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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 左氏 珠山 (さし しゅざん)
 文政12年~明治29年(1829~1896)教育者。文政12年8月23日宇和郡舌間浦(現八幡浜市舌間)に生まれ,名は撞,字は子豫,家は代々修験道を奉じ,宝珠院と呼ばれた。珠山は初め禅を学び,北宇和郡丸穂村(現宇和島市)の泰平寺に居たが,元来学問を好み,志を立て上阪し篠崎小竹の門に学んだ。21歳の時宇和島に帰り上甲振洋に10年間漢学を学んだ。東宇和郡卯之町の申義堂の教授となり,次いで宇和島藩侯に聘されて厚遇をうけ,明倫館の教授となり,藩士に列せられた。廃藩の後は法官となり判事補に任ぜられ,のも南予中学校長となる。また大阪に出て鴻池家に聘されて家庭教育を行い,傍ら藤沢南岳・近藤南州らと交わって詩文の贈答を行った。帰国して,第三中学校(のちの宇和島中学校)・愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)などで教えた。明治29年7月20日死没, 66歳。宇和島の法円寺に葬る。珠山の人となりは恬淡寡慾,興至れば酒を飲み吟詠を楽しみ,とした。詩文の佳作多く,『鬼ヶ城山遊記』などを遺している。昭和57年梅の堂境内に左氏珠山之碑が建立された。

 佐伯 伊造 (さいき いぞう)
 明治22年~昭和45年(1889~1970)畜産功労者。明治22年9月22日東予市庄内の農家に生まれ,長じて佐伯家に入り農業に従事する。農用牛の飼育に始まり有畜農業の重要性と肉利用の向上について独自の飼養管理技術を研究し,地域の全農家から教えを求められるほどになった。戦後の子牛資源の枯渇に際し,いち早く中国先進地より優良種雌牛4頭を導入し繁殖育成経営を開始すると共に地区の有志に勧奨普及して,子牛の数も急増するようになったので,これを丹原家畜市場においての計画販売を指導して地域の和牛の振興に大きく貢献した。
 推されて昭和25年~30年に旧田野村農協理事に次いで昭和30~42年には旧田野村農業委員となり公職と農業畜産の両立を実現して地区の期待に応えた。昭和30年ころになると地域の立地条件からみて繁殖育成から肥育経営がより有利であることから去勢牛肥育に転換することとなった。昭和35年に至り,組合員15名により光下田和牛肥育組合を結成して組合長となる。この間肉牛経営の基盤は牛の改良にありとして,また良牛の育成と共進会等への出品こそ自己研修の場であるとする信念をもって,地域の品評会はもとより,県共進会,四国連合共進会,全国共進会,その他東京,阪神における肉畜見本市あるいは共励会などにも常に出品した。特に昭和35年以降45年までは連続出品の栄を担い,しかも毎年上位入賞を果たすなど共進会の花形として衆望をあつめた。その功績が認められて,昭和41年には畜産功労者として県知事表彰を受け,同42年には農事改良の功績により大日本農会総裁高松宮宣仁親王より緑白綬有功章を受賞した。昭和45年3月21日に80年の生涯を閉じることとなったが,同日付けをもって勲六等瑞宝章を叙勲された。

 佐伯 運三 (さいき うんぞう)
 明治28年~昭和56年(1895~1981)素人義太夫功労者。明治28年6月21日,久米郡川上村(現温泉郡川内町)に生まれる。同郡重信町で家業の製材業を営むかたわら若いときから浄曲が好きで,雅号を自由,のちに自得と号し,全国素義界の重鎮にまでのし上がった。昭和26年四国素義会を発足させ,同28年には会長に推され,愛媛浄曲界と並んで競演会への出場者を多数にすべく努力した。同32年には同会会長にも就任し,双方の会の運営に当たった。また,同49年に愛媛県浄瑠璃保存会を設立し,会長として素人義太夫の保存継承に力を尽した。同38年には多年の古典芸能振興の功績で愛媛新聞賞を受ける。昭和56年1月3日, 85歳で死去。重信町水天宮に四国素義会建立の頌徳碑がある。

 佐伯 巨星塔 (さいき きょせいとう)
 明治31年~昭和59年(1898~1984)教育者,俳人。明治31年5月1日,温泉郡三内村河之内(現川内町)に生まれる。父は求四郎,母はミ子。本名は惟揚。大正9年(1920)3月愛媛県師範学校本科・一部を卒業,東谷・余土・北吉井・拝志・湯築・浮穴・川上など各小学校訓導を経て,昭和15年松瀬川小学校校長となる。次いで,垣生・東谷校を経て三内中学校校長就任,昭和28年退職。父(白志)の影響をうけ少年時代より俳句を好み,人正8年師範学校時代から「澁柿」に親しみ,松根東洋城・野村喜舟両師の指導を受ける。昭和25年,松根東洋城が巨星塔の生家(惣河内神社内)の一室「一畳庵」(川内町指定文化財)に1年3か月逗留し,俳誌「澁柿」を主宰し,人間修行としての俳句の境地を説いた。俳歴60余年に及び「白猪吟社」(昭和24年起)「勝山吟社」(昭和39年起)「川内吟社」(昭和40年起)「船山吟社」(昭和43年起)「湯月吟社」(昭和45年起)「与力吟社」(昭和46年起)「青柳吟社」(昭和43年起)などの句会を熱心に指導した。句集『黛石』を昭和52年5月発刊。昭和59年11月13日, 86歳で死去。

 佐伯 敬次郎 (さいき けいじろう)
 慶応3年~昭和21年(1867~1946)内子町長・地方改良功労者。慶応3年4月3日,喜多郡内子町で神主佐伯精樹の長男に生まれた。明治22年以来内子尋常小学校など郡内の小学校訓導を務めた。 26年9月村前校長になり, 29年6月内子町助役に転じ,31年1月内子町長に就任して大正13年まで在職した。
 町政では,自治行政の整備,教育の施設奨励,道路の改修,耕地整理・排水工事の進行,大洲半紙の奨励,農事の改良に尽力した。特に中産者以下の窮状を救済するためと貯蓄組合を基礎とした産業組合を設置して信用購買の事業を営み県下有数の優良組合としての成績をあげた。大正8年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。町長勇退後,愛媛鉄道の重役を務めた。
 昭和21年12月28日,79歳で没した。

 佐伯 太郎朔 (さいき たろいち)
 嘉永2年~大正7年(1849~1918)初代小松村長・町長。嘉永2年2月1日, 周布郡新屋敷(現周桑郡小松町)で庄屋の家に生まれた。維新期新屋敷村里正,北条村・広江村戸長,石田村・千足山村の各戸長を歴任,明治22年町村制施行と共に小松村長に就任,34年町制施行に伴い町長になり,大正3年6月まで任を重ねた。その間,役場事務・財政の監理,部落有財産の統一,教育の振興,耕地整理,農事の奨励などに事績をあげ,町村民に徳望があった。大正7年6月2日, 69歳で没した。

 佐伯  矩 (さいき ただす)
 明治9年~昭和34年(1876~1959)我が国栄養学の創始者。明治9年9月1日,新居郡氷見村(現西条市)で町医佐伯卓爾の子に生まれた。家庭の事情で3歳のとき,伊予郡木郡村(現伊予市)に移り,そこで成長した。伊予尋常中学校(のち松山中学校)を経て第三高等中学校医学部(現岡山大学)を卒業,京都帝国大学医科大学医化学教室で荒木寅三郎博士に師事した。明治35年内務省伝染病研究所に入り,北里柴三郎博士の下で細菌学及び酵素について学び,37年大根から消化酵素「ラファヌスジァスターゼ」を発見した。 38年渡米してエール大学で生理化学を学び,43年帰国した。大正4年東京芝白金に私立栄養研究所を設立,栄養改善を全国各地に説いて回り,「偏食」「栄養食」などの言葉を作った。9年国立栄養研究所が開所すると初代所長に就任,栄養の総合的研究で世界の権威になった。大正13年・私立栄養学校(現佐伯栄養学校)を創立して栄養士を養成,昭和2年卒業した橋爪幸重を愛媛県技手として故郷に派遣,栄養改善事業に取り組ませた。一貫して栄養学の確立と実践による食生活の改善を説き,『栄養効率の研究』などの論文を著わした。昭和34年11月29日, 83歳で没した。今日西条医師会館前には西条の生んだ三医人(佐伯矩・真鍋嘉一郎・岡田和一郎)のレリーフが建立されている。

 佐伯 千尋 (さいき ちひろ)
 明治17年~昭和47年(1884~1972)愛媛師範学校長。兵庫県津名郡鮎原村で津名郡第六高等小学校(明治21年父右文が私邸内に開校した私立校,同25年公立校)校長佐伯右文の長男として明治17年10月8日に生まれる。兵庫県御影師範学校を経て,明治42年広島高等師範学校博物学部卒業後,同校研究科に2年間在学。同44年広島高等師範学校訓導,大正2年仙台幼年学校教授となったが,病のため退官,同8年広島高等師範学校徳育専攻科に入学,同10年山口県師範学校教頭となり,同12年宮城県女子師範学校長に任命され,翌年には同校に附置された宮城県立第三高等女学校長を兼務することとなった。昭和2年5月愛媛県師範学校長に任命され,昭和10年兵庫県明石女子師範学校長として転任するまで, 7年10か月にわたって在任し,その間全国的な教化動員運動に参加して,昭和4年10月校内に「先哲記念館」を開設し,先哲記念講演会を開講する一方,郷土教育を重視する風潮に即応して,校内に昭和5~7年の間に第1~3郷土館を設置するなど,昭和初期の愛媛師範教育に励んだ。昭和18年4月男女両師範を合併し,新しく官立愛媛師範学校が発足すると,初代の学校長に任命され,再度来県した。同20年3月まで2年間太平洋戦争下の師範学校の経営に努めた。退職時従三位勲三等旭日中綬章に叙せられた。学校長として新旧両師範の勤務年数は,山路一遊に次ぐ長期に渉った。昭和47年4月14日故郷で死亡。 87歳。墓地は鮎原村にある。

 佐海 直隆 (さかい なおたか)
 明治20年~昭和22年(1887~1947)弁護士,県会議員。明治20年3月15日,西宇和郡真穴村穴井(現八幡浜市)で富豪の家に生まれた。明治32年宇和島中学校に入ったが,3年のとき校長排斥同盟休校の主犯者として退学処分を受け八幡浜商業学校に転入した。神戸高等商業学校・慶応義塾・第一高等学校を経て大正4年東京帝国大学法科を卒業した。5年帰郷して大洲で弁護士を開業,昭和6年松山に移り,9年市会議員を経て14年9月~22年4月県会議員に在職した。昭和22年7月13日, 60歳で没した。

 佐久間 格 (さくま まさる)
 嘉永元年~明治10年(1848~1878)県官吏。信濃国(長野県)松代で嘉永元年11月11日佐久間象山の子に生まれた。司法省十二等出仕として愛媛県庁聴訴課に出向,北予中学校長草闘時福の新聞紙条例違反事件を審問判決するなどした。明治10年松山地方に流行したコレラ病にかかり,2月26日29歳で没し,道後常信寺に葬られた。

 佐々木 亀一 (ささき かめいち)
 明治29年~昭和62年(1896~1987)畜産功労者。明治29年12月30日,南伊予村上三谷745-1で生まれる。家業の農業に従事するかたわら牛馬に興味を持ち牛馬商を志す。大正末期県が施行する牛馬商免許試験に合格し,免許証を取得するが,生来の実直な性格から,いわゆる袖の下取引か横行することに不信を抱き,業界を手きびしく批判して,牛馬商の資質の向上と公正取引の促進を訴え続けた。戦後昭和24年家畜商法の施行後間もなく,伊予郡家畜商組合長となり,当時家畜商が急増し家畜取引が混乱紛争する中で家畜商が畜産振興に果たす役割の重要性を強調すると共に業界の大同団結による牛馬取引の刷新に大きく功献したため31年12月12日県家畜商組合連合会長より表彰された。同時に地域の信望を広め前年の30年には南伊予村村会議員としても大いに活躍し伊予市への合併にも積極的に寄与し,合併後の市議選へ要請も強かったが辞退した。 33年業界の要望を担い県家畜商組合連合会長に就任する。このころになると畜産とともに歩み大きな役割を果たして来た家畜商も,牛馬の役利用の減退など時代の変遷で大きく揺れ動いて専業者が次第に減少し多くが兼業業者となってきた。ここにおいて今後の家畜商は,畜産農家の兼業こそ進むべき方向と提唱し,自らも肥育牛経営に取り組んで両輪による地域畜産の振興に大きく貢献する先がけとなった。かくして39年には日本家畜商組合連合会長より表彰されるとともに41年には経済連事業との合従連衡の功を買われ経済連会長表彰を受げ,45年には長期にわたる畜産振興への尽力により畜産功労者として県知事より表彰された。次いで51年11月3日には勲五等瑞宝章の叙勲に輝いた。昭和62年5月26日, 90歳の長逝であった。

 佐々木 喜楽 (ささき きらく)
 宝暦2年~天保9年(1752~1838)『積塵邦語』の著者。喜多郡長浜町生まれ。名は源三兵衛義行。号は立山亭喜楽。彼は明和元年13歳で,佐々木利兵衛の後を継いで十一代当主となり,長浜町年寄役を文化3年まで41年間勤めた。子佐兵衛に譲って隠居した54歳の時から14年間にわたって,大洲領内の旧家を歴訪して,旧記・古事を採訪調査に没頭した。彼はこの成果を記録にとどめ後世に残そうと考え,文政3年(1820)君賞・旧功・献功・古家・貢賞の5巻にまとめた『積塵邦語』なる書を起筆し,翌年70歳で完成した。 86歳で没した。

 佐々木 賢一 (ささき けんいち)
 明治34~昭和56年(1901~1981)獣医師・畜産功労者。明治34年5月31日西宇和郡瀬戸町川之浜で生まれる。獣医師を父に持ったことから大分県立三重農学校獣医科を大正8年3月卒業,直ちに越智郡島嶼部連合の設置獣医師となり,徴兵期に際し,一年志願兵として陸軍三等獣医(正8位)となり,大正8年3月除隊。同年4月周桑郡畜産組合技手として活躍し,その実績が認められ,大正14年愛媛県農林技手になり県行政と団体業務を兼任し獣医畜産技術の普及,牛馬の改良に力を尽くす。昭和5年請われて愛媛県畜産組合連合会技手に赴任,折からの農業恐慌の厳しい中で有畜農業の推進に献身し市町村畜産小組合の創設,家畜保険業務の整備,家畜・畜産物の共同購入販売の布石など畜産事業の拡充に努力すると共に和牛研究会を組織し,優良系統牛の造成など和牛の振興に意を用い特に昭和3年に発足した伊予牛体型標準作成審議には中核となり昭和10年にその作成の完了を見た。その後戦時色濃くなり馬産あるいは軍需への対応に多忙なとき,昭和16年応召。 20年1月病馬廠長となり中支に活躍,同年獣医中尉となり,21年3月復員する。同4月愛媛県農業会畜産課長となり戦後の畜産復興に努力するが,26年畜産界あげての要請により愛媛県畜産課長に就任し畜産団体の育成強化,大阪肉畜冷蔵庫の設置など肉畜流通の合理化近代化の推進,あるトは酪農組合の統合再編などに心血を注ぎ激動期の畜産再建に大きな役割を果たした。昭和34年9月退職後直ちに西宇和郡畜産組合連合会長(愛媛県畜産組合連合会副会長を兼任)となり経済連との合併を推進し後日の畜産の画期的な発展への礎を築いて,同37年3月郡畜連を解散した。その後も持前の卓越した技術と円満実直で明るい人格で親しまれ引き続いて西宇和酪農組合,有限会社西宇和畜産㈱,愛媛飼料産業㈱等の要請を受けて面倒見よく指導に当たり, 46年病床に伏するまで実に50有余年の長きにわたり良識の紳士として尊敬された。この間に全国和牛登録協会監事,愛媛県獣医師会副会長などを多年務め功績により昭和39年には愛媛県畜産功労者として知事表彰を同45年5月27日に黄綬褒章を受章し,同49年10月1日和牛の改良面での畜産功労者として井邦賞を受賞するなど数々の表彰,感謝状に輝く根っからの技術指導者であった。昭和56年6月13日永眠,享年80歳。

 佐々木 進 (ささき すすむ)
 大正 4年~昭和55年(1915~1980)実業家。映画興産・観光レジャー経営で知られた。大正4年8月20日,西宇和郡三島村蔵貫(現三瓶町)で三好菊市の次男に生まれた。苦学して日本大学を卒業,松竹株式会社に入社した。結婚後夫人の家を継ぎ,佐々木姓を名乗った。昭和17年独立して佐々木興業株式会社を設立,優れた行動力と手腕を発揮して,映画館経営に乗り出し,映画全盛の昭和35年ころには東京都内で36館を経営,タクシー会社,金融,不動産部門,観光レジャー産業など多角経営に乗り出した。多くの芸能人を後援して交際を続け,全国興行組合連合会長などに就き, 32年全国興行環境衛生同業組合連合会を設立してその会長に推された。故郷を愛し,小学校にピアノを寄贈,建設資金に多額の寄付をするなどして,46年三瓶名誉町民第1号に選ばれた。 53年には映画興行界特別功労大賞を受けた。昭和55年11月12日, 65歳で没した。

 佐々木 高義 (ささき たかよし) 
 嘉永7年~昭和元年(1854~1926)丸穂村長・県会議員,実業家。嘉永7年4月9日宇和郡丸穂村(現宇和島市)で生まれた。明治6年以来大阪で邏卒・小学校訓導を務め,帰郷して13年愛媛県官になった。 23年1月町村制施行とともに丸穂村助役,31年1月同村長に就任,40年8月まで村政を担当して宇和島市街との連携に努めた。 43年3月県会議員に選ばれ,愛媛進歩党に所属して大正4年9月まで在職した。明治36年宇和島町に程野館(生糸工場)を設立,村長引退後はその経営に当たり,地元の銀行・会社の重役を兼ねた。大正10年には宇和島市会議員になった。昭和元年12月28日,72歳で没した。

 佐々木 長治 (ささき ちょうじ)
 明治27年~昭和45年(1894~1970)実業家。豫州銀行などの頭取で県政財界の中心人物であった。衆議院議員・貴族院多額納税者議員になり,戦後は県政界の重鎮であった。明治27年2月10日,西宇和郡伊方村(現伊方町)に生まれた。父長治(高二郎)は立志伝中の実業家・社会事業家として知られた。宇和島中学校を経て大正5年東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業,亡父の名を継ぎ,西南銀行(伊方村)頭取を最初に第二十九銀行(川之石町),豫州銀行(八幡浜市),伊予貯蓄銀行(松山市)の頭取を歴任,南予地方の銀行をまとめて伊豫合同銀行への橋渡しをした。大正13年5月の第15回衆議院議員選挙に第6区から政友会公認で立候補,憲政会の卯之町銀行頭取本多真喜雄と一騎打ちを演じ,わずか12票差で辛勝して当選した。次の昭和3年2月の第16回衆選挙で再選されたが,5年2月の選挙には実業に専念するため立たなかった。 14年9月には貴族院多額納税者議員に選ばれ,22年5月まで在職した。この間,昭和15年9月~16年7月の短期間であったが,八幡浜市長を引き受け,食糧増産対策の推進に努力を払い,後任に野本吉兵衛を推挙して市政を引き継いだ。戦後の政界再編成で結成された愛媛民主党の代表者に推され,26年4月の県知事選に出馬して青木垂臣・久松定武と三つ巴の選挙戦を演じたが久松に敗れた。 30年1月の県知事選にも再出馬の動きを示したが,県政界が久松再選支持に傾いているのを察して取り止め,これを機に政界を引退した。父の残した育英事業に尽くし,県商工経済会議会頭・県公安委員会委員長など数多くの要職についた。昭和45年9月13日,76歳で没した。

 佐々木 長治(高二郎)(ささき ちょうじ)
 慶応3年~大正3年(1867~1914)実業家・社会事業家。鉱山を開発して伊方実践農業学校を創立して育英に私財を投じた。宇和郡伊方浦湊浦(現西宇和郡伊方町)で生まれた。幼名高二郎,襲名して長治と改めた。はじめ父の業を継ぎ呉服雑貨商を営み, 16歳で酒造業を興し, 20年に成安鉱山を開発, 40年には鯛の浦鉱山を掘削して実業界に雄飛するとともに村を潤した。 30年12月西南銀行を設立して頭取となり,宇和紡績・伊予製鉱・川之石汽船・豊後鉄道会社などの創立に関与,更に朝鮮の鉱山開発も手がけた。大正2年基金15万円で佐々木愛郷会を創設し伊方実践農業学校を開校して授業料を取らず教科書・実習服の無料貸与で郷土子弟の育英に力を尽くした。大正3年5月20日47歳で没し,村人はその早過ぎた死を惜しみ功績をたたえて伊方農業学校(現伊方中学校)校庭に「愛郷報国」の記念碑を建てた。

 佐々木 天璋 (ささき てんしょう)
 明治23年~昭和3年(1890~1928)画人。西宇和郡八幡浜栗之浦(現八幡浜市)の生まれ。幼少から絵を好み,梶谷南海について絵を習い,のち京都の佐々木九皐に師事。さらに東京田中来璋門下で研鑽を重ね,人物・花鳥を得意とし,将来を大いに嘱望されながら,病魔のため昭和3年7月18日, 38歳の若さで没す。代表作に「双孔雀図」などがあり,八幡浜中心にその遺墨は多い。

 佐々木 秀治郎 (ささき ひでじろう)
 元治元年~昭和22年(1864~1947)宮内村長・県会議員。元治元年12月8日,宇和郡伊方浦(現西宇和郡伊方町)で生まれた。北予中学校(のち松山中学校)を経て東京の三菱商業学校を卒業,23歳で伊方浦の戸長を務めた。のも宮内村の佐々木家へ婿養子に入り,明治31~35年, 40年,42~45年宮内村長に就任して村政を担当した。「宮内村有林保護植樹条例」を制定して山岳地の原野に植林を奨励,宮内地区発展の基礎を築いた。また桑と柑橘の栽培をすすめて農家の収入の安定を図かった。 32年9月~35年11月には県会議員にも選ばれた。町長・県会議員退任後は郡内の養蚕家200余人で「蚕業保奨会」を組織して乾繭場を作るなど地場産業の発展に意を用い,郡農会長・県農会長にも推された。昭和18年10月山口県宇部市に移住し, 22年1月10日, 82歳で没した。今日村有林は宮内財産区の財源として潤い,区民は秀治郎の着眼に感謝して昭和24年瞽女ヶ峠に「佐々木翁頌徳碑」を建立した。

 佐々木 盛綱 (ささき もりつな)
 仁平元年~没年不詳(1151~)鎌倉時代前期の武士。佐々木秀義の三子。三郎と称す。佐々木氏は宇多源氏の一流といわれ,近江国蒲生郡佐々本荘を本拠として佐々木姓を名乗った。盛綱の父秀義は,源氏と婚姻関係を結び,勢威を振るったが,平氏政権下において不遇となり,平氏のために佐々本荘を逐われて相模国に移った。早くより頼朝につかえ,山木兼隆攻め,石橋山の戦,常陸佐竹攻めなどに加わり,頼朝の信頼をえた。その後争乱の進展にともない,平家追討のため西上する範頼軍に従い,備前児島で平行盛を破ったことで名をあげた。
 『吾妻鏡』の記事により,彼が伊予国の最初の守護であったことがわかる。その期間と守護としての働きは明らかではないが,その任期はあまり長くなかったようで,鎌倉時代の早い時期に宇都宮氏と交替したことが確認されている。

 佐々木 饒 (ささき ぎょう)
 明治26年~昭和27年(1893~1952)実業家,県会議員・副議長。明治26年9月11日,宇和島賀古町で生まれた。大阪高等工業学校卒業後,神戸電気製作所販売部主任,電気機械機具商中井商店の支配人となった。大正8年宇和島に帰り,電気事業に携わり,宇和島工業所を起こして社長となり,太宰孫九と親交を結んで宇和島製氷冷凍会社を創立,その専務取締役に就任した。大正14年以来宇和島市会議員,昭和14年~15年には議長を務めた。6年9月県会議員になり,22年4月まで在職した。民政党に所属して雄弁で鳴らし,11年12月~12年12月には副議長を務めた。昭和27年9月27日, 59歳で没した。

 佐々木 六太郎 (ささき ろくたろう)
 安政4年~昭和10年(1857~1935)陶芸家。村松村(現伊予三島市村松町)に生まれ,家業のかわら製造を伝習する。明治16年,所用で徳島に行き人形製作に興味をもち,人形づくりに情熱を傾けた。明治20年, 31歳,焼き物で新機軸を創造しようと発心し,全国著名な窯元を歴訪し,つぶさに辛酸をなめて研究調査をすること3年,帰国して陶業に新たな道を開く。とくに相馬焼きの絵付けの馬にヒントを得て,浮き上がりと反対に彫り込みとすることに着想し,苦心の結果会心の作品を作る。六代前の祖先が楽焼を作ったことより翁の名六太郎の六をとり2代目六太郎を名乗り二六焼きと名づけた。初めは着色しない無地焼きであったが,後中国風の雅味ある色彩を出そうと苦心の末,独特の釉薬を創案した。製作にはろくろを用いず,わずかに大小数本の竹べらで描くものである。しかも作品は,いずれも真に迫り,気品の高いもので,内外の各種展覧会,共進会で賞状,賞牌を受けること数十回,名声はとみに挙った。宮中への献上もしばしばであった。とくにどんな作品でも自分で満足できないものは門外不出とする名人気質で幾多の名作を残した。昭和10年12月14日,78歳で死去。

 佐竹 義文 (さたけ よしふみ)
 明治9年~没年不詳(1876~)大正期の県知事。明治9年11月4日東京四谷区舟町に生まれた。 36年7月東京帝国大学法科大学英吉利法律学科を卒業,高等文官試験に合格して逓信属に任官した。以後,神奈川県属,福井県・岡山県事務官,山梨県警察部長,奈良県・滋賀県・福岡県内務部長を経て,大正6年1月鳥取県知事になった。8年4月香川県知事に転じ,11年6月当時本県知事であった馬渡俊雄らと共に欧米視察に出張した。帰国後の12年6月和歌山県知事に就任し,13年6月24日愛媛県知事に転じた。本県での在任はわずか1年3か月で,任期中加藤内閣の財政整理方針のため予算編成は極度の整理緊縮を命ぜられ,新規施策を実行することなく,14年9月16日熊本県知事に転出した。 15年9月県知事を辞し,以後実業界に転じて,群馬水電株式会社専務取締役,東邦電力株式会社顧問,安田保善社合名会社参事などを務めた。原敬と親しく原内閣の時代は政友会系の知事を鮮明にしたが,加藤高明内閣が成立すると憲政会に転身するなど,官界での保身の典型といわれた。

 茶   来 (さらい)
 享保20年~天明元年(1735~1781)僧侶,俳人。竹苑文淇。俳号月下庵茶来。享保20年美濃に生まれる。美濃の人。風早郡上難波西明寺(現北条市最明寺)十一代住職。明和7年(1770)葛飾派の二六庵竹阿は「其日ぐさ」に,西明寺に滞在し,『八景序』を書き,茶来の風雅愛好の情に応えている。茶来の句は安永4年(1775)刊『俳諧ふたつ笠』などに所収。安永9年風早河北連で,竹阿門の如其庵徒十の追悼句会稿をまとめるなど,風早俳壇の中心となっていたようである。安永5年西明寺本堂庫裡も火災に遭い心労,天明元年6月14日没,47歳。最明寺境内に茶来の次の句碑がある。
  「枝おれて何と這ふべき蔦かづら」寛政7年(1795)一茶は「其日ぐさ」をたよりに,西明寺に茶来を訪ねたが, 15年前に没しており,寺にも泊めてもらえず,高橋五井宅に泊まっている。

 斎院 敬和 (さや けいわ)
 生年不詳~明治17年(~1884)上浮穴郡の文化教育の功労者。松山藩の武士で藩儒三上是庵に学び,朱子学に通じ,抜群の人といわれていた。幕末から明治維新にかけての国内の混乱は文化のおくれた久万山の人々を目覚めさせた。特に当時の久万山の先覚と称された西明神村の庄屋梅本源兵衛は「久万山の小天狗」と称されていた。これらにひきいられた少壮の庄屋群とはかり松山藩庁の内嘱を得て,斎院敬和先生を久万山に迎え,郡内を巡回して久万山を文化的に高める必要を痛感した。久万町に地方の青年子弟を15年余の長きにわたって教育,敬和の門に学ぶ者頗る多く,敬和もまた熱心に教えを授け,躯行実践を以て範を示したので徳化大いに行われた。明治17年久万町の寓居で没す。年齢は60歳前後と思われる。真光寺に葬られ,頌徳碑が墓畔にある。

 才賀 藤吉 (さいが とうきち)
 明治3年~大正4年(1870~1915)実業家、衆議院議員。才賀電気商会を創立して〝電気王〟といわれた。明治3年7月大阪に生まれた。若くして電気事業の将来性に着目,大阪電灯会社で技術を習得して,明治29年才賀電気商会を設立した。全国各地に電気会社を設立あるいは資本提供を行い,一時,51社の電力関係会社を傘下におさめて〝電気王〟といわれた。 35年11月に開業した伊予水力電気会社は経営参加して社長になった。 41年5月の第10回衆議院議員選挙に際し,井上要から地盤を譲られて憲政本党公認で出馬して最高点て当選した。井上は, 「才賀君の如き多年自ら大事業を経営し甘いも辛いも民間経済の事業に通じて剛毅なる精神と勇敢なる胆識を有し,財政上定見ある紳士が候補者となられたるは実に適材を得た」と推薦の弁を述べた。以来,45年5月と大正4年3月の衆議院議員選挙に国民党-立憲同志会公認で連続当選した。このころから次第に電気経営に行きづまり,借財に苦しむ中で大正4年7月29日,45歳で没した。

 西園寺 公広 (さいおんじ きんひろ)
 生年不詳~天正15年(~1587)戦国時代末期の宇和郡の領主。宇和郡の西園寺氏は,鎌倉時代に公経が宇和郡地頭職を入手し,その下地管理のために南北朝時代に一族が宇和荘に下向して土着したものと言われる。公広はその末裔。郡内の黒瀬城(現宇和町卯之町)を本拠にして南予地方一帯を支配した。黒瀬城跡には今も,土塁や堀切によって守られた多数の郭の跡を確認することができる。戦国末期の宇和郡は,土佐の一条氏や長宗我部氏,豊後の大友氏などの侵略をしばしばうけたが,公広はその対応に苦慮した。永禄11年(1568)に,喜多郡の宇都宮氏が一条氏と結んで行動をおこした時には,中予の河野氏を支援して宇和・喜多両郡境の鳥坂峠でこれと戦った。元亀3年(1572)には,一条氏を攻撃したが,同氏を支援する大友氏に背後をつかれた。また天正年間には,長宗我部氏がしばしば侵入を繰り返した。天正13年(1585),小早川隆景の伊予制圧の際これに降伏し,羽柴秀吉の九州征伐時には,隆景に従って各地に転戦した。その後宇和郡九島(現宇和島市)に引退したが,天正15年,領主として入部してきた戸田勝隆に謀殺された。卯之町光教寺に位牌と供養碑が残されている。

 西園寺 源透 (さいおんじ げんとう)
 元治元年~昭和22年(1864~1947)郷土史研究家。元治元年3月宇和郡来村郷川内字助兼(現宇和島市)庄屋大野金十郎正武五男として生まれる。6歳で宇和郡冨野川村(現東宇和郡野村町)西園寺源瑞の養子となり同家第十二代の当主となる。河名にちなみ号冨水,ほかに老漁・予水・内外一致庵などがある。冨野川小学校教員・東宇和郡書記を経て明治23年(1890)27歳で初代中筋村長,のち郡会議員,県農会副会長,県会議員を歴任。 45歳で松山に移り松山電気軌道会社や小倉薬館に勤め,政財界で敏腕を発揮する。資性好学,大正3年(1914)景浦椎桃らと伊予史談会を起こし,郷土資料の収集に専念,『伊予誌材雑集』『宇和郡資料』『伊予の奇談伝記』『伊予考古資料』など数多くの古文書の書写編集や,「伊予史談」ほか中央の「考古学雑誌」「民俗と歴史」などに伊予の諸資料を多数寄稿する。これらの編著の多くは県図書館と松山商大の冨水文庫に収蔵され学界に稗益する所が多い。その進取的態度は「伊予史談」の編集の行間や『宇和旧記』の校訂出版過程にも見られる。大戦末期に郷里に疎開し『中筋村史』編述に着手,脱稿直前昭和22年12月6日死去。享年84歳。同23年3月伊予史談会と県図書館により中筋小学校庭に頌徳碑が,また昭和58年8月野村町長ほか諸団体により顕彰碑が富野川の千眼寺跡に建立された。墓も富野川の旧居に近く,法名は研智院桃源居士という。

 斉明(皇極)天皇 (さいめいてんのう・こうぎょくてんのう)
 推古天皇2年~斉明天皇7年(594~661)本名宝皇女。諡号は天豊財重日足姫尊(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は敏達天皇の孫茅渟王,母は吉備姫王。最初用明天皇の孫高向王に嫁し漢皇子を産むが,のち舒明天皇2年(630)正月皇后となり,のもの天智,天武両天皇,間人皇女の2男1女をもうけた。舒明天皇11年(639)12月,天皇と共に伊予温湯行宮に行幸,翌12年4月まで滞在した。この時行宮のあたりに椹と臣(モミ?)の木があり,鵤と此米鳥が飛来したので,枝に稲穂などをかけてこれを養ったと伝えられる。
 舒明天皇13年10月天皇崩御し,翌年正月皇極天皇(明日香川原宮御宇天皇)として即位した。皇極天皇4年(645)6月,蘇我本家滅亡のクーデター後皇位を弟孝徳に譲るが,その没後飛鳥板蓋宮で重祚して斉明天皇(後岡本宮御宇天皇)となった。(655年正月)
 斉明天皇6年(660)10月,先に唐新羅連合軍の攻撃をうけて滅亡した百済の将鬼室福信からの救援要請があり,これをうけて救援軍派遣の事が決定した。天皇自らも筑紫におもむくために,同年12月まず難波宮に行幸した。明けて7年正月6日,天皇,皇太子(中大兄皇子),大海人皇子以下遠征軍一行は海路に就き,大伯海(岡山県邑久郡)を経て, 14日伊予の熟田津の石湯(道後温泉)の行宮に到着した。航路を再び西にとり,九州郷大津(博多港)に着いて磐瀬行宮に入ったのは3月25日であるから,伊予滞在は約2か月の長期に及んだことになる。その目的は,『日本霊異記』の伝える越智直説話や,長く唐の捕虜となった風早郡の人物部薬に関する『日本書紀』の記事等からも窺えるように,伊予国および四国全域の地方豪族からの百済遠征軍兵士の徴発,さらに軍船建造や筑紫での徴兵など,半島への渡海準備の完了待ちなどにあったと考えられている。
 天皇はまたこの時舒明天皇との曽遊の日を偲び,「昔日よりなお残る物を御覧し,たちまち感愛の情をおこし,歌を詠んで哀傷し」だとも伝えられ,「み(に)ぎたつに泊てて見れば云々」という御製といわれる1首(3句以下不明)が『伊予国風土記逸文』に載録されている。(額田王の作として著名な熟田津の歌も,斉明天皇のものであるとする説もある)
 朝鮮出兵をまたず,同年7月24日筑紫朝倉宮に崩じ,遺骸は皇太子の手によって磐瀬宮に移され,10月難波に帰着した。没年令は68歳と伝えられるが(『本朝皇胤紹運録』), 61歳とする説(『帝王編年記』)もあり,後者に従うと生年は推古天皇9年(601)ということになる。

 坂  義三 (さか よしぞう)
 嘉永5年~昭和7年(1852~1932)政治運動家。自由党の遊説員として宇和島地方の民権運動を鼓舞した。嘉永5年9月9日,土佐国土佐郡赤石で士族の子に生まれた。高知立志社設立に参加し,明治13年代言人免許を受けてこれを職業とするかたわら自由党員として中四国地方を遊説して回り, 16,17年ころより宇和島に寄宿した。同地で山崎惣六らを説得して三大事件建白運動を展開,宇和四郡の旧里正その他農商民の主立った者を勧誘して署名集めに奔走,宇和郡建白者代表として上京したが,保安条例で退去2年6か月を命ぜられた。予讃分県前後には宇和島大同派の中心人物として活躍,明治22年1月の県会議員選挙で自らも当選したが,この年11月の通常県会で反対派の有友正親らが議員資格地租納額10円に満たないと問題にし,やがて議員を辞した。仲間には人望があったが,警察や反対派からは「姦佞邪智」と評された。県会議員を辞職した後, 23年3月愛国公党勧誘に来松した板垣退助の歓迎会に出席したのを最後に県政界の表舞台から姿を消した。昭和7年3月3日,79歳で没した。

 坂上 羨鳥 (さかうえ せんちょう)
 承応2年~享保15年(1653~1730)庄屋,俳人。承応2年宇摩郡中之庄村(現伊予三島市中之庄)に生まれる。坂上家四代,通称半兵衛,諱は正閑,俳号は仙翁亭羨鳥。松山・高松など諸藩に御用金を調達,蔵米払下げをうけ,京大坂を往来し,多額の産をなし,長男以後大庄屋となる。元禄5年(1692)妻を失い,仏道に帰依し,河内国清水村地蔵院の蓮体を尊敬し,中之庄に持福寺を建立し,弟子栄雄を住職に迎え,本寺の地蔵院や金毘羅など,遠近の寺社に寄進を続け,晩年剃髪した。俳諧の初めは,延宝5年(1677)刊行の岡西惟中『俳諧三部抄』に1句所載,時に25歳であった。以後,信仰と商用をかねて上坂,上方談林派の俳人達を訪ね,元禄9年(1696)『簾』刊,団水序,大和紀行の独吟や,大坂の才麻呂・園女,京の言水・信徳らとの付合や送句を収めた。王朝の物語に取材された伊予簾に因んでの書名である。元禄14年『たかね』3冊刊,万葉集や夫木和歌抄に見える「伊予の高根」羨鳥の故郷に近い石鎚山を意識しての句から始まる。団水・言水序・自序。談林派の来山らのみならず,貞門派の貞恕・我黒,蕉門として芭蕉や其角など,風交も頓に広がり,吉野紀行吟も収めた。とくに海老や枝垂桜の画を句中に挿入して海老・桜の句の趣を深める表現は本書独自,遊びの感もあり,廻文図また異色である。正徳3年(1713)『俳諧花橘』2冊刊,言水・才磨序・自序。万葉集の橘の島は中之庄の入江のほとりと考え,橘の句も132句。鬼貫を訪ねての興行(七車)など,三著を通じ,上方俳壇の諸派と伊予俳人とを連槃づけた点意義がある。享保15年7月5日没, 78歳。中之庄持福寺近く坂上家墓地に葬る。俳号に因み「オセンチョサマ」として尊敬されている。

 坂田 幹太 (さかた みきた)
 明治12年~昭和33年(1879~1958)大正期の県知事。明治12年12月13日山口県士族水谷良孝の長男に生まれ, 19年伯父坂田昌織の養子になった。明治36年7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し,文官高等試験に合格後,神奈川県視学官・事務官,内閣書記官,桂内閣総理大臣秘書官,福岡県事務官,農商務大臣秘書官,内務省参事官兼内務大臣秘書官を歴任,山口県士族という藩閥による官吏エリートコースを歩み,大正5年4月28日, 38歳で愛媛県知事に就任した。県会に高姿勢で臨んだ深町前知事に代わり,無理をしない予算編成や議会の審議を尊重するという柔軟な姿勢が好感をもって迎えられ,如才のない腕利きと評されたが,本県には10か月在任しただけで, 6年1月29日,香川県知事に転出した。8年4月原敬内閣の地方官更迭で休職になり,以後,実業界に転じて大阪合同紡績取締役・阪神国道自動車会社社長など諸会社の重役・団体役員を務めた。昭和21年6月には貴族院議員に勅選され,貴族院廃止まで在職した。昭和33年10月18日, 78歳で没した。

 坂本 石創 (さかもと せきそう)
 明治30年~昭和24年(1897~1949)小説家。明治30年1月18日,西宇和郡川之石村雨井(現保内町)に生まれる。本名石蔵。八幡浜商業学校在学中から「文章世界」に投稿。卒業後,大阪北浜の株式仲買店に勤務。大正8年帰郷し,日上村(現八幡浜市)の了月院(浄土宗)にこもり,三か月かかって長編処女作『開かれぬ扉』を書き上京。同9年の「文章世界」巻頭で田山花袋が激賞。同10年に自費出版。これを機に花袋の弟子となる。その後『梅雨ばれ』 (同11年),『蘭子の事』(同12年),『別後』(同年)を刊行。翌13年,信濃毎日新聞社の学芸部長となり,同15年10月まで健筆を振るった。昭和4年,見解の相違から花袋と絶縁,都会生活にも見切りをつけて帰郷。地元のタオル工場に勤務し,かたわら随筆風の小品を書く。その間も,小説『結婚狂想曲』をはじめ,多くの随筆などを残す。特に伝記『西山禾山』は傑作とされている。昭和24年1月24日死去,52歳。草地は保内町雨井にある。

 坂本 又八郎 (さかもと またはちろう)
 天保年間~明治34年(1837?~1901)建築家。坂本家は,松山藩主松平定行が伊勢桑名から松山転封の際,これに随伴した建築棟梁の家柄で,彼はその十代目に当たる。祖父(嘉永5年没)・父(元治元年没)ともに坂本又左衛門を名乗り,松山藩城郭建築はもとより,江戸上屋敷・京都藩邸の工事にも従事している。明治元年(1868)の又八郎の齢は30歳過ぎであったから,父に従って藩の城郭建築諸工事に経験を積んだことが想像される。明治25年,道後温泉一・二・三の湯(現神の湯本館)の改築に際しては,町長伊佐庭如矢に起用されて棟梁(総括責任者)の重責についた。町長と共に住民の反対運動を説得し,約20か月を費して同27年に三層楼(3階建・現存)を竣工させた。この建物には城郭建築の風格が残され,当時の公共建築としては空前のもので,最大級の賛辞が寄せられた。さらに注目すべきことは,外観純和風のこの建物に,トラス架構の採用・塔屋(振鷺閣)の設置,ギヤマン(色付ガラス)の使用など,文明開化による導入建築技術の一部をも採り入れた。この新技術は同20年に起工した愛媛県師範学校新校舎建築に際し,知事の要請によって来松した山梨県の建築技術者から吸収したものであろう。同30年には大社教松山分院新神殿を,続いて熊本県山鹿温泉から招かれ,その温泉建物の大改築などを手掛けた。同温泉の前庭に建つ山鹿温泉之碑には「同三十一年聘伊豫道後温泉工匠加改修以致今日之盛矣……」の字句が刻まれている。これらと併行して,同30年から32年にかけ道後温泉霊の湯の改築も行ったが,この建物には全国的にも例のない御召湯(皇族専用浴室)も併設した。この建築は桃山時代の建築様式を模して優美を誇り,内外にわたり材料は精選され,仕上げは洗練されて,明治時代に到達した木造建築の最高域と評価されている。昭和61年に霊の湯1階部分の大改築が行われたが,その時当初の浴槽下部の地盤安定工法が発見され,改めてその卓抜な技法が注目を浴びた。明治34年10月没。享年64歳と伝えられている。墓所は松山市御幸1丁目,長建寺。

 坂本 龍馬 (さかもと りょうま)
 天保6年~慶応3年(1835~1867)幕末期の討幕運動指導者。天保6年11月15日(10月15日, 11月10日説あり),土佐藩町人郷土坂本八平直足の次男として,高知城下本町に生まれた。名を直陰,後に直柔といい,龍馬は通称である。脱藩後は才谷梅太郎などの変名も使った。嘉永6年江戸へ出て,北辰一刀流千葉定吉の門に入ったが,ペリー来航による世情騒然の中で,水戸藩の攘夷論者らと交わり,影響をうけた。翌年帰国の後,武市瑞山との交流を深め,文久元年,武市が土佐勤王党を組織すると,龍馬も加盟し,活動に参加した。しかし,翌2年,藩の政策にあきたらず脱藩し,江戸に赴いた。当時,土佐藩の脱藩者が相次いだが,彼らは,高知城下から梼原村を経て,宮野々関所から土佐・伊予国境の九十九曲峠を越え,現城川町の高川村から土居を経て坂石に至り,さらに川舟で大洲・長浜に出る経路をたどったと推測されている。これは,また,梼原と大洲を結ぶ当時の交易路でもあった。龍馬の場合も,ほぼこの経路に沿ったものであったと考えられる。龍馬は江戸で幕府軍艦奉行勝海舟の門に入り,翌文久3年,幕府の神戸海軍操練所設立にあたっては,勝の右腕として尽力した。同所が閉鎖された後は,西郷隆盛をたよって薩摩藩の保護をうけ,その援助のもとに,土佐藩出身の近藤長次郎らと長崎の亀山に社中を開き,海運と貿易に従事した。また,社中の活動を通して薩摩,長州両藩の結び付きを深め,慶応2年には,土佐藩出身中岡慎太郎とともに,薩長同盟を成立させた。慶応3年,長崎で土佐藩の後藤象二郎と会談,藩より脱藩の罪を許され,社中を海援隊と改称し,土佐藩の名義(実際は独立的)で業務を一層発展させた。土佐藩は,慶応3年,大洲藩所有の鉄製蒸気船「いろは丸」を借りうけたが,長崎から大坂に向かった同船は,龍馬及び海援隊員によって運航された。海援隊の事業としては最初の航海であった。しかし,同船は,讃岐箱の岬沖で和歌山藩所有の鉄製蒸気船「明光丸」と衝突し,沈没してしまった。土佐藩並びに龍馬と和歌山藩との交渉は難行したが,最終的には明光丸側の非が認められた。一方,討幕勢力が増大する中で,龍馬は,幕府が自発的に政権を返上し,天皇を名目上の中心とした大名会議に権力を握らせる統一国家構想(船中八策)をおり,後藤象二郎を介して前土佐藩主山内容堂を説き,慶応3年10月,大政奉還を成功させた。しかし,同年11月15日,京都の近江屋で中岡慎太郎と会談中,見廻組に襲われて殺害された。享年33歳であった。京都東山の霊山に埋葬された。

 酒井 蔵一郎 (さかい くらいちろう)
 文久3年~昭和6年(1863~1931)大保木村長。林道を開発して山村の基礎を築いた。文久3年2月25日新居郡黒瀬山村(現西条市)で生まれた。明治19年以来,役場に勤め, 29年大保木村助役,34年12月同村長に就任,45年退職まで3期11年間にわたり村政を担当した。村の開発は道路開通にあるとして神戸村中野より兎之山を経て西之川山に至る村道開設の人方針を立て,工事費捻出に苦しみながら法定外特別税と県費補助を得て45年着工にこぎつけた。そのほか教育費の重圧を緩和するため小学校の統合を図った。昭和6年12月27日68歳で没した。昭和31年9月西条市との合併に際し村民たちは遺徳に感謝の意を表するため旧村役場前の県道傍に道路開道記念碑を建てた。

 酒井 宗太郎 (さかい むねたろう)
 明治22年~昭和10年(1889~1935)酒六の創業者。南予綿業の父といわれる。西宇和郡神山村矢野町(現八幡浜市古町)に六十郎の長男として生まれた。若くして花眠,後に宗夢と号した。八幡浜商業学校在学中より読書を好み,文章を愛したためジャーナリストになりたいとの希望もあったが,結局家業の織物業を継ぐ。そのころは業界不況で倒産が続出したが,大正3年いち早く動力織機を導入するなど,経営の近代化に努めた。そのため第一次世界大戦後の景気上昇の波に乗り,しだいに綿業界に頭角を現わした。その後も,内には家業の進展に専念するとともに,外には綿業界の振興発展に努力し,大正6年共同染工所取締役,同10年西宇和郡織物同業組合長に,ついで,昭和6年には八幡浜織物同業組合長に就任した。また翌7年,家業を会社組織に改め,丸善綿布(現在の酒六株式会社)を設立し初代社長。地域織物業のリーダーとして産地の振興に努めた結果,全国に八幡浜織物の声価は高まり,同13年には広幅織物生産高6.210万平方ヤードに達する大産地へと発展した。さらに地方自治にも活躍し,昭和3年神山町長に就任。ついで多年氏が念願した町村合併の機が熟し,同10年・八幡浜町が近隣町村を今併して市制を敷いたとき初代市長となる。また文章にすぐれ,仏教に深く帰依して日常不断の読経に人徳を磨き,宗夢居士と号した。このように物事に徹してやまない信念をもって,地域の経済・文化の発展に貢献した。昭和10年11月25日没(46歳)。墓は市内四国山の中腹にあり,古町の秋山が丘には,モーニングに袈裟をかけた銅像が建っている。

 酒井 和太郎 (さかい わたろう)
 明治16年~昭和47年(1883~1972)医師・俳人。福岡県八女郡水田村下北島に父下川儀八の次男として生まれ,村の小学校,柳川伝習館中学を卒業後熊本の第五高等学校に学び,更に上京して明治42年東京帝国大学医科を卒業。卒業後は,大学内科教室に残って3年,更に薬物学教室に入って,当時医学界から顧みられなかった漢薬の研究に取り組み,「漢薬の薬物的研究」と題する論文を提出し,大正7年学位を受ける。大正9年,第三代日本赤十字愛媛支部病院長として請われて松山に着任,昭和23年まで28年間,院長として病院の発展につくした。とくに臨床医として結核の治療に心血を注ぐとともに,第二次世界大戦の戦時救護や戦災後の病院復興に努力し,今日の日赤病院の基礎を築きあげた。昭和23年,日赤社長より徳川記念章を授与され同29年4月には名誉院長の称号を授与される。また和太郎は早くから高浜虚子に師事し,黙禅と号し,ホトトギス派の俳人としても有名であった。昭和29年松山赤十字高等看護学院卒業式の祝辞の中で看護の世界に旅立つ若き諸嬢への餞けとした「春風や博愛の道一筋に」の句碑が病院玄関前南庭にたっている。 23年病院長を辞任後は,東宇和郡野村病院長として赴任したが, 25年5月退任,松山市に住む。同30年文化功労者として愛媛新聞賞,同35年県教育文化賞を受賞する。同24年宇和町に俳誌「峠」を創刊し,雑詠選者となり死去するまで担当した。昭和47年1月8日死去,享年89歳。

 先山 千兵衛 (さきやま せんべい)
 明治30年~昭和38年(1897~1963)遊子村村長,漁業組織功労者。いりこの共販体制や購買事業等を県下に先がけて実施するなど漁業協同組合活動の基礎を築いたほか,村政においても教育,交通,地域産業の振興に尽くした功労者。明治30年7月10日,北宇和郡遊子村(現宇和島市遊子)で父廣吉,母ハヤの長男として生まれる。父廣吉は半農半漁を営み生計を立てていたが,漁業は磯繰網の操業を行っていた。千兵衛は明治37年8歳にて遊子小学校に入学,6年間の学習後さらに高等小学校に2か年学んだ。学校卒業後漁業に従事したが,その後大網(いわし船びき網)の村君(網子の指揮者)を務めたりして漁業の面では指導的役割を果たしていた。大正12年11月遊子村助役に選任された後昭和2年8月遊子村村長に就任した。その後20年間の長期にわたって村政をつかさどり,その間小学校の統合を行い教育の充実を図ったほか,地区内初の村道を建設して地場産業の振興に努めた。この間昭和18年7月には遊子漁業会及び遊子農業会の会長を兼任し,漁業と農業両面において天与の恵を地元従事者に自覚させ,この活用を強く訴えた。これらの功績により昭和20年6月20日勲六等瑞宝章を受章した。昭和21年5月遊子村村長を退職し,漁業,農業両会長も辞任したが,以後も地元住民の福祉に全力を傾注した。昭和27年10月漁業協同組合長,同30年5月農業協同組合長にそれぞれ再選され以後同36年までの在職期間中組合事業活動に全力を傾注した。特に漁業の面では他に先がけてまき網漁業の漁獲物であるいわしを加工した「いりこ」を漁業協同組合の共販体制の中にとり入れるとともに漁業資材の購買事業や信用事業を行うなど太平洋戦後の民主化を目ざした新漁業法と水産業協同組合法の立法精神に則った組合事業活動の基礎を確立した。またまき網漁業の組織についても平等の出資,就労,利益配分を基本方針として再編し,連帯の人間関係と生産体制を実現させた。彼は幼少の頃よりそう明にして漁業のなかにも科学を導入するなど研究心はきわめて旺盛なものをもち合わせていたが,長じてからは生来の人情味に加えどこに行くにも常に着物を着用するなど,自己の信念を貫く一徹さと,一朝ことあるときは剛胆をもってこれを早期解決するなどの両面を備えていた。昭和38年1月31日65歳にて没。彼の精神は現在の漁業協同組合の中にも生きており地元ではその功績をたたえて昭和53年7月10日,頌徳碑を建立している。

 崎山 龍太郎 (さきやま りゅうたろう)
 安政3年~昭和9年(1856~1934)能楽師。明治期松山能楽界の先達ともいうべき人で安政3年4月26日松山城下の紙屋町(現松山市本町)に生まれた。幼時よ回日藩能楽師高橋節之助・荻山権三に学び,若くして師範の域に達しか後も友枝三郎(熊本藩抱え)・宗家喜多六平太にも教えを受け,実弟越智磯次郎と共に東雲神社神能を中心とした松山能楽の場に殆ど名を見ぬことはなかった。その舞台は「自ら美を成し(扇へんに羽、足へんに西一八己)の舞は清朗の謡に和し,妙麗絶倫,人皆感嘆せぬはなし」と誉め称えられ,昭和8年宗家より名誉師範の称号を贈られた。明治41年松山での各流連合能楽大会では宗家喜多六平太と並んで稀曲「竹雪」を舞い,大正6年には当時大連へ移動していた実弟越智磯次郎に招かれ,松山能楽人と共に演能して絶賛を博した。家業は「吉野屋」の屋号を持つ藩御用の菓子商であった。多芸多趣味で,家業の傍ら能楽は勿論和歌・俳句・書画・活花・盆景・折り物・押し絵等,趣味人として活動範囲は広く,号を青葵・雪渓などと称した。俳句の一句に「祝い日に取りはじめけり富貴の薹」がある。昭和9年1月23日77歳で死去。墓所は月照山大林寺(松山市味酒町)にある。

 桜井 鷗村 (さくらい おうそん)
 明治5年~昭和4年(1872~1929)教育者,実業家。明治5年6月26日,松山の小唐人町(現大街道)に生まれた。実名彦一郎,実弟が桜井忠温である。松山中学校を経て明治25年明治学院(現明治学院大学)を卒業した。はじめ小説家を志し報知新聞記者となるが,やがて明治女学校で教鞭をとり,傍ら「女学雑誌」の編集にたずさわった。同32年,校長巌本善治のすすめで女子教育事情視察のため渡米した。帰国後巌本の推薦によって津田梅子の女子英学塾(現津田塾大学)の幹事に招かれ,実務に敏腕を振い,「英学新報」や英語教科書類の発行に力を注いだ。明治45年津田英学塾を退いて実業界に転身,北樺太石油会社の取締役となって油田開発交渉のためロシアに赴いたりした。教師であったころ,『世界冒険譚』『現代女気質』などの著作を残した。昭和4年2月27日, 56歳で死没した。

 桜井 忠温 (さくらい ただよし)
 明治12年~昭和40年(1879~1965)軍人,作家。松山藩士桜井信之の三男として,明治12年6月11日松山小唐人町(現松山市大街道)に生まれる。松山中学校を経て,明治34年陸軍士官学校を卒業した。日露戦争には少尉,歩兵第22連隊の連隊旗手として出征,初陣の歪頭山攻撃から剣山・大白山・大孤山と軍旗を捧じて転戦した。明治37年8月初句,中尉に昇進し第12中隊小隊長となり,旅順第一次攻撃に参加した。望台砲台攻撃には中隊長が戦死したので替わって中隊の指揮をとり,同砲台に肉薄したが右手のほか各所に重傷を受け,隣接連隊兵士の介添えに助けられて九死に一生を得た。療養中その実戦体験を左手で書いた『肉弾』は,体験者の書いた戦記文学の先駆けとして広く愛読され,また世界14か国語に翻訳されて,小国日本が近代文明と対決し,肉弾をもって戦勝をから得た経緯を世界に紹介した。天皇の閲覧にも供されたが,他面では陸軍将校服務規定を逸脱したとして,上司より叱責される場面もあった。一年間の療養生活の後,連隊に復帰するが,その後陸軍経理学校生徒隊長(勤続12年)・京都連隊区司令部付・第16師団副官・第12師団副官などを歴任した。大正13年からは陸軍省新聞班長として活躍したが,昭和5年8月,少将に昇進するとともに予備役に編入された。その間『草に祈る』『銃剣は耕す』『銃後』など著書45巻を数えた。また幼少より画技にも秀で,清廉な人格が反映して格調高く雅味ある画風と評された。戦争回想の絵も多いが,特に乃木軍司令官の孤影には,多くの部下と二児を失った悲哀がにじみ出ている。太平洋戦争後は,同34年に松山に帰住し,山越に居を構え文筆を友として余生を送った。同39年,県教育文化賞を受けたが,翌40年9月17日死去した。享年86歳。墓所は松山市道後の松山市鷺谷共同墓地。松山市堀の内に建てられた歩兵第22連隊記念碑の副碑には,彼の「最も愛情あるものは最も勇敢なり」の辞が刻まれている。

 桜井 徳太郎 (さくらい とくたろう)
 明治30年~昭和55年(1897~1980)軍人。福岡県に生まれる。陸軍幼年学校を経て,大正7年陸軍士官学校を卒業し,歩兵第36連隊などに隊付勤務の後,陸軍戸山学校に入校。その後陸軍大学校に進み,同14年同校を卒業。戸山学校教官などを務めた。昭和6年満州事変ぼっ発後は旅(師)団参謀として満州で活躍,昭和12年日中戦争開始の後は,北支方面軍司令部付・第1軍参謀・第34師団参謀長・歩兵第65連隊長と,常に中国戦線において活躍し,勇名が高かった。同18年8月少将となり,第55師団歩兵団長として,12月にビルマのアキャブ戦線に到着。翌19年2月からインパール作戦に呼応する第2次アキャブ作戦に,桜井兵団を指揮して参加した。その巧妙な用兵によって,一度は英印軍2個師団をシンゼイワ盆地に包囲したが,制空権・砲兵力・補給力の不足からこれをせん滅することが出来ず,逆に甚大な損害を受けて攻撃発起地点に撤退した。同年8月以降は師団主力のイラワジデルタ地帯への後退作戦の援護に任じ,果敢な挺進遊撃戦を行ってよくその任務を果たした。翌20年3月,ビルマ国軍事顧問になるが,同月27日にビルマ国防軍8,000がわが軍に対し反乱し,ビルマ戦線は混乱に陥った。同年5月に本土決戦第212師団長に補せられ,第57軍隷下で宮崎県都農一帯の防衛に任じて終戦を迎えた。戦後は全国各地の慰霊塔建立に奔走し,昭和55年83歳で没した。墓所は福岡県中央区唐人町,吉禅寺。

 桜井 梅室 (さくらい ばいしつ)
 明和6年~嘉永5年(1769~1852)俳人。明和6年加賀金沢に生まれ, 16歳で馬来に,のち闌更門。文化4年(1807)上洛して俳壇に,文政から天保(1818~33)の間江戸で修行,帰洛後俳名高まり,嘉永4年二条家から俳諧の宗匠「花の本」の称を得,その門人は広く海内50余国に及ぶと,門人九起は記している。著書に『梅室家集』『梅室付合集』その他編著が多い。衆俗に迎合して作法の簡易化をはかり,普及につとめたので,貞門系の天来はこれを難詰し,双方論争応酬の書を出した。花の本宗匠となった成肝蒼虬・田川鳳朗と天保の三宗匠と称されている。嘉永5年10月1日京都にて没,83歳。
 伊予の門人には,内海淡節・大原其戎らが著名,天保4年(1833)銅山の柴人ら編『かな山草』の序,嘉永元年樵村編『伊予すたれ』の選句,翌4年棉亭編『富貴集』の序も認めている。

 桜田 玄蕃 (さくらだ げんば)
 天正3年~寛永9年(1575~1632)宇和島藩創立当時の家老兼侍大将。基親と称す。はじめ伊達政宗の家臣で宇多郡駒ヶ峰(現相馬市)城主。慶長5年政宗の奥州征めに従い,旧領であった川股城を攻略して軍功をあげた。元和元年政宗の庶長子であった秀宗が宇和郡10万石を拝領して宇和島へ入部する時,政宗の命によりこれにつき従った。以来1,950石(「元和8年分限帳」では1,750石)を受け,老職兼侍大将として軍事一切を担当した。一方,軍事以外を惣奉行する者として,政宗から山家清兵衛がつけられた。藩創立当時,家臣団の編成や入部のため巨額の費用を必要とし,政宗から6万両の借金をした。その返済のため10万石のうち3万石を政宗の隠居料として献上すると言う山家清兵衛の案は,藩財政をかなり圧迫するものであった。さらに元和6年大坂城修築を命ぜられ,藩財政が一段と圧迫されるなかで,桜田玄蕃と山家清兵衛の対立が深まったようである。元和6年山家清兵衛は上意討ちにされる。いわゆる宇和島騒動である。寛永9年8月6日,正眼院において法事執行中,突然大風が吹き玄蕃は落ちてきた本堂の梁にうたれて即死した。和霊信仰のおこる由来とされる。享年57歳。正眼院(現宇和島市)に葬られる。法号超格院殿雄山玄英居士。

 笹井 幸一郎 (ささい こういちろう)
 明治18年~昭和13年(1885~1938)昭和初期の県知事。明治18年10月28日,新潟県中頚城郡斐太村で笹井喜三郎の長男に生まれた。 43年7月東京帝国大学法科大学政治学科・を卒業,11月文官高等試験に合格後,岐阜県属兼警視に任ぜられた。1年間志願兵主計生として入隊の後,熊本県玉名郡長,山口県・和歌山県理事官,佐賀県警察部長を経て警視庁保安部長となり,時の警視総監亀井英三郎の娘と結婚した。大正13年8月復興局経理部長に任じたが,昭和2年5月田中内閣により休職となり,欧米各国への外遊や復興局史編纂嘱託で2年間の浪人生活を続けた。昭和4年8月浜口内閣による地方官異動で奈良県知事に就任,翌5年8月26日愛媛県知事に転じた。笹井は,赴任と同時に予算査定に没頭して緊縮予算案を編成,なお一層の削減を求める県会側と対決,精力的に政友・民政両派と協議を進めた。懸案の大谷川用排水改良事業については政友派の強い反対で否決されると,会期を延長して再議に付し,再度の否決に対しては原案執行を断行して伊予郡農民の悲願に応えた。また行き詰まっていた継続土木事業の更正を行うなど,財政多難の時期,苦心の県政運営に当たった。ついで暗礁に乗り上げていた銅山川分水問題の解決に心血を注ぎ,徳島県知事を説得し内務省を動かして,昭和6年11月分水覚書の交換にまでこぎつけた。これは笹井知事最大の功績とたたえられたが,のち分水覚書が徳島県会で否決され,交渉は振り出しに戻った。本県在職1年4か月,昭和6年12月18日,犬養政友会内閣成立早々に断行された地方長官更迭で休職に追い込まれた。7年1月依願免職,9年長崎市長に就任した。昭和13年10月15日,52歳で没した。

 笹田 省三 (ささだ しょうぞう)
 安政元年~明治44年(1854~1911)戸長・二木生村長,県会議員。安政元年11月11日,宇和郡二及浦(現西宇和郡三瓶町)で庄屋笹田久四郎の長男に生まれた。明治12年二及浦外二か浦の戸長を拝命して政治を担った。 27年3月~32年9月県会議員に在職して,31年3月~32年3月二木生村長を兼ねた。 31年には郡会議員・議長に選ばれ,郡立八幡浜商業学校の設立,名坂道路改修などに寄与した。明治44年8月7日,56歳で没した。

 実藤 大治郎 (さねとう だいじろう)
 明治4年~大正12年(1871~1923)内海村長・地方改良功労者。明治4年7月6日,宇和郡内海浦(現南宇和郡内海村)で生まれた。 23年内海村書記, 25年収入役を経て39年4月同村長に就任,大正5年まで在任した。村政では,戸籍簿など諸統計の整備,村基本財産の蓄積,勤倹貯蓄に励み,また村文庫の設置,親子会・養老会の組織化など社会教育の発展に尽した。大正5年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正12年1月20日,51歳で没した。

 実藤 森久 (さねとう もりひさ)
 明治9年~昭和26年(1876~1951)県会議員・下灘村長。明治9年7月24日,宇和郡下灘村柿ノ浦(現北宇和郡津島町)で生まれた。慶応義塾に学び,明治44年9月~大正4年9月県会議員になり,政友会に所属した。大正8年6月~12年4月下灘村長に就任して村政を担当した。村長退職後,大正12年9月~昭和2年9月再び県会議員に在職した。昭和26年7月25日,75歳で没した。

 沢  宣嘉 (さわ のぶよし)
 天保6年~明治6年(1835~1873)幕末維新期の尊攘派公家。天保6年12月23日,権中納言姉小路公遂の五男として京都に生まれ,嘉永5年,沢為量の養子となった。幼名熊(隅)麿,五郎麿,号を春川,小春と称した。安政5年,幕府が日米修好通商条約の勅許を奏請した時,急進派公家とこれに反対し,三条実美らとともに攘夷論を主張した。文久3年,国事寄人に任じられ,攘夷親征の急進論を説いたが,同年の8月18日の政変の結果参内を停止され,七卿落ちの一人として,三条らとともに長州へ逃れた。その後,筑前藩士平野国臣に迎えられて生野の変の首領となったが,失敗して脱出し,美作,備前,前岐を経て伊予国に逃れた。沢を伊予国に伴ったのは,彼に従っていた小松藩の田岡俊三郎であった。宣嘉は,最初宇摩郡蕪崎村の医師三木俊三(田岡義兄)宅に匿われ,後に新居郡垣生村の医師三木左三(三木俊三義兄)宅,宇摩郡北野村の尾埼山人宅に移り,元治元年6月に長州へ去った。王政復古とともに,明治元年帰京して参与となり,九州鎮撫総督兼外国事務総督,長崎裁判所総督,長崎府知事を歴任,翌2年外国官知事,ついで外務卿となった。明治6年,露国駐在特命全権公使に任じられたが,赴任に先立って9月27日死去した。享年37歳であった。東京都文京区小石川にある伝通院に葬られた。

 沢田  亀 (さわい かめ)
 文久3年~昭和23年(1863~1948)女子教育者。文久3年2月5日高知市石立に,土佐藩士笹村茂之の長女として生まれる。明治12年郷士沢田栄之助に嫁し,4人の男児をもうけたが,同26年夫死去。自宅で裁縫教授,同27年小学校専科教員免許を得て小学校に勤務,同31年上京東京裁縫女学校(現東京家政大学の前身)に入学,同33年卒業帰郷,小学校に勤務していたが,翌年単身松山に移り,沢田裁縫伝習所を開いた。生徒増により私立沢田裁縫学校を設立校長となり,同35年9月認可され,のち沢田裁縫女学校と改称。同37年高知の家を整理,松山に永住することになる。県内各地から子女が集まり,市内南堀端町に寄宿舎を設置。同41年船田ミサヲの家政女学会と合併して愛媛実科女学校を設立,同44年勝山高等女学校と合併して済美高等女学校を創設,社団法人済美女学会の理事として経営に当るとともに,裁縫・修身・なぎなたを教えた。勤勉倹約,ぐちをこぼさず,人間味豊かで,躾は厳しく反面慈母の愛情をもって,晩年まで寄宿舎の舎監として生徒の訓育に当った。昭和23年3月26日死去。 85歳。

 沢田 保富 (さわだ やすとみ)
 明治23年~昭和22年(1890~1947)軍人。明治23年温泉郡桑原村大字正円寺(現松山前正円寺町)に生まれる。松山中学校を経て,大正2年陸軍士官学校を卒業。歩兵第21連隊付となり,シベリア出兵にも従軍した。同14年陸軍大学校を卒業後は,歩兵第11連隊大隊長・澎湖島要塞参謀・歩兵第43連隊付・野戦鉄道司令部付(ハルビン)を歴任した。昭和13年7月には歩兵第62連隊長となり,改めて軍旗を拝受し華北に転戦した。この連隊は軍縮により一度は廃止されたが,この時再編成されたもので,第21師団(青森)の隷下ながら四国の兵員をもって編成され,第1大隊は松山で編成が行われた部隊であった。連隊は津浦線一帯の治安維持に任じ,蘇北作戦・于学忠討伐作戦などが行われた。同15年8月,留守第5師団参謀長に転じ,同16年には第7歩兵団長,太平洋戦争ぼっ発後は第2船舶輸送司令官・第5船舶輸送司令官として,フィリピン方面の輸送に活躍した。昭和19年4月以降は内地に在って船舶兵団長・教育船舶兵団長を務め,同20年4月,中将に昇進した。終戦後病を得て,同22年3月没。享年57歳。墓所は松山市正円寺1丁目,正円寺墓地。

 沢両 東四郎 (さわりょう とうしろう)
 明治16年~昭和43年(1883~1968)教育者,地方行政者。伊予郡上唐川村長崎谷(現伊予市)に生まれ,明治36年,愛媛県師範学校卒業。伊予郡内の小学校訓導,校長を歴任し,昭和6年,松前尋常高等小学校長を最後に49歳で退職した。 29年間,終始熱意をもって子弟の教育にあたり,その間,愛媛教育協会伊予部会の会長として郡教育活動の中核として功績があった。とくに義農作兵衛の顕彰に力を注ぎ,郷土教育の資料作成,研究に大きく寄与した。退職後は,南山崎村で農業を営み,唐川砥の谷約100ヘクタールの山林の管理権獲得に村長と協力し,昭和6年その念願を果たした。昭和12年から昭和15年にかけて,南山崎村助役として村行政に尽力,更に戦後,砥の谷国有林の払下げや,開墾問題の処理に大きく貢献した。また,郷土史の研究にも終生情熱をもって努力した。昭和43年4月28日, 85歳で没した。

 寒川 鼠骨 (さんかわ そこつ)
 明治8年~昭和28年(1875~1953)俳人。明治8年11月30日,松山市三番町に旧藩士朝陽の第3子として生まれる。本名は陽光。中学時代,碧梧桐から『七艸草』を見せられ子規を知り,明治28年,京都の第三高等学校に在学中,子規を神戸の病院に見舞ったのが,子規との最初の出合であった。三高を中退し,新聞「日本」に投句を始め,子規から「敏捷」と評された。明治30年,大阪朝日新聞に入るが翌年子規のすすめで「日本」に入社。同33年,署名入りの記事「新囚人」の筆禍事件で入獄し,出所後その体験を「ホトトギス」に発表し各新聞から激賞された。世話好き,話上手の鼠骨は病床の子規にはなくてはならぬ存在で,子規没後は根岸の子規庵保存に生涯をささげ,大正15年子規庵を新築し,子規の母,妹を迎え,戦災後もほとんど独力で復旧した。昭和28年8月18日子規庵で死去。享年78歳。子規遣墨集や分類俳句全集などの出版につとめ,子規顕彰に力を尽くし,自著としても『写生文作法』『柿の葉』『寒川鼠骨集』『正岡子規の世界』など30余種がある。東京根岸子規庵内に句碑がある。