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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 十亀 太郎 (そがめ たろう)
 明治41年~昭和44年(1908~1969)登山家。明治41年10月13日,新居郡氷見村(現西条市)に生まれる。西条中学校を卒業し,昭和27年,西条市役所へ入る。西条中学在学中より登山が好きで,昭和3年瓶ヶ森よりシラザ峠~土小屋を経て石鎚に登る。同5年にはニッ嶽~赤石連峰縦走に成功する。中央の山岳人とも交わり,早くから厳冬期の石鎚山にも初登頂し,石鎚山岳会を結成して会長となる。同29年から同44年まで県山岳連盟副会長を務める。昭和44年11月26日死去,61歳。

 十河 信二 (そごう しんじ)
 明治17年~昭和56年(1884~1981)国鉄総裁・西条市長。東海道新幹線生みの親。明治17年4月14日,新居郡中村上原(現新居浜市)で十河鍋作の次男に生まれた。西条中学校・第一高等学校を経て42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。後藤新平の勧めで鉄道院に入り大正元年鉄道院参事,6年2月~7年8月鉄道事業研究のため米国に留学した後,経理局会計課長などを経て12年帝都復興院書記官に出向,大正13年鉄道省経理局長を最後に大正15年退官した。仙石貢満鉄総裁に見込まれて昭和5~9年満鉄理事,10年北支開発の国策会社興中公司の社長に就任して関東軍のパイプ役として絶大な権威を振るい,林銑十郎内閣の組閣参謀を務めたりした。昭和13年社長を辞して帰国,浪人生活に入り,東京犬塚坂下町に郷党子弟の育英施設西条学舎(のち東予学舎)を建て自ら舎監として学舎の一角に起居した。昭和20年帰省中に懇請されて西条市長に就任,食糧増産のため干拓や灌漑池作りを進めたが,在任1年余で公職追放により辞職した。 30年7月,同郷の友人砂田重政らの懇請を受けて「線路を枕に討ち死に覚悟」で第四代国鉄総裁に就任した。この時すでに71歳であったが,以後38年退任まで2期8年余国鉄史上最長の在任を記録した。国鉄の体質改善を図り,東海道線の輸送力の行き詰り打開策として世界に誇る新幹線構想を打ち出したが,常盤線三河島事故や新幹線建設予算の大幅超過の責任をとって38年辞任した。春雷子と号して俳句をよくし,国鉄総裁を去る日「老兵は消えて跡なき夏野かな」の句を残した。 38年11月愛媛県県民賞, 39年には勲一等瑞宝章を受けた。昭和56年10月3日97歳で没し,東京中野の宝仙寺に葬られた。

 曽我 梶松 (そが かじまつ)
 明治29年~昭和43年(1896~1968)昭和戦時下の三重・熊本・福岡県知事。明治29年3月24日,越智郡顔戸崎村(現上浦町)で曽我保太郎の四男に生まれた。愛媛県師範学校・東京高等師範学校を卒業して岡山県師範学校教諭に奉職したが,やがて京都帝国大学経済学部に入学,大正12年卒業した。在学中文官高等試験に合格,愛知県郡長・事務官を振り出しに,京都府事務官,香川県経済部長,内務省社会局経理,保険組合各課長,厚生省保険院社会保険局庶務課長,厚生書記官,体力局企画課長,軍事保護院援護局長などを歴任して,昭和17年10月三重県知事に就任した。 18年7月には東北地方行政協議会参事官になり,農商務省生活物資局長を経て,19年8月熊本県知事,20年10月福岡県知事に就いて,戦時下・終戦直後の難問に対処した。公職追放を受け,解除後の昭和28年以降全国社会保険協会連合会専務理事・副会長・理事長を務めた。昭和43年7月20日,72歳で没した。

 曽我  鍛 (そが きたえ)
 明治12年~昭和34年(1879~1959)新聞記者。号は正堂・黄塔・鬼塔。明治12年7月15日西宇和郡布喜川村五庄屋敷(現三瓶町)に曽我孫七の長男に生まれる。明治34年3月松山中学校を卒業し,同38年7月早稲田大学文学部卒業。大正2年4月伊予日々新聞主筆,同4年7月から昭和20年7月まで35年間「伊豫史談」編集主任。大正8年9月大阪毎日新聞松山通信部主任。同9年11月愛媛青年処女協会を創立し「青年と処女」誌を発行。昭和4年『豫陽叢書』の刊行を始め,既刊9冊。同8年大阪毎日新聞松山支局長,同9年退職。同11年「愛媛文化」編集発行,同21年西宇和郡双岩村民生委員,同22年同村農地委員長,同34年12月28日脳動脈硬化症にて逝去,80歳,三瓶町鴫山の祖先の墓地に葬られる。著書には『井上要伝』『郷土伊予と伊予人』『子規と漱石』『正岡子規伝』『中江種造伝』などがある。なお,遺稿集として『曽我鍛文集』がある。

 曽我部 一郎 (そがべ いちろう)
 明治5年~昭和16年(1872~1941)郷土史家。明治5年11月9日,松山市松前町の酒造家八倉屋の曽我部二十八の次男として生まれる。号は松亭。明治12年に松山にはじめて設けられた開通学校に入学しのち勝山学校を経て同16年木屋町の三槐学校卒業,同17年五十二国立銀行給仕となり,のも栄松合資会社手代,五十二銀行員を務め明治40年銀行を退職し,家業に専従した。郷土史研究や歌・俳句・画人研究をするとともに大正3年,景浦稚桃,西園寺源透とともに伊予史談会を結成し,地方史の組織的研究に貢献した。著書には『栗田樗堂全集』『明月上人伝』『伊予俳人録』『伊予歌人録』などがある。昭和16年8月8日死去,68歳。

 曽我部 右吉 (そがべ うきち)
 元治元年~昭和31年(1864~1956)植林治水の功労者。元治元年2月20日越智郡九和村与和木(現玉川町)の庄屋武田弥平太の四男。明治13年桜井村曽我部甚太郎の家を相続。明治23年より20有余年村会議員さらに村長在職15年。郡会議員,県会議員を歴任した。明治31年,玉川村龍岡,鈍川を中心とする荒廃山林2,500haの払い下げを受け,越智郡共有山管理者となり,日高村ほか13か町村共有山組合長として14か年植林造林事業に尽力。その間,重要な国策の一つとして「森林法」が成立し,曽我部の提案で県林務課が創設され,「山林槙樹費補助規程」が制定されるなど,愛媛県が全国有数の造林県となる原動力となった。和歌山県から育苗技術を導入し,明治37年直営林(共有林),部分林(各町村林)学校林に,それぞれ地質に適するよう松・杉・桧等の植林を推進し,「緑化の父」とたたえられた。大正元年~6年,四阪島煙害問題解決にも努力し,東予4郡長をはじめ農民から感謝された。昭和31年8月4日92歳で死没。玉川町法界寺をはじめ数か所に頌徳碑や胸像がある。また,県人として初めて黄綬褒章を受章した。

 曽我部 佳枝子 (そがべ かえこ)
 嘉永元年~明治28年(1848~1895)曽我部二十八の妻。備後尾道の庄屋石井成憲の女で,手芸裁縫はもとより,茶道,華道,歌舞音曲に通じ,薙刀も使えば書画も巧みであった。二十八に嫁してからは,松山の宇佐美正篤に歌を習い,歌号は愛雪という。佳枝子は才色兼備,淑徳高く,近辺の娘達を預り教養を授けることを永く続ける。明治28年6月,47歳で死去。

 曽我部 二十八 (そがべ にそはち)
 天保14年~明治34年(1843~1901)俳人。諱は政因,翠巌,斗八と号し,松山の素封家で町の大年寄役を勤める。維新後久松家の金融機関「栄松社」の事務に携わる。俳句は内海淡節の門下で,内藤鳴雪らと親交がめった。俳句を作るとともに地方史研究にも熱心で松影会を創立して活躍した。著書に『松山諸家便覧』がある。明治34年5月死去,58歳。

 曽根 高昌 (そね たかしげ)
 生年不詳~弘治2年(~1556)戦国時代の喜多郡の領主。治部大輔の官途を有し,内子町城廻の曽根城を居城とする。同城は,中山川と麓川にはさまれた要害の地に位置し,現在も広大な郭の跡が残っている。はじめ周防国熊毛郡曽根(現熊毛郡平生町)に住して大内氏に仕え,のち喜多郡に移ったという。天文年間に大内義隆が高昌充に発した書状が2通残されている。子の宣高(高房)の時,小早川隆景の招きによって毛利輝元に仕えることになり,孫景房は,慶長5年(1600)に毛利勢が松前の加藤嘉明を攻めた際,毛利氏の軍中にあって戦死した。内子町の高昌寺は,高昌が開いた曽根氏の菩提寺である。

 曽根 松太郎 (そね まつたろう)
 明治3年~昭和20年(1870~1945)教育者。北宇和郡吉田町に曽根利真の長男として明治3年10月2日に生まれる。 15~16歳の頃,吉田仮中学に在学中,「教育の必要を論ず」という作文を書き,漢文教師を驚かせ,東京の「穎才新誌」に投稿して掲載された。明治20年,尋常小学授業生試験に合格し,宇摩郡城山尋常小学校授業生となる。明治21年,愛媛県尋常師範学校に入学し,明治25年卒業,宇和島高等小学校訓導,師範学校付属訓導を経て,29年松山中学校助教諭となり31年伊予郡視学となり,続いて西宇和郡視学となる。 33年に東京で三土忠造に会い教育記者の志望をつげ,34年上京,教育雑誌社金港堂に勤務し主筆として論陣をはる。その後,帝国教育会の活動不振を訴え,評議員に選挙され教育会革新の先頭に立つ。 44年金港堂を退社し,明治教育社を創立し,雑誌「教育界」を出版する。大正に入って,明治教育社や書肆南北社,大日本文華社に務め,その間教育雑誌記者と教育擁護同盟を発足させる。その後昭和に入って,小学校,低中高学年向きの「教材王国」を発刊したり,東京における愛媛県出身教員の組織「愛媛同交会」の会長に就任して,県と在京者の連絡に尽力する。曽根松太郎のとくに功績としては,沢柳政太郎博士に認められ,その影響と庇護を受けながら,中央の教育界に対して発言力をもち,後,文部,大蔵大臣となった三上忠造と肝胆相照し,無冠の人間ながら,教育界に多大の影響を与えた。昭和5年以降の歩みは定かではないが,本郷に文化書房を経営し,民間教育界の長老として後輩のめんどうをよく見たことは多くの人の語り伝えるところである。関東愛媛教仕会発行の「愛媛の人脈」の中に「昭和の中江藤樹」とした一文がみえる。晩年は疎開先の岐阜県加茂郡東白川村で75歳の生涯を終えた。

 相田 梅太良 (そうだ うめたろう)
 明治17年~昭和38年(1884~1963)原町村長,県会議員・議長,民政党支部長。明治17年3月10日,下浮穴郡麻生村(現伊予郡砥部町)で木蝋製造業の家に生まれた。東京専門学校(現早稲田大学)に進んだが,家事のため退学し祖父の業を継ぎ,酒造業も経営した。村会議員・郡会議員を経て大正4年県会議員になり1期務めた後,昭和2年から4期連続21年12月まで県会に在った。その間,9年12月~10年9月,12年12月~13年12月,14年10月~17年12月と三度県会議長の重責を担い,温厚篤実な議会運営は定評があった。憲政会一民政党に所属,戦時中は民政党支部長として武知勇記らを支えた。7年愛媛新報社専務取締役・社長になり,9年伊予果物同業組合長,2年3月~10年9月と15年12月~20年11月原町村長,19年県森林組合連合会長として,地域行政と産業振興に精魂を傾けた。昭和38年1月10日78歳で没した。のち砥部町原町支所前に頌徳碑が建てられた。

 添田 芳三郎 (そえだ よしさぶろう)
 安政2年~昭和3年(1855~1928)医師・初代県医師会長。安政2年5月21日,松山で元柳川藩士添田栄斎の子に生まれた。東京医科大学別科を卒業後警視庁浅草病院に勤務したが,明治23年帰郷して県立松山病院医員になり,24年同院医局長,28年副院長を歴任,その間医療活動だけでなく保健衛生の向上に尽力した。やがて松山市柳井町で医院を開業,多忙な診療の傍ら大正3年市会議員になり議長に推されて7年まで務めた。明治39年松山市医師会を設立して会長になり,松山医学会の結成や産婆看護婦養成所設立に当たった。県医師会の組織化を促して大正3年7月同会創立に伴い初代会長に推され,9年3月まで在任した。その間県結核予防協会設立などに努めた。昭和3年7月20日,73歳で没した。

 園田 藤太夫 (そのだ とうだゆう)
 生年不詳~元禄12年(~1699)松山藩士,波止浜塩田創設の協力者。諱は成連。父平蔵は結城藩の浪人であったが寛永14年松山藩に100俵5人扶持馬廻役として召し抱えられた。平蔵は疋田流槍術の達人で,慶安4年将軍家光が全国武術の名人を集めた御前試合に参加し,帰藩後は130石を給せられた。天和2年長谷部九兵衛が波止浜塩田築造の願書を藩に提出する時,また翌年3月の汐止め完了の時,成連は野間郡代官職にあり,藩へ仲介の労をとり,また工事に当ってば野間・越智・桑村3郡から集めた人夫及び全工事の監督をした。彼はまた工事の完成と安全を祈願するため近江瀬田の八大竜王の分神を天和3年2月に勧請し(現在の竜神社),汐止めの喜びを漢詩に託して,同年秋に奉納した書が現存する。天和4年2月には俵の大きさ,浜子の休日など塩田の経営に関する定書7か条を規定した。天和3年8月,藩主定直に初塩を献上し,藩主も元禄元年2月,塩田を見分した。しかし塩田経営の基礎が出来た貞享2年10月町奉行役に転じた。彼の子孫は享保15年郡奉行役を勤めており,文久頃は200石を給されて代官町東ノ丁筋に屋敷があった。波止浜瑞光寺の再興にも寄与したものか,同寺は成連を再開基として祀る。元禄12年9月29日死没,法名了然快休居士の位牌を蔵している。