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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 仁井 三魚 (にい さんぎょ)
 文化9年~明治4年(1812~1871)書家。大洲の人。名は鮮,宇は酔民,通称退蔵,三魚はその号。別号は苔叟,苔窓,四時,四明父,程堂,天葩,天華等。幼少より書が巧みで,藩士長尾勝重は彼を書家として立たせるよう両親を説得して江戸に同行,糟屋盤梯の門で本格的に書を学ばせた。帰藩後第十一代藩主加藤泰幹により書を以て藩士の列に加えられ,藩学明倫堂の司読も勤めた。その楷書は巻菱湖と顔真卿の影響が強く。行書はよく暢達し,渋滞することがなく形も整斉,実用書としての好規範である。草書の書幅が最も多く,書風は整斉でおだやかな用筆のものと,細線で連綿狂草の二つの種類に分けられる。「かな」は近衛予楽院を学び,門人には水月和尚,杉江安忠がいる。 59歳で死去した。

 仁志川 玄碩 (にしかわ げんせき)
 文政4年~明治37年(1821~1904)医師。文政4年,宇和郡上郷村尾崎(現八幡浜市)で父友親,母ヨシの長男として生まれる。諱は友信,幼名は桃亭,長じて玄碩と改め杏洲・画餅とも号した。 15歳で児玉暉山に師事して漢学を修め,鎌田玄台について漢方医学を学ぶ。三瓶町に産科・外科を開業する。名医として近郷近在はもちろん遠く宇和から山を越えて来るもの多く,門前市をなしたという。性来,恬淡で,風流を愛し,詩文をよくし,書画を好んだ。医業のかたわら開墾灌漑など農事の改良発達に努め,里道の改修,その他公共事業に尽くし,村の発展に貢献する。嗣子,釜によって,『杏洲翁遺稿一巻』が編集される。明治37年8月18日,83歳で死去。八幡浜市蔵福寺に葬られる。

 仁志川 釜 (にしかわ はかる)
 安政5年~昭和11年(1858~1936)医師,県会議員。安政5年4月16日,宇和郡上郷村(現八幡浜市)で医師仁志川玄碩の長男に生まれた。医業のかたわら学務委員・郡会議員などを歴任した。明治29年には千丈村長を一時務め,31年10月~32年9月県会議員に在職した。昭和11年9月16日,78歳で没した。

 新居 盛氏 (にい もりうじ)
 生没年不詳 鎌倉時代の武士。小三郎大夫。新居氏は越智氏の一族であるといわれ,平安時代末期には東中予に広く散在し,河野氏に比肩しうる勢力を有していたと考えられている。源平内乱期には,平氏方であったとも,河野氏とともに源氏方であったともいわれ,その動向は明らかではない。河野氏と婚姻関係を結んでおり,後の承久の乱(1221)では河野氏とともに京方に属した。(予陽河野家譜)
 『予陽河野家譜』等によると,玉氏(信孝ともいう。盛氏の父)の女が河野通信の妻であることから,盛氏は通信と同世代(平安時代末期から鎌倉時代初期)の人物であり,承久の乱に際しても,子息盛綱(縄)とともに一族を率いて通信に与党したとされる。しかし,「観念寺文書」によると,文永年中(1264~1275)に盛氏によって氏寺観念寺が建立されたとされ,「与州新居系図」によると通信の室となった女性は,盛氏の曾祖父盛信の女とされる。これらのことから盛氏は鎌倉時代初期というよりもむしろ中期の人物とするほうが適当とする見方もある。

 新野 良隆 (にいの よしたか)
 明治11年~昭和46年(1878~1971)医師,漢詩人。明治11年2月17日,伊予郡垣生村(現松山市東垣生)に生まれる。明治37年東京帝国大学医科大学を卒業。同39年岩瀬病院長となり,同41年松山市に内科医開業。医業に従事するかたわら,少年のころより志のあった漢詩の本格的研究と作詩の道に入り,大正2年35歳の時,近藤元晋らとともに癸丑吟社を設立し,漢詩不振の時代にありながら,その温存と発揚に精魂を傾ける。昭和14年には作詩400篇を集録して『寧静書屋詩存』を刊行,同38年には『続寧静書屋詩存』を刊行し併せてその作詩を吟詠界に提供し,吟詠界の発展にも寄与する。夏目漱石が松山中学在職時代の教え子であり「坊ちゃん会」の会長にもなる。昭和43年愛媛県教育文化賞を受章。昭和46年7月27日,死去。 93歳。

 新野 米太郎 (にいの よねたろう)
 明治6年~昭和11年(1873~1936)実業家。伊予郡垣生村今出(現松山市)の豪農新野家に明治6年3月17日に生まれる。松山の伊予中学校に入学するが,中退して上京し日本大学の中学部に入学,更に早稲田へ転校して政治学を専攻する。卒業後,海南新聞に入社する。2年の記者生活の後,退社して明治27年垣生円融合資会社を創立する。当時,垣生には金融機関もなくこの会社の設立によって,この地方の産業界はとみに活況を呈したといわれる。大正13年松山無尽株式会社の社長となったが,同11年には立花倉庫株式会社を設立したり,三津製氷会社を買収するなど,地方産業開発に尽力した。その他大正5年の電話架設については村上半太郎と協力し,文化,交通,産業の上に果たした功績は大きい。明治37年には垣生村長に就任して墓地整理を強行したりもする。昭和11年1月8日,62歳で死去。

 新海 非風 (にいのみ ひふう)
 明治3年~明治34年(1870~1901)俳人。明治3年10月6日,温泉郡末広町(現松山市)に生まれる。本名は正行,岩雄ともいい,別号は非風。若くして上京し,常盤会寄宿舎に入って子規を知り,俳句に傾倒し松山の「真砂の志良辺」に東京から投句している。子規一派の初期俳句には飄亭・古白とともに活躍し,子規とは野球小説「山吹の一枝」を連作するなど才幹を発揮したが,軍人を志望して明治23年,近衛砲兵連隊に入り,のち陸軍士官学校に入学したが,肺疾患のため退学する。其後,日本銀行北海道支店に勤務するが,これも病気のため退職し,以来失意の日が続き放縦の生活をするが,妻の郷里京都で新聞関係の仕事につく。同34年10月28日31歳で豊かな才能を持ちながら不遇のうちに死んだ。高浜虚子の小説『俳諧師』の五十嵐十風は非風をモデルにしている。

 新山  清 (にいやま きよし)
 明治44年~昭和44年(1911~1969)写真家。松山市の生まれ。東京電気専門学校を卒業し,昭和10年理科学研究所に就職して写真をはじめた。パーレット同人会に所属して写真雑誌に次々投稿し,数十回入選するほか,大日本サロン,アジアサロン,国画展,国際サロンにも入選するなど,すぐれた作品を発表した。とくに東京美術協会展では最高賞をとる。全日本写真連盟役員,東京写真研究会審査員などをつとめ全国アマチュアの指導に活躍した。同33年旭光学に入社し,東京サービスセンター所長を務めたが,凶刃に倒れて,昭和44年5
月13日,58歳で死去。

 贄首石前 (にえのおびといわさき)
 生没年不詳 天平8年(736)8月6日付伊予国正税出挙帳の宇和郡部末尾に,少領従八位上として署名している。この時の大領は正八位上凡直宅麻呂,主帳は少初位下物部荒人。
 贄首氏は風早郡にも存在を確認できるが,大化前代より宇和郡,風早郡などの地にあって漁業民を管轄,水産物を贄として大和政権に貢納することを職掌とした,伴造的地方豪族であったとみられる。律令国家は,贄首氏の海民に対する伝統的支配権を利用しながら,引き続き贄などの水産物収取を確保するために,これを律令地方行政機構の中に郡領として位置付けたのであろう。

 西   一 (にし はじめ)
 明治30年~昭和51年(1897~1976)東外海村長・城辺町長・県会議員。明治30年12月16日南宇和郡東外海村(現城辺町)で生まれた。大正2年村書記,10年収入役を経て15年村長になり,昭和21年11月公職追放となるまで22年間にわたり村政を担当,漁業開拓などに尽力した。昭和14年9月県会議員になり21年10月まで在職した。その間,郡町村会長・県町村長会長などの要職を歴任した。昭和31年城辺町の発足で初代町長に就任,漁業調整・大久保山ダム建設など地域の発展に努めた。昭和43年勲五等双光旭日章を受章,49年には城辺町名誉町民に選ばれた。昭和51年8月7日,78歳で没した。

 西井 久八 (にしい きゅうはち)
 安政3年~昭和6年(1856~1931)米国移住の草分にして功労者。「日本移民のパパさん」と呼ばれたという。安政3年8月2日宇和郡八幡浜向灘浦(現八幡浜市向灘)に父文平,母コヨノの次男として生まれる。進取の気性に富み,若くして外国船水夫として各国を周航,明治12年(異説あり)米国ポートランドに上陸,勤倹力行して事業家として成功。その事業歴は,タコマ(洋食店3,ホテル1,洗濯業1),シアトル(洋食店3),ベーリングハム(洋食店2),ファイフ(農園1),アラスカ(洋食店1,金鉱山1)と多方面にわたり,盛時の財力は40余万ドルに達した。同41年事業に失敗して第一線を退いたが,洋食店等彼を草分とするこの地方の在留邦人の事業活動は,彼の援助指導もあり目覚ましい発展を遂げた。彼は多数の同胞を呼寄せ,在留邦人の援護等社会・篤志事業にも尽力,シアトル領事館開設,キリスト教会開設等に努力。また,郷里の教育機関等にも多額の寄付をした。同13年八幡浜市に帰国,昭和6年12月1日,75歳で死去した。彼の顕彰のため,在米同郷有志・日米同志会等による寿像が143名の賛同を得て,昭和2年8月(昭和33年再建)に八幡浜市四国山に建立された。

 西岡 隆浪 (にしおか たかなみ)
 大正6年~昭和60年(1917~1985)現代の名工,洋服屋。伊予郡中山町に生まれる。8人兄弟の三男で,高等小学校を卒業すると,父のすすめで松山の洋服店に弟子入りする。松山の修業を終わり,東京へ飛び出す。縁もゆかりもない丸山洋服店の戸をたたき,とびこみで押しかけ弟子になる。終戦後,後継者に選ばれたが,技術,経営手腕よりも実直な人柄が買われたのである。後,テーラーニシオカの経営に当たる一方,業界の指導者となり,ビスポーク東京の会長となる。東京の店,仕事場には愛媛の若者が30人もいたという。「洋服は肩で着る」これが西岡の持論で,昭和57年,技術,功績に対し「現代の名工」として労働大臣賞を受ける。いわゆる日本一の紳士服仕立て技能者となったわけである。昭和60年11月29日死去,68歳。

 西岡 十四王 (にしおか としお)
 明治19年~昭和48年(1886~1973)俳人。明治19年2月17日,伊予郡原町村(現砥部町)に生まれる。本名敏夫。愛媛県師範学校卒業後,温泉郡河野小学校に勤めていたころ同僚らと「既望会」をつくり,俳句活動を始め,大正7年松山渋柿会が生まれると会の運営,同人の指導につくす。大正11年早稲田大学高等師範部に入学して,松根東洋城に師事し,卒業後松山商業学校に勤める。俳誌「渋柿」選者をやり,昭和32年句巣『此一筋』を刊行。昭和48年8月5日死去,87歳。

 西川  勉 (にしかわ つとむ)
 明治27年~昭和9年(1894~1934)作家。宇摩郡金田村(現川之江市)の人で,明治27年6月30日に生まれる。早くから大阪に出て外人経営の英語塾で学び,のち早稲田大学英文科を卒業する。翻訳小説などを手掛け,読売新聞に入社し囲碁を担当した。著書に『純正童謡講和』『暴力考』『母を探ねて三千里』 『メーテルリンク童話集』『現代高段者囲碁大系』などがある。昭和9年8月1日,40歳で死去。

 西河 梅庵 (にしかわ ばいあん)
 文化11年~明治17年(1814~1884)儒者。宇和島藩士西河通尚の子として生まれ,名は通安,通称喜久之助。父は緑苔と号し,俳句をよくした。家は微禄で梅庵は清貧の中で文武の両道を修めた。武は鏡智流の槍術と飯笹流の剣道を学び,どちらも極意に達した。文は程朱の経学を修め,壮年時には藩校明倫館の舎長となる。のち上士に列し,儒官として,伊達春山,宗城,宗徳の三君に仕え,しばしば褒賞を受けた。維新後は隠退閑居して吟詠に悠々自適し,明治17年3月23日死去,70歳。

 西河 通徹 (にしかわ みちつら)
 安政3年~昭和4年(1856~1929)ジャーナリスト。「海南新聞」主筆として民権論を展開,多くの新聞で論陣を張り言論人として知られた。安政3年11月18日,宇和島藩校明倫館教授西河通安の次男に生まれた。藩校ついで八幡浜の硯儒上甲振洋の謹教堂に2年間学び,明治5年17歳の時上京して慶応義塾に入学,英学を専攻した。在学中から同郷の先輩末広鉄腸の主宰する「朝野新聞」に投稿,9年「評論新聞」に入社,この年朝野新聞に掲載された「古来圧制政府ヲ廃スルハ国民ノ義務ナルヲ論ズ」が新聞紙条例違反に問われて鉄腸と共に禁固刑を受けた。 10年「海南新聞」編集長に迎えられて帰県,長屋忠明らと民権結社公共社を結成した。また,北予変則中学校(のちの松山中学校)で教べんを取り,13年草間時福の後を受けて二代校長に就任したが,ほどなく退職して,愛媛県を離れた。以後,信濃毎日新報,房総共立新聞,自由新聞,秋田魁,絵入朝野新聞,大阪公論など10数社で論陣を張って渡り歩いた。その間数種の翻訳があり,特に『露国虚無党事情』は最初のクロポトキンを紹介した書物であった。 23年末広鉄腸の衆院選出馬のためその主宰する関西新報を引き受けたが,ほどなく廃刊した。自信を喪失して大阪北野の禅寺に隠せい,禅の研究・漢詩に没頭する傍ら『汽車五発明』『汽車之発明』などの翻案で生計を立てた。 25年門司新報主筆として言論界に返り咲き,28年日清戦争では東京・大阪朝日新聞特派員として近衛師団に同行,やがて両紙の通信員を辞任して,京城で合資会社盛文堂を設立して内地新聞の取次ぎと文房具・書籍の販売に従事した。大正の初めに帰郷,8年『鬼城自叙伝』を書いた。その中には終生政治家を志しながら果たせなかった悔恨が脈打っている。昭和4年9月29日,72歳で没した。

 西久保 弘道 (にしくぼ ひろみち)
 文久3年~昭和5年(1863~1930)県官。県内務部長として安藤県政を補佐した。文久3年佐賀藩士西久保紀林の長男に生まれた。明治18年司法省法律学校の仏法科に学び,21年広島陸軍偕行社の教師に招かれたが,のち進学を志して東京帝国大学法科に入り28年に卒業した。 30年文官高等試験に合格,愛知県参事官に任じた。以来,石川県警察部長,山梨・静岡・茨城各県内務部長,警視庁第一部長,滋賀県内務部長を経て40年愛媛県内務部長に就任した。本県では3年間在職して県知事安藤謙介を補佐し,22か年大土木事業計画などの立案に当たった。43年福島県知事に昇進,3年4か月務めて大正3年北海道長官,4年警視総監になり,退官後は貴族院議員に勅選された。大正15年には東京市長に就任した。昭和5年7月,67歳で没した。

 西田 唯次 (にしだ ただじ)
 明治37年~昭和38年(1904~1963)大和村長,県議会議員・議長。明治37年11月5日,喜多郡相生村下須戒(現長浜町)で岡本時太郎の次男に生まれた。大正14年県立松山農業学校を卒業して白滝村農会技術員を務めた。やがて西田家に入婿して家を継ぎ,昭和11年~12年白滝村助役,13年~18年県蚕糸課技師,13年~21年村会議員を歴任して,22年4月大和村長に就任,1期村政を担当した。 22年4月県会議員に当選,38年2月死去するまで4期連続県議会に在職,33年10月~34年4月議長に就いた。その間,県森林組合連合会・県青果連合会喜多支部長や喜多畜産農業協同組合連合会長などを歴任した。昭和38年2月8口県議現職のまま59歳で没し,31年金山出石寺に頌徳碑が建てられた。

 西田 福十郎 (にしだ ふくじゅうろう)
 文久2年~昭和9年(1862~1934)歯科医師。初代県歯科医師会長。文久2年6月25日,浮穴郡中津村黒藤川(現上浮穴郡美川村)で生まれた。明治24年ごろ松山市三番町で歯科医開業した。 40年7月会員12人で県歯科医師会を創設して初代会長になり,大正15年6月まで在任した。昭和9年2月4日,71歳で没した。

 西原 宷一 (にしはら さいいち)
 明治5年~昭和5年(1872~1930)泉川・角野村長,新居郡会議長・県会議員,同和運動の先覚者。明治5年10月26日,新居郡下泉川村(現新居浜市)で西原喜四郎の長男に生まれた。父は漢方医学に通じ長崎で蘭学を修めるなど地方きっての薬種商で家号を「立石屋」と称した。関西法律学校(現関西大学),京都法政学校(現立命館大学)に学んで帰郷,自由平等を説き,差別問題の解消を志して明治27年自修会を結成した。29年泉川村長,ついで34年角野村長,大正2年再度泉川村長に就任,12年まで連続して村政を担当した。この間,同和運動を進めて大正5年には部落改善運動の功労者として県知事表彰を受けた。8年には松本治一郎が1年有余寄寓して水平社運動の基礎作りを語り合った。村政にあっては,高柳水利組合と吉岡泉開さく関係者との対立問題の解決に力を注ぎ,予讃線新居浜駅の誘致や新居農学校の泉川への移転に成功するなど地域の活性化に意を注いだ。また別子銅山鉱毒問題や四阪島製錬所煙害問題の解決にも奔走した。教育にも深い関心を持ち,泉川小学校長川崎利市の個別教育に共鳴してこれを支援した。明治30年郡制施行とともに郡会議員に列し,大正4~12年郡会議長を務めた。明治32年9月~36年9月県会議員,大正12年9月~昭和2年9月再び県会議員になり,憲政会の西原,政友会の小野寅吉と並び称された。昭和5年11月5日58歳で没した。政敵であった代議士河上哲太はその死を惜しんで泉川林光庵の墓碑を誌した。

 西部 惣平 (にしべ そういち)
 明治14年~昭和42年(1881~1967)津倉村長。明治14年2月1日,越智郡本庄村(現吉海町)で生まれた。 30年津倉村書記,33年同村収入役を経て44年津倉村長に就任,以来昭和21年まで明治,大正,昭和の三代35年間村政を担当した。その間,島嶼通路の整備,役場・駐在所建築,産業組合・納税組合の設立,農事改良実行組合の組織化,煙草耕作の奨励,畜産改良,民力涵養運動の推進などを図った。昭和42年7月6日,86歳で没した。

 西松 唯一 (にしまつ ただいち)
 明治14年~昭和26年(1881~1951)学者。明治14年5月6日,下浮穴郡麻生村(現砥部町麻生)に生まれた。明治25年麻生小学校卒業から明治33年松山中学校卒業,岡山の第六高等学校を経て,明治40年東京帝国大学工科,火薬科を卒業する。卒業後,東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが,間もなく東京大学に移り,明治41年~昭和17年まで,35年間東京帝大火薬学教室にあって,火薬学科の整備発展に力を傾注して停年退職し,名誉教授となる。少年時代より秀才のほまれ高く,らいらくな気性の持主でもあった。歴史に関心深く,愛郷心も強く,旧宅跡を児童遊園地として公開したり,大森彦七受難の碑や,南朝の忠臣重見通勝の碑を建立するなどしている。昭和20年には工業火薬協会名誉会員にも推され,名実ともに「火薬博士」として知られた。同26年9月16日, 70歳で死去。従三位勲二等旭日重光章を受ける。墓地は東京都多摩霊園。

 西村 清臣 (にしむら きよおみ)
 文化9年~明治12年(1812~1879)儒者・歌人。文化9年9月22日松山城下に生まれる。通称弥四郎,雲岫,四酔亭と号した。幼くして文武を学び,絵画,彫刻に秀で国学に造詣が深かった。とくに和歌を好み,石井義郷を仰ぎ,江戸の海野遊翁,香川景樹にも学んで地方歌人として名を成した。ある時。「蟻を詠んだ長歌並短歌」を遊翁に送って添削を請うたところ,「萬葉集に入るとも慚ぢず」と嘆称された。義郷なき後は,藩中の和歌を志す者みな清臣の門をたたいたという。明治6年(1873)皇学所助教となり教務省から中講義に補せられた。西山の姥桜を詠んだ「かげ移る朝日もはなのにほひにてひかりまばゆき山桜かな」は,碑となり南江戸町山内神社境内に,また,吉平の孝心に感応して厳寒正月に花を開いた「十六日桜」の由来を記した碑文と短歌「つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらはな」は,旧吉平宅跡にそれぞれ建てられている。主著に『西村清臣歌集』『酔亭雑話』など。妻西村つね子私歌をよくした。明治12年6月9日死去。 66歳。墓は松山市山越千秋寺にある。

 西村 清雄 (にしむら すがお)
 明治4年~昭和39年(1871~1964)教育者,宗教家。 明治4年2月13日松山城下北京町(現松山市二番町)に生まれる。幼時,わんぱくでよく学校をさぼっていたが,短刀を前にした父の厳しい叱正にあって改心。明治18年愛媛県第一中学校(現松山東高等学校)に入学。翌年廃校となり東京遊学を志したが成らず。 21年,同志社英学校に学ぶため大阪で高橋卯三郎に英語を習い,同時に大阪基督教会宮川経輝牧師の薫陶を受けた。 23年,再び上京のためいったん帰郷したところ,アメリカン・ボード宣教師コルネリオ・ジャドソン(松山女学校)に会い,不就学児童のため学校を創めたいとて協力方を懇請され,これに応じて,明治24年1月14日,女史とともに,「普通夜学会」を開く。翌年21才にて校長となり,爾来62年にわたる貧困青少年教育に一生を捧げた。27年,夜学会は土地を永木町に求め松山夜学校と改名,寄宿舎を設け,今治の機業家柳瀬春次郎の助けを受けて綿ネルエ場を置き,昼間勤労しつつ夜間勉学する生徒を受け入れた。定時制高等学校の先駆けである。とくにキリスト教を中心に据える生活教育は多くの若者たちに多大の感化を与え,牧師,教育者たらんとして京都同志社等に進学する者が続出した。その間,松山女学校でも教えたが,明治36年,しばらく宇和島に伝道していたジャドソンを援けるため,徒歩往復した法華津峠~鳥坂峠で作った「やまぢこえてひとりゆけど,主の手にすがれる身は安けし」に始まる六節の詩は,讃美歌(404番)にも採用され,ことばと曲が日本人の心に訴えるものとして愛唱され,それによって失意の底から再生した者も少なくない。昭和20年より4年間,松山東雲中学,高等学校長を兼任,同28年,松山城南高等学校名誉校長となる。県教育文化賞,藍綬褒章など受賞,37年,松山市名誉市民となる。祖父は松山藩中講義で歌人の西村清臣,やまぢこえての歌碑は,法華津峠,松山城南高等学校(松山市北久米町815)及び石手寺境内にある。昭和39年12月25日死去。 93歳。墓は松山市山越千秋寺。

 西村 泊春 (にしむら はくしゅん)
 明治35年~昭和4年(1902~1929)俳人。明治35年4月6日,現八幡浜市八代に生まれる。本名は薫徳。八幡浜商業学校在学中より文学に関心をよせ,「青年文壇」や「中学世界」などに,詩・短歌・俳句などを投稿した。大正7年,「海南俳壇」に投句,俳句研究の出発点となった。翌年,商業学校の生徒を中心とした句誌「カラス」を創刊。卒業と同時に上京の志があったが,農家で長男のため断念。地元の銀行に勤務した。同13年飯田蛇笏に雑詠の選抜を請い,翌年より「雲母」に参加。同15年,第一句集『佐田岬』を自費出版。同年秋,肺炎を患い昭和4年7月17日27歳で死去。昭和50年,夫人によって第二句集『佐田岬』を刊行。八代公民館前庭に「麦秋や佐田岬の十何里」の句碑がある。墓は八代カキヤマにある。

 西村 兵太郎 (にしむら ひょうたろう)
 明治17年~昭和10年(1884~1935)長浜町長・県会議員・議長,民政党支部長。明治17年3月30日,喜多郡長浜町で西村金太郎の長男に生まれた。喜多郡共立学校(のち大洲中学校)を中途退学して35年町役場書記に就職した。このころ笑波と号し38年俳誌「シブキ」を発行して新興俳句を詠み俳論を展開した。 41年長浜町信用組合を設立して44年同組合長になり,同年町会議員になった。大正3年4月長浜町長に選ばれ,昭和10年死去するまで5期21年在任した。任期中,長浜大橋架橋を企画実現し,長浜港改修や国鉄誘致に奔走した。大正8年9月県会議員になり昭和10年9月まで4期連続在職して,大正13年11月~昭和2年9月副議長,昭和6年10月~8年11月議長にそれぞれ選ばれた。大正5年長浜漁業組合長,8年喜多郡漁業組合連合会長,昭和2年愛媛県水産会長,4年全国漁業組合中央会理事,6年帝国水産会代議員を歴任して,水産業発展に尽力した。昭和5年民政党県支部幹事長,7年同支部長として県政界一方の中心人物であったが,昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙で落選して以後国政選挙には立たなかった。昭和10年9月13日,長浜大橋開通直後,国鉄下灘一大洲線開通直前に51歳で没した。昭和13年4月,銅像が建立され,題字を伊沢多喜男,碑文を井上要が書いた。

 西村 弥三郎 (にしむら やさぶろう)
 明治23年~昭和56年(1890~1981)実業家,八幡浜市長。明治23年4月26日,東宇和郡宇和町久枝で本多好礼の三男に生まれた。衆議院議員・宇和町長本多真喜雄は実兄である。41年宇和島中学校卒業とともに八幡浜の素封家西村家(泉屋)に養子入籍した。熊本第五高等学校を経て大正7年東京帝国大学法学部を卒業,2年間銀行に勤めた後郷里に帰って家業を継ぎ,恭礼を弥三郎と改めた。第二十九銀行取締役・八幡浜信用金庫理事長などに就任して地方経済界に貢献,西宇和郡社会事業協会理事長,壮年団長などにも推された。昭和11年3月酒井宗太郎病気辞任の後を受け,第2代八幡浜市長になり,15年3月まで市政を担当した。その間,国鉄八幡浜駅の開業と大洲・八幡浜線の改良,臨港道路の建設,港湾修築事業の推進,市営乗合自動車の開業などの事績をあげた。八幡浜史談会長や裏千家淡交会支部長などに推され,文化人としても知られた。昭和56年4月23日, 90歳で没した。

 西村 保吉 (にしむら やすよし)
 慶応元年~昭和17年(1865~1942)愛媛県出身の官吏で島根県・埼玉県知事を歴任した。慶応元年6月21日宇和島藩士西村景信の長男に生まれた。明治23年愛媛県で普通文官試験に合格,宇摩郡書記・県属に任官。苦学して34年11月文官高等試験に合格。宮崎・山口県参事官,長野県事務官,43年北海道庁土木部長ついで拓殖部長,大正3年広島県内務部長,4年愛知県内務部長を歴任して,6年1月島根県知事に就任した。島根県では産業10年計画を策定して8年6月埼玉県知事に転出した。しかし僅か2か月在任したのみで8年8月朝鮮総督府殖産局長・土木部長として渡鮮した。大正13年12月内務省を依願退官,10年8月宇和島市長ついで15年8月松山市長に推挙されたが,いずれも辞退した。晩年は伊達家顧問・維新史料編纂委員などを務めた。昭和17年1月15日,76歳で没した。

 西山 禾山 (にしやま かざん)
 天保8年~大正6年(1837~1917)八幡浜大法寺(臨済宗)出身の傑僧。天保8年西宇和郡穴井浦(現八幡浜市穴井)に生まれる。 13歳で大法寺に入り,禅鉄,のち師の継嗣となって西山姓を名乗る。 18歳のとき佐伯(大分県)養賢寺に留錫,帰郷して上甲振洋に儒学を学び,宇和島大隆寺の晦巌・韜谷に教えを受けること10年に及んだ。さらに,筑後・美濃を遊歴,京都相国寺独園に学び,妙心寺越渓に印可を受けた。こうし,36歳のとき帰郷して大法寺に嗣席したが,明治14年9月大法寺炎上にあい,全身火傷を負って奮闘,人々は「焼け和尚」と呼んだ。その後各国をめぐって同41年帰郷,退休軒に隠栖してここで大正6年没した。 80歳。この間育成した門弟の中から多くの逸材を輩出,弟子の一人平櫛田中の作になる木彫「禾山笑」は有名である。著作に『金鞭指街』がある。

 西山 茂樹 (にしやま しげき)
 嘉永2年~明治44年(1849~1911)豊茂村長・地方改良功労者。嘉永2年7月2日,喜多郡豊茂村(現長浜町)で旧庄屋の家に生まれた。明治5年豊茂村里長,6年5小区戸長,12年豊茂村戸長,18年上須戒村外1か村戸長,19年櫛生村戸長などを歴任して,創成期の村治や地租改正・学務事務に当たった。22年12月町村制施行と共に豊茂村長に就任,以来27年間村政を担当して,校舎建築・学校基本財産の蓄積・記念学林の設置・児童就学奨励など教育の振興,土木・勧業・勤倹貯蓄の奨励,徴税完納などに尽力した。明治42年第1回地方改良功労者として県知事表彰を受けた。明治44年5月11日,61歳で没した。養子西山幸蔵は豊茂村長・大和村長を歴任して村政に尽くした。

 日   述 (にちじゅつ)
 生年不詳~延宝9年(~1681)日蓮宗不受不施派の僧。不受不施派とは,他宗他門の信者からは施しを受けず,また施さずを信条とする宗派である。文禄4年京都妙覚寺の僧日奥が,秀吉の千僧供養会参加を拒否して,権力との対立が表面化した。江戸時代になっても,家康の召きに応じず,秀忠夫人の葬儀に参加せず,反権力の思想として制禁されるに至る。日述は,同派の恩田派に属した。各寺に与えられている寺領は布施にあたるとする敬田派に対し,国主から賜ったもので布施では無く,したがって不受の信条に反しないとするのが恩田派である。寛文5年敬田派として寺領安堵の感謝状を提出することを要求され,拒否。同年,同宗の日完と共に伊予国古田へ配流された。配流中の日述は,藩から6人扶持を給され,番人1人をつけられていたが,比較的自由で,現北宇和郡吉田町の日蓮宗一乗寺にはしばしば参詣していたといわれる。延宝9年9月朔日,脳溢血で死去。 70歳から72歳であったと言われる。彼の居住した庵のあった場所は,のち聖人寺と呼称されるようになった。墓は同町聖人山にある。

 新田 長次郎 (にった ちょうじろう)
 安政4年~昭和11年(1857~1936)実業家。松山高商(現松山商科大学)の創設者。温山と号し,同校の同窓会はこれに因んで温山会と称す。愛媛県温泉郡山西村(現松山市)で安政4年5月29日生まれる。9歳より11歳まで寺小屋に学ぶ。 20歳の時大阪に出て,藤田組製革所に入社。大倉組製革所を経て,明治18年(1885)製革業を独立して創業した。工業用ベルトの改良に努め,その品質は東洋一であるとの声価を得た。明治35年には,実業功績者として勅定の緑綬褒章を受けている。明治44年,貧しい子弟の教育のために大阪市難波に私立有隣尋常小学校を設立。学校の経費を全額負担した上,衣服,学用品一切を与えて登校を勧誘した。大正12年,出身地松山市市長で親友でもあった加藤恒忠から勧められて,私立松山高等商業学校を設立。その創立費用の全額と経営費用の大半を拠出した。松山商科大学の校庭には氏の胸像がある。
 同郷の無二の親友としては,秋山好古陸軍大将がおり,秋山が退役後校長となった私立北予中学校(現松山北高)の一寓を借りて松山高商が出発したという因縁がある。無類の愛煙家で1日60本を吸うほどであったが,47歳の時,工場見学に来た一弁護士から煙草の害を説かれて,ぴたりとやめたという逸話が残っている。昭和11年7月17日没した。 79歳。

 新田 仲太郎 (にった なかたろう)
 明治11年~昭和44年(1878~1969)実業家。愛媛県温泉郡山西村(現松山市)で明治11年12月8日に生まれる。明治29年,叔父新田長次郎経営の新田帯皮製造所のために,高松でなめし用材料の調達に当たる。明治39年,製革用タンニンの原料となる檞皮の採取のため,単身北海道へ赴き,新田帯皮が広大な山林を買入れ,十勝製渋工場を建設するのに大きな力となった。製渋工場主任(工場長)。大正2年(1913)運送業を独立して営むために新田帯皮を退職。北海道釧路で, 3,600余トンの汽船をもとに回漕店を始め,新田汽船を経て内外汽船(本社神戸)にまで発展させた。
 昭和14年,地元の要請を受けて,松山市に私立中学校(新田中学のちの新田高校)を創設。財団法人新興育英会を設けて,特待生の授業料を免除して若い俊秀の教育に尽くした。新田学園理事長として,愛媛県の中等教育に大きく貢献した。現在も,在校生には新田家の提供による「たちばな奨学金」が続けられている。「少数のエリ-トよりも社会に役立つ多くの人材を育成する」を信念とした。愛媛県教育文化賞,愛媛新聞賞,愛媛県功労賞等を受賞。昭和44年12月2日,90歳で没した。

 二宮 斧七 (にのみや おのひち)
 明治22年~昭和11年(1889~1936)実業家。明治22年,東宇和郡高山村(現明浜町高山),宮野浦で春太郎の長男として生まれる。家業は漁業の網元であるが,斧七の生まれ九時は家運が傾き,貧しい生活を送っていた。15歳で山下鉱業の前身である横浜石炭商会に給仕として入るが,病気で翌年帰郷し,宇和町役場,高知の中村税務署に務めたが,24歳のとき再度上京山下家の会社にもどった。下積みからたたきあげ,専務取締役となり「山下の海(汽船)は白城定一,ヤマ(鉱山)は二宮」といわれるほど二人で山下の会社をもりたてたという。その後,若松石炭株式会社を創立し,「若松の斧七」と業界に知られた。親思い,子思いの真情は『父に捧く』の中にみられる。神仏を尊び,郷土と家庭を大切に愛した人である。昭和11年10月30日,47歳で死去。

 二宮 嘉太郎 (にのみや かたろう)
 万延元年~大正5年(1860~1916)果樹栽培先覚者。西宇和郡地方の果樹栽培の先駆者であるとともに,果実販売組織の育成,販路開拓に尽した。万延元年8月10日宇和郡目上村(現八幡浜市目上町)に生まれる。明治19年夏ミカンの苗木を導入普及して,果樹栽培の先べんをつけ,明治24年には,岡山県小田郡より梨苗木を導入栽培し近隣にも勧奨した。大正元年日土村に果実販売のために㊆組合を結成(70名参加)した。この組合が後に西宇和郡一帯の柑橘販売に活動した㊀組合の母胎となった。また果実の貯蔵庫をつくり貯蔵販売の効果をあげた。大正5年9月2日56歳で死去。八幡浜市日土町に頌功碑が建っている。


 二宮 邦次郎 (にのみや くにじろう)
 安政7年~大正15年(1860~1926)牧師,教育家。備中高梁藩士片具家で安政7年1月2日に生まれ,藩医二宮英庵の養子となる。明治9年岡山師範学校卒,小学校教員をしつつ自由民権運動にも参加。たまたま岡山伝道に来た金森通倫(同志社出身)の説教に感じキリスト教に接近,同13年同志社に入学し新島襄より洗礼を受けた。明治15年,今治教会に着任,伊勢時雄牧師を助け,松山伝道にも参加,同18年1月28日信者47名とともに松山第一基督教会(現日本基督教団松山教会)を創立する。かねがね,アメリカへ渡航のピューリタンたちが,信仰(教会)と教育(学校)による新国家建設に努めた話に共鳴し,新日本またこれに拠るべしと信じ,教会設立の翌19年,松山女学校(現松山東雲学園)を創立し初代校長となった。四国最初の女学校である。明治36年(1903)同校を辞して全国巡回伝道に任ぜられ,のち東京京橋教会(現行人坂教会)を再興した。在松中ジャドソン・西村清雄の松山夜学校創立にも協力した。大正15年9月7日死去。 66歳。墓は東京都多摩霊園。

 二宮 敬作 (にのみや けいさく)
 文化元年~文久2年(1804~1862)シーボルトに学び現在の東宇和郡宇和町卯之町に開業した蘭方医。如山と号す。文化元年5月10日宇和島藩領磯崎村(現西宇和郡保内町磯津)で半農半商の父六弥の長男として生まれる。文政2年長崎に行き,通辞の吉雄塾でオランダ語を,蘭医学を美馬順三に学ぶ。次いで来日したシーボルトに師の美馬とともに師事し鳴滝塾に学んだ。学資の不足がちであった彼は,シーボルトのもとで,植物採集や調薬,翻訳の仕事を手伝いながら学ぶ生活であったので,師弟の情愛も一段と深かったようである。シーボルト著の『日本植物誌』中に敬作の名がつけられた植物が見つかることや,シーボルトの娘イネの養育を依頼されたことなどからもそれがうかがえる。同門には高野長英や小関三英,伊東玄朴や石井宗賢らが居た。文政11年シーボルト事件に連坐して翌年6月まで投獄され,さらに江戸構・長崎払となった。彼の罪が特に重かったのは,雲仙岳や富士山の高さを測量し,シーボルトに伝えたためとされる。
 文政13年故郷磯崎に帰り,上須戒村(現大洲市)の西イワと結婚して同所で開業する。天保4年宇和島藩主伊達宗紀に登用され卯之町で開業する。以後20余年間の卯之町での彼の業績を整理すると次のようになる。一つには,甥の三瀬周三外の人々を教え,シーボルトの娘イネを養育した教育者であったこと。一つには,大念寺(現光教寺)山に種々の薬草を栽培し,外の医家にも分け与える本草家であったこと。また本業の医療では,患者の貧富を問わず深夜でも往診し,最新の技術であった種痘にも従事する熱心な医者であったことである。さらに,嘉永元年高野長英が幕府の目をのがれて宇和島藩に来,嘉永6年には大村益次郎が来藩するのも,敬作の交友や名声が少なからず影響を与えていたと思われる。この間,宇和島藩の彼に対する処遇を見ると,弘化2年医業出精のため帯刀を許し,安政2年御徒士格,準藩医に列せられ,嘉永4年の分限帳では御合力米5俵と長男逸二にも修業扶持一人分が与えられている。安政3年シーボルトが再来日するとの報に接し,再び三瀬周三等と共に長崎に赴き,銅座町のイネ宅で開業する。既に脳溢血で右半身が不自由であったにもかかわらず難手術を成功させている。文久2年3月12日,長崎で死去。享年57歳。遺骸を長崎皓台寺に,遺髪を卯之町光教寺に葬る。大正13年正五位を追贈された。

 二宮 源兵 (にのみや げんぺい)
 明治29年~昭和47年(1896~1972)教育者。明治29年1月13日上浮穴郡田渡村(現小田町)に生まれる。立志,松山に出て松山夜学校寄宿舎に入り,北予中学校に通う。その間,西村清雄,ジャドソンの感化を受けキリスト教に入信。海軍兵学校を志したが乱視のため不合格となったので,転じて同志社大学神学部に学ぶ。米国オベリン大学神学部を終え,シカゴ大学で宗教哲学,倫理学を専攻,神学及び文学修士号を受けた。松山夜学校,同志社大学文学部,同志社女子専門学校,同志社大学予科,神戸女学院専門部で教え,昭和15年から36年まで神戸女学院高等部長(校長に当たる)を務める。昭和36年4月,故郷の松山東雲学園より招かれ,理事長及び第7代中学・高等学校長を,同39年松山東雲短期大学(食物科)を開き学長兼教授となる。昭和41年,さらに3学科(家政・英文・保育)を増設し,愛媛県最初にして最大の短期大学とした。同47年3月退任。『永遠なるものへの思慕』『使徒・教父伝』などの著書がある。昭和47年5月19日死去。 76歳。墓は京都菩王寺。

 二宮 孤松 (にのみや こしょう)
 慶応元年~大正5年(1865~1916)言論人。慶応元年5月,宇和島藩士二宮覚太夫の次男に生まれた。本名熊次郎。はじめ明倫館で斎藤雄蟻に漢学を学び,明治5年ごろ不棄学校で中上川彦次郎から英語を手ほどきされ,南予変則中学校で左氏珠山の教えを受けた。明治13年15歳のとき同校助教に抜擢されたが,16年18歳で東京に遊学,末広鉄腸に文才を認められ,新聞記者になった。かたわら私塾で英語を学び,同郷の穂積八束のすすめで大学選科の聴講生として経済学を学んだ。明治21年末松謙澄と共同通信社を創立,英国女流作家クレイの『谷間の姫百合』を末松と共訳して出版,文名を高めた。同年末ベルリン大学に留学,渡航中の船中で内務大臣山県有朋の知己を得,25年帰国後内務省嘱託となり,27年には山県の私設秘書として日露戦争に従軍した。 31年新聞「京華日報」を創刊,のもこれに代えて月刊雑誌「世界」を発行した。常に立憲民主・愛国主義の至情に燃えて山県の知遇厚く,しばしば献策して側近として活動した。また子規の俳句革新運動にも参加した。大正5年12月17日,51歳で没した。

 二宮 晋二 (にのみや しんじ)
 明治40年~昭和20年(1907~1945)ラグビー功労者。明治40年1月17日松山市榎町生まれ。昭和4年(1929)京都帝大卒。三高時代からラグビーを始め名バックローとして活躍。京大黄金時代の主将をつとめた。同5年カナダ遠征の全日本チームに選ばれたが病気のため辞退し療養のため松山に帰郷。同6年ラグビー競技を松山に紹介,松山クラブを同好の士で編成して指導。さらに松山中,松山高商,松山高校,愛媛師範のチームづくりに努力,愛媛のラグビーの始祖となる。「ラグビーは体力と頭脳のバランス」と紳士のスポーツを強調,ラグビーをコーチしながら選手の補習授業を自ら教える徹底ぶりだった。昭和20年1月14日死去,37歳で夭折。いまなお二宮杯記念大会が毎年盛大に行われている。

 二宮 新吉 (にのみや しんきち)
 天保3年~明治14年 (1832~1881)農村指導者。宇和郡の農民闘争無役地事件を指導した。天保3年宇和郡宮内村(現西宇和郡保内町)で酒造業を営む豪農二宮吉右衛門の子に生まれた。幼少のころ村の寺子屋に学び,16歳の時豊後に渡り広瀬淡窓の門に入った。更に家臣某の紹介で藩主東上に随伴して江戸に上り昌平坂学開所への入学が許され,このころより呉石と号した。 29歳の時京都に走って岩倉具視に仕え,尊王攘夷を唱えて郷党の同志を鼓舞したが,藩慮に触れ謹慎を命ぜられた。その後許されて,慶応3年庄屋格苗字帯刀を与えられ再び国事に奔走した。維新の後,大学の小博士に推挙されたが,ほどなく退官帰郷して蟄居した。明治7,8年ころ宮内村佐々木恭三らと同村の旧庄屋都築温太郎の私有地となっている庄屋無役地を村民に返還するよう県に提訴した。更に市村敏麿と呼応して宇和郡各村民に無役地返還闘争への参加と団結の強化を訴えて奔走,農民総代と「水魚膠漆」の盟約を交して明治10年7月県権令岩村高俊を被告に旧庄屋無役地を旧庄屋の私有地とする県の処分不服の提訴を大阪上等裁判所に行った。裁判所は愛媛県の申し立てを採用したので, 11年3月この判決を不当として大審院に上告したが,却下された。ついで13年7月宇和郡73か村惣代の代表として内務省に対し無役地処分の改正を歎願したが却下された。このころから讐察の弾圧が強まって同志の拘束留置が続いたので,責任を感じ前途の成功期しがたいと悲観して,明治14年11月2日銃丸をもって自殺した。時に49歳。この事件は「東京自由新聞」などで報道されて「無役地事件」が全国の関心を呼ぶことになった。村民は二宮新吉の命を堵した義挙に感激して有志計って墓碑を建立した。

 二宮 精四郎 (にのみや せいしろう)
 天保10年~昭和4年(1839~1929)宮内村長・県会議員。天保10年11月6日,宇和郡宮内村(現西宇和郡保内町)で二宮兵左衛門の長男に生まれ,酒造業を営んだ。明治26年4月~27年1月宮内村長に就任,41年再任され42年まで村政を担当した。 29年3月~30年10月県会議員であった。八幡浜魚市場経営に参与,郡酒造組合長を務めるなど実業界で活躍した。昭和4年3月9日,89歳で没した。

 二宮 唯次郎 (にのみや ただじろう)
 天保2年~明治42年(1831~1909)初代中山村長・県会議員。天保2年6月24日,浮穴郡中山村(現伊予郡中山町)で生まれ,のち上浮穴郡立石村(現小田町)の庄屋・酒造業二宮家に養子に入った。戸長を経て明治23年町村制施行と共に初代中山村長となり,29年まで村政を担当して産業開発に尽力した。 25年10月~30年10月県会議員に在職した。明治42年2月25日,77歳で没した。

 二宮 忠八 (にのみや ちゅうはち)
 慶応2年~昭和11年(1866~1936)飛行機発明者。,慶応2年6月9日八幡浜の矢野町44番地(忠八通)に,父幸蔵母キタの四男に生まれ,幼名を忠人という。二宮家の祖先は大洲藩の武士であったが,四代前の佐兵衛のとき失火して藩旗を焼失し退藩浪人となった。百姓になり八幡浜で不二屋という海産物商を営む。忠八が小学校卒業の年父が死去す。
 忠八は秀才で探究心が強く,苦しい家計の中で勉学を続けるため,独創的な「忠八凧」を次々と作り,これを売って学資の足しにした。町の呉服店に子守奉公に出たり,印刷所や写真師の下働きや松丸の伯父二宮佐七薬店の手伝などをした。その間,町の西予塾で国学を,都築鶴州に漢学を,野田青石に南画を学んだ。忠八が晩年創始した「幡詞・幡画」などの八幡芸術はその当時に芽生えたものである。彼は明治20年5月12日丸亀歩兵第十二連隊に看護卒として入営した。当時の陸軍はドイツ式で,忠八は身長5尺3寸に僅か4分不足のため歩兵になれなかった。同22年10月讃岐松山の両連隊の秋季機動演習が四国の山岳で行われた。彼の大隊は仲多度郡十郷村樅ノ木峠で昼食をとった際,残飯をあさるカラスの群れ飛ぶのをみて,飛行の原理を発見し,発明のヒントを得た。そして翼の鬼となって研究に没頭した。明治24年4月29日彼の勤務する丸亀連隊の練兵場で飛行実験を行った。飛行距離約lOメートル,動力は聴診器のゴム管で,プロペラは4枚羽根であった。これはアメリカのライト兄弟の飛行機発明より12年前であった。その後複葉の玉虫型飛行器を完成し,日清戦争の際京城郊外竜山孔徳里で設計図を陸軍に提出したが,係の長岡外史大佐により却下された。その後広島の大島旅団長に動力利用による飛行機の開発を申請したが採用されなかった。彼は独力で動力飛行機発明を志し,資金を得るため軍隊をやめ,明治30年大日本製薬会社に入社した。色々発明し会社に貢献し,同33年同社東京支店長となった。明治36年ライト兄弟に先を越されたので,飛行機発明を打切り,自力で大阪製薬㈱を設立し製薬界に貢献した。
 彼の偉業は大正8年白川義則将軍によって認められ,逓信大臣や帝国飛行協会から表彰された。八幡浜の大平の斐光園は彼が造ったもので,白川大将や阪谷芳郎男爵筆の記念碑がある。晩年彼は京都の八幡に飛行神社を建て,航空犠牲者の霊を慰めている。現祭主は次男の顕次郎である。十郷には二宮公園があり彼の銅像がある。昭和11年4月8日70歳で没。彼の墓は飛行神社に近い石清水八幡の隣の神応寺にある。

 二宮 忠兵衛 (にのみや ちゅうべえ)
 天保10年~明治45年(1839~1912)石灰業。宇和島藩高山浦(現東宇和郡明浜町高山)の生まれ。高山の石灰は明治元年前後,3~4軒の生産業者が生まれ近隣へ売りさばいていた程度であったが,生産量がのびるにつれ石灰業者は船持ちを兼ね宮崎,中国へ販路を広げていった。忠兵衛はそれにあきたらず,北前船で北陸方面まで手をのばし販路開拓をやった。ほぼこういう時代が昭和10年ごろまで続く。忠兵衛の開拓によって明治時代には80余軒の石灰業者が生まれ,大二宮忠兵衛商店の会符をつけた石灰が北陸路を席捲した。年末には北陸から石灰代金が宇和島の銀行に送金され,その金は莫大なものであったといわれる。今日では石灰業も衰運の一路をたどっているが,明治~昭和20年代の石灰産業の隆盛は,忠兵衛の功績である。明治45年4月14日,73歳で死去。

 二宮 篤三郎 (にのみや とくさぶろう)
 慶応3年~昭和17年(1867~1942)石山村長・県会議員。慶応3年12月7日,喜多郡徳森村(現大洲市)に生まれ,愛媛県師範学校を卒業して小学校の教員を勤め,やがて上浮穴郡石山村立石(現小田町)二宮唯次郎の養子に迎えられた。養父の後を継いで,明治32年9月~34年6月県会議員になった。 38年8月~大正2年4月石山村長に就任,石山橋を起点とした寺村一五十崎線道路改修に奔走した。のち上京したが村民の懇請で昭和3年帰郷して再び村長になり,7年まで在任して村政の立て直しを図った。その後松山石鉄寮の舎監をして松山で勉学する郡内子弟の指導に当たった。昭和17年12月29日,75歳で没した。

 二宮 致知 (にのみや ゆきとも)
 天保10年~明治34年(1839~1901)篤農家・県会議員。天保10年11月3日,宇和郡中間村(現北宇和郡三間町)で里正二宮伝四郎の四男に生まれた。幼名鐡之助。加藤自慊について漢学を修めた。明治4年民事掛,のち戸長になり,学務委員・勧業委員を兼ね,小学校の振興と農業の発展に奔走した。特に稲の品種改良・肥料の製造,養蚕の奨励,農談会の創設など地方農事改善の先駆者・篤農家として知られた。明治15年県会議員に選ばれ,22年まで在職した。明治34年4月27日,61歳で没した。

 二宮 義清 (にのみや よしきよ)
 明治34年~昭和42年(1901~1967)軍人。明治34年7月6日,上浮穴郡小田町村立石,二宮篤三郎の次男に生まれ,明治40年に立石小学校に入学,大正3年に東京府立第三中学に入学,東京陸軍幼年学校,同士官学校を経て昭和7年陸大を卒業した。在学中は成績優秀で卒業の時10指の中に加えられた。昭和8年参謀本部付となり,昭和12年松井大将のもとで,中支派遣軍の参謀として南京攻略に参加し,畑大将のもとでも参謀を勤めた。昭和14年フィンランド公使館武官,昭和17年東条陸軍大臣秘書,18年軍務課長など,陸軍の重要な地位にあって時局の収拾に尽くしたが,心労のため健康を害し,20年陸軍大学校教官となり終戦を迎えた。資性温厚誠実,戦後は立石に帰って晴耕雨読の生活を送ったが,昭和42年5月12日,65歳で波乱の生涯を閉じた。