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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 癡   兀 (ちこつ)
 寛喜元年~正和元年(1229~1312)西条保国寺(臨済宗東福寺派)の中興開山。諱は大慧,号は平等,諡号を仏通禅師という。伊勢国の人で平清盛の遠孫と伝える。東福寺円爾弁円(聖一国師)を師とし,のち東福寺に嗣席して第九世となり,京都安養寺で没した。西条保国寺はもと天台寺院,仏通禅師を中興開山とし,同寺五十三世九峰礼淵の「万年山保国禅寺歴代略記」は仏通禅師の来錫を具体的に記しているけれども,その法嗣で二世とされる嶺翁寂雲が実質上の開山である。なお,国指定の重要文化財仏通禅師坐像は,明治30年ごろ,観念寺大典梵器の斡旋により東福寺から譲渡されたということである。

 近田 八束 (ちかだ やつか)
 天明5年~文久3年(1785~1863)宇和島藩平野村野田(現大洲市)の庄屋。歌人。通称安右衛門,隼太,永類とも称した。父永潔の影響で常盤井守貫に国学和歌を学び,22歳で本居大平に入門し,後宇和島・大洲地方の和歌の指導者となった。 30歳の時内分に庄屋を相続し,翌年上京した時初めて師の大平に対面した。この時の旅の記が『まだ見ぬ花』である。その歌文をまとめたものに高月政徳編『藤蔭集』4巻(巻一欠)がある。また門人たちの歌を含めて編したものに『藤の花ふさ』がある。『大洲歌心はせ』『四拾番歌合』の判者を勤めたり,半井梧菴編『ひなのてぶり』の編集に協力し,二編に序文を書くなど,南予の歌の大御所となるとともに,中央歌壇にもその名が知られた。弘化3年藩主宗城視察の時には本陣役を勤め,随筆『浅沢水』24巻31冊を献上した。謡曲にも堪能であった。
 長男の冬載も和歌をよくし,菅根会を結成し,明治期の大洲歌壇を指導した。『藤の花ふさ』中を編むとともに詠草を多く遺している。明治32年77歳で没した。永潔・八束・冬載の和歌資料は大洲市立図書館近田文庫にある。
 その歌文は『近田永潔八束冬載歌文集』にまとめられている。

 近田 綾次郎 (ちかだ あやじろう)
 嘉永2年~明治42年(1849~1909)県会議員・副議長,南久米村村長。嘉永2年2月18日,喜多郡長谷村(現大洲市)で生まれた。明治13年9月県会議員になり,20年1月まで在職した。 23年2月再び県会議員に選ばれ25年3月まで在職して喜多郡役所の書記に採用され,一時県会を離れた。 27年3月県会議員に復活,30年10月再選されて翌年9月まで副議長を務めた。 30年には南久米村長に就任,36年9月~40年9月県会議員を兼ねた。党派は改進党一愛媛同志会(進歩派)に属した。明治42年2月13日,59歳で没した。

 力石 雄一郎 (ちからいし ゆういちろう)
 明治9年~昭和8年(1876~1933)愛媛県出身の地方長官で,大阪府知事などを歴任した。明治9年6月30日,喜多郡大洲町(現大洲市)で士族力石八十綱の長男として生まれた。父は大洲藩主加藤泰令の側近で,維新後,陶不寙次郎らと政治結社「集義社」を組織,やがて岩村権令に抜擢されて県官・警部に登用された。母は家老の娘であった。八十綱が旧藩主加藤家の執事となったので一家は東京に移住,府立第一中学校・第一高等学校から東京帝国大学法科に進み,明治33年に卒業して内務省に入った。以来,徳島県参事官,岩手県警部長,石川県事務官,関東都督府民政署長,長野・岐阜県内政部長を務め,大正3年長野県知事に昇進した。その後,大分・茨城・宮城各県知事を歴任するが,いずれの県でも政友会色を鮮明にしたため,13年加藤内閣により休職を命ぜられた。昭和2年田中内閣で復職,秋田・新潟県知事から3年5月大阪府知事に栄進した。豪放磊落な風ぼうで「ヒゲの知事」として赴任の先々で多くのエピソードを残している。昭和8年3月17日56歳で没した。

 仲   翁 (ちゅうおう)
 康暦元年~文安2年(1379~1445)現東宇和郡城川町竜沢寺(曹洞宗)の中興開祖。諱は守邦,幼名梅寿麻呂,島津元久の嫡子として日向国飫肥に生まれた。応永元年(1394), 15歳,妙円寺石屋に従い,ほどなく石屋を開祖として島津氏の菩提寺福昌寺が鹿児島に開創されるとこれに移った。つづいて福昌寺二世竹屋にも師事,同28年竹屋に従って能登総持寺に入り,翌年出世の後福昌寺に帰山した。永享元年(1429)大隅含粒寺を開創,翌年長州瑞松庵に住して布教につとめ,いったん福昌寺に帰った後,同4年再び総持寺に入り,その後西下の途次,同5年伊予を遊行中,魚成奈良谷の古寺竜天寺を萬門山竜沢寺として再興,同9年までここにとどまって大寺の基礎を築き,二世星文守昌に託して薩摩に帰った。その後も諸地を巡錫,大隅永源寺を開創,再び長州瑞松庵に住したあと福昌寺に帰り,直林寺に止住の後,文安2年伊集院で示寂した,66歳。墓は福昌寺と含粒寺にある。著作に『仲翁和尚語録』,伝記に『仲翁和尚行状記』(1697)がある。

 長宗我部 元親 (ちょうそがべ もとちか)
 天文8年ころ~慶長4年(1539ころ~1599)土佐の戦国大名。国親の子。幼名弥三郎。長宗我部氏は土佐国長岡郡宗我部郷を本拠に発展し,室町期には,土佐国の守護細川氏の被官となり勢力を伸ばした。
 永禄3年(1560)家督相続。永禄11年本山氏を,翌年安芸氏を滅ぼし,天正2年(1574)土佐一条氏を豊後に逐った。翌年一条兼定か伊予に来国し,土佐国境付近の南予の国人,法華津・津島・御荘らの諸氏の支援を得て,幡多郡に侵入したが,これを渡川(四万十川)に破り,この年土佐国を平定した。翌年早々,四国征服のため南伊予に出兵,天正8~9年にかけて(天正11年とも)北之川氏の三瀧城を陥れ,天正12年,御荘氏・竹林院氏を降し,西園寺公広の黒瀬城を陥れた。この間,天正9年には新居郡の金子元宅と起請文を交わして同盟を結んだが,同13年秀吉の四国征伐にあい降伏,土佐一国を安堵された。