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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

はじめに

 原始・古代Iを編むにあたって

 愛媛の名はすでに約一三〇〇年前の『古事記』に「愛比売」として見え、同じ八世紀初頭の、『日本書紀』にも「伊予二名島」という呼称が四国の総称として掲げられている。その美しく親しい呼び名をもつ愛媛県も、その原始・古代史はと問われると、文献的にはわずかの史料しかあげえない。そこで、当時の社会や、そこに生きた人びとの生活を画き出すことを念願とする本編では、文献資料を全く欠く原始時代や、これの乏しい古代を扱うに当って、どうしても遺跡、遺物などを対象とする考古学に依らざるをえない。このような立場から、本巻では考古学的考察による叙述を主とし、文献的考察によるものをほとんど第二巻の古代Ⅱ・中世編にゆずることにした。

 人類と先土器文化をたずねる

 昭和五〇年(一九七五)、国立科学博物館人類研究部鈴木尚部長は日本列島総合調査の一環として、高知県境に接する愛媛県東宇和郡城川町下相の黒瀬川石灰洞に旧石器時代の人類文化を求めて発掘調査を行った。ここで、はじめからいわゆる明石原人などを求めるのは無理としても、愛媛県第一の長流肱川流域には、すでに何万年か以前の化石獣骨多くを出土し、一時は人骨も出たと報ぜられた肱川町敷水洞穴があり、またこの最上流の城川町穴神洞では約一万二〇〇〇年前の縄文草創期の土器、オオツノジカ臼歯、縄文早期約八〇〇〇年前の土器、人骨の出土があった。従って同一石灰岩地帯で縄文土器も出ている黒瀬川洞に、縄文時代以前のいわゆる先土器時代人とされた栃木県の葛生人、静岡県の三ヶ日人、愛知県の牛川人などに近い古人骨を期待したことも無理ではあるまい。しかし結果はあいにく不首尾に終った。けれども、当事者たちは当地域になお希望をすててはいない。
 他方、旧石器時代人の用いた道具としての旧石器は、戦後昭和二四年(一九四九)日本にはじめて群馬県の岩宿でその存在が確認され、愛媛県でも越智郡弓削島で倉敷考古館の鎌木主事らの探訪で、昭和三一年(一九五六)はじめてナイフ形石器が拾い出された。これは後期旧石器時代―約三万年前以降―の石器で、これより先の前期旧石器時代の石器や遺跡の発見は日本では数少なく、本県でもまだ見出されていない。しかし、その後ナイフ形石器は、隣の生名島立石山頂の高地性遺跡調査で発見の分を含め、現在本県では十数点があげられている。ナイフ形石器の次に位する尖頭器とその一種の有舌尖頭器は、芹沢長介東北大教授により晩期旧石器とされているが、本県上浮穴郡美川村上黒岩岩陰遺跡で大量に縄文草創期の土器と共に出土した。このほかに東予(県東部―ほぼ高縄半島、越智郡以東)中予(県中央部―ほぼ高縄半島以南伊予郡以北を含む)などの山麓線付近で見出されたものが十数点ある。また細石器とか楔形石器といわれるものの出土も漸次伝えられているが、なおそれらと遺跡との関係などまだ不明な点が多い。さらに後期旧石器時代ないし先土器時代のナウマン象その他の化石も、当時の瀬戸内の草原盆地か湖沼と思われる各所から今日水揚げされているが、さきのナイフ形石器などと共に数万年前の瀬戸内海や周辺の島山をめぐっての生活を追想させる資料である。

 愛媛縄文文化の曙光と展開

 次の愛媛縄文文化の存在については、明治二四年(一八九一)南宇和郡御荘町平城貝塚が高知県宿毛貝塚と共に土佐人寺石正路により発見されてから知られていた。しかし、この縄文後期約三〇〇〇年前の遺跡文化と、さきの数万年前の弓削島方面の先土器文化との歴史をつなぐ太い糸が見いだされ始めたのは、昭和三六年(一九六一)四国山脈中央の予土国境に近い前記上黒岩に貝塚発見との第一報をえてからである。ここでカワニナの厚い貝層中に縄文早期(約八〇〇〇年前)の押型文土器の数々と、同前期の刺突文・みみずばれ文などの土器出土を見、翌三七年(一九六二)には「日本洞穴遺跡調査委員会」の援助により日本最古の土器を含む縄文草創期(約一万二〇〇〇年前)の文化の曙にめぐり会う好機を得た。すなわち、日本最初の系譜につながる細隆起線文土器を始め、さきに旧石器晩期にも組入れられた尖頭器類、日本初見の女性像などを画く線刻礫や、いわゆる矢柄研磨器までがここで続出した。この草創期隆起線文系土器の出土は県内では当所と城川町穴神洞遺跡だけである。
 縄文早期文化も、上黒岩岩陰や穴神洞に新たに城川町中津川洞を加え、各遺跡に数次の発掘調査を重ねてかなり明らかにされた。早期の住居はこれら岩陰や洞穴以外にも、伯方島の叶浦や松山市の土壇原などで丘陵台地部にも営まれたらしいが、遺構はあまり明らかでない。この約八〇〇〇年前当時の縄文早期の押型文土器や無文土器の散布地は、東予の燧灘沿岸山麓地帯と島嶼部、中予の重信川・仁淀川両流域と中島など、南予(ほぼ喜多郡以南)の肱川最上流と御荘湾周辺と佐田岬半島端で計約二〇ヶ所が見いだされ、それらを通して当時の人びとの動きも察せられる。
 縄文前期(約六〇〇〇年前)では、上黒岩に倉敷市羽島や熊本県宇土市の轟と同じ文様の土器を見るが、中津川など南予には宇和島市無月などを含めて、大分県の姫島産黒曜石の流入をはじめ九州的手法がより多く見られ、山陽筋と九州との文化交流の姿を見る。
 縄文中期(約四五〇〇年前)の土器は、昭和四八年(一九七三)海底発掘調査を行った来島海峡に臨む水崎遺跡のものが主で、他には伯方島のもの以外にはほとんど数えるほどもない。これらは倉敷市船元などの縄文地に弧状沈線をもつ文様手法、ないし縦位縄文や撚糸文地文に弧状沈線を伴った物静かな落着いた文様を見るが、東日本中期の豪華な土器に比すべくもない。これはいかなる事情によるものであろうか。とにかく調査のありかたにもよろうが中期遺跡は愛媛と大分県ではとくに少なく、香川、徳島、高知ではほぼ前期数に近い。
 これに対し縄文後期の本県では遺跡数は四国の総数の過半を占め約九〇を越え、これらのうち発掘調査の行われた例は南予の平城を始めとして広見町岩谷・中予の久万町山神・松山市上野などで、いずれも開発に伴う行政発掘に属する。この間にあって、平城の土器文様や注口土器その他に見る形体の多様化とか、人骨の多数出土などは、その他で見られた配石や、住居跡など遺構の片々に後期の生活の豊かさをうかがわせるものがある。ただし一般的にいわれた抜歯の風習は多出した平城人骨では見られてない。
 縄文晩期(約二五〇〇年前)では久万町笛ヶ滝などを中心に山間部に広く生活が行われたかに見えたが、それらは後期の生活の名残りで、最近の調査ではむしろ平地部や海岸の低湿地近くに生活の場が進出して来たようである。島嶼部の沿岸大島の下田水とか、大三島の萩の岡、伯方島瀬戸浜などのほか、とくに松山市船ヶ谷は質量共に注目すべき遺物を残した晩期で特筆すべき海浜近い低湿地での文化拠点であり、後続の弥生文化との関連についても留意させられる。

 弥生文化と瀬戸内地域

 従来弥生文化の一特徴は水稲農耕とされてきたが、その開始は漸次縄文時代の末葉に遡ることがいわれるようになった。本県でも松山市の興居島出土の縄文晩期の土器片に稲籾の圧痕のあったことが報ぜられてもいる。しかし、これら稲作の導入はあっても、なお従来の採集狩猟ないし、半農半漁のような生活が数百年も続いていたことが、今治市や北条市に残る弥生時代の前期後葉(約二一○○年以前)の貝塚からも察せられる。この今治市の阿方貝塚は明治二四年(一八九一)当時今治高等小学校生越智熊太郎によって発見されたもので、その後、調査発掘を重ね、近接の片山貝塚と共に、学界周知の阿方式土器の名をもって戦後広く紹介された。これらの土器は箆描き沈線文とか凸帯文を伴い、弥生前期後葉に位置付けられたが、これに先行直続する主要な土器を県内にたどれば北条市南宮ノ戸貝塚、松山市道後冠山などに見られ、ついで弥生前期中葉(約二二〇〇年前)の土器としては純粋に木葉状文をもつ松山市持田のものがあげられる。これに並行またはやや先行する綾杉文をもつものが松山市御幸寺山麓(祝谷町)に、さらに先行する前期前葉(約二三〇〇年前)の重弧文をもつ土器が、今治市蒼社川中洲で、さらに先行のが松山市堀江昭和町の井戸掘りで発見されている。しかし系譜的には伯方島叶浦出土の重弧文土器の方が、同所出土の縄文晩期土器や九州での弥生初頭の土器文化との関係を一層明確にする。南予では重弧文をもつものが、大洲市慶運寺や大又遺跡に出ているが、宇和町の金比羅山と平城の法華寺の土器と共にいずれも時期を異にし、慶運寺・宇和・平城・大又の順に弥生前期前~後葉の間に位置付けされ、この間の文化推移の状況を察せしめる。
 弥生中期(西紀前一~後一世紀)については当初今治市中寺出土の櫛描き文土器が標式的なものとしてあげられていたが、昭和三二年(一九五七)、当時松山済美高校後藤正健教諭と岡本健児高知女子大教授らによって発掘調査された道後土居窪遺跡(現在祝谷二丁目、湯築小学校庭東側)出土の土器や木器類その他が『日本農耕文化の生成』の中で詳説され、その後中期前葉(前一世紀)以降の遺跡が、東予の今治市町谷、叶浦などで、中予では松山市土居窪ほか県総合運動公園・東雲神社境内・愛媛大学文京遺跡などで調査された。また新居浜市桧端・西条市八堂山でも発掘調査が相前後して行われ、中期中葉以後の土器編年の細分化も進んだ。その結果、弥生中期の県下文化の様相は益々複雑に発展していることが分った。
 弥生後期(西紀二~三世紀)についても、松山北高校、釜ノ口を始め国道一一号線バイパス工事などによる遺跡、遺物を通し、土器のほかにも遺構としての住居跡や埋葬施設の資料も出て、当時の様子がよほど明らかになった。
 また弥生時代の特徴の他の一つの金属器の登場では、鉄器具の発見もままみられるが、とくに儀器としての銅剣銅鉾類があり、さらに遡って石剣、またほぼ同時には分銅形土製品の続出など、瀬戸内文化圏内での東西南北の交流関係がうかがわれ、その間に高地性遺跡の発生と解釈をも交えて、本県弥生文化の特色が奥深く把握されうるように思える。

 古墳時代と文化の展開

 いわゆる古墳時代の始まりをいずれに求めるかも問題であるが、本編では一応巨大な高塚墳墓の出現をもってこれに当て、本県の場合、時期的にはおよそ四世紀の半ばころと推定したい。現存する古墳で最も確実なものとして最初にあげうるのは今治市近見地区の伊賀相の谷にある前方後円墳第一号である。今治市桜井地区にもこれに先行するものが一~二存していたがすでに崩されてしまった。それらは奈良県光伝寺鏡と同笵の三角縁神獣鏡を出した国分前方後円墳と、重圏文鏡出土とされる雉之尾第一号前方後方墳とである。さらに、これらに先行して弥生時代にまたがるものが、前記壊滅二墳に近接の今治市唐子台団地敷地の元丘陵上に種々の土壙墓を含む多くの台状墓としてあった。それらには円形に近いもののほかに、帆立貝式とか前方後円墳形と称されたものもあったが、その断定は難かしい。ただ方形台状墓の例としては越智郡大西町で壊滅の衣黒山遺跡をあげうるだろう。なお、県下では、古墳時代に先行した埋葬遺構としては松山の県総合運動公園の釈迦目山遺跡に弥生中期の土器を伴うとされた方形周溝墓五基があった。これに先行してさらに同公園内の西野Ⅲ遺跡の前期土壙墓群、これに相前後するものに北接する土壇原土壙墓群その他がある。いずれにしても、今治地方には台状墓が盛行し、松山地方には中四国では数少ない方形周溝墓が古墳時代に先行して存していたことに注目したい。そして松山地方に古墳時代前期の巨大墳丘墓が確認しがたいのは、箱形石棺ないし壺・甕棺を伴う
土壙を含む方形周溝または台状墓あるいは方墳的なものが伝統として古墳時代までも存続していたせいでもあろうか。京都府大塚山古墳第七号鏡と同笵の三角縁神獣鏡は伊予市で発見されているが、現場は果樹園化し墳丘の実体は詳らかでなく、前期の巨大墳丘は現在把まれていない。ただ中予でも松山からやや離れた北条市には前期と考えられる明確な前方後円墳もあって風早国造との関連説が説かれたりもする。
 南予では前期古墳は未確認であるが、銅鉾を多出した宇和盆地に中期ないし後期古墳を多く残していることは、中予と同様に古墳前期までも、台状墓ないし周溝墓的なものが気付かれずに埋存されている余地はないだろうか。
 古墳中期は、本県ではほぼ五世紀に当るが、東予地域では新居浜市の金子山古墳を主とし、小松町、朝倉村などに鏡鑑をもって聞えた古墳もある。中予では松山市の岩子山古墳とか経石山古墳などがあげられよう。南予でも規模、構造などやや不分明であるが、宇和町清沢で内行花文鏡を出した長作森古墳などがこれに当たるのであろうか。なお検討を要する。
 古墳後期(六世紀以降)では中央政権との関係も密になり、また地方官人層から有力氏族までが古墳を造り、さらに中期末に導入の横穴式石室による追葬可能から家族墓化の傾きもあり、大小の古墳が数多く見られる。すでに消滅した松山市の三島神社前方後円墳とか、久米高井の波賀部大塚前方後円墳、川上神社の巨石墳その他播磨塚古墳群中の小野自衛隊内の典型的終末期的小古墳なども見られる。東予では異国的副葬品種々を出した川之江市妻鳥の東宮山古墳があり、向山雄塚雌塚などの巨石墳、朝倉村の野々瀬・古谷の古墳群などがあり、南予では宇和町坂戸の樫木駄馬古墳などもあげられよう。
 なお、当代は古墳だけでなく、この大小多数の古墳築成の立地としての背後の生活状況もたどらねばならない。それらのうち最も特筆すべきものの一つは松山市古照の堰堤遺構で、これは灌漑用以外に漁撈用などの諸説もあるが、弥生時代から次第に本格化した水稲耕作に伴う生産技術向上の著しい例でもある。この堰材中には偶然にも家屋用建材が再使用されていて、それらから当時の切妻の高床建物が復元された。このころの住居跡も県総合運動公園内や国道一一号バイパスエ事で見出され、前代に始まった鉄器用具の積極的使用とそれによる加工などとの関連も考え合わされる。弥生式土器に続いての土師器の生産、半島から流入の須恵器と、その製作技法としての窯跡や、また別に埴輪窯もみられ、さらにそれら製作技術集団の古墳かといわれる末期的な方墳とみられるものの集群的存在なども報ぜられている。また出土遺物としての埴輪や装飾付須恵器片などから当時の武人や乗馬の風習などが、馬具武具類の発見と共に考えられる。また供献用土器類のこともこれに先立つ鏡鑑類のことと共になお精査研究が必要であり、本県では古墳関係の調査は将来に多くを残している。

 歴史時代と考古学的資料

 当地方で歴史時代(ほぼ記紀などに所載以後)のうち、平安時代末までの間に文献史料にも散見されながら、なお資料が不十分で考古学的考察によらねばならぬものがかなりあるかと思われる。その著しい例の一つは、近年発見の東予市の永納山山城遺跡であろう。これは同市の今井信太郎文化財専門委員らの執念によって研究調査されてきたものである。この種のものを古くは聖域的に見て神寵石とも称していたが、今日では、その構築の上から古代の山城とされて、軍事的なものといわれている。これが書紀にある天智天皇六年(六六七)に築かれたとされる対馬の金田城や讃岐の屋島城などと同一時期の朝鮮式山城といわれるものに当るか、またはそれ以前の山城に属するかはなお現地での今後の調査にまたねばならない。
 つぎに当地方での古墳時代と仏教文化とのかかわりはまだ明確でない。国分寺創建に先立つ時代を天平前期とすると、この時期以前の本県内寺院数は、奈良時代全期の一三寺の中八ヶ寺とされ、同じ統計によると、香川県は三五寺中二三・徳島県は一四寺中六・高知県は五寺中わずか一ヶ寺とされている。しかし、いずれにしても香川県の寺院数が絶対優位を占めている。ところが、当代に直接先行する古墳時代の前方後円墳の数も、時期区分のこともあって精密とはいいがたいが、香川九四・愛媛二五・徳島一九・高知二基となっている。これは、天平前期の寺院数香川二三・愛媛八・徳島六・高知一寺と順位はもちろん比率においてもかなり相似ており、前方後円墳と寺院との関係を物語るものといえようか。なお他の地域の事例をも徴すべきであろう。またこの種の数比の検討は前後の時代との諸関係をも考えて慎重を期さねばならぬ。ただこの際、後続する「延喜式」による式内社の分布状況や、『倭名抄』所載の郡郷名などとの考較も必要と思われ、これらは文献史学と緊密な協同を必須とする部面でもある。同様の事例は、古墳文化にまつわる伝承や、官・私寺と『日本霊異記』の所伝などとの関係の取扱いについてもいえよう。目下考古学的調査断続中の伊予国府跡と、国分寺、国分尼寺との関係も文献史学とのかかわりが緊要であるが、近年出土の「宇和評」の名を留めた木簡は、宇和郡がすでに大宝元年(七〇一)以前に宇和評として明らかに成立していたことを示すもので、これら考古学的発掘に負う一片の成果が、歴史時代の考察にもつ意義の重さを改めて痛感させられる。