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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

一 第四紀の自然環境

 先土器時代とは

 現在の愛媛県にはじめて人びとが生活するようになったのは、はたしていつ頃からであろうか。それがわかれば、そこから愛媛県の歴史がはじまるのである。
 現在までの研究の結果からすると、愛媛県の歴史の出発点は、おおよそ二~三万年前の後期旧石器時代にはじまると推定してよかろう。これはあくまでも推定であって、考古学的な結果によって確実なものと証明されたものではない。したがって、将来さらにその出発の時代が古くさかのぼる可能性も大きい。わが国においては、この後期旧石器時代は、通常先土器時代とか無土器時代と呼ばれている。

 景観の変化

 さて、愛媛県で人びとが生活をはじめたのは後期旧石器時代と考えられるが、その当時、人びとはどのような自然環境のなかで生活していたのであろうか。これを明らかにするまえに第四紀全体の環境について触れてみたい。
 愛媛県の陸地の輪郭や、現在の瀬戸内海の灘と呼ばれる盆地や山地の配列ができたのは、約一五〇万年前の洪積世前期といわれているが、現在のような瀬戸内海や陸地、島々が形成されたのは、わずか一万年前の沖積世のはじめの時代のことである。この間の約一五〇万年間の瀬戸内海周辺の自然環境の変化を知る資料にはあまり恵まれているとはいえない。しかし、最近になって大阪平野を中心とする段丘の地層や地形の研究によって、その状況がしだいに明らかになりつつある。
 それによると、約一〇〇万年以前の大阪層群最下部ではメタセコイア植物群が繁茂しており、温暖な気候であったことがうかがえる。愛媛県でも、伊予市森海岸からメタセコイアの化石が出土することがこれを証明している。大阪層群下部になると、やや寒冷な気候を示す傾向があらわれ、第四紀の氷河時代の到来を予測させている。約一〇〇万年以後に形成された大阪層群上部では淡水成層と海成粘土層が互層となっている。淡水成層は寒冷気候を、海成粘土層は海浸による温暖気候をあらわしており、氷期と間氷期が交互に繰り返されたことを示している。このことは氷期が海退し、海面が下降して陸地が拡大し、間氷期は氷が溶けて海進となり、海面が上昇して陸地が狭くなることを意味する。
 愛媛県東部の燧灘から斎灘にかけては、淡水地域かそれに類似する地形であり、宇和海から伊予灘周辺は豊後水道から海水が浸入し、海化されていたものと推定される。
 約一五万年前後を中心とする洪積世中期から後期にかけてのリス・ウルム間氷期には、氷が溶けて海面が上昇する大海進がおこっている。この時期には中部瀬戸内海の燧灘を中心とする地域は、地殼変動によって約三〇~三五メートルほど沈降し、海化したものと推定されている。瀬戸内海に浮かぶ大三島や大島、さらに中島の周辺の海底から発見されるナウマン象の化石はこの時期のものであろうとされている。
 約七万年前にはじまるウルム氷期に入ると海水はしだいに瀬戸内海から退いたものであろう。その後の約一万年前のウルム氷期の終わりに至るまでには、その途中に若干温暖な亜間氷期があって一時的に海水が浸入してきた時期もあったとみなければなるまい。このような小海進を繰り返しながらも、約二万年前には現在の海面よりも約一三〇メートル海面が低下した。このことは、瀬戸内海をはじめとして、豊後水道から宇和海にかけても完全に陸地化していたということになる。したがって、燧灘・斎灘・伊予灘の大盆地が連続して存在し、現在と異なって平坦面の多い地形であったといえる。
 当時の気温は年平均気温で現在より七~八度も低く、山地にはマツ・コメツガ・トウヒを中心とする針葉樹が繁茂し、盆地底は一大草原となっていた。この盆地のなかを、備讃瀬戸を分水嶺とする豊予川が、現在の瀬戸内海の中央部を東から西に向かって流れ、関門海峡を分水嶺として、東流する周防川と合流しながら、深い溪谷を形成しつつ太平洋へ流れ出していた。
 この当時の日本列島は、朝鮮半島とはまだ陸続きであったため、朝鮮半島から各種の動物の移動があったものと想像されるし、気温が低いものの広大な平坦地は動物の楽園となっていたであろう。

1-1 第四紀の年代

1-1 第四紀の年代


1-3 洪積世前期古地理

1-3 洪積世前期古地理


1-4 リス氷期古地理

1-4 リス氷期古地理