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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 由井 天山 (ゆい てんざん)
 寛保元年~文化8年(1741~1811)古学派の儒学者。由井家は桑名以来の藩士の出である。天山は代官町(現三番町)で生まれた。名は正徳,のち純白,そして源七郎と通称し,天山,温古堂と号した。初め遊侠の徒に身を崩していたが,27歳のころ,一念発起して学問を志した。藩儒の長野彬々,丹波南陵に学び,徳行を重んじ仁義を中核とした学祖仁斉に心酔し学問に励んだ。武芸にも優れ,医道にも通じた。天山の学徳を慕って集まる者が多く,各所で講席を設け,月に70回を越えることさえあった。文化8年閏2月14日70歳で没した。味酒邑(現松山市松前町)妙有寺の由井家の墓所に葬られている。

 由比  質 (ゆい ただす)
 明治3年~昭和5年(1870~1930)初代松山高等学校長。明治3年1月,高知県土佐郡神田村(現高知市)で土佐士族由比光索の次男に生まれた。高知中学・第三高等学校から明治29年東京帝国大学文科史学科を卒業した。山口高等学校教授,千葉中学校長,第五高等学校(熊本)教授・教頭,第三高等学校(京都)教授を経て大正8年新設の松山高等学校長に就任した。9月の入学式で「諸君は高等学校に入学した以上将来国士となるべき者だ。私は諸君を国士をもって待遇する。諸君は国士をもって任じなければならないから万事束縛なく自由に事を処することができる,但し自分の行動に対しては責任を飽くまでもたなげればならない」と訓示,大正デモクラシー下の自由主義を鼓舞した。以後,厳粛な自由を尊び,男性的人格の養成に重点を置いた松高の校風づくりに全力を注ぎ,優秀な教授陣をそろえた。在任6年,大家族主義の下での「松高イーバーアレス」が創成期の精神となり,松山高等学校は教養・スポーツの各方面でデモクラシー思想を謳歌し,松山市の活性化をもたらした。松山を愛し,永住を決意して松山高校の育成に専念したが,大正14年・鹿児島の第七高等学校造士館長に任ぜられて松山を去った。昭和5年4月講演中倒れ,4月7日60歳で没した。長男由比光衛は陸軍大将・軍事参事官であった。

 湯山  勇 (ゆやま いさむ)
 明治45年~昭和59年(1912~1984)教育者,参議院議員・衆議院議員を歴任して本県社会党の象徴的存在であった。明治45年1月18日,新居郡角野村一本松(現新居浜市)で湯山為治の長男に生まれた。大正8年7歳のとき住友別子銅山で鉱夫事務長をしていた父が没し,母の実家越智郡亀岡村(現菊問町)に移って同村の小学校で学び,15年愛媛県師範学校に入学,昭和6年卒業した。師範学校代用附属余土小学校訓導を勤めるかたわら9年文部省中等教具検定試験で中等学校教員の資格を得た。9~13年朝鮮の光州公立高等女学校に勤務した後,故郷に帰り14年県立北予中学校(現松山北高校)の博物科教諭となり,母校の師範学校でも教えた。17年県視学委員となり,学徒の勤労動員などを指揮した。 21年県立松山高等女学校の教諭になり,同校が松山第二高等学校(松山南高校)と改称した後も在職して,温厚誠実な人柄が教え子の敬愛を集めた。 22年愛媛県教員組合の書記次長,25年日教組中央委員,26年県教組委員長に就任して教員組合運動の先頭に立ち,27年8月には愛媛地評の議長に選ばれた。 28年22年間の教員生活に終止符を打ち,4月の第3回参議院議員選挙に愛媛地方区から無所属で立候補して当選,左派社会党に入党した。 33年には参議院文教委員会に在籍して,勤務評定反対闘争に取り組み,34年日本社会党県支部書記長や安保改定阻止愛媛県民会議議長を務めた。35年11月第29回衆議院議員選挙に第1区社会党公認で立候補当選,38年11月の選挙で再選された。 42年1月と46年1月の県知事選挙に革新陣営の切り札として久松定武・白石春樹と対決善戦した。 47年12月第33回衆院選挙に当選して代議士に返り咲き,以後,58年12月の第37回選挙まで連続して当選,国会では教育・農政に通じた勉強家として知られ,予算委員・文教委員として理づめの質問には定評があった。北条の腰折山で「イヨスミレ」《明治31年(1898年)4月17日松山中学校教諭の梅村甚太郎が発見し,その後不明であった》昭和28年(1953年)3月29日湯山勇が当地再発見するなど,草花を愛する優しさと庶民性が広い支持層を持ち,社会党県連委員長の重責と相まって革新の象徴的存在であった。昭和59年6月16日,現職のまま72歳で没し,愛媛大学医学部に献体した。

 結城 青鸞 (ゆうき せいらん)
 明治4年~昭和29年(1871~1954)詩人。明治4年2月4日,松山城下の郊外,久米(現松山市)に生まれた。名は皆子。父は浅井佐太郎祥政。幼時に三輪田真佐子の門に入り,のち真佐子が松山に明倫学舎を建てたので,妹町子とともにこの私塾に学んだ。真佐子の上京についで兄房太郎が中村敬宇の塾に学んでいたので,皆子も上京国語伝習所に入り,国語・漢文を学ぶ。但馬城崎出身の漢詩人結城蓄堂と結婚するが,大正13年死別,夫の遺業を継承して,夫の月刊雑誌「詩林」の出版を続け,昭和19年の出版統制まで20年の長きにわたって婦人の身でこの難事業を継続した。青鸞は三輪田真佐子の感化を受け,独立不羈の精神に富み,その詩風も男まさりであったという。晩年は国分青涯の門に入り,作詩を楽しんだ。昭和29年10月11日死去,83歳。

 行本 頼助 (ゆきもと よりすけ)
 明治18年~昭和29年(1885~1954)三芳村長・県会議員・副議長。明治18年10月26日,桑村郡三芳村(現東予市)で生まれた。愛媛県師範学校を卒業して小学校教員を務めた。大正11年村会議員を経て12年12月渡辺静一郎の後を受けて三芳村長となり昭和21年まで23か年在任した。その間,国鉄三芳駅や競馬場・屠畜場の設置,女子補習学校の開校など村政発展に尽くし,二宮尊徳の報徳訓を基盤に村内青壮年の教化に意を注いだ。昭和6年9月県会議員に当選して21年12月まで3期連続在職,政友会に所属し,13年12月~14年9月副議長にあげられた。昭和29年4月28日68歳で没した。

 雪沢 千代治 (ゆきざわ ちよじ)
 明治22年~昭和45年(1889~1970)昭和戦時下の県知事。明治22年4月1日,長崎県西彼杵郡雪浦村で雪沢梅太郎の次男に生まれた。大正8年7月東京帝国大学法学部英法科を卒業,高等文官試験に合格して静岡県属に任官した。以来,岩手県理事官,兵庫県警視,京都府事務官,外務事務官,内務事務官などを歴任,昭和6年新潟県学務部長になり,内務省上本港湾課長・大臣官房都市計画課長を経て,12年6月岩手県知事,15年4月熊本県知事,17年6月愛知県知事,18年7月京都府知事を務めた。昭和19年4月18日四国行政協議会長兼愛媛県知事に就任,「銃火の洗礼を受くるとも断じて退かず,米英撃滅を期して敢闘」の決意を示して,「挙県航空機増産発撃運動」を展開するなど,決戦体制下の四国行政の運営及び本県政の先頭に立った。 20年4月21日本県知事を最後に勇退,日本医療団副総裁に推された。公職追放解除後,27年10月の衆議院議員選挙に長崎県から立候補当選した。昭和45年2月20日,80歳で没した。