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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 逸見 佐平 (へんみ さへい)
 天保5年~明治28年(1834~1895)農業功労者。天保5年12月松山城下紙屋町に生まれる。廃藩後に小区長,戸長を勤める。開通学校(明治4年),県立(にんべんに尺)病院(明治7年),松山病院修養館などの創設に参加,医学の教授に当たる。明治10年,米穀商会所を設立して支配人となる。米の豊凶で米価が烈しく変動し農家経済に大きく影響することを知り,いらい老農として農事の改良振興に専念。博覧会の開設,米穀商組合の設立,米穀改良組合の創設,稲の優良品種『栄吾』の発見者上松栄吾の記念碑の建立などに奔走。明治23年に福岡県から老農林遠里を招聘して稲作講演会を開催し本県の稲作改良の端緒を拓く。明治25年に本県農会の鼻祖となった1市6郡農会組織を設立して農業指導団体の基礎を作る。農事のほか,松山商法会議所(商工会議所の前身),伊予鉄道の開設,伊予織物改良組合の設立などに参画し地方産業の発展に尽粋す。明治31年7月に時の知事(篠崎五郎)から木杯一個,同年松山尚歯会から感謝状が贈られる。明治28年11月16日,61歳で逝く,没後,功労を賞し有志によって石手寺境内に表徳碑が建立される。

 逸見 義一 (へんみ よしいち)
 慶応2年~大正10年(1866~1921)三津浜町長。慶応2年12月2日,風早郡柳谷村(現松山市五明)で生まれた。のち三津浜新町に移住して明治29年三津浜銀行創立に参画した。 32年三津浜町長になり,36年以降三津浜築港の計画を推進,政友会の藤野政高らと結んで県会で築港予算解決に成功した。翌年築港起工式が挙行された直後,官憲に疑獄事件で摘発拘引され町長を辞職した。大正10年8月13日,54歳で没した。

 別宮 周三郎 (べつく しゅうさぶろう)
 嘉永7年~昭和11年(1854~1936)初代遊子川村長・県会議員。嘉永7年2月12日,宇和郡遊子谷村(現東宇和郡城川町)の庄屋で酒屋を営む別宮重基の長男に生まれた。幼時岡田小草から漢学を学び,明治初年には戸長職につき,23年町村制の施行で誕生した遊子川村の初代村長に就任して,26年3月村長を退職するまで戸長時代を含めて22年間村づくりに尽力した。その間,地租改正事業や養蚕の普及奨励,小学校教育の進展を図った。 19年3月県会議員に選ばれ,21年まで在職して村長専念のため県会を離れたが,30年10月~32年9月と41年11月~44年9月県会議員に復活した。 31年5月には県森林会議員になって村の山野に植林を進め,39年には郡農会副会長に推されて養蚕を中心とする地域産業の振興と東宇和農蚕学校の設置に努力した。昭和11年10月12日82歳で没し,翌12年元小学校の校庭に頌徳碑が建立された。養子別宮良も県会議員を務めた。

 別宮  良 (べつく りょう)
 明治20年~昭和30年(1887~1955)実業家,県会議員。明治20年9月3日に生まれ,宇和郡遊子谷村(現東宇和郡城川町)で別宮周三郎の養子になった。家業の酒造を営み,県会議員であった父の後を継ぎ,大正8年9月~12年-9月県会に列した。大正9年東宇和郡貝吹村に愛媛蚕業会社を起こし,実業面でも活動した。長男別宮章は遊子川村長を務めた。昭和30年2月7日,67歳で没した。