層より下層にⒶ礫・粘土を含む砂層、Ⓑ貝殻片や腐植物を含む灰青色のシルト層、Ⓒ細礫を含む泥質砂層、Ⓓ砂礫と砂泥の互層となる。このうちA層は、現河川の堆積物で、層厚は約五メートル。B層は軟弱層で最大厚は約二○メートル、基底面とその上部、つまり二枚の火山灰層を挾むことや、現地表マイナス二〇メートル附近で海水準が停滞したことなどが指摘されている。C層は八幡浜地区で明確というが、宇和島地区ではしばしば欠落し、その層厚は三メートル程度に過ぎない。D層は灰青か黄褐などの色調を呈し、砂礫を主体とする河成層で、宇和島市須賀川河口附近での層厚は、二〇メートルを越すとみられている。さらにこのD層は、宇和島西方約二〇キロ・二四キロに所在するマイナス一六〇メートル・マイナス一〇〇メートルのコンターで示される海釜に連結するものと考えられている。
 ところで、縄文前期海進を含むB層には、二葉の火山灰層が存在することはすでに触れた。前述の新居浜・西条両平野の中部沖積シルトの最下部(現地表マイナス二〇メートル附近)とその上部(マイナス一五メートル附近)にも、同様な様相が確認されており、ともに三〇~五〇センチの層厚を持つ乳白色細砂やシルト質細砂である。このうち上部の火山灰層は、その重鉱物組成からおそらく阿蘇火山起源のものとされ、そのCの14乗の測定では七六八〇±一四〇B.P.の数値が出されており、ほぼ縄文早期初頭に比定されるものの、なお今後究明さるべき側面も多い。
 いずれにせよ、今後においては、海面安定後の上部沖積層での発掘に留まらず、中部・下部沖積からさらに上部洪積・下部洪積をも対象とする発掘調査が実施されていくことは確実であり、そこでの堆積の精査を通し、海水準や地殻の変動などに関わる資料の集積が強く望まれている。

2-1 後氷期はじめの瀬戸内

2-1 後氷期はじめの瀬戸内