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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 横地 石太郎 (よこじ いしたろう)
 安政7年~昭和19年(1860~1944)愛媛考古学の先達,松山中学校第八代校長。安政7年1月6日加賀国石川郡金沢(現金沢市)与力町藩士大十郎の長男として生まれる。明治7年金沢英学校,翌年旧藩主前田邸学問所,明治9年東京英語学校に入学し,明治17年7月東京帝大理学部応用化学科を卒業する。同年8月神戸師範学校一等教諭月俸60円。 19年8月以後京都中学・鹿児島中学を経て26年3月福島県尋常中学校長拝命,反ストライキ派生小西重直(後京大総長)を匿まった責を負い辞職し京都に帰寓する。同27年11月松山中学校校長住田昇に招かれ来任後も自ら辞して教授嘱託に留まり,翌28年3月教諭拝命,同年4月教頭となる。漱石着任時赤シャツ着用の二教諭中の一人,但し教頭時の綽名は「天神さん」という。同10月校長事務取扱となり,県知事の再三の説得をうけ漸く翌29年3月校長に就任する。漱石転出の同年4月,考古の老大家犬塚又兵を前任地福島から書道教師として迎え,共に松山周辺の考古探訪に努める。とくに横地は在任中,東・南予分校を設置し,その後の西条・宇和島中学として独立校になる。明治31年秋のストライキで11月校長職を辞し教授嘱託に戻り,明治33年3月末引退。京都帰寓この前後松山でえた考古学的成果を,33年5~12月の「東京人類学雑誌」170~177号に「伊予国周桑郡吉岡村の古墳」のほか松山市東野長塚発見の埴輪や,同市中村素鵞神社付近出土土器についての論考を報告している。同33年9月山口高等中学教授に赴任,やがて同校が山口高等商業になって後,明治44年同校長として中国語科を新設,その間なお南予の亥の子石の民俗について人類学雑誌に,また松山市付近の石器散布地及古墳について「伊予史談」に寄稿,考古界の外広く学際的研究にも関心深く,大正13年6月山口高商校長を退官後も名誉教授となり,京都に帰寓する。地理学の小川琢治,考古学の浜田耕作,百科全書的思想家京大初代文科大学長狩野亨吉らと親しく,朝鮮版漢書に注目,その目録に序文を寄せ,また松山出土埴輪などを浜田の京大研究室に贈っている。昭和19年5月27日,左京区田中大堰町4で没。 84歳。法名大雅院殿白雲幽石大居士。墓は京都左京区相国寺境内,退官時高等官一等従三位勲二等。

 横田 伝松 (よこた でんまつ)
 明治12年~昭和15年(1879~1940)教育者・郷土史家。喜多郡蔵川村(現大洲市)辰治郎の長男。明治12年3月2日出生。5才で母を失い,19才で上阪。大阪師範学校卒業後,大阪市江戸堀小学校・京都市翔鸞小学校教員を勤め,一時画家原在泉に入門。明治45年帰郷し喜多郡平岡・宇和川南・坂本・鹿野川などの小学校訓導・校長を勤務する。大正4年退職。『喜多郡誌』の編集と資料収集に当たり,昭和8年「曽根城史」を著わし,「伊予史談」に「喜多郡の木蝋」「火輪船いろは丸」「鎌田玄台伝」「馬術の名人小林弥平治略伝」「春南随筆」などを寄稿。昭和15年5月17日,享年62歳で没。号は春南・春廼など。

 横山 由清 (よこやま よしきよ)
 文政9年~明治12年(1826~1879)歌人・国学者。江戸に生まれ,吉田藩医本間游清に和歌・国学を学ぶ。吉田六代藩主伊達村芳夫人満喜子の侍女で歌名の高かった横山三千子の養子となる。明治維新後は,大学少史・左院四等議官・元老院権少書記官等を歴任した。歌集に『月舎集』があるほか『歌林雑考』『月詣和歌集補説』の歌論,『代々貨幣度量権衡考』『歴朝政治沿革史』の歴史の著作,また『魯敏遜漂行紀略』(ロビンソンクルーソーのダイジェスト)の翻訳もある。明治12年12月2日,53歳で死没した。

 吉沢 兼太郎 (よしざわ かねたろう)
 明治13年~昭和22年(1880~1947)果樹栽培先覚者。伊予郡唐川枇杷の品種改良と産地育成に尽くした。伊予郡上唐川村(現伊予市)に生まれる。明治35年枇杷販売のため,広島県宇品市場に駐在していたころ,兵庫県淡路島出荷の枇杷品種「田中」の優秀さに着目し,現地を視察, 20本の苗木を導入して,唐川地域を田中種の主産地とした。その外「茂木」・「楠」等の枇杷品種の導入をはかるなど,唐川枇杷の栽培改善に尽力した。

 吉沢 武久 (よしざわ たけひさ)
 明治24年~昭和38年(1891~1963)園芸功労者。温州ミカンの早生種優良系統(宮川早生)の導入普及ならびに枇杷の生産,販売に多くの貢献をした。明治24年6月1日伊予郡南山崎村大字唐川(現伊予市上唐川)に生まれる。明治42年以来柑橘3ha, 枇杷5haを栽培した。昭和5年いちはやく宮川早生を導入して,早生温州の特産地形成につとめるとともに,郡中共同選果組合を設立,また昭和7年には唐川枇杷の共同選果組合を設立して,それぞれ代表者としてその運営指導にあたった。農民文学者和田伝の「ここに泉湧く」には,モデルとして吉沢武久の若い日の面影が伝えられている。伊予園芸農協副組合長,県青果連理事等もつとめた。昭和32年黄綬褒章を受けた。昭和38年12月24日,72歳で死去。

 吉田 清太郎 (よしだ せいたろう)
 文久3年~昭和25年(1863~1950)牧師。松山城下玉川町(現松山市一番町)に田中善次の次男として文久3年7月1日に生まれ,12才のとき吉田家の養子となる。近藤南洋の塾に通い,松山中学校に学ぶ。その間,漢文の旧約聖書と『天路溯源』を読む。のち,同志社に遊学。在学中明治22年貧困のゆえ勉学を続けかねていた山室軍平(のちの救世軍中将)に会い,彼の非凡さを見抜いて授業料生活費を代わって支払い,自らは木の実や死猫を食べたという逸話は有名。松山では松山女学校(現松山東雲学園)の経営危機を再三にわたって救い,また,松山監獄に囚人と寝起さして神の愛を説いた。あるいは,妓楼全廃の建議案を県議会に提出し,社会浄化と福祉にも努めた。上京後,初め政界指導者に伝道したが,日韓合併はわが国の自殺行為だとして退く。しかし,なお,千駄木教会を牧しつ入朝鮮独立に関する請願書を出すなどして,常に政治への関心を捨てなかった。昭和25年1月22日死去。 86歳。

 吉田 蔵沢 (よしだ ぞうたく)
 享保7年~享和2年(1722~1802)松山藩士,南画家。松山藩士吉田直良の長男として生まれ,享和2年2月27日81歳で没した。江戸中期の南画家。名を良香,字を子馨,通称弥三郎,後に吉田家の世襲名久太夫を名乗り,蔵沢はその号である。他に豫章人,贅巌,白雪,応乾,翠蘭亭,不二庵,白浜鷗,東井,倦翼,酔桃館など別号も多い。松山藩士として風早郡・野間郡代言,者頭役などを勤め功績顕著。その剛直爽快な人柄とともに長く士の規範と語り伝えられ,またその墨竹は古今独歩,神品といわれ今も不滅の光彩を放つ。彼の生きた時代は日本南画の黎明期に当たり,中国伝来の南画思潮を当地に在りながらいち早くとらえ,公職の余技とはいえ60年に及ぶ執拗な追究と恵まれた資質により,それを墨竹ひとすじに結晶させ,ついに日本・中国にも比類を見ない独自の画境を確立した日本南画先駆者の一人である。蔵沢墨竹の特質は一切の伝習的な規範を脱し,まるで無法ともいうべき奔放さで竹を描き,しかも見事に竹に成り切っているところにある。また武人らしい豪放洒脱な性格と竹の姿が渾然一体となり,奔放無礙の陶酔境に遊ぶところにあるといえよう。蔵沢画系の後継者に大高坂南海がいる。南海は蔵沢の甥に当たり,藩の儒者大高坂家七代の当主で,その身分,識見も蔵沢に劣らず,画風をそのままに伝えている。南海の弟子に丸山閑山,その弟子に中野雲涛がいるが,ここまでくると時代も変わり,画風も変わり別の画系となっており,蔵沢画系もここで一応絶えている。

 吉田 政常 (よしだ まさつね)
 明治6年~大正9年(1873~1920)社会福祉家。明治6年4月27日温泉郡鉄砲町(現松山市)に旧松山藩士古田隣之丞の長男として生まれる。 14歳の時,医学を志して京都の医学校へ遊学,2年後に帰郷して漢籍を学び,近藤南洋の門下生となる。
 明治32年,愛娘を亡くし,安楽寺住職の本城徹心と出会ったことから貧しい孤児の保護救済事業を発起する。以来,本城のほか仲田伝之じょう(初代)・栗田幸次郎らと愛媛慈恵会の創設を主唱し,賛同者を求めて東奔西走,街頭で募金活動をすることもあった。明治34年7月,本県最初の本格的慈善団体愛媛慈恵会が設立され,同会理事となった吉田は,彼が所有する七軒長屋を孤児収容施設として提供するとともに,その後も同会の基礎確立に努力した。愛媛慈恵会は安楽寺内→松山市旭町→同市束本と移転し今日に至るが,その間,仲田伝之じょう・栗田幸次郎・仲田伝之じょう(2代目)・仲田包寛・仲田秋子ら歴代理事長,さらには上田槌五郎・大野悌・八束猶重・西堀利一・西原澄男ら歴代の施設長に支えられ,人間尊重の精神に徹した社会福祉事業を続けている。大正9年11月15日,47歳で死去。

 吉元 誠一郎 (よしもと せいいちろう)
 明治16年~昭和33年(1883~1958)実業家,大洲町長・県会議員・副議長。明治16年5月18日,喜多郡大洲町(現大洲市)の呉服商の家に生まれた。大正7年町会議員,8年郡会議員,10年大洲銀行専務取締役となり,愛媛鉄道会社取締役・予州自動車会社社長・伊予相互貯蓄銀行重役なども歴任した。昭和10年7月大洲町長に就任して17年まで在職した。昭和10年9月県会議員に選ばれ,21年12月まで在職,20年12月~21年12月には副議長を務めた。大洲商工会会長・喜多郡商工団体連合会長に推されるなど大洲経済界の中心人物であった。昭和33年2月15日,74歳で没した。

 好川 恒方 (よしかわ つねかた)
 明治16年~昭和53年(1883~1978)水月焼創始者。松山市生まれで,父は狩野派の日本画家,好川馬骨。高等小学校卒業後,田舎の菓子店に奉公したが,永続きせず,父の日本画を学ぶうち,焼き物の美しさに惹かれ,自宅に窯を作り,遊び半分に土をひねって焼いたのがこの道へ入ったきっかけである。カニの爪,甲羅の色に魅せられて,カニの姿を粘土で作り,ある夜,城堀の水面にうつる月影を見て,焼き物に立体感を出すことを考えつき,水月焼を創始した。明治,大正,昭和の3代をこの道ひとすじに歩き,県美術会名誉会員,県展審査員をつとめる。少年時代からカニとの付き合いが深く,カニと共同生活をしていると言われるほどでカニの作品が多い。水月焼は道後温泉という観光ルートで全国に広がり,わが国工芸美術会でもその名は高い。昭和53年8月16日死去,95歳。

 米田 吉盛 (よねだ よしもり)
 明治31年~昭和62年(1898~1987)神奈川大学創設者,衆議院議員。明治31年11月10日,喜多郡満穂村論田(現内子町)で米田良吉の長男に生まれた。大正15年中央大学法律科を苦学して卒業した。昭和3年横浜学院(翌年横浜専門学校)を創立して学校長兼理事長になった。昭和17年4月第21回衆議院議員選挙(翼賛選挙)に際し翼協非推薦で第1区から立候補当選した。戦後,初の21年4月の選挙では落選したが,22年4月の第23回衆議院議員選挙で民主党公認で立ち国会に返り咲いた。 23年横浜専門学校を神奈川大学に改組発展して引き続き学長兼理事長を43年まで務めた。その間,日本私立専門学校協会理事長や日本私立大学協会副会長に推され,文部省大学設置審議会委員なども務めた。 25年にはパリでの国際大学協会創立総会に日本代表として出席したのを機会に欧体各国を視察した。代議士は大学経営に専念するためしばらく退いていたが,昭和30年2月の第27回衆議院議員選挙に神奈川1区から立ち当選して民主党代議士会長に推された。 33年5月の第28回選挙には落選したが,35年11月の第29回選挙で国会の議席を復活,第1次岸信介内閣の厚生政務次官になり,これを最後に政界を退いた。晩年は神奈川大学名誉理事長として余生を送った。昭和62年5月17日,88歳で没した。

 米原 紋三郎 (よねはら もんざぶろう)
 天保5年~大正3年(1834~1914)漁業功労者。燧灘におけるたい縛り網の元祖。天保5年10月10日今治藩沖ノ嶋村(現越智郡魚島村)にて父紋助の長男として生まれる。紋助は地先海面でいわし船びき網漁業やたい地漕網漁業を営んでいた。当村の住民は古来漁業を専ら生業としてきたが,特に吉田磯(江ノ島の南端沖の暗礁)を中心とした海域は特にたいの好漁場として有名で,藩政時代には今治藩の鯛奉行が漁期中同島に滞在して漁業の取締りと指導に当たっていた。漁獲された鯛のうち,活魚は泉州堺(現堺市)へ出荷したほか,御千鯛と称して切身を陰干しにしたものや,鯛の卵巣を塩漬にした塩乾品を将軍に献上していた。このようにたい網漁業が盛んであったところから,他県にもよく知られたたい漁期が来ることを「ウオジマが来た」と呼んだ。文政~天保年間のたい網漁法は鯛船曳葛網漁法(振縄と称するおどしの大縄で海底をひき回し,海底の深所からたいを追い出してこれを背後からひき網で漁獲する漁法)であったが,同島には藩政時代から明治時代にかけて大林喜三郎など9人の鯛の網元がおり,隆盛を極めていた。吉田磯のたい漁場は鯛船曳葛網の絹代(漁場)であったが,鯛の大群が飼付のかたちでい集するようになってから後の明治4年に至り,米原紋三郎は従来行われていた前繰網漁法では漁獲物のだいぶ前から逃げるので,これを防止するため前から網を紋って漁獲物をとる方法を考案したところ,その成績はすこぶる良好であった。その後幾度か網の改良が加えられたがこれが鯛縛網漁業の創始である。以後多くのたい網漁業者はこの漁法を習って操業をしだしたため,明治末期~大正初期の全盛期には非常な隆盛をきわめ,地元はもとより広島県,岡山県,山口県,香川県等から100統以上もの鯛縛網がこの周辺漁場で操業していた。魚島では大正7年には鯛縛網は3名に減ったものの大漁は続いていたが,その後は乱獲のためか不漁となり,ついに大正15年には個人網が消滅した。その直後から始められた村有の鯛縛網も昭和4年になくなり,魚島における鯛縛網漁業は完全に姿を消すこととなった。この後は桝網がこれにとって代かったが,縛網という新漁具を開発した米原紋三郎の功績は画期的なものとして後世にまでたたえられよう。大正3年11月5日,80歳で没。現在紋三郎の末えいに当たる植田広(植田家の針子となる)は魚島村で収入役等を経て旅館業を営んでいる。