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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 名本 政一 (なもと せいいち)
 明治18年~昭和42年(1885~1967)渓筋村長・県会議員・副議長。明治18年8月24日,東宇和郡長谷村(現野村町)で生まれた。農業に従事し,大正2年以来村書記に勤務,10年4月渓筋村長に選ばれ,昭和14年10月まで村政を担当した。昭和2年~6年郡農会長,3年から県木炭同業組合長に推された。6年9月県会議員になり21年12月まで3期連続在職して,14年12月~15年12月には副議長を務めた。昭和42年7月12日,81歳で没した。

 那須 善治 (なす ぜんじ)
 慶応元年~昭和13年(1865~1938)社会事業家。慶応元年6月21日宇和郡川之石浦内之浦(現西宇和郡保内町)の那須多重郎の長男として生まれる。少年時代は,川之石で酒造の手伝いをしていたが,28歳で上阪し,第一次世界大戦中相場であて巨額の富を築いた。しかし富豪や成金階級が一般住民を苦しめている実情をみ,自分が成功したのは,社会の人たちのおかげだと。余生を社会事業に奉仕しようと決意する。神戸のスラムに賀川豊彦をたずねて,賀川から消費組合運動の助力を求められ,大正10年に灘購買組合を創立した。若いころロバート・オーエンに傾倒し,「一人は万人のために,万人は一人のために」を座右の銘とした。熱心なクリスチャンで,勤勉,努力,奉仕に生涯を貫いた。出身地川之石にも学校施設,育英資金等に多額の寄附をする。昭和13年12月19日,73歳で死去。

 内藤 鳴雪 (ないとう めいせつ)
 弘化4年~大正15年(1847~1926)俳人。近代教育の普及に尽力。弘化4年4月15日,江戸松山藩邸で藩士内藤房之助同人の長男として生まれる。幼名助之進のち素行と改名した。安政4年11歳のとき父御用達を免ぜられ帰藩の節同道して松山に帰る。藩校明教館に学ぶ。橋本家に入門し剣術を習い,武知幾右衛門(五友)の手習所に入門する。安政5年父房之助同人京都の留守居役を仰付かり同行し,翌6年父松山に帰藩,堀之内に住む。文久2年(1862)15歳の時,馬術を寒川に習う。元治元年(1864)17歳で元服,助之進師克と名乗る。『蒙求』『日本外史』をはじめ多くの漢籍を読み,君公の御試業に出講し『論語』の講義などもした。また漢詩を学び南塘と号した。なお歴史にも興味を持ち『大日本史』『皇朝史略』など好んで読む。慶応元年藩主松平定昭の小姓となり,明治元年京都に遊学,翌2年東京に出て昌平黌に学ぶ。小姓の役を解除され帰松。明治3年藩制の改革により,権少参事学校掛りとなり,明教館での学科を改め洋学を加え,教授者の若がえりを図るなど刷新した。同4年藩費で洋学修業のため上京。翌5年帰省,10月太政官から学制頒布があり,石鉄県学区取締役を命ぜられ,小学校の設立に尽力した。教員確保のため松山をはじめ県下6か所に小学教育の伝習所を設置した。同8年県権令岩村高俊に抜擢され,学務課長となり愛媛県全体の学事を担当する。翌9年東京に出張し,松本英忠を招聘し,松山に師範学校を創設。また,草間時福を慶応義塾から招聘し,変則中学校(後の松山中学校)を創設した。岩村知事の推挙で同13年7月文部省に転任,同18年森文部大臣のもとで准奏任御用係から文部権少書記官に昇進する。同23年文部省参事兼普通学務局勤務。翌24年4月44歳で文部省を退官し,旧松山藩主久松家が東京遊学の松山出身子弟のため設けた本郷真砂町にある常盤会寄宿舎の監督となる。当時,常盤舎に正岡子規や河東碧梧桐の実兄竹村黄塔などが居て,本格的に俳句を始め。「椎の友会」の運座などにも出席した。
 同26年46歳のとき,旧松山藩の事蹟取調べを嘱託される。松山へ帰郷途中京都に立寄り,碧梧桐・高浜虚子を訪ねる。同30年1月柳原極堂の「ほととぎす」発刊を喜びこれを支援する。俳句の上では,鳴雪・老梅居・迷説等の雅号を用いた。鳴雪は「成り行きにまかす」という考えから当て字を雅号にした。同40年・常盤会の監督を秋山好古に譲り,専ら俳句の選者生活を送る。大正6年70歳のとき,麻布区算町に転居した。子規は『閑人閑語』の中で,鳴雪の人となりについて,「人に教ふる懇切にして,一句一宇を説く猶数百言を費す,他の我意を会得するをまって後やむ」と記している。大正7年古希の祝いに元常盤舎の寄宿生と同郷の有志によって,寿碑(「元旦や一系の天子不二の山」)が道後公園に建てられ,その竣工式に帰郷。大正15年2月20日東京麻布の自邸で没す。 78歳。編著書に『鳴雪句集』『蕪村遺稿講義』『俳句作法』『鳴雪自叙伝』など俳句に関する著作が多数ある。

 中井コッフ (なかい こっふ)
 明治14年~昭和37年(1881~1962)医師,歌人。明治14年6月23日,北宇和郡来村保田(現宇和島市)に生まれる。本名謙吉。明治40年,愛知医学専門学校卒業。病院勤務ののち,同42年,宇和島で小児科・医を開業。南予小児科医の鼻祖として,特に乳のみ児の診療に名声を博した。 18歳頃より短歌の道に入り,大正8年,橋田東声の「覇王樹」に参加した。のち同人となる。この年,脳卒中にかかり右半身不随となるが,病苦と闘いながら医道と歌道に励んだ。若い頃,京都絵画専門学校で学んだこともあり,画道・書道においても巧みであった。県下を代表する歌人で,5万8千首の作品を残している。歌集に『山水』 (昭和14年), 『山雨』(同年),『乱蛩』(同23年)がある。昭和33年,県教育文化賞を受賞。宇和島城長門丸に歌碑がある。同37年3月18日死去,80歳。

 中江 藤樹 (なかえ とうじゅ)
 慶長13年~慶安元年(1608~1648)近江聖人とよばれた陽明学者。近江国小川村生まれ。幼名原蔵,実名原,字は惟命,通称与右衛門,号鵬軒,自ら不能叟と称した。門人達は藤樹先生とよんだ。9歳の時加藤家の家臣であった祖父吉長の養子となり,元和3年(1617)藩主貞泰の転封に伴い,大洲に移った。同8年15歳の時祖父が死亡したので,100石取の家督を相続し,寛永3~9年こは南筋の郡代官を勤めた。 17歳の時京都の禅僧による論語の講釈を受け儒学に開眼。以後は「四書大全」を求めて自学に励み,「大学大全」を通暁会得し,やがて論孟にも通達したという。20歳のころには,中川貞良ら同志に「大学」を講釈し,「聖学ヲ以テ己が任トス」という自覚に達し,同志のために「大学啓蒙」を著述した。自ら説く孝の道が深まるにつれ,近江に残した母への孝心が慕り,帰郷のため藩士辞職を願い出たが,藩が許可しなかったので,寛永11年(1634)自ら脱藩し帰郷した。在洲時代の門人大野了佐・清水季格らは近江に赴き藤樹に教えを請うた。近江時代の藤樹門人のなかで大洲・新谷両藩士は32人いたといわれる。このころの著書に『翁問答』。『孝経啓蒙』,婦女子向きの『鑑草』などがある。正保元年36歳の時,「陽明全集」を求めてから,朱子学を守らず知行合一孝を基とし良知に至り明徳を明らかに身を修めることを説く陽明学を研究し,我が国の同学派の始祖となり,彼の教えは熊沢蕃山以下の門人によって発展した。大洲には大洲藩教学の基である藤樹の邸を模した至徳堂を建て,彼の銅像を建立し,藤樹会を発足させるなど,今なお藤樹を敬慕する念が厚い。

 中尾 定吉 (なかお さだきち)
 明治3年~昭和21年(1870~1946)御荘村長・県会議員。明治3年1月23日,宇和郡和口村(現南宇和郡御荘町)で旧庄屋中尾興寿老の長男に生まれた。村会議員を経て,明治34年11月~36年10月御荘村長に就任,村政を担当した。大正4年9月~8年9月県会議員になり国民党に所属した。二十九銀行支店長や伊予真珠・南予運輸各会社の重役を務めた。昭和21年3月19日,76歳で没した。

 中臣 次郎 (なかおみ じろう)
 天保2年~明治30年(1831~1897)果樹園芸功労者。本県最初の夏ミカン導入者。宇和郡須賀通り(現宇和島市)に生まれる。明治12年山口県萩地方より,夏ミカンの苗木数本をもとめて庭園(宇和島の藤江)に植栽したのがはじめて,その後宇和島の大浦地区にひろがり,さらに,北宇和郡,西宇和郡に主産地化か進むことになった。また夏ミカンは,県下各地の宅地,庭園等に自家用としてひろく植えられた。

 中川 源太郎 (なかがわ げんたろう)
 明治8年~昭和30年(1875~1955)壬生川町長・県会議員。明治8年4月13日桑村郡壬生川村(現東予市)で生まれた。青年時代漢学を修め,柔剣道を得意とした。壬生川町会議員を経て大正8年9月~12年9月県会議員になった。6年には郡商工会長に推され,一色耕平らと住友煙害賠償交渉に当たった。昭和2年6月~6年6月壬生川町長として町政の発展に尽くした。昭和30年8月27日,80歳で没した。

 中川 千代治 (なかがわ ちよじ)
 明治38年~昭和47年(1905~1972)宇和島市長。明治38年11月6日,西宇和郡矢野崎村向灘(現八幡浜市)で生まれた。昭和3年早稲田大学政経学部を卒業して予州銀行に入り,9年吉田支店長になった。その後明治製菓に転じ25年まで三津工場長を務め,29年には宇和島合同組合理事長に就任した。 25年から国連県副本部長に推され,日本代表として世界総会に二度出席,世界各国の貨幣を集めて「平和の鐘」を作り,国連本部に寄進した。 34年5月宇和島市長に当選,新制中学校の施設整備,上水道拡張事業,市行政事務の改善,宇和島病院の改築などを推進した。 38年5月再選され,都市整備事業と地域開発に取り組み,42年5月退任した。昭和47年2月25日,66歳で没した。

 中川 八郎 (なかがわ はちろう)
 明治10年~大正11年(1877~1922)画家。喜多郡五十崎町上宿間に生まれる。幼少のころ父母を失い叔父に引きとられ大阪で育つ。松原三五郎について絵を学ぶが,明治29年上京,小山正太郎の主宰する画塾「不同社」に入る。明治31年の明治美術会創立記念展に「薄暮」を出品好評を得,風景画家への道にふみだす。不同社での画友吉田博と共にアメリカに渡り,個展で好評を博してさらに欧州各地を歴訪して,明治34年に帰国。渡米した青年画家達と太平洋画会を結成して評議員となる。 36年より4年間再び欧米で過ごし,ヨーロッパの伝統的な風景画の技法にうらづけられた堅実な画風を築き上げる。明治40年に開設された文展に第1回展から出品,「夏の光」「北国の冬」「瀬戸内海」と3年連続して三等賞を受け,第4回文展出品作「巌壁」で二等の最高賞に輝き,翌年36歳の若さで文展審査員に推挙される。実写を旨とし,主催する美術会の仕事の外は一年のほとんどが全国各地の写生の旅に費やされている。中でも瀬戸内の伊予の地を最も愛し,たびたび郷里に滞在制作している。大正11年3回目の渡欧中,ナポリで病にかかり,帰途香港で重体となる。神戸入港3日後の8月3日,45歳の若さで没す。

 中島 漢山 (なかじま かんざん)
 文化12年~明治29年(1815~1896)教育者,松山藩士で,名は隼太と称す。幼時より学問を好み,経義に通じ藩学明教館の教授として多年,育英事業に尽力する。小林信近の父でもある。松山藩士頭格,のち中奥筆頭格で370石を受ける。実名は包隼,通称は隼太。耳を患い聞えない。詩才あり。明治29年5月15日没,81歳。墓は松山宝塔寺にある。

 中島 九郎次 (なかじま くろうじ)
 生没年不詳 安永7年3月,青地快庵の門弟浅山勿斎と中島九郎次は松山藩主松平定静の文武振興策に抜擢され,城中の躑躅の間で経書の講釈をする(松府古士録)
 同年同月25日の講席で,中島九郎次が講義をし,次に勿斎が論語の講釈をした時,進言したいことがあると,かねての腹案であった藩政改革案(12項目)を説いた。

 中谷 利忠 (なかたに としただ)
 明治34年~昭和25年(1901~1950)愛治村長,県議会議員・副議長。明治34年10月6日,北宇和郡愛治村畔屋(現広見町)で中谷浪江の長男に生まれた。昭和5年以来村会議員を務め,21年2月愛治村長に就任,22年4月同村長に公選されて25年1月まで引続き村政を担当した。 22年4月県会議員に当選,23年5月から1年間副議長に就いた。昭和25年12月29日県議会議員現職のまま49歳で没した。

 中西 窓山 (なかにし そうざん)
 明治20年~昭和37年(1887~1962)尺八演奏家。明治20年11月20日,大阪に生まれる。初代都山流宗家中尾都山の芸風に憧れて尺八の道に入り,初代北尾篁山に師事する。大正10年,松山に移り住み,県内はじめ四国全域に都山流尺八の普及に努めた。その間,筝曲との合奏演奏会を企画し,今日の三曲演奏の礎を築いた。本県でも昭和前期は尺八のさかんな時代で,松山高等商業学校(現松山商科大学)松山高等学校(現愛媛大学)などにも学生の愛好家が多く,若い人々の育成にも貢献する。晩年は,本県初の都山流竹琳軒の称号を受ける。昭和37年8月11日死去,74歳。

 中西 盛信 (なかにし もりのぶ)
 慶応元年~昭和11年(1865~1936)神職,歌人。慶応元年,温泉郡生石村(現松山市)に生まれ,号を九史,肱外と称す。井上頼国,師風正胤,三上一彦らについて国学,和歌を学び,俳句にも通じていたという。北吉田金毘羅神社の神職をつとめ,愛媛県神職会理事にもなる。昭和11年7月1日,71歳で死去。

 中野 和高 (なかの かずたか)
 画家。明治29年~昭和40年(1896~1965)明治29年4月5日,東京に生まれる。仙台第1中学校卒。大正3年(1914)上京し葵橋洋画研究所に学び,同10年東京美術学校西洋画利を卒業。在学中大洲中野家の養子となる。同年帝展人選。大正12年から昭和2年までパリ留学。帰朝後間もなく,前田寛治・里見勝蔵らが創立した「1930年協会」に参加。一方では帝展にも出品,特選を重ね,同7年に帝展審査員となる。 15年には創元会を創立主宰し,戦後は日展評議員をつとめる。 32年日展出品作「少女」が芸術院賞を受賞。その作風は形態の単純化,色彩の簡素化をはかる新鮮な画面構成で,人物画に独自の境地を開拓する。故郷大洲にもたびたび帰り,郷党とも交友厚く,愛媛の洋画に大きい影響を与える。瀬戸内風景,水郷大洲風景,松島風景なども多く残す。昭和40年3月8日,68歳で没した。

 中野 義照 (なかの ぎしょう)
 明治24年~昭和52年(1891~1977)今治国分寺(真言宗)出身で印度学者。明治24年10月5日に今治に生まれる。幼名正次郎,国分寺中野堅照の養子となり義照と改名する。大正10年(1921)東京帝国大学卒業。高野山大学教授・天津日本図書館長・北京大学文学院教授を歴任後高野山大学学長となる。その間,密教文化研究所長となり,また印度学会の創立に尽くす。著作多数。『マヌ法典』などの翻訳,『インド法の研究』などの印度学,『密教の信仰と倫理』などの真言学など多岐にわたる。昭和52年1月31日死去。 85歳。

 中野 松雲 (なかの しょううん)
 明治11年~昭和27年(1878~1952)菓子商。明治11年松山市犬街道中野喜十郎の長男に生まれる。諱は歌次郎,真柱,月老,道楽などと号した。家業は代々製菓販売で,父は生菓千づくりの名人といわれた。明治27年,日清戦争で広島に大本営が移された折,御用菓子職人として推せんされた父に代り16歳でその大役を果たす。その広島に出発する時,伊台の松本紋次村長は皇室との関係で西法寺の名花薄墨桜の一枝を陛下に献上してほしいと依頼され,その後,帰松して家の製菓に薄墨の名をつけた。松山銘菓薄墨羊焚がそれである。中年の生活には不明の点も多いが、京都で製陶を手伝って自適生活を送ったらしい。昭和のはじめ帰松して上一万に窯を築き,中央の文人を招き茶三昧にふけった。仁和寺から「松雲」の号をもらったりもしている。昭和27年秋,城北にて死去。 74歳。松山天徳寺に墓がある。

 中野 逍遥 (なかの しょうよう)
 慶応3年~明治27年(1867~1894)漢詩人。慶応3年2月11日,宇和島賀古町に生まれる。本名重太郎。歌人大和田建樹は母方の親戚。幼時から秀才で,鶴鳴学校に入り,のち漢学を学ぶ。明治12年,南予中学校(現宇和島東高校)に入学。同16年上京。翌年大学予備門(後の第一高等学校)に入学,子規や漱石らを知る。ついで東京帝国大学文科大学漢学科に進み,同27年に卒業。卒業後は研究科に進み,『支那文学史』を起稿。一方,友人岡田嶺雲らと雑誌「東亜説林」を創刊し,「九州漫筆」一編を発表,将来の活躍を期待されたが,同27年11月16日,急性肺炎のため死去,27歳。墓は宇和島市光国寺にある。予備門時代から漢文をよくし,大学に進んでからは漢詩に力を注ぎ,杜甫を愛し,またドイツ古典主義の詩人シラーの詩と人物を崇拝,多感な詩情や自由の精神を触発されている。著書に前記『支那文学史』のほか,没後編まれた『逍遥遺稿』がある。遺稿を愛読した島崎藤村は,処女詩集『若菜集』に,「中野逍遥をいたむ」として「哀歌」の一詩を載せている。正岡子規も。「いたづらに牡丹の花の崩れけり」の追悼句を詠んでいる。

 中野 雅夫 (なかの まさお)
 慶応2年~昭和32年(1866~1957)教育者,県会議員,愛媛鉄道社長。慶応2年10月17日,喜多郡高山村(現大洲市)で生まれた。明治19年,愛媛県師範学校を卒業して大洲小学校に奉職,23年長浜小学校長になり,内子・大洲村の各小学校長を経て大正4年大洲町小学校長に就任,大正8年文部大臣より教育功績賞状を授与された。退官後愛媛鉄道社長に推され,昭和2年9月~10年9月の2期県会議員に在職した。昭和32年10月5日,90歳で没した。

 中野 好夫 (なかの よしお)
 明治36年~昭和60年(1903~1985)評論家。松山市道後で中野定次郎,しんの長男として明治36年8月2日に生まれる。父が伊予鉄に勤務していたが,好夫の生まれた翌年,父が徳島鉄道へ転勤したので徳島市に移り,徳島中学・京都三高を経て東京帝国大学文学部を卒業する。昭和5年,土井晩翠の娘信と結婚,中学の英語教師,東京女高師教授を経て,昭和10年東京帝国大学文学部助教授となる。戦前から英文学の研究,翻訳,日本文学についても著作を発表したが,戦後の文学評論にはめざましいものがある。とくに政治課題に対する発言には世論に大きな波紋を投げかけた。雑誌「平和」の編集長をやって社会批評,文明批評に鋭いものがあり,文学者の社会的責任を自覚して,市民的意識を視点にすえて広く時事問題について発言する。昭和60年2月21日死去,81歳。

 中原 成人 (なかはら なると)
 明治31年~昭和36年(1898~1961)松山市初代教育長。明治31年9月28日伊予郡北伊予村大字徳丸(現松前町)に生まれる。大正8年愛媛県師範学校本科第一部卒業後,北宇和郡宇和島第二尋常小学校訓導,同13年愛媛県女子師範学校訓導,昭和11年には喜多郡長浜尋常高等小学校長兼長浜青年学校長に任命され,同14年愛媛県師範学校訓導(附属小学校教頭)となり,年々教育実習に来る師範学校生徒に対し,熱心な指導を行った。同17年松山市高浜国民学校長兼新浜青年学校長,同20年松山市番町国民学校長に任命され,同年依願退職,松山市視学教育課勤務となり,同22年松山市主事となり,三津浜図書館長を命ぜられ,翌23年松山市視学兼務,同24年には松山市教育課長となり,同27年11月1日松山市教育委員会の発足に伴い教育長を命ぜられ,同31年9月30日退職まで3年10か月にわたって勤務した。松山市教育関係行政にたずさわること戦後10余年,その間戦災の旧市内9国民学校の復興,昭和22年4月1日国民学校を廃止し小学校とし(昭和27年で20校),新に11中学校を設置し,校舎の建築をはじめ教育諸施設の新設・整備に心魂を傾けた。早起きの彼は,毎日早朝三津の自宅を自転車で出発し,松山市内の小・中学校の情況,とくに校庭の緑化の模様を注意しながら,何校か自分の眼で視察したうえで定刻前登庁することにしていた。彼は長浜・新浜などの青年学校長の体験からか,青年団活動にとくに関心をもち,青年団長らと親交を強め,協議のうえ青年講習会を開催し,それまで部落毎にあった青年会堂を新に「公民館」と称することにきめ,同28年4月には「松山市公民館設置条例施行細則」を制定し,松山市社会教育審議会を各校区に設置している。この年1年で校区公民館16,分館10も新設されている。八坂公民館などの建設の際,彼自ら部下と壁土を練ったという。現在松山市内に200を数える公民館建設のはじまりは,彼の尽力によるといってよい。こうして「生涯学習都市」とうたっている松山市の学校・社会など,あらゆる教育関係の基礎づくりという立派な業績を遺した。彼は同31年10月松山市1級主事,人事課勤務となり,つづいて三津支所長となり,同36年1月依願退職。同年8月30日死去。 62歳。大明神墓地に葬られた。

 中原  渉 (なかはら わたる)
 嘉永5年~大正15年(1852~1926)軍人,宇和島市長。嘉永5年12月9日,宇和島桜町で藩士の家に生まれた。草創期の陸軍に入り,西南の役,日清・日露戦争に参戦,小倉師団在任当時文豪森鴎外と親交を結んだ。明治39年少将で退役,40年宇和島町長に就任,大正7年まで町政を担当した。その間,宇和島町立病院・伝染病院の整備,丸穂村の編入合併,学校教育の整備,上水道事業の計画を推進した。なかでも宇和島港の修築事業は宇和島の経済的地位を著しく高めた。大正15年3月9日,73歳で没し,内港の一角に頌徳碑が建てられた。

 中平 常太郎 (なかひら つねたろう)
 明治12年~昭和39年(1879~1964)社会事業家,参議院議員,宇和島市長。明治12年3月20日,西宇和郡伊方浦(現伊方町)で生まれた。明治44年9月北宇和郡会議員,大正3年から宇和島で醤油醸造業を経営,4年宇和島町会議員,14年12月~昭和9年市会議員に在職した。方面委員として社会事業に尽し,昭和2年10月宇和島市民共済会を創立してその会長となり,窮貧救助・失業保険・罹災救助に当たり,授産場を設けて団扇の製造販売を行い,その活動は全国的に注目された。戦後の21年3月県労働委員会委員長となり,22年4月社会党から推されて第1回参議院議員選挙に立候補,久松定武と共に当選した。ただし3年議員であったため次の25年6月の選挙には立たなかった。 26年5月宇和島市長に公選され,30年5月まで一期在任して,市立宇和島病院内に産院を建設するなど,福祉面の施策を図った。昭和39年7月19日,85歳で没した。

 中上川 彦次郎 (なかみがわ ひこじろう)
 嘉永7年~明治34年(1854~1901)実業家。嘉永7年8月13日生まれ。明治期の三井家改革の立役者として知られている。豊前(大分県)中津の出身。福沢諭吉と同郷であり,母は,諭吉の姉である。明治4年(1871),慶応義塾卒。若くして宇和島に新設された不棄学校(一種の中学校)の校長となった。在任の期間は短かかったが,地理学および英語に通じ,愛媛における近代教育の先駆者の1人に数えられる。明治24年,三井銀行の危機に際して,三井家に迎れられ,藩閥政治家と関係を断ち切って大改革に成功した。彼はまた,慶応義塾出身の後輩を集め,三井のための優秀な人材を育てた。彼によって,三井の経営は,封建的寡頭型の経営から近代的経営へと改められた。病を得て明治34年10月7日,47歳で逝く。

 中村 一義 (なかむら かずよし)
 嘉永6年~大正14年(1853~1925)俳人,教育者。嘉永6年7月11日,松山市二番町に生まれる。俳号を愛松と呼ぶ。明治27年松山高等小学校長の時,最初の新派俳句結社「松山松風会」を発起し,翌年愚陀佛庵で子規の指導をうける。同29年横浜に移り,老松小学校長となり,同地の連友会句会を,下村為山らと指導する。後,千葉県に転じ,湖北,入柱など山間部の小学校長を経て,大正10年辞職する。その間も,千葉県流山町では,為山とともにその上地の指導者松本翠影が主宰する俳誌「ツボミ」の指導に当たる。子規直門の先輩として畏敬されたが,晩年は往年の熱意を失って静かに余生を送ったという。大正14年4月10日,71歳で死去。

 中村 草田男 (なかむら くさたお)
 明治34年~昭和58年(1901~1983)俳人。明治34年7月24日に父の任地である中国福建省廈門で生まれる。本籍は松山市二番町で,本名は清一郎。3歳のとき帰国して,松山第四小学校(現東雲小学校),松山中学校,松山高等学校,東京帝国大学独逸文学科から国文科に転じ卒業する。卒業後,成蹊学園に勤め,昭和44年同大学名誉教授となる。その間,虚子の勧めで東大俳句会に入り,水原秋桜子,高野素十と親交を深める。虚子の「花鳥諷詠」にあきたらず,社会や人間の内部にも目を向けて伝統と調和を模索しつづけ,石田波郷,篠原梵らと「人間探求派」と呼ばれた。戦後,月刊俳誌「萬緑」を創刊して,「ホトトギス」を脱し,虚子の花鳥諷詠に対して,自他の生き方を求め,主客融合の「象徴」の自在境に到達し,思想詩としての俳句を結晶させたといわれる。「朝日俳壇」の選者を昭和34年から没するまで25年間続けた。その間,現代俳句協会幹事長や俳人協会会長を務める。句集『長子』『美田』評論集『魚食ふ飯食ふ』など多数がある。昭和58年8月6日に松山で句碑の除幕が予定されていたがその前日の8月5日,82歳で死去。著書に『中村草田男全集』18巻,別1巻がある。

 中村 敬之進 (なかむら けいのしん)
 明治28年~昭和53年(1895~1978)昭和戦時下の県知事。明治28年9月9日,山口県で中村藤左衛門の次男に生まれた。大正11年3月東京帝国大学法学部法学科を卒業,福岡県属・警視を振り出しに神奈川県・兵庫県警察部,内務省警保局に勤務した後,昭和10年5月内閣調査局調査官,ついで企画庁調査官,企画院次長,警保局保安課長を歴任した。昭和15年7月24日愛媛県知事に任命され,1年3か月在職して16年1月4日厚生省人口局長に転じた。在任中の昭和15年12月6日大政翼賛会愛媛県支部が発足,中村は支部長となって翼賛体制づくりを推進した。また加茂川・石手川河水統制事業を計画,四国配電会社本社の誘致などに尽力した。転任に際し,中村は「これからいろいろの問題を片付けたいと思ふとき此の異動に会し心残りが甚だ多い」「知事たるものは少くとも4・5年は一定の個所に居るべきでなくてはならぬ」と語った。中村は厚生省次官を最後に官界を離れ,26年7月大中物産株式会社社長に推され,27年には中山製鋼所取締役を兼ねた。晩年には新宿御苑保存会長などを務め,昭和53年4月12日,82歳で没した。

 中村 純一 (なかむら じゅんいち)
 明治34年~昭和60年(1901~1985)郵政官僚,衆議院議員・宇和島市長。明治34年10月28日,北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で生まれた。宇和島中学校,第一高等学校を経て大正14年東京帝国大学英法科を卒業した。逓信省に入り,各地方逓信局企画課長を経て関東逓信局長になり,以後興亜院経済課長及び調査官,逓信省電報局長・貯金保険局長を歴任して20年6月退官した。昭和24年1月の第24回衆議院議員選挙に愛媛第3区から民主自由党公認で立候補当選したが,27年10月の選挙では落選した。 30年5月宇和島市長に公選され,市財政の再建と近代都市の建設に取り組み,32年には来村を合併,宝酒造会社社長大宮庫吉の援助で市公会堂建設事業に着手するなどの事績をあげた。昭和60年10月2日,83歳で没した。

 中村 清蔵 (なかむら せいぞう) 
 生年不詳~安政6年(~1859)唐川ビワ改良の先覚者。浮穴郡上唐川村(現伊予市)に生まれる。生年は明らかでないが,3人の子が天保10年,同13年,安政2年に生まれていることから推測して,文化年代末か,文政初期であろう。元文5年頃の『大洲秘録』に「上唐川村,枇杷多し」とある。これは本谷川(森川)沿いの斜面に,古くからビワが自生し,またあるものは屋敷・畑の一角に植えられていたことを示している。清蔵はこのビワを採取して,谷上越えで郡中三町(灘町・湊町・三島町)に売り歩いた。これが予想外に売れたため,勇気づけられた清蔵は,日当たりをよくするための樹木の陰伐り,新植などで改良と増産を図った。このような在来種の伝統を受けて,明治26年以降新種が導入された。大正末期清蔵の植えたと伝えられる周囲1m,高さ8~9mの「清蔵枇杷」が30本ほど残っていた。

 中村 忠左衛門 (なかむら ちゅうざえもん)
 明治15年~昭和20年(1882~1945)今治タオル発展の先駆者。越智郡別宮村(現今治市)に市治の五男として生まれる。家業は縞反物の製造であったが,明治末期タオルへの転換を決意,研究に没頭した。今治のタオルは明治27年阿部平助か創始したが,後晒しで手数がかかり,技術も幼稚であったため,軌道に乗るには至らなかった。大正7年,忠左衛門は大阪タオルにヒントを得て,先晒し糸の一部を染めて,1ダース160匁程度(約600グラム)の大衆向け先晒単糸タオル(縞柄)を創製した。これは体裁がよく,価格も安かったので,大阪市場で好評を得,注文が相次いだ。そのころ今治に力織機が盛んに導入されたので能率が向上。また同業者も増えたので生産量が拡大し,今治の先晒タオルは強固な地位を確保した。さらに県の菅原技師がジャカード機による紋織りタオルの製織に成功すると,その工業化をめざして大正15年業界にさきがけ,北織式400口及び600口のジャカード機6台を力織機に取りつけ,紋織りタオルの生産を始めた。これが今治最初のジャカードによる紋織りタオルであり,そのすぐれた製品が注目を浴びたので地域に普及し,今治タオルは次第に高級化して今日の発喪の基礎を築いた。昭和20年4月14日没(63歳)。今治市高地町に葬られた。

 中村 俊夫 (なかむら としお)
 文化8年~明治6年(1811~1873)大洲藩士。父は中村長右衛門重厚で,諱は尚忠。通称は滝三郎,俊治と称す。幼少のころは大洲の国学者常磐井厳戈に入門するが,長じて江戸に出て大橋訥庵に師事する。天保9年藩校明倫堂の句読師となり,やがてその学頭となった。元治元年藩主加藤泰祉が死去すると佐幕論が台頭して藩論が傾いたとき,勤皇論を唱えてその正常化を図った。慶応3年11月大洲藩兵の総督として西の宮を警備していた時,上陸してきた長州藩兵に便宜を供与し,その入京を容易にし,以後の長州勢の活動を有利に導いた。明治になって,藩の大参事に任ぜられ,藩政の枢機に参与した。大洲地方における一世の傑物と称せられる。明治6年6月3日,死去。 62歳。墓所は大洲市西大洲の寿永寺にある。息子は中村真彦で父とともに尊王の志厚く,維新時に大きな功績があった。明治2年8月,29歳で病没。

 中村 真彦 (なかむら まさひこ)
 天保12年~明治2年(1841~1869)大洲藩士。父は大洲藩士中村俊夫で天保12年5月23日,大洲にて生まれる。諱は尚履,真彦,担蔵と称す。幼少のころから大洲藩校明倫堂教授であった父俊夫の感化をうけ,尊王の志が深かった。慶応2年父俊夫と共に摂津西宮陣営の警固にあたり,大洲藩兵の総督となった父を補佐して列藩との外交折衝に奔走した。同3年11月長州藩兵が西宮に上陸,上京するにあたって父と共に斡旋するところが多大であった。爾後大洲藩務に参与して功績をあげたが,明治2年8月1日病没する。年29歳。法名は天寿院礼誉義俊居士,墓は,大洲市の西大洲寿永寺にある。

 中矢 如意坊 (なかや にょいぼう)
 明治12年~明治36年(1879~1903)新聞記者。伊予郡西垣生村(現松山市)に生まれる。伊予日日新聞の記者で俳人でもある。名は役次郎。松山中学校から海軍機関学校に入学したが病気で中退する。新派の俳人として将来を注目されていたが,明治36年12月8日死去,24歳。

 中山 琴主 (なかやま ことぬし)
 享和3年~明治13年(1803~1880)筝曲家。享和3年5月15日宇摩郡天満村(現土居町)の岸正昌の長男として生まれる。本名は元徳,号は寿永という。幼時に眼を患う。 14歳で京都に出て菊岡検校に師事し音曲の免許を得る。更に紀州では関口流の剣を学び,印可を受ける。文政3年修業の旅先で出雲大社に参籠し霊夢によって八雲琴を創作する。琴生18歳のときである。その後。神意をもととしてひたすら琴の改良と作曲作詞に努め,諸国を行脚して八雲琴の流布に生涯を捧げる。 42歳で京都に落着き,多くの門人を育てる。門人には大納言中山忠能の女中山慶子(明治天皇の御生母)や仁孝天皇の皇女淑女内親王がいて,門弟は数千にも及んだという。大納言中山卿の知遇により中山姓を許される。明治11年郷里へ帰り,八雲琴譜の著述に専念する。琴主の曲は高尚で一般向きがしない優雅なもので,後継者が育ちにくかった。現在も京都の綾部,大和の飛鳥,名古屋に八雲琴がさかんである。大本教では祭典に八雲琴を演奏している。本県では,晩年琴主か住んだ天満の八雲神社の近藤和枝が後を継いでいる。著書には『八雲琴譜』がある。明治13年9月18日77歳で死去。墓は土居町天満山にある。毎年4月3日には天満山頂で慰霊祭が行われており,大阪の生国魂神社の境内には門人が建てた八雲琴と琴歌が刻まれた記念碑がある。

 半井 梧菴 (なからい ごあん)
 文化10年~明治22年(1813~1889)『愛媛面影』の著者として有名。国学者・歌人・神宮・医者・県の役人で,しかも歴史地理に造詣が深い人物。半井梧菴は本姓は和気で,和気清麿の子孫である。氏は半井,諱は元美,52歳のとき忠見と改めた。梧菴は文化10年6月23日に,今治藩医で百石取りの半井安立和気元誠の次男に生まれた。文政8年13歳の時,父元誠を失った。兄の天章は多病で文久3年23歳で病死した。それで梧菴は母を奉じて京都に移り,荻野徳興の門に入って医術を修業した。余力をもって国学にも没頭した。
 梧菴が晩年国学者として,また歌人として名をなしたもとは,京都で医学の余暇に国学文学を研修していたからである。彼は天保10年に今治に帰り,今治藩学克明館の助教となったのが27歳である。克明館で『古語拾遺』・『令義解』を講義したのは明治元年ころまでである。この今治在住30年間に彼は『古事記伝略神代部』全四巻・『玉鉾百首解演義』全五巻・『歌格類選』全二巻・『同統篇』全二巻・『鄙のてふり』全二巻・『同後篇』全二巻などの著書を出している。『愛媛面影』5巻の執筆も今治時代で,自序は慶応2年7月5日に書いている。梧菴は県庁の記録に明治5年8月17日付で「石鉄県地理掛」に就任している。明治7年には石鎚神社第三代の祠官になり同14年辞している。彼は進歩的医師で種痘を文久元年に実施し,文久2年50歳にして石鎚に登山している。明治11年には『花の家苞』を刊行し,同12年には『愛媛県略史』を出している。
 明治15年京都に移り,同22年正月2日没。 75歳。墓は神楽岡にあり,歯髪塚が今治の海禅寺にある。秋山英一著『半井梧菴伝』に詳しい。

 半井 吹城 (なからい すいじょう)
 嘉永3年~大正14年(1850~1925)新聞記者。嘉永3年1月半井梧菴の第3子に生まれる。名は栄,漸入とも号した。幼時より学を好み,文才にだけ,年少にして父梧菴の名著『愛媛面影』の序文を書いたほどである。明治初年東京かながき新聞の記者となり,のも農商務省に奉職し,さらに石川県の珠洲郡長に就任する。同25~26年ごろ官界を去り,同34年ごろ鹿児島実業新聞創刊に招かねて主筆となり,のち没年まで雑誌蚕業新報の執筆を続けた。永年の功労により藍綬褒章をもらう。著書に『鳥山先生伝』『大和錦』などがある。大正14年1月東京で死去,75歳。

 仲田 包寛 (なかた かねひろ)
 明治37年~昭和38年(1904~1963)実業家。明治37年3月1日松山の素封家仲田伝之じょう包利の嗣子として府中町(現木屋町)に生まれる。松山中学,松山高等学校を経て東京帝国大学卒業,日本勧業銀行入行,昭和12年父伝之じょうが創設した仲田銀行と五十二銀行が合併して松山五十二銀行創立に際し帰松して同行の代表常務に就任。昭和16年伊豫合同銀行創立に際して37歳で常務取締役,23年副頭取となり,内規改正審議会・本部機構改革審議会会長,経営合理化委員長となり銀行の経営合理化を推進した。 35年には2か月余にわたって外遊し,欧米諸国の金融・経済事情を視察し,帰国後はそれをもとに書物を出版した。また銀行業務の傍ら愛媛慈恵会理事長,松山市福祉協議会会長などを務めた。茶道に造詣深く囲碁を愛した。昭和38年6月9日病のため59歳で没した。

 仲田 伝之じょう(包利) (なかた でんのじょう{かねとし})
 明治4年~昭和16年(1871~1941)松山興産銀行(仲田銀行),愛媛県農工銀行頭取で地方財界の重鎮,貴族院多額納税者議員。明治4年1月30日,松山市府中町(現木屋町)で旧藩時代以来大年寄を勤めた素封家仲田伝之じょう包直の子に生まれた。慶応義塾卒業後,父の創立した興産会社を手伝い,これが発展した松山興産銀行及び松山貯蓄銀行の役員になり,42年父の死に伴い仲田銀行(前身は松山興産銀行)の頭取に就任した。大正5年には愛媛県農工銀行頭取を兼ね,12年松山商業会議所会頭に推されて地方財界の重鎮となった。かたわら松山慈恵会理事長として孤児救済など社会事業にも尽くした。大正15年9月の貴族院議員多額納税者議員選挙で政財界から推されたが国政を論議する柄や器でないと固辞した。次の昭和7年9月の選挙でも再度推されて対抗馬なしの無投票当選した。温良恭謙で長者の風格を備え,信望があった。昭和16年4月20日,70歳で没した。

 仲田 伝之じょう(包直) (なかた でんのじょう{かねなお})
 嘉永2年~明治42年(1849~1909)実業家。明治維新から明治期にかけて松山地方の産業振興を指導し,身をもって実践した先覚者。嘉永2年10月5日松山府中町(現松山市木屋町)に生まれる。明治5年(1872),栗田与三とともに興産会社を設立,伊予絣問屋への資金貸付を行なった。これは,後に興産銀行,仲田銀行となり,その初代頭取を務めた。明治25年,松山紡績(現倉敷紡績)を設立して初代社長,明治34年,伊予水力電気会社(現伊予鉄道)を設立して初代社長になるなど,愛媛の産業発展に残した足跡は大きい。松山商業会議所の初代会頭でもある。また,松山貯蓄銀行,愛媛県農工銀行の創立にも参画した。北予中学(現松山北高校)の創立にも尽力した。伊程合同銀行(現伊豫銀行)の創立者の一人仲田包寛は孫にあたる。明治42年10月24日,60歳で没す。

 仲田 蓼村 (なかた りょうそん)
 寛政6年~文久3年(1794~1863)俳諧宗匠。通称和助。一炉庵とも号す。寛政6年4月27日生まれ。郡中(伊予市)で種油鬢付造業辻屋を営み,天保5年隠居して俳諧に親しむ。翌年8月田川鳳朗が来杖し,指導を受け,また桜井梅室,花守岱年に師事した。地元の奥平鶯居や大原其戎とも親交があった。『知名美久佐』『黙々集』等の俳諧集に入集しているほか『雪のあけぼの』は蓼村が実質上の撰者といわれている。宗匠としての足跡は郡中にとどまらず内子,卯之町にまで及んでいる。安政6年には上京して岱年を訪ね,奈良・大阪を廻った。その紀行文が『漂泊記』である。文久3年6月22日69歳で没し,栄養寺に葬られた。

 永井 権中 (ながい ごんちゅう)
 生年不詳~宝暦12年(~1762)三津浜の医師,出身については明確ではないが,墓碑が松山市梅津寺に残されている。卓越した診察で有名であった。診断と治療に関して『松山叢談』に「口碑」として興味ある説話を収録している。百姓が田の草取り中,突然腹痛を起こしたのを,水と一緒に飲み込んだ蛭のせいだとして塩水を飲ませて治した話。ある夏の夜,権中の門前を謡をうたいながら通った人の行き帰りの語音の変化から,蓼汁の効用を発見した話。小児を応診しての帰り,再び危篤状態になったのですぐ引き返せとの注進に,自分の脈をみて「乱れがないから決して誤診ではない」と言い渡した。その予告通り全快した話。少年の盗癖をなおすように頼まれ,これに3年間毎朝薬をのむよう指示した。これは咳の出る薬で,忍んで盗に入ることもできず,ついに盗心を忘れさせた話,これら機智・頓才に富んだ話は彼の人柄を伝えるものである。路傍で病んだ乞食には薬を与え,貧しい者からは報酬を受け取らなかった。したがって常に貧乏暮らしで,宝暦12年12月26日,不遇のうちに没した。

 永井  叔 (ながい よし)
 明治29年~昭和51年(1896~1976)詩人。明治29年1月9日,松山市唐人町3丁目(現松山市三番町)で医師永井甃一の三男として生まれる。大正4年松山中学を卒業し,関西学院,青山学院,同志社の各大学神学部を転々とする。初め牧師を志すが満足できず,仏教の道に入ったが,これまた意に満たず,彼自身の独特の自然観・宇宙観を持つようになった。時には反軍思想の持ち主として,2年間衛戌監獄に収容せられたりもした。在獄中に『緑光土』を執筆し平和を訴えたり,マンドリン片手に,自作の歌を弾き歌って街頭に立って,大空詩人〟と親しまれた。同窓の桜井忠温や伊丹万作などとも交友を深め,全くの自由人としてふるまった。著書には『青空は限りなく』『大空詩人』などがある。昭和51年11月30日,80歳で死去。

 永井 立教 (ながい りっきょう)
 明治39年~昭和39年(1906~1964)僧侶,社会福祉家。明治39年2月12日温泉郡北条町(北条市)に生まれる。幼児期に松山市の寺で僧籍に入り,昭和5年仏教専門学校(仏教大学)卒業後,浄土宗樺太開教使となり布教活動を行う傍ら小学校を設立して校長となる。昭和10年に帰県,松山市の正安寺住職となり,同15年からは松山市社会課職員として社会事業行政にも携わった。昭和20年12月,松山市戦災者同盟会を組織,会長として藪安吉・勝田信正らと罹災者や引揚者のための住宅建設運動を進めた。同21年から34年にかけて,県民生委員・児童委員・同胞援護会県支部設立準備委員・松山市母子寮長などを務め,戦後の混乱期にあって本県の社会福祉活動進展に貢献した。特に昭和26年愛媛県社会福祉協議会民生委員部会長,同27年~34年までは愛媛県民生児童委員協議会長の要職を務めた。永井が社会福祉に専念した間,本業の寺務が停滞,昭和34年以降は福祉関係の役職を辞し,寺の復興に努めた。昭和39年2月12日58歳で死去。なお,本県の民生児童委員協議会の会長は水沼寿丸・三好章・安岡喜久一・池永継信・尾崎賢一・流水龍彦・山中隆・津村泰心らと受け継かれ,県下2,776名(昭和61年度)の委員の総力を結集し,人間愛の精神に基づく社会福祉活動を推進した。

 永江 為政 (ながえ ためまさ)
 文久2年~没年不詳(1862~)言論人。文久2年1月松山下級藩士の子に生まれた。県庁の給仕を勤めながら苦学して愛媛県英学所に入り,校長草間時福の薫陶を受け,生涯育ての父として敬愛した。 12年任期満了で帰京する草間に連れられて上京し三菱商業学校に入学したが,やがて札幌農学校に移った。友人門田正経と相前後して「大阪毎日新聞」に入り,経済部長・東京支局長を務めた。退職後,香川県の南海日報,山口県の防長新聞にも関係した。乃本希典自刃後その信者となり,大正初年雑誌「乃木宗」を編集した。大正10年6月草間時福に随行して帰省し,門下生の歓迎の様子や草間らの懐古談を記録し,草間が在職した英学所・北予変則中学校の時代を中心とした松山中学校小史を付して,11年12月『四十餘年前の恩師草間時福先生』を編集出版した。

 永田 方正 (ながた ほうせい)
 天保15年~明治44年(1844~1911)教育者。新居郡宇高村(現新居浜市)出身。宇高家の子として天保15年3月1日江戸西条藩邸に生まれ,幼名辰次郎。永田吉平の善子となり,静之助と呼ぶ。昌平黌に学び,文久元年(1861)藩主の侍講,明治4年(1871)西条県権大属となったが廃県。大阪に出て英語を学び,独力で英書を訳し,『博物教授解』『小学人体窮理問答』『開化農商往来』などを出版した。中でも明治6年,旧新約聖書を抄訳し大阪群玉堂より出版した『西洋教草』は,まだ,教科書のなかった小学校の修身教科書として用いられたが,日本人による聖書和訳として最初のものであった。同12年,山梨県令藤村紫朗の勧めに応じ,同県の教育行政に貢畝同13年,開拓期の北海道に飛んで師範学校教諭や学務課吏員として教育にかかわる傍ら,遊楽部に行き,アイヌ教育の振興,アイス語の研究に尽力,『北海道蝦夷語地名解』『ユーカラクル全訳』 『北海道沿革史』を出す。札幌農学校,北鳴学校(現北星学園),遺愛女学校(函館)でも教鞭を取った。同33年,54歳で洗礼を受け,同42年上京。晩年は不遇であったが教育と研究を続けた。昭和44年8月22 日死去。 67歳。

 永津 佐比重 (ながつ さひしげ)
 明治22年~没年不詳(1889~)軍人。明治22年愛知県に生まれる。同44年陸軍士官学校を卒業,歩兵第18連隊付となる。大正9年陸軍大学校を卒業。昭和6年以降,北京駐在武官補佐官・関東軍参謀を歴任し,同9年には欧米に出張する。帰朝後は再び関東軍参謀・関東軍第3課長・参謀本部支那課長を歴任した後,同12年8月に歩兵第22連隊長に着任する。着任後旬日にして第11師団に応急動員が下令され,日中戦争の上海派兵となる。連隊は同月24日,上海付近揚子江南岸に上陸し,羅店鎮・白茆口上陸作戦・常熟・鎮江と勇戦し,12月14日には再び揚子江を渡河して北岸の揚州を占領した。翌13年1月には占領兵団と交替して,南京市内外の警備を担当し,同年3月末,凱旋した。同年7月,中国通の手腕が評価されて華北政権治安部最高顧問の要職についた。同16年3月中将に昇進,4月には第20師団長に,同17年8月には支那派遣軍総参謀副長に,同19年3月には第13軍(上海)司令官に補せられた。昭和20年4月,新設第58軍司令官に補せられ,隷下3個師団と1独立混成旅団を済州島に配備し,同地の防衛を準備中終戦を迎えた。

 永野 良準 (ながの りょうじゅん)
 嘉永5年~明治35年(1852~1902)医師。嘉永5年4月小松藩医の家に生まれた。幼名龍之助,本名通久。慶応元年13歳のとき今治藩医半井梧菴に医術を学び,明治3年12月小松藩の貢進生として東京大学南校に入り,苦学した。7年8月松山公立病院に収養館医学所が設立されると同校に入学,太田雄寧らに従って医学を修得した。8年松山病院収養館に奉職,英学教授手伝を経て薬局掛・看護長,11年直医補助を拝命した。 12年医術開業試験に合格して13年小松に帰り開業した。郷里では,郡医・衛生委員を委嘱されて地域の保険医療活動に従事した。コレラ防疫で活動中感染して,明治35年8月23日, 50歳で没した。

 長井 政光 (ながい まさみつ)
 文久元年~昭和19年(1861~1944)松山市長。文久元年11月19日,松山城下で藩士仙波輝広の長男に生まれ,長井政金の養子になった。明治29年1月市会議員に当選,41年2月松山市長に推挙されて就任,大正11年2月任期満了まで3期連続して在任した。この間,小学校の増設による教育の充実,道路改修,路面電車開通に象徴される交通網の整備,下水道工事,隣接町村の一部を編入しての市域の拡大,松山高等学校の誘致など県郡にふさわしい松山市の発展に尽力した。退職後は悠々自適の生活を送り,昭和19年11月18日,82歳で没した。

 長坂 一雄 (ながさか かずお)
 大正4年~昭和18年(1915~1943)作家。大正4年4月25日,温泉郡浮穴村森松(現松山市)に生まれる。本名は相原重容という。昭和7年松山商業学校(現松山商高)を卒業するが,在学中から小説家を志望し,名本栄一に師事して,染色会社に勤めながら小説に打ち込み,同人雑誌「記録」の同人となって力作を発表する。「水上氏と川成」は高見順に推薦されて,「新公報」に「中館皮革の兄弟」を書くが,発禁となる。のち「四国文学」に転載する。高知県で文学活動をしていた大原富枝を訪ね交流している。昭和18年応召し,中国湖南省(さんずいに劉)陽で戦死する。昭和18年11月10日,28歳。
 あたら英才を惜しまれながら完全燃焼に至らなかったことは惜しまれる。作品には『天才』『風貌』などがある。

 長崎 東海 (ながさき とうかい)
 文久3年~昭和3年(1863~1928)医師。文久3年11月29日高知の高岡郡二井田村(現窪川町)で生まれた。明治35年俵津に開院した東宇和病院に院長として赴任,以来「巧言して患者を迎えず,去る者は追わず,来る者は拒まず,貧病人は銭取らず」を実践,村内はもとより郡内外の人々に慕われた。豪放な性格と相まって外科医術に優れ,北里柴三郎に私事して年に一度は上京研修を怠らなかった。政治を好んで村会・郡会議員になり,馬角斎(画)・東西軒(書)と号して洒脱な書画を描いた。生涯明浜地域の医療に尽くし,昭和3年2月25日,64歳で没した。

 長門屋 市左衛門 (ながとや いちざえもん)
 生年不詳~宝暦6年(~1756)五色素麺の創始者。初代市兵衛は寛永12年藩主松平定行に従い松山に移る。市左衛門は長門屋の八代目,代々製麺業を営む。父は吉右衛門(享保10年3月8日没)。長門屋の口伝によると,娘が「椿さん」に参拝した際,下駄に五色の糸がひっかかった,まさに神のお告げである。これがヒントになって,緑・紺(後年には茶)・黄・赤・白の五色素麺が製造されるようになった。緑はヨモギの汁とクチナシ,紺はタカナの汁,黄はクチナシ,赤はクレナイの花(ベニバナ)を練り込んだ。五色に移行した年代は明確ではない。享保7年幕府は参勤の際,献上物の減少を申し渡した(本藩譜)。ただし素麺だけは今までの通りであると指示した。『松山叢談』にこれを補足して「口碑に云う,此時ならんか,松山素麺は格別の上品にて上様召し上がられ,これ迄の通り献上するよう内意ありとぞ,献上の素麺は従来長門屋市左衛門一族三家にて製す」格別の上品とあるのは五色に改良されたものであろう。したがって享保7年以前から幕府に献上されていたことになる。近松門左衛門(1653~1724)が松山の豪商後藤小左衛門にあてだ礼状にも五色素麺をたたえた文章が残され,伊予節にも謡い込まれている。市左衛門は宝暦6年3月12日没し,松山城下唐人町観音寺に葬られた。

 長野 彬々 (ながの さいさい)
 生年不詳~明和4年(~1767)松山藩の儒者。名は篤興,通称は喜三。幼ない折から学問を好み,成人して伊藤仁斉の人となりを慕い,古学を修めた。人格者としあがめられ,君子の如き性格であったといわれる。彬々が橋を通行する折には,必ず左側を通り,右側を踏むことはなかったといわれる。ある人,その理由を聞くと,橋という字の右側は喬であり,喬は主君(松平定喬)の名である。これを踏むことは私にはできない。と答えたという。このようにほんの些細な事でもゆるがせにしない,篤実謹厚の人であったという。明和4年1月死去。松山市山越の竜穏寺に墓がある。

 長野 豊山 (ながの ほうざん)
 天明3年~天保8年(1783~1837)川之江出身の儒者。本名は確。字は孟確。通称は友太郎。豊山は号である。天明3年7月28日生まれ,幼時父芳積に学び,ついで川之江の儒医宇田川楊軒に師事した。 19歳の時大阪に出て中井竹山,さらに京都の岡本遜斎に学んだが,江戸の昌平黌に入って古賀精里,尾藤二洲らの教えを受けた。文化10年神戸の本多侯に聘せられ儒学掌教を7年つとめ,前橋藩松平侯に聘せられて藩黌博喩堂教授となる。やがて野に下り,天保8年8月22日志を得ずして江戸で病没した。 54歳。その性狷介で妥協をしないと言われたが,自己の確立,個性の尊重こそが学問の目的であると説いた。『松陰快談』『嘉声軒詩約』『嘉声軒文約』『豊山先生文集』『豊山先生遺稿』等の著があり,文名大いにあがり,二洲門の逸材といわれた。長野祐憲はその弟である。

 長野 孫兵衛 (ながの まごべえ)
 生年不詳~承応3年(~1654)庄屋。父通秀は越智郡葛谷村(現吉海町)瀬尾山城主であったが,天正13年に落城し,孫兵衛ら3子を連れて同郡別名村に土着した。孫兵衛作村を開拓し庄屋となった。諱は通永。桑村郡黒谷村の長井甚之丞と桜井郷医王山々麓の開拓を計画し,仲間を集めて寛永15年春から着手,慶安元年村高は61石余となった。開拓は孫兵衛没後も続けられ,当初甚之丞の次男又四郎を孫兵衛の養子としていたが,開拓ほぼ完了の寛文2年,又四郎は長井家に復し,長男与右衛門に長野家を継がせ,代々孫兵衛を襲名し庄屋役を勤めた。同年9月,村人は向山々頂に孫兵衛を産土権現宮として祀り,安政元年細埜神社と改号した。承応3年9月27日病没,年齢不祥,法名鐡涯宗石居士。

 長野 恭度 (ながの やすと)
 寛延2年~文政7年(1749~1824)寛延2年2月28日大坂の蔵屋敷で生まれる。今治藩々士,儒官。幼名文次郎,後に景次郎,字景浦,号囂斎。その祖は蒲生忠知の臣であったが同家断絶後浪人となり,久右衛門の代に今治藩に仕えた。恭度は久右衛門より4代,もと長谷部氏であったが父文蔵の時長野と改姓した。年少の時に父が没したため,一家あげて京都に移り,山田精斎の門に学ぶ。崎門学派に属し経学に秀れた。宝暦9年御次小姓とし27石余を与えられ,家の再興を許されていたが,文化2年2月,藩学創設の際に抜擢されて教授となり,没年まで13石を給されてその任にあった。毎月3,8日の講書日には藩主も出席したので藩士の間にも好学の機運が高まった。文化14年の藩学拡張移転後の「大学序文」の記念講義には,藩主定剛以下藩±267名が出席した。性質は温厚で喜怒を顔に示さず,万巻の書を読んでも忠孝五倫の道を行わなければ,何の役にも立だない,ということを学訓,人生訓としていた。小松藩の儒官近藤篤山は,常に門生に「余の知らざる所は囂斎に問丸」と言ったという。長子友賢,次子孝(なべぶたにのごめへん分大)共に藩学教授を務めた。文政7年5月29日,75歳で病没,墓所は今治市日吉海禅寺にあり法号孝堂義忠居士。

 長屋 忠明 (ながや ただあき)
 天保14年~大正9年(1843~1920)民権結社公共社を組織,のち衆議院議員。天保14年9月27日,松山藩士高木四郎右衛門の次男に生まれ,長屋忠賢の善子になった。維新期,松山藩少参事・松山県吏員を勤めたが,まもなく官を辞して愛国公党に参加。明治10年高知に赴いて板垣退助・林有造らに会い,立志社の組織と運動に感動して帰省,7月井手正光らと公礼社を組織した。11年12月県令岩村高俊に要請されて風早・野間郡長になり,「吾人同志が所信の主義を直接施政の上に実行すべき好機会」と井手・中島勝載らと郡治を担当,戸長会議の召集や郡内独自の小学校規則を制定するなど実績をあげたが,岩村の後任関新平と意見が合わず13年8月郡長を辞した。その後,公共社と同社を母体とした松山自由党一海南協同会で藤野政高らと関県政の干渉に抗し全国的に高揚した民権運動に呼応して県内各地や四国各県の活動家との交流を深めたが,病気のため活動意のごとくならず一時政治運動から退いた。 21年3月県会議員に当選して政界に復帰した。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に愛国公党から推されて立ち,一度は落選したが,当選者の鈴木重遠が第4区でも当選して第1区を辞退したので,小林信近と再選挙を争い当選して代議士になった。 25年2月の第2回衆議院議員選挙では落選,このごろから病気再発,政界の第一線を退かねばならなかった。これを機にキリスト教に入信し,松山教会の経営になる私立松山女学校(現東雲学園)の評議員として同校の発展に尽力した。大正9年1月2日,76歳で没した。

 長山 源雄 (ながやま もとお)
 明治19年~昭和26年(1886~1951)郷土史研究家。明治19年1月16日北宇和郡吉田町本町和泉屋こと長山松太郎の長男として生まれる。町の西北山丘にあった犬尾(または犬日)城に因み,乾城と号す。東京錦城中学校を卒業し,松山第22連隊で軍曹に進む。のちまず自らの出身地域南予の古代史に関心を示し,ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ,弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟,大正4年30歳未満で「宇和津彦」について「伊豫史談」に,翌年「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿,その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ,「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した。さらに文献学的にも深く研究し,橘氏・日振島・宇和郡棟札などから,歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及び,古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他60余篇を発表している。またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が県図書館にあったが,逸失して見られず,僅かに部分的な『伊予古代文化』,吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本にその片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる。晩年は大分県に入植。直入郡柏原村寓居で同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿。昭和26年11月6日没,65歳。

 長山 芳介 (ながやま よしすけ)
 明治29年~昭和53年(1896~1978)実業家。明治29年6月2日,宇和島運輸の創立者の一人で明治から昭和初年にかけて長く社長を務めた堀部彦次郎の三男として,北宇和郡宇和島町(現宇和島市宮下)で生まれる。宇和島運輸社長(昭和36年~47年)。大正13年慶応義塾大学経済学部を卒業,山下鉱業に入ったが昭和3年帰郷,長山家の嗣子となった。貸家王といわれた養父の死に伴い,宇和島銀行など三つの銀行の役員に就任したほか昭和11年から宇和島自動車常務(のも社長)など多数の会社の経営に参画。宇和島運輸では昭和7年商議員に就任したのを皮切りに同13年取締役,14年常務,22年常務を辞任し取締役になった後,36年9月から47年12月までの11年間余社長の職に在った。長山の社長在任の期間は宇和島運輸百余年の歴史の中で最も苦難に満ちた時期であった。フェリー化の波に乗り遅れ収益力が落ちていたところへ無理な資金調達で建造したフェリーが座礁沈没するなど(昭和43年おれんじ号事故)不運が相次ぎ,47年長山以下経営陣は責任をとって総退陣,県下随一の伝統を誇る名門企業は再建を赤の他人の手にゆだねなければならなくなったのである。もちろん,ひとり長山の責任ではないが長山の責任のとり方は潔かった。しかるべき人に後事を託し,経営責任を負って他の役員とともに債務の一部を個人負担したのである。長山は,昭和21年3月~40年3月まで宇和島商工会議所会頭に連続8回選ばれるなど宇和島市を代表する顔であった。その間県商工会議所連合会会頭を3年間務めた。また伊豫銀行取締役を昭和32年から同行が社外重役制を廃止する44年まで務めるなど,南予経済界の代表であった。謡曲,清元,端唄をよくする粋人で,閑子と号して俳句をよみ,堀部公園には「まいまいの舞いつかれては草による」の句碑がある。昭和53年6月7日,82歳で病没。墓は大紹寺にある。

 長尾 信敬 (ながお のぶたか)
 天保9年~明治23年(1838~1890)宇和島藩の藩士,字は子篤,通称は忠蔵,号は立堂とよぶ。幼時より学問を好み,19歳のとき江戸に上り,塩谷宕陰に師事し,宕陰が昌平黌の教授になるや,門下の俊才,高杉晋作,佐野竹之助らとともに選ばれて昌平黌に移り,3年有余在学する。帰藩して家職をつぎ,左氏珠山,西河梅庵,加藤自慊,金子魚州らとともに明倫館の教授となり,文教,育英に尽力する。維新後は西宇和郡長,東宇和郡長などを歴任し地方行政にも貢献する。明治23年8月24日,52歳で没した。

 夏井 保四郎 (なつい やすしろう)
 元治元年~昭和8年(1864~1933)弁護士,県会議員・議長,衆議院議員,海南新聞社社長。元治元年9月19日,浮穴郡久谷村(現松山市)で正岡家に生まれたが,明治10年和気郡三津浜町(現松山市)の母の実家夏井家を継いだ。 17年愛媛県師範学校を卒業,小学校訓導・校長になった。 22年東京和仏法律学校(現法政大学)を卒業,26年弁護士になり,東京・大阪・長崎を経て29年松山市二番町で開業した。 36年3月県会議員補欠選挙に当選して41年9月まで在職,36年10月から4年間議長職にあった。政友会に属しその幹部として岩崎一高と共に,支部長藤野政高を助けた。明治41年5月第10回衆議院議員選挙に立候補して当選,45年任期満了して次の選挙には出馬しなかった。大正3年から松山市会議員を一期勤め,7年秋の愛媛県普通選挙期成同盟会の発起人にもなったが政友会の圧力で普選運動から退いた。7年海南新聞社(現愛媛新聞社)社長となり,松山弁護土会会長にも推された。のち東京に移り,昭和8年5月4日,68歳で没した。

 夏目 漱石 (なつめ そうせき)
 慶応3年~大正5年(1867~1916)小説家。慶応3年1月5日,東京の新宿牛込に生まれる。本名は金之助。明治17年,東京大学予備門に入学し,同級の正岡子規と親しくなる。同26年東京帝国大学文科大学英文科を卒業し,同28年,愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)の英語教師として松山に来る。子規と下宿の愚陀佛庵に暮し,松風会員と俳句に熱中,俳人として創作への道を開く。翌年,虚子とともに霽月邸を訪れ,神仙体俳句を発表。熊本第五高等学校に転任し,同33年にはロンドンに留学する。同36年に帰国し,第一高等学校と東京帝国大学文科大学講師となる。同38年,高浜虚子のすすめで「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を連載一躍文名を挙げる。これを機会に文学生活に入り,離松10年後に『坊っちゃん』ついで,『草枕』などを発表する。同40年には朝日新聞社に入社し,『虞美人草』などを同紙に発表。文壇のゆるぎない地歩を固めていった。青春の三部作『三四郎』『それから』『門』など,作品は多い。自伝小説『道草』に続いて,長編『明暗』を連載中未完のままで大正5年12月9日,49歳で没する。『漱石全集』17巻別1巻がある。

 成田 栄信 (なりた しげのぶ)
 明治2年~昭和21年(1869~1946)言論人,衆議院議員。明治2年11月14日,宇和郡下灘村(現北宇和郡津島町)に生まれた。代議士などの書生をしながら苦学して関西法律学校(現関西大学),英吉利法律学校(現中央大学)に学んだ。明治27年の第3回衆議院議員選挙では第5区で出馬した清水隆徳の運動員となり,東宇和郡伊延山に大砲を引き上げ実弾を発射,小銃を放って運動妨害を図る古谷周道派の自由党壮士の度胆を抜いて話題となった。生命保険事業に従事した後,文筆活動を始め,東京社を創立して雑誌「東京」を発行,40年には東洋通信社を創立した。かねて機会をねらっていた代議士になるべく,明治45年5月の第11回衆議院議員選挙に政友会から出馬当選した。大正4年3月の選挙で次点に甘んじたが,古谷久綱の死去で繰り上げ当選,以後13年の第15回衆議院議員選挙まで連続して当選した。大正12年海南新聞社の経営を引き受けて社長になったが,成田の独走を不満とする岩崎一高ら政友会県支部幹部との軋轢が強まり,政友会が経済援助を断ったので経営危機に陥った。そのうえ,成田が大正13年の政友会分裂で政友本党に走り,政友会県支部は別に機関紙「伊豫新報」を発行したので海南新聞は神戸新聞に経営を委ねるなど窮地に立った。成田は政友本党からも除名されて,昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙には無所属中立で立候補したが落選した。以後,満州に渡って日満新興公司を設立したりした。昭和21年1月1日,76歳で没した。

 成松 忠慶 (なりまつ ただよし)
 明治21年~昭和56年(1888~1981)獣医師。成松家の先祖は往昔伊予の国主河野家の家臣にして知行500石の代々奥家老職並びに馬医を勤めた名跡で,先祖には慶長年間主城落滅の節に名誉の討死により,現在の松山市福角の中筋に成松大明神として小社に祀られている者もいる。氏はその末裔で多くの馬医,獣医を輩出している。父時慶(獣医師)の長男として明治21年1月24日松山市清水町に生まれ,獣医師を継ぐべく大正2年3月29日,日本獣医学校を卒業し家業の成松牧場(専業搾乳)を経営すると共に獣医業に就業。当時は第一次世界大戦後の経済不況に加えて農村における酪農が未だ定着していないため牛乳,乳製品の生産供給のほとんどが搾乳専業形態によって独占化されていた時代であったので,市民の健康増進に果たす役割は極めて重大であった。特に牧場経営においては,牛乳衛生の改善向上並びに乳質改善について,率先提唱して,業界を指導し大きな成果を得たので,昭和28年11月7日厚生大臣表彰を受けた。昭和32年には乳質改善共励事業への寄与により,県知事表彰を受けた。一方獣医事については,実役52年の長期にわたり常に県内獣医師の指導的役割に在って,獣医学術の普及向上と獣医事の進歩発展に努力されたので,大正15年県畜連会長表彰を皮切りに,昭和23年,同26年,同35年3回の日本獣医師会長表彰,同35年四国地区連合獣医師会長表彰,同43年には多年の畜産振興に寄与するところにより畜産局長より感謝状を受けた。また農林省獣医師免許審議会委員をも務めた。なお日本赤十字社愛媛県支部松山市委員,明倫会愛媛支部幹事,帝国水難救済会役員,立憲民政党松山支部常任幹事,大政翼賛会世話役など地域の厚い信望を担い活躍した功績は多大なものがあり,昭和45年11月3日内閣総理大臣より勲五等双光旭日章の叙勲に輝いて昭和56年9月10日,93年余の生涯を閉じた。その遺体は愛媛大学医学部へ献体し医学の発展を願った。

 成川 房幸 (なるかわ ふさゆき)
 明治元年~昭和24年(1868~1949)道後湯之町町長。明治元年12月11日松山新玉町で生まれた。松山中学校を経て明治27年東京帝国大学農科大学林学科を卒業,林野整備局監督官・学校技師・林務官・農商務技師などを歴任し,昇進して高知大林区署長になった。大正12年退官,のち道後湯之町町長になり,町発展のため尽力した。伊豫史談会会長・温泉郡青年団長などにも推された。昭和24年4月5日,80歳で没した。

 成瀬 維佐 (なるせ いさ)
 万治3年~元禄12年(1660~1699)万治3年11月17日生まれ,大高坂芝山の妻。阿波の成瀬忠重の女。貞享2年夫とともに松山に来り,藩主定直夫人に侍講として勤めた。元禄7年和文の教訓書『唐錦』13巻を著して名声をとった(出版は遅れて寛政12年)。和漢の故事や和歌を引き,女則から束装にいたる女のあり方を総合的に説いたものである。他に『続女則』10巻がある。才学,文筆にすぐれたが,元禄12年9月17日,38歳で没した。

 成瀬 正観 (なるせ まさみ)
 天保9年~明治33年(1838~1900)今治藩権大参事。今治藩士成瀬正義の次男に生まれた。通称力。安政3年江戸に出て幕府の儒官林昇に学び,帰国して藩に任え,文久元年京都に派遣されて天下の形勢を視察した。のも帰って城所一夢斎の養子になって城所主税と改めた。藩学克明館の教授を兼ねて藩政に参与した。明治2年12月今治藩権大参事になり,のち陸軍御用係・軍律取調掛などを歴任した。明治33年2月62歳で没した。

 南   源 (なんげん)
 永禄8年~元和8年(1565~1622)松山天徳寺(臨済宗)再興開山。諱は恭薫,雪軒と号する。甲斐国の人,氏姓など不詳。南化に学び,湖南から印可を受けた。慶長8年,松山城主加藤嘉明が道後祝谷から天徳寺を現地(現松山市御幸1丁目)に移して再興する際,招かれて開山になった。元和7年,勅により本山妙心寺に出世,翌8年見麻軒で没した。天徳寺在住19か年,この間,中予地域における妙心寺派布教の中心となり,南源を開山または中興開山とする寺は7か寺に及ぶ。遺作に『南源和尚語録』・『南山霞紗』,伝記に『南源和尚年譜』(宗勣編)がある。

 南   明 (なんめい)
 元和2年~貞享元年(1616~1684)現東予市長福寺(臨済宗妙心寺派)中興開山,小松町仏心寺(同)山。幼名若松丸,諱東湖,無所住軒・如々軒・淡空斎などと号する。俗姓正岡氏(河野氏傍系),父は龍岡(現玉川町)幸門城主正岡太郎左衛門尉盛元(常元)。幸門城落成後,9歳,長福寺沢甫正堂に学び,14歳剃髪。 17歳,師事する雲居禅師に従って松島瑞巌寺に入り,5年後の22歳,帰郷して長福寺に嗣席した。同年父の死にあい,のちその地に近く正岡山寒松寺(現大阪市旭区中宮町)を建立して菩提を弔った。その後,妙心寺・瑞巌寺を経て,35歳,小松藩主一柳直治に招かれ,その菩提寺仏心寺の開山となる。そのほか,東・中予地方を中心に,安国寺(川内)・浄寂寺(今治)・宗昌寺(北条)など20か寺を開創また再興した。やがて54歳,妙心寺住持職に補せられ,4年後に入寺,紫衣を賜わった。 60歳,長福寺に帰山したが,55歳のとき隠栖の場所として建てていた嘯月院(現今治市別名)に住むことが多く,また,なお諸所に巡錫してここにも落付くことなく,69歳,東上中京都で没した。遺作に『碧巌集枯弄下語代別』・『三島紀行』がある。