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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 戸田一心斎 (とだ いっしんさい)
 文化7年~明治4年(1810~1871)剣術直心影流の達人。文化7年3月19日,江戸藩邸で大洲藩士戸田勘助の子に生まれた。実兄良茂,通称栄之助。赤石孚祐につき剣術を習って奥義を極め,京都で道場を開いて門弟数千人を教えたという。明治4年11月6日,61歳で没した。

 戸田 勝隆 (とだ かつたか)
 生年不詳~文禄3年(~1594)秀吉時代の伊予国の大名。初め信長に仕え,のも秀吉に仕える。彼の出身地は異説多く,美濃,尾張などの諸説がある。伊予板島の領主,家紋七曜蛇の目。宇和・喜多2郡領主となった戸田勝隆は,天正15年7月14日宇和・喜多2郡の領民及び代官地の領民に対し,秀吉の天正検地に当たり,村人の守るべき条々を定め,これを触書として通達した。また宇和郡下の国侍は前領主の小早川時代には在城を許されていたが,勝隆は旧勢力の一掃を図り,法花津・土居・勧修寺氏らの有力な地下侍などを下城させている。文禄の役にあたり,天正20年3月13日,四国軍の五番隊に編成され軍勢3,900人の派遣を命じられたが,文禄3年朝鮮で狂死したと伝えられる。

 戸田 義直 (とだ よしなお)
 明治25年~没年不詳(1892~)軍人。明治25年奈良県に生まれる。大正4年陸軍士官学校を卒業。
 昭和16年12月,華中において戦闘中の歩兵第234連隊(第40師団隷下)に着任,第2次長沙作戦・浙贛作戦・江北殲滅作戦・江南進攻作戦・常徳作戦・湘桂作戦・南部粤漢打通作戦と,郷土部隊を率いて転戦した。同20年3月,富錦駐屯隊長に転じ,同年7月,関東軍第1幹部候補生教育隊長となり終戦を迎えた。

 戸祭 信固 (とまつり しんご)
 文政4年~明治33年(1821~1900)儒学者。今治藩士で通称は源太郎。幼少のころより学問を好み,18歳のとき江戸に出て昌平黌に学んだ。頼三樹三郎と同窓で親交があった。信固が卒業帰国に当って壮行の詩を送ったほどである。帰藩して目付役となり,藩学克明館の教授をつとめ,更に世子の伝導役ともなった。著書に『征長軍中記』がある。明治33年5月,79歳で没す。

 藤堂 高虎 (とうどう たかとら)
 弘治2年~寛永7年(1556~1630)戦国大名。近江国犬上郡藤堂の国侍源助虎高の次男。弘治2年の生まれ,浅井長政の家臣,姉川の戦で敗れ,秀吉の弟羽柴秀長に逢うまでは転々とした。秀長が大和郡山城主となりその臣として1万石を得たが秀長が死にその子秀保に仕えたが,また主君は死に2人の菩提を弔おうと高野山に登り剃髪した。こうした行為が秀吉の目に留まり伊予宇和島7万石の大名に抜擢された。こうした苦労が次の政権は家康と信じ慶長の役の将兵の退去命令の使者として家康こ指名された。以来高虎は家康の側につくことになりすぐれた築城法(今治城,江戸城,伏見城,大坂城など)や上方の情報収集で家康の信頼をがち得て家康との密議にも加わった。朋輩の中では「風見鶏」といわれながら乱世を生き抜くための知恵者となり伊勢の津城主(32万3干900石)となった。寛永2年侍従に進み少将となり,同7年7月15日没,74歳。

 藤堂 高吉 (とうどう たかよし)
 天正7年~寛文10年(1579~1670)江戸初期の大名。近江国佐和山城に城主丹羽長秀の3男として,天正7年6月1日誕生する。幼名仙丸,官名宮内少輔。3歳の時秀吉の弟羽柴秀長の養子となったが,藤堂高虎の懇望で天正16年その養子となった。文禄・慶長の朝鮮の役には高虎に従って出陣し,先陣として軍功をあげた。慶長5年の関ヶ原の役では家康と共に上杉景勝追討に向い関東から転戦して名をあげた。しかし翌年閏11月,高虎に高次が出生すると高吉は臣下に下り,家老となった。高虎が今治在城中,高吉も領下の塩泉城を預かっていたが,慶長9年,家臣が隣領加藤嘉明の家臣と起した刃傷事件から,宇和郡の野村に2年間蟄居した。慶長13年9月,高虎は伊賀へ転封となったが,高吉は家康の命で今治城に残り,越智郡のうち2万石を領した。大坂冬・夏の陣では今治から出陣して高虎の軍勢に加わり,八尾・道明寺辺で奮戦した。高吉は歴戦の勇将であったが,性格は無欲恬淡,花鳥風月を愛し,実母を今治に迎えて孝養をつくした。また光林寺に参詣,東禅寺に寺地を寄進,父の供養のため大雄寺を開創するなど信仰心も厚かった。寛永12年9月,伊賀国名張へ転封となり,津,藤堂藩の初代となった。寛文10年7月18日,91歳で名張の藩邸で没し,徳蓮院(名張市平尾)に葬られた。徳蓮院殿徳翁寿栄大居士。

 韜   谷 (とうこく)
 文化9年~明治19年(1812~1886)宇和島大隆寺(臨済宗妙心寺派)第十七代住職。讃岐国高松の藩士小西七兵衛の子として,文化9年10月28日に生まれる。幼少にして仏門に入り,武蔵国宝林寺伽陵の下で修行の後,24歳のとき,大隆寺晦巌に師事する。安政2年(1855)師の退隠のあと嗣席,退隠後も国事に奔走する晦巌を助けて自らも国事に尽くした。維新後,「洋教の蔓延」を憂えて同志を糾合,明治元年12月,諸宗の管長らによる「諸宗同徳会盟」を結成,仏法の興隆に立ち上がった。この運動は,単なる護法という保守主義に陥ることなく,「僧弊一洗」を合い言葉に,人材の養成,民衆の教化など,仏教の興隆をめざしたものであったことに積極的な意味がある。著作に『止啼金』のほか「自鏡録」(日記),詩文集がある。明治19年12月27日死去。 74歳。

 遠山 矩道 (とおやま のりみち)
 天保11年~明治21年(1840~1888)蚕糸業功労者。天保11年7月13日吉田藩士の家に生まれ,蚕糸業の振興に働いた先駆者である。明治4年廃藩置県により,旧藩士の授産に努め,明治10年士族家禄奉還金を集めて「楽終会社」という,金融機関を設立した(後の吉田商業銀行)。明治13年「興業社」を設立し,養蚕教師を招いて蚕桑の指導奨励をする。また同14年には製糸工場を建て広島製糸伝習所の工女を迎え,製糸の工女を養成し,南予の産繭を生糸にし,京都その他に販路を広め品質の好評を得た。また,佐賀県から桑苗「九紋竜」,福島県から「赤熟」を導入した。明治16年5月農商務省の蚕糸諮開会に出席し,その見聞事項を印刷し,同業者に配布して斯業の発展に資した。工女を率いて大分県の製糸法を見学させたこともある。明治17年には,「経済維持」と題する冊子を印刷して,栽桑養蚕の普及発展の必要性を力説した。同18年東京上野で開催された五品共進会で繭糸部門の審査会補助員となり,諸先輩の意見を収録し「東京土産」と題して海南新聞等に連載して蚕糸業者の参考に供した。私財を投じて,蚕糸業界発展のため人々の啓蒙に大きな活躍をした。明治21年1月18日,47歳で死去,立間の大乗禅寺に葬られる。なお,明治27年7月,同32年10月県知事から追賞され,同43年6月第9回関西府県連合共進会で農商務大臣から追賞された。町民会館の傍らにある遠山氏の記念碑は,この地方の蚕糸業が最盛期を迎えようとした大正6年,県会議員清家吉次郎の唱道によって,「遠山矩道翁記念碑」が建てられたものである。

 遠山 憲美 (とおやま のりよし)
 嘉永2年~没年不詳(1849~)近代盲唖教育の先駆者。嘉永2年宇和島追手通に宇和島藩士の子として生まれる。明治10年12月,京都府下京区に止宿する。遠山は京都府知事に「盲唖訓黌設立ヲ促ス建議意見書」を提出し,「盲唖其他ノ廃疾ト雖モ元卜天賦ノ才力ハ皆人同シ」と訴えた。翌11年5月,我が国最初の盲唖学校京都盲唖院が設置され,遠山は同院に奉職したが,盲唖院創設上最大の功労者古河太四郎との間で意見の相違が生じ,在職7か月で院を去った。我が国の特殊教育草創期の功労者の一人である。

 常磐井 精戈 (ときわい くわしほこ)
 安政元年~明治26年(1854~1893)神道家。大洲市阿蔵八幡宮祠官常盤井厳戈の長男。通称桂太郎。安政6年から文久3年までは家塾古学堂で普通学を修業したが,同年父の死去に伴い,矢野玄道に呼び寄せられて京都・東京において国学・神道を学ぶ。明治4年修業を終えて帰郷し,共立学舎(旧古学堂)を開き,明治9年5月まで子弟を教導した。また明治6年5月から11年9月まで大洲,東京において玄道の著作の校合の任に当たった。明治12年以後は独り学ぶ日々で,時々生徒に教授したという。神道では神道本局直轄の大八洲教会を設立し「大八洲雑誌」を発行して神道の振興に努めた。また明治3年に日本古来の思想を基にすべきとの「形態意見書」を同志の人々と集議に提出したこともある。情熱の人であったが,志を得なかった人のようである。

 常磐井 厳戈 (ときわい いかしほこ)
 文政2年~文久3年(1819~1863)国学者,大洲阿蔵八幡宮神主。大洲藩士斎藤正直の三男。16歳で八幡宮神主常磐井家の養子となる。幼名は留次郎,若いころ主計助・真言・千矛・守信などと称した。通称は仲衛,厳戈は実名,号は惟神・静窩道人・楓窩道人・青柴垣主人など。彼は常磐井家父祖以来の橘家神道・国学・儒学を継承・発展させた。天保10年(1839),4歳年少の矢野玄道と義兄弟の約を交わし,ともに皇典の学において相啓発した。玄道の父道正が平田篤胤門人であったことから,その紹介で嘉永5年33歳で門人となり,平田学に深く傾倒した。彼は学室を「古学堂」と名付け,惟神の大道に随って,神皇唯一の大義を講習することを基本とし,幕末維新に活躍した有為の大洲の人材中村俊治・山本尚徳・武田敬孝・同成章・三瀬諸渕などを育成した。彼は強烈な神国論者であり,尊王愛国論者であったが,決して攘夷論者などではなく,むしろ新しい時代に即応する自由な学問的立場をとっていた。とくに蘭学にも強い関心をよせ研究を進めていた。著書に『八幡宮由来記』 『相林零葉』のほか『歌集』などがある。墓は八幡神社後方の八幡城跡にある。

 得居 通幸 (とくい みちゆき)
 永禄元年~文禄2年(1558~1593)在地領主。来島城主村上通康の嫡男として生まれたが,一門の得居氏を継ぎ,半右衛門通之と通称した。「予陽河野家譜」には半右衛門尉通久と記されている。得居家は室町時代には野間郡上賀茂社領菊万荘の在地領主として130町歩より30貫文の請負をしており,得居宮内大輔やその子孫に得居通栄がいる。戦国時代末期に登場した得居通幸の拠点は,風早郡恵良山城かもしくは同郡鹿島城であったといわれている。その弟で来島家の家督を継いだ通総は河野水軍の重要部分を担っており,長く上賀茂社領であった野開郡佐方保の在地領主であった。天正10年羽柴(豊臣)秀吉と中国毛利氏の間に和睦が成立したとき,それまで毛利氏と対立し,秀吉の庇護下に置かねていた来島通総や恵良山城の得居通幸にとって,同13年の四国征伐は勢力拡大の絶好のチャンスであった。四国平定戦以後,小早川隆景が伊予を領有することになったが,通総には1万4,000石,通幸には3,000石が与えられることになった。
 天正14年12月通幸は菊万荘一帯の検地を実施した。この結果それまでの荘園は完全に否定され,得居家の支配が野間郡に及ぶことになった。通幸は文禄2年秀吉の朝鮮出兵に参加して,敵の船を奪おうとして奮戦中に戦死した。得居家は断絶し,わずかに墓地が北条市大通寺にある。

 得能 亜斯登 (とくのう あすと)
 天保8年~明治29年(1837~1896)幕末維新に活躍した宇和島藩士。天保8年林三十郎の長男として生まれる。幼名彦次郎,通称基吉郎のち玖十郎と改める。諱は通顕。明治2年(1869)4月本姓の得能に復し,名を恭之助さらに亜斯登と改めた。安政2年(1855)家督80石を継いだ。若い時は剣術に熱心で2度の他所修業を行っている。万延元年(1860)八代藩主宗城の小姓となり,以後藩政の機密に参画して,薩英戦争,禁門の変,征長の役などに際し宗城の密使を務めている。この間藩内では,学校目付,元締役,京都留守居などを歴任。特に京都留守居では諸藩の志士と接する機会が多かったと思われる。慶応4年(1868)徴士下参与海陸軍務掛に任ぜられる。同年東征軍の編成の時には,有栖川宮大総督のもと参謀に抜擢され,4月江戸城開城の時にはその受取に出向いている。5月甲州が不穏になったため,参謀軍監兼務で甲州に赴いている。翌明治2年一時帰藩後の7月箱館府判事となり,さらに8月官制の改変により北海道開拓権判官に任ぜられる。明治3年12月脚気のため同職を辞任,翌年より療養をかね宇和島に帰った。この間,明治2年には,軍事精勤を賞され金千両を賜っている。明治8年まで療養と称してすべての公職に就かなかったが,明治9年町村会議員となり,以後県会議員となるなど地方政治に貢献している。明治29年10月10日死去,享年59歳。泰平寺(現宇和島市)に葬られる。明治36年従四位を追贈された。

 得能  彰 (とくのう あきら)
 明治25年~昭和50年(1892~1975)宮内村長,県会議員・副議長。明治25年8月18日,西宇和郡宮内村(現保内町)で生まれた。明治42年松山農業学校を卒業,農事試験場研究生を経て清水谷園芸技師,郡農会技手を務めた。大正9年以来宮内村助役になり,昭和4年1月,宮内村長に選任されて21年11月まで村政を担当した。6年9月県会議員になり,21年12月まで3期連続在職,15年12月~17年12月副議長を務めた。昭和50年4月16日,82歳で没した。県官・松山市助役を務めた得能通任は実弟である。

 得能 淡雲 (とくのう たんうん)
 天保6年~文久2年(1835~1862)大洲藩士。人見十郎左衛門の子として生まれ,初めは人見極馬と称す。 16歳で小松の藩儒近藤篤山に師事し,帰藩して藩学明倫堂の助教となる。後,江戸に上った,時まさにペリーの来航で世論騒然の中で,深く時勢を憂い,天下に尊王倒幕を叫び,脱藩して髪を下ろし,高野山に登り,僧となって得能淡雲と改名し諸国を行脚して志士と交わり,勤皇の大義を鼓吹する。江戸に帰って大橋訥庵に師事し,文久2年訥庵と義挙をはかり,輪王寺の宮を奉じて幕府を討たんとしたが,露見して,幕吏に捕えられ文久2年8月7日獄中にて死去,年わずかに27歳。明治になって,正五位を贈られ,靖国神社に合祀される。道後公園に忠魂碑がある。

 得能 久吉 (とくのう ひさきち)
 明治21年~昭和34年(1888~1959)教育者,初代北条市長。明治21年8月16日,風早郡辻村(現北条市)松岡惣次郎の次男に生まれ,43年4月得能藤平の養子に入った。 40年愛媛県師範学校を卒業して,三内・雄郡・浅海・北条の各小学校校長を務めた。校長退職後松山市役所に勤務した。昭和22年4月望まれて北条町長に就任,26年北条町と正岡・難波村の合併,30年には浅海・立岩・河野・粟井村との合併に尽力した。昭和33年市となり,初代北条市長に無投票当選して,北条市発展の基礎を築いた。昭和34年11月4日,71歳で没し,市葬で送られ,名誉市民の称号が贈与された。

 得能 通綱 (とくのう みちつな)
 生年不詳~延元2年(~1337)鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。又太郎。得能氏は河野氏の支族で,河野通信と新居氏の女の間に生まれた通俊が桑村郡得能(現丹原町得能)に居住したのに始まるとされている。
 元弘の乱が起こると,土居通増らとともに反幕府軍として挙兵。元弘3年(1333)3月,通増・祝安親・忽那重清らとともに喜多郡地頭宇都宮貞泰を根来城に攻撃 これを陥れ,続いて来襲してきた長門周防探題北条時直を久米郡星岡(現松山市)に攻めて,これを破る。(星岡合戦)また同年5月,通増・安親らとともに,讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)で幕府軍と戦う。
 建武新政以来,通綱・通増は近畿に留まり,新田義貞の配下に属して活動しており,延元元年(1336)2月,西土入京してきた足利尊氏との摂津国豊島河原の戦いでは,義貞を援けて尊氏軍を撃破した。(太平記)しかし,やがて九州より東上してきた尊氏により宮方はしだいに不利となり,通増は通綱とともに皇太子の恒良および尊良の両親王を奉じて北国に赴く義貞に従った。越前国金ケ崎城(現福井県敦賀市金ヶ崎)において足利高経・高師直らの攻撃を受け,延元2年3月6日戦死した。(太平記)

 徳冨 蘆花 (とくとみ ろか)
 明治元年~昭和2年(1868~1927)小説家。明治元年10月25日,肥後国(現熊本県)芦北軍水俣郷に生まれる。本名健次郎。京都同志社中退。キリスト教の洗礼を受け,伝道に従事。明治22年上京,兄蘇峰の経営する民友社に入り,翻訳,人物史伝・短編小説などを発表。同31年から「国民新聞」に連載した『不如帰』が単行本となるや好評を博し出世作となった。同34年刊行の『思出の記』の中に宇和島が出る。主人公の菊池慎太郎が,故郷熊本を出奔,東京へ向かう途中,別府で金を盗まれる。仕方なく,土佐の恩師を訪ねるべく宇和島に上陸。ある事件を機に宇和島の英語塾で働くことになる話である。また,自伝小説『黒い眼と茶色の目』では,主人公の敬二が,今治にやって来た模様を作品中に記している。蘆花自身は, 慎太郎のように宇和島の地で英語教師をしたことはない。彼が英語を教えたのは今治である。明治18年3月,満17歳の蘆花は,熊本三年坂のメソジスト教会で姉光子とともに受洗。今治に赴いて,従兄の伊勢時雄宅に寄寓。蘆花はこの今治教会で1年数か月の間伝道に従い,傍ら英語教師として町の青年たちを教えた。蘆花は明治39年,聖地巡礼の旅に立ち,パレスチナからロシアへ赴き,トルストイを訪問した。昭和2年9月18日死去,58歳。

 徳本 良一 (とくもと りょういち)
 明治3年~昭和32年(1870~1957)実業家,県会議員。明治3年1月27日,温泉郡竹原村(現松山市)で生まれた。村会議員・郡会議員を経て明治40年9月県会議員になり,大正4年9月まで2期在職した。愛媛進歩党の幹部の1人であったが,のち実業に専念,伊予製糸会社社長を務め,松山瓦斯・農業銀行・愛媛貯蓄銀行・南海酒類・伊予水力電気など各会社の取締役を歴任した。昭和32年1月23日,86歳で没した。

 徳山 駒吉 (とくやま こまきち)
 生年不詳~明治21年(~1888)治水功労者。東宇和郡野村町の出身で前獄溝の功労者である。卯之町から宇和川にそって下がること40分,宇和川と稲生川(渓筋川)の出会うところに大きな堰堤がある。それから左岸に水路がありいっぱいに水をたたえて流れている。これが前獄溝で,明治元年に完成したものである。この溝道を計画し,実地に測量し杭を打ちこんだのは徳山駒吉である。はじめは慶応3年工事に着手したが,難工事続きで大変な努力を要した。明治元年には藩主伊達宗徳もその完成をみに来て,米174石(4,350俵)を下さったといわれている。この水路のおかげで水田が新たに15ヘクタール開かれ,地方産業に貢献することが大きかった。明治21年10月3日死去。墓は野村町安楽寺にある。

 冨沢 礼中 (とみざわ れいちゅう)
 文化8年~明治6年(1811~1873)宇和島藩医。礼中のち大珉と称す。藩医冨沢正玄の次男として文化8年5月14日に誕生。文政IO年猿解体などで活躍していた兄が病没したため,眼病を患っていたにもかかわらず,礼中が嫡子となった。天保4年修行扶持2人分を受け江戸で修業。天保15年父の家督を継ぎ15人扶持,薬種料拾俵をうけた。弘化3年江戸詰めとなり,伊東玄朴について蘭方医術を学ぶ。弘化4年師玄朴と共に前藩主宗紀の娘正姫に種痘を施して成功,嘉永元年には,藩主宗城から医術上達を褒められマラリヤ熱の特効薬キナえん(解熱剤)を贈られた。同年,伊東瑞渓と変名した高野長英を宇和島に同伴し,その世話に当ったためか,年来蘭書翻訳に心づかいがあったとして,嘉永2年には褒美の羽織をうけている。嘉永3年砂澤杏雲らと種痘を命ぜられ,種痘場所確保に尽力している。文久3年持病の眼病のため隠居願を提出,息子の松庵に家督を譲ったが,以前から携わってきた御庶子方療治役は続け,3人扶持を受けた。明治6年4月没した。行年61歳。

 富岡 春子 (とみおか はるこ)
 弘化3年~昭和15年 (1846~1940)女流作家。弘化3年,父佐々木禎蔵・母イクの三女として長浜に生まれる。佐々木家は代々大洲藩の長浜番所に務めていた。女性としては,体格も人並はずれて大きく,武術にもすぐれていた。当時,大洲には矢野玄道や常盤井厳才・巣内式部・香渡晋などの勤皇家が多くその影響もあって,19歳で京都の五条家に奉公する。明治5年,常盤鉄斉と結婚,ときに,鉄斎37歳,春子26歳であった。 19世紀における世界の三大芸術家の一人といわれる鉄斉の貧困の時代でもあった。春子は,その後50年間,鉄斉の偉業の陰にあって内助の功をつくす。春子は書や歌をよくし,墨絵を書いたり楽焼を好むなど趣味の広い人で,長浜で幼な友達,知人とも交流が深かった。昭和15年1月8日,94歳で没す。墓は京都四条太雲寺にある。

 富沢 赤黄男 (とみざわ かきお)
 明治35年,~昭和37年(1902~1962)俳人。明治35年7月14日,西宇和郡川之石村(現保内町)に生まれる。本名正三。別号蕉左右。家は幕末から医を伝え,父も医師。宇和島中学校卒業後,家業の医師を嫌い,早稲田第二高等学院文科に入学。大正15年早稲田大学政経学部卒業。東京で会社員生活。昭和5年郷里川之石に帰り,第二十九銀行に勤務。俳句をはじめ「ホトトギス」にも投句した。「泉」で生涯の友水谷砕壷を得る。同10年1月,俳句の近代化・革新化を旗印とする新興俳句運動の一つとして創刊された「旗艦」(日野草城主宰)に参加。評論活動も展開。句風も自由主義的な立場に立ち,季語を超え,口語表現によるモダニズムへと傾く。同12年11月,工兵隊の将校として中国へ出征し約2年半転戦。その間,血みどろな戦場にあって「銃眼によれば白鷺とほくとべる」「戦闘はわがまへをゆく蝶のまぶしさ」など,戦争をテーマにした俳句をつくる。同15年マラリアにかかり帰国。陸軍中尉に昇進。同16年8月,才気あふれる作品を集めて処女句集『天の狼』を刊行。翌17年・7月,北千島・占守島など北辺の守備につく。戦後は「太陽系」を創刊。同27年「薔薇」を創刊主宰し,ひたすら新興俳句の道を進み詩的可能性の限界を追求した。句集に『蛇の笛』『黙示』がある。「蝶墜ちて大音響の結氷期」「石の上に秋の鬼ゐて火を焚げり」昭和37年3月7日死去。 59歳。墓所は武蔵野小平霊園。

 富田 嘉吉 (とみた かきち)
 明治10年~昭和10年(1877~1935)弁護士,県会議員・市会議長。野間郡浜村(現越智郡菊間町)で生まれた。明治33年和仏法律学校(現法政大学)を卒業して,翌34年判検事登用試験に合格した。広島区裁判所に赴任したが在職1年で辞し,松山市二番町の高須・井上法律事務所に入って弁護士を開業した。 40~44年と大正4~8年の2期県会議員,大正7~10年と大正15~昭和5年の2期松山市会議員を務め,2期目の市会議員の時には任期中議長の座にあった。また昭和初期民政党支部幹事長として党勢を強化,松山弁護士会会長にも推された。昭和10年1月3日,58歳で没した。

 富田 信高 (とみた のぶたか) 
 生年不詳~寛永10年(~1633)戦国大名。富田信濃守信勝または知勝ともいう。父知信の後をうけ伊勢安濃津城主から慶長13年予州板島の12万石(恩栄録)の城主となる。彼は宇和海から瀬戸内海へ航行するとき佐田岬を迂回する不便を避けようとして塩成峠の最狭部の切抜きを計画したが失敗した。佐田岬は全長40キロメートル,最大幅は2キロメートル,最小幅はこの塩成峠付近で0.8キロメートルある。信高は慶長15~17年に藩内から人夫を集めて掘らせたが堅い岩盤があり工事は難行した。当時の技術では不可能であったとみられる。信高は妻の兄坂崎出羽守成政と争い,幕府に訴えられて慶長18年10月18日,将軍秀忠の面前で対決して敗れ宇和島の封地12万石を没収された。

 富田 狸通 (とみた りつう)
 明治34年~昭和52年(1901~1977)俳人。明治34年2月1日,温泉郡川上村(現川内町)に生まれる。本名は寺田寿久。松山商業学校(現松山商業高等学校)をへて大正13年明治大学政治学科を卒業。愛国生命保険会社を経て伊予鉄道電気会社(現伊予鉄道)に入社,昭和31年定年退職する。大正15年ころから俳句を始め,「渋柿」に属していたが,7年後離れて無所属となり,幅広い趣味をたしなみ,川柳の前田伍健と共に風流人として有名であった。また,狸のコレクションも多く,「愛申会」の会長として務め,「狸祭り」「他抜き茶会」などを催した。さらに,「松山坊っちゃん会」「ゆうもあくらぶ」「松山インバネスを着る会」「はしばみ会」などにも関係し,俳画・映画・焼きもの・義太夫など多趣多芸であると共に「伊予弁」を巧みに駆使して放送し,いわゆる〝松山の顔〟として全国各地の人々にも親しまれた。道後町議会議員として,道後温泉の振興にも力を入れ,『坊っちゃん』に書かれていた「湯の中で泳ぐべからず」の掲示を出したり,郷土人形や伊予名所名物にちなんだ楽しい自営の土産もの店を温泉通りに営んだ。昭和52年4月24日76歳で没した。著書には『たぬきざんまい』,編著に『伊予鉄七十年の歩み』,遺稿集に『狸のれん一俳画と句文』がある。句碑は13基ある。

 富永 彦三郎 (とみなが ひこさぶろう)
 享保6年~寛政12年(1721~1800)『大洲旧記』(大洲新谷旧記草書)の編者。喜多郡大久喜村(現五十崎町)の庄屋八郎右衛門の子。幼名興次郎,実名を直政。長じて喜多郡中居谷村(現肱川町)の庄屋となり,在職40年にわたった。寛政11年領内の旧記改めの藩命をうけ,大洲・新谷両領内の各村を巡回して,旧記を確かめて編さん。両藩領内111か所について,各村の伝承・古城跡・墳墓・古跡・社寺・名所・庄屋家譜・古文書・名器・宝物などを記録したが,『大洲旧記』が成立したのは,死没の翌年享和元年であった。

 豊川  渉 (とよかわ わたる)
 弘化4年~昭和5年(1847~1930)郡中町長,『豊川渉日記』を残す。郡中灘町で海運業を営む豊川堤の子に生まれた。父は藩命を受けての伊予砥採掘搬送で功があった。幕末,大洲藩から土佐藩が借り受け坂本龍馬の海援隊が航海した「いろは丸」に乗り組み,その沈没に至る『いろは丸終始顛末』をのちに綴った。維新期郡中出役民事庶務方を命ぜられ,大洲若宮騒動や郡中騒動の鎮撫に当たり,その記録『大洲騒動略記』を残した。これらの記録を含む『豊川渉日記』は幕末~明治15年ころの郡中の出来事や庶民生活を知る貴重な史料として『塩屋記録』と並び称されているが,両方とも原本は散逸している。明治35年郡中町長に就任して43年まで町政を担当,郡中港の整備,高浜商船組郡中出張所・伊予水力電気を誘致するなど郡中の発展に尽くした。晩年は諸記録や『郡中郷土誌』などを編さんした。昭和5年3月21日,83歳で没した。

 豊田 五郎 (とよた ごろう)
 明治元年~昭和27年(1868~1952)教育者。山形市で庄内藩士豊田惣内の五男として,明治元年12月26日に生まれる。山形県師範学校を経て,明治25年4月東京高等師範学校理化学科卒業後4年間中国派遣教師として四川省成都に在任,帰国後大分・岩手両県師範学校の教頭となり,大正9年4月愛媛県女子師範学校長に任命され,昭和5年9月退職するまで10年5か月在任し,任期は本県男女師範学校長のうち最長期間に渉っている。その間特色のある女子師範教育を行って,名物校長の名が高かった。まず特別研究時間を週2回2時間ずつ設け,生徒の自由研究を奨励し,次に女生徒の制服を和服から洋服に変え,運動に便利な体操服も制定した。この年9月には,学校教育に軍事教練を加える動きに鋭敏に反応して,全国に先駆けて女師生徒に対して軍事教練(松山22連隊より将校下士官数名来校し,全校生徒を指導)を実施して,わが国の教育界から注目された。卒業後教師としての便宜を考えてか運動場で当時女子があまりしなかった自転車乗りを練習させる。生徒の健康管理については,特に細心の注意をはらい,特別に病気療養組を編成して治療につとめ,校医(内・外科)以外に歯科医をおき,全舎生に8時間以上の睡眠厳守を申し渡し,寄宿舎での栄養食・栄養摂取量について留意させ,自ら生徒の体重を測るなどし,また健康優良生を表彰するなどした。次に校長自ら引率して満州・朝鮮・中国など海外への修学旅行を実施し,生徒の見聞を広くするよう努めた。なお大正15年から男・女両師範学校に専攻科が設置された。以上の業績を残して昭和5年9月退職。従五位勲五等に叙せられた。同7年長男一家のブラジル渡航に家族と同行,途中シンガポールにて療病2か年半後帰国,昭和27年2月11日,東京世田谷で逝去。84歳。多摩墓地に葬る。

 豊田 隨園 (とよた ずいえん)
 生年不詳~享保17年(~1732)松山藩三代目の絵師。別号を常之ともいう。『歴俸仕録』によると「はじめ忠八と言い,絵方巧者に付き,元禄10年次小姓抱,同11年狩野随川(岑信)より免許を得て剃髪,隨園と改め,70俵側医師格」とある。また『古今記聞』には「小児の頃は餅などを売りて家中の長屋などを徘回する賤しき者なり。その頃より反古紙などを与えれば見事な絵をかく。その風説凡ならず,其の親画をならわし,終に召し出され,狩野家の後見台命を蒙りたる者なり。希世の名画というべし。隨の字は狩野家にて賜はりし字のよし」。彼の遺作は多くないが,「千秋寺古絵図」(享保3年作),某家所蔵の「花鳥人物図屏風」などには,明らかに探幽様式を受け継ぎ,描写対象を簡潔にしぼり,余白を多く残し一種の情趣を盛り込む,山雪様式とは全く違う新しい息吹きを感じさせる。
 隨園の孫に豊田隨可がおり,常令ともいう。幼少より祖父の影響を受け,浜町狩野隨川甫信の門下に学び能画のほまれ高く,藩五代目の絵師となる。寛政4年72歳で没す。「古今記聞」など古記録によると,その剛直な性癖,奇行振りが伝えられ,その奇行のため祖父隨園は狩野本家にとがめられ,師より受け継いだ隨の字を返上せざるを得なかったという。彼の遺墨は少なくはっきりしないが,その作風は祖父隨園の様式とともに狩野の新風を受け継ぎ,軽妙洒脱,豪放題落の個性を発揮している。

 土居 市太郎 (どい いちたろう)
 明治20年~昭和48年(1887~1973)将棋名人。温泉郡三津浜(現松山市)に明治20年11月20日生まれる。少年時代から将棋が強く,関根金次郎八段に見いたされ,明治40年,20歳で門下生となり上京して,本格的な棋士生活に入る。次第に昇段を続け,大正4年,7段,2年後に八段となる。同6年の7段の時代に坂田三吉八段に勝って,関根八段の13世名人襲位に大きく貢献をした。八段になってからは実力第一人者として,〝土居時代〟を築き,昭和7年,日本将棋連盟の第二代会長に就任する。同15年名人選予選で優勝し,木村義雄名人に挑戦したが敗れる。同24年に引退したが,同29年に名誉名人に推せんされる。弟子の養成にも意を注ぎ,一門には九段10人,8段2人,7段以下10数人という多数の棋士が出た。棋風とコマのさばきの速度,合理性は近代将棋の母体となった。昭和48年2月28日死去,85歳。

 土居 兼四郎 (どい かねしろう)
 明治9年~昭和20年(1876~1945)盛口村長。明治9年4月4日越智郡盛村(現上浦町)で生まれた。明治43年7月耕地整理組合を設立して農業家麓常三郎を組合長にして全国でも珍しい全耕地の一斉整理に着手した。明治45年~大正13年と昭和7年~11年村長になり村政を担当,柑橘栽培と植林を行って村の発展の基を築き,15年には信用購買組合を設立して村民の生計維持を図った。昭和20年5月29日,69歳で没した。

 土居 亀澄 (どい かめずみ)
 文久2年~昭和2年(1862~1927)多田村長・県会議員。文久2年9月23日宇和郡伊延村(現東宇和郡宇和町)で生まれた。明治23年以来村会議員を経て,30年9月~35年6月と42年1月~45年6月多田村長として村政を担当した。かたわら30年伊延銀行の頭取に就任した。 35年郡会議員,大正14年9月~8年9月県会議員に在職,立憲同志会に所属した。昭和2年6月28日,64歳で没した。

 土居 清良 (どい きよよし)
 天文15年~寛永6年(1546~1629)戦国時代の宇和郡の小領主。三間町元宗の大森城を本拠とし,同町宮ノ下・末森・石原・土居中・迫目地域を領した。大森城は,標高319メートル,比高約200メートルの山頂にあって,数段に削平された郭,それを防御する石塁,堀切の跡などを今も確認することができる。宇和町卯之町の黒瀬城を拠点とする西園寺公広の家臣であったが,その主従関係は必ずしも強固なものではなかった。清良一代の事績を記した軍記物語が『清良記1である。同書は江戸初期の成立といわれ,記事は必ずしも正確ではないが,土佐の一条氏や長宗我部氏,豊後の大友氏などとの合戦においてめざましい働きをする清良の姿を詳しく描いでいる。また同書第7巻は『親民鑑月集』と呼ばれ,中世から近世への移行期の農業の諸相を伝える日本最古の農書として著名である。
 天正13年(1585)の小早川隆景の伊予進攻によって西園寺公広が所領を失い,同15年新たに戸田勝隆が宇和郡の領主になるに及んで,清良も下城して隠棲した。死後三間町竜泉寺に葬られ,村民の手によって清良神社が建立されている。

 土居 盛一 (どい せいいち)
 嘉永5年~大正14年(1852~1925)川上村長・地方改良功労者。嘉永5年11月20日,宇和郡布喜川村(現八幡浜市)で土居弥作の三男に生まれた。明治10年学区世話掛となり,就学勧誘と学校造りに奔走,12年布喜川村戸長,18年岩山村外4か村戸長,19年川名津浦外3か浦戸長を拝命して創成期の村治に当たり,23年町村制施行と共に初代川上村長に就任した。以後34~38年,40~42年,大正6~10年の4度村政を担当した。その間,原種田の設置栽培,桑園の整備,共同養蚕組合の設置など農業の振興,実業同志会を結成して貯金奨励と負債償却,信用購買組合の設立など村民の経済安定に尽力した。大正5年4月西宇和郡畜産組合長に推され,以来8年間その職にあり畜産奨励にも努めた。こうした功績に対し大正8年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正14年10月22日,72歳で没した。

 土居 正賢 (どい まさたか)
 明治22年~昭和51年(1889~1976)教育者。和気郡堀江村(現松山市)で明治22年10月9日に生まれる。大正8年東京帝国大学経済学部を卒業し,大阪住友倉庫に入社するが,父の病気のため,昭和5年退社し,翌昭和6年私立松山女子商業学校の教頭となり,同16年校長となる。学制改革で同23年松山女子商業高等学校長に就任し,同42年退任する。昭和6年以来一貫して,女子商業学校の教頭,校長,理事として35年の長きにわたり女子教育に専心努力し,とくに昭和20年に戦災のため学校が全焼したが,悲惨な状態の中で学校再建に血のにじむ努力を続け,今日の四国有数の女子高等学校を築きあげた功績は大きい。昭和38年藍綬褒章,同40年勲四等瑞宝章,同45年には愛媛県教育文化賞を受ける。昭和51年7月2日,86歳で死去。

 土居 水也 (どい みずや)
 生年不詳~承応3年(~1654)宇和郡宮下村(現北宇和郡三間町)三島大明神の神官で『清良記』の編者。大森城主土居清良の一族で被官でもあった。清良の没後,隠遁して草庵を結び,難病・悪病と闘いながら,主君清良の栄枯盛衰を子孫のために書き綴った。現存するものは30巻であるが,水也の死後も引き継いで書き続けられた痕跡もある。『清良記』のうち第7巻は,軍記物としては異様な体裁である。しかも『親民鑑月集』と書名されている。これは水也の編集した以後に多数の内容を追加記入して,農書として再編集したものであろう。この記入の下限は,琉球芋・唐黍が記録されていることから,元禄・享保の頃までであろう。「八十余歳ニシテ三間二於テ死去ス」(清良記当時聞書追放)とある。三間町の白業寺にある宝篋印塔は,水也の墓と伝えられている。

 土居 通夫 (どい みちお)
 天保8年~大正6年(1837~1917)志士,官吏,実業家,衆議院議員。大阪商業会議所初代会頭で,大阪実業界の指導者であった。天保8年4月21日,宇和島藩士大塚南平祐紀の六男に生まれ,17歳で元服して彦六と称し,のち父の里方の姓土居を名乗った。幕末宇和島に来遊した坂本竜馬や薩摩藩士田中幸助らと知り合った。慶応元年脱藩して上坂し,伯父の薪炭商伊予屋為蔵を頼り,高利貸しの鴻池三郎兵衛の所へ住み込んだ。慶応3年田中幸助の勧誘で上洛して尊王の志士として奔走。鳥羽伏見の戦いに際し宇和島藩の兵糧米を確保した功績で藩への帰参が許された。明治維新後,大阪裁判所の長官になった伊達宗城に仕え,やがて大阪府権少参事に任命され,明治15年には大阪控訴裁判所詰め司法官になった。 20年鴻池家の推挙で大阪電灯会社の創立委員,ついで社長になった。 27年3月第3回衆議院議員選挙で大阪から当選,「ともかくも一本立よことし竹」の句を詠んで一時国会に議席を得た。28年大阪商業会議所の初代会頭に就任。「堪忍を守る事業第一肝要なり」を生活信条に終生その重責を務め,京阪電気会社社長,日本生命保険会社・大日本麦酒会社の各取締役,中央電気協会会長などの要職を兼ねた。大正6年9月9日80歳で没した。藤山雷太は弔詞で「君ノ徳量海ノ如ク識見亦能ク人材挙ゲ能ク人言ヲ容シ関西実業界ノ重鎮ニシテ国家有用ノ材タリ」とその死を惜しみ,同郷の穂積陳重は「君は先見の人であった」「君は寛宏の人であった」と評した。

 土居 通増 (どい みちます)
 生年不詳~延元元年(~1336)鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。彦九郎。土居氏は河野氏の支族で,河野通有の弟通成を祖とし,久米郡石井郷土居(現松山市)に居を構えていた。
 元弘の乱が起こると,得能通綱らと反幕府軍として挙兵。元弘3年(1333)閏2月,長門周防探題北条時直の来襲を予想した土居・忽那氏らは,守護宇都宮貞宗のいる越智郡府中城(現今治市)を攻撃,同郡石井浜(同前)に上陸しようとした時直軍を撃破し,敗走させた。(石井浜の戦)その後,忽那氏らと共に直ちに方向を転じて喜多郡に入り,宇都宮貞泰(貞宗の弟)を根来城に攻め,3月これを陥れた。続いて同月,再度来襲した時直が,水居津(現松山市今出あるいは三津浜付近か)に上陸し,土居氏の本拠地石井郷を攻めるべく軍を進めてきたが,急拠軍をかえした通増らは石井郷付近一帯でこれと戦い撃退した。(星岡合戦)また同年5月,通増は通綱・祝安親らとともに,讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)で幕府軍と戦っている。
 建武新政以来,通増・通綱は近畿に留まり,新田義貞の配下に属して活動しており,延元元年2月,西土入京してきた足利尊氏との摂津国豊島河原の戦いでは,義貞を援けて尊氏軍を撃破した。(太平記)しかし,やがて九州より東上してきた尊氏により宮方はしだいに不利となり,通増は,通綱とともに恒良および尊良の両親王を奉じて北国に赴く義貞に従った。途中,越前国の荒乳の中山で武家方の足利高経らの攻撃を受け,通増は一族とともに戦死した。(梅松論)