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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 江木 康直 (えぎ やすなお)
 生年不詳~明治7年(~1874)山口県士族,愛媛県誕生時の県政を担当した。明治5年1月20日,宇和島権令間島冬道の補佐役権参事に任命され,3月1日宇和島に赴任,旧宇和島・吉田・大洲・新谷諸県との事務引継に当たった。5年6月23日宇和島県は神山県と改称,7月25日神山県参事となり,同県政を担当した。6年2月20日神山県・石鐡県が統合して愛媛県誕生と共に愛媛県参事を拝命,22日権参事大久保親彦らを帯同して宇和島から松山に着任した。地位は参事のままであったので地方長官の列に数えられていないが,県令・権令の居ないままに初期県政の最高責任者であったとして初代地方長官に加える史家も少なくない。高知県との篠山・沖の島県境問題や大区小区制の設定に当たるが,明治6年の大干ばつや区戸長の相次ぐ辞職騒動などで心労するところ多く,病に倒れて大久保権参事のなすがままになり,上役の権令岩村高俊赴任途中の明治7年12月12日没した。

 江島 為信 (えしま ためのぶ)
 寛永12年~元禄8年(1635~1695)江戸時代前期の今治藩士,のち家老。寛永12年日向国(今の宮崎県)飫肥で海老原為頼の次男として生まれた。通称三左衛門,のも長左衛門に改め,松風軒・山水と号した。京都に上り伊藤玄亀に兵学を,さらに江戸に遊学して古文辞学を荻生徂徠について修得した。寛文8年(1668)小泉三右衛門の推薦によって,今治藩に迎えられ,松平氏第一代藩主定房・第二代定時・第三代定陳に歴仕した。南朝の忠臣脇屋義助(新田義貞の弟)の逝去した国分寺畔に墓碑を造営して,その忠節を顕彰した。また『新田系譜』1巻を編集し,同氏の事績を明瞭にした。貞享元年(1684)定陳にも進講し,同藩の文運の振興につとめた。甘薯を飫肥よりとり寄せ,越智郡大島に試植した。彼は累進して家老となり,俸禄500石を給与された。彼は文才にも長じ,俳諧を西山宗因に学び,俳人として名を知られた。元禄8年(1695)60歳で逝去し,芝新銭座に葬られた。今治海禅寺に遺髪を納めた供養塔がある。

 衛門 三郎 (えもん さぶろう)
 四国遍路にまつわる伝説上の人物。伝承の文献上の初見は,石手寺所蔵の板上に刻された永禄10年(1567)の安養寺由緒書(いわゆる刻板文書)で,それには以下のように記されている。「天長八辛亥載(831) 浮穴郡江原郷右衛門三郎,利欲にして富貴を求め,悪逆にして仏神を破る故に八入の男子頓に死す。それより剃髪して家を捨て四国遍路に順う。阿州焼山寺の麓において病死するに及び,一念して伊予国司を言望す。爰に空海和尚,一寸八尺の石を切り,八塚右衛門三郎と銘し,左手に封ず。年,月を経,国司息利に男子生寸。家を継ぎて息方と号す。件の石,当寺本堂に置かしめ畢ぬ。」近世以降,この伝承は各地に広まり,その過程でさまざまな変型を生じた。たとえば,「石手寺略縁起」や「阿波焼山寺伝説」には,貪欲な衛門三郎が,ある時門に立った乞食僧(弘法大師)を追い払おうと杖でたたこうとしたところ,杖が鉢にあたって八つに割れ,八人の子が次々に死んだと説かれている。いっぽう『四国遍路日記』などでは,衛門三郎は河野氏から石手寺の掃除のために付け置かれた者とされ,彼が無双の悪人であったので,その教化のために弘法大師が乞食僧の姿をして石手寺を訪れたとされている。いずれにしても,安養寺から石手寺への寺名変更を説明すると同時に,同寺と河野家の縁の深さを強調しようとする説話が,四国遍路の功徳を説く説話に転化していったものと思われる。なお,江原(荏原)郷の故地松山市恵原町にある八つの塚(実は古墳時代後期の古墳群)は,相ついで急死した衛門三郎の8人の子の墓であり,47番札所八坂寺に近い番外札所文殊院徳盛寺は菩提寺であると伝えられている。

 英   道 (えいどう)
 明治15年~昭和50年(1882~1975)周桑郡周布村(現東予市)密乗院(真言宗醍醐寺派)住持。諱は鑁仁,明治15年讃岐の細川氏の一族として生まれた。明治43年密乗院に嗣席して昭和41年まで在住。のち総本山醍醐寺座主(98世),三宝院門跡(49世),そして真言宗醍醐寺派管長(8世)となり,昭和50年93歳で遷化した。

 榎本 其角 (えもと きかく)
 寛文元年~宝永4年(1661~1707)のち宝井氏。名は侃憲。通称平助,源蔵など。別号螺舎,晋子など。江戸に生まれ,延宝初年芭蕉に入門,随一の高弟となる。華やかさ,細みを好み,洒落風の祖と言われる。彫棠,粛山ら在江戸の松山藩士の人々が其角門に入った。元禄5年其角の縁で芭蕉を彫棠邸に迎えて,「打ちよりて花入れ探れ梅椿」と芭蕉が発句,亭主の彫棠が「降りこむままの初雪の宿」と脇句を詠み,第三を其角が「目に立たぬつまり肴を引替て」と詠んだ懐紙を伝えて,明和7年青梔がこれを納めた「花入塚」を石手寺に建立したことは有名である。その他其角とその弟子が伊予に与えた影響は大きい。

 遠藤 石山 (えんどう せきざん)
 天保3年,~明治40年(1832~1907)天保3年7月13日小松藩士の家に生まれる。通称徳蔵。瑛玉とも号した。近藤篤山に学び19歳のとき江戸に出て昌平黌に入り,帰郷後は藩校養生館の教授となる。幕末,勤王の士として京阪を奔走。維新後,風早,竹原,尾道,泉川,宇和島に私塾を開いた。書画にも堪能。明治40年11月18日75歳で死去。

 遠藤 広実 (えんどう ひろざね)
 天明4年~文久2年(1784~1862)絵師。遠藤広古の子として生まれ幼名を古致,通称を伴助といい,住吉派五代広行の教えを受け,父の跡を継ぎ松山藩絵師となる。文久2年5月26日, 78歳で没す。彼の弟子に桂心・桂丹がおり,その子広賢は住吉宗家を継ぎ八代の当主となる。江戸の住古派は伝統的な大和絵を基礎に早くから狩野の筆法を加え新様式を確立している。ところが広実のころ,つまり江戸時代も後期に入ると伝統的な大和絵・狩野派を圧して,写生派・南画など新傾向の活動が活発になる。広実はその時代感覚を積極的に取り入れ,住吉派の正統に清新な写実を加え,同派の第一人者といわれ,愛媛の絵画史にも独自の生彩を放つ。彼の代表作の一つ,「久万山絵図」(久万美術館蔵)三笠は久万山各地名勝の真景図でその清新瀟洒な画境を見事に示している。

 遠藤 広古 (えんどう ひろふる)
 寛延元年~文政7年(1748~1824)絵師。江戸に生まれ,広起ともいい,蝸慮と号す。寛政のころ松山藩絵師となり,文政7年11月17日,76歳で没す。平安以来日本伝統画流を大和絵といい,その主流を土佐派,その一支流に住吉派がある。土佐派十五代光則の弟広通(如慶)が中絶していた住吉派を再興し,江戸に移り幕府の奥絵師となる。それより四代を経た住吉広守門下の俊英が遠藤広古である。松山藩の絵師は初代の山雪以来明治に至るまで,代々狩野派の絵師が引継ぐ,ところが,その途中,大和絵系の絵師,遠藤広古・広実父子二代が加わっている。朝廷や幕府は別とし,一地方の藩でこうした両派の併用は異例であり,江戸時代も中期,ようやく文芸興隆の時両派の併用は当地の文化に多彩さを加え,大いに歓迎されたものとおもねれる。彼の遺作は今もかなり多く,花鳥人物を得意とし,狩野の筆法を取り入れた気宇広大な力強い作から,大和絵の正統を行く緻密な表現まで画域は広いが,あくまでも住古派の格調高い本格派である。


 遠藤 良貞 (えんどう よしさだ)
 明治3年~昭和16年(1870~1941)北伊予村長・県会議員。明治3年2月10日,伊予郡徳丸村(現松前町)で生まれた。 29年北伊予村会議員,31年同村収入役, 35年助役にそれぞれ就任した。大正3年8月県会議員に選ばれ,立憲同志会に属して8年9月まで在職した。大正11年1月~13年9月と昭和3年10月~7年10月の間北伊予村長として村政を担った。昭和16年1月18日70歳で没した。