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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 内海 淡節 (うつみ たんせつ)
 文化7年~明治7年(1810~1874)松山出身の俳人。文化7年松山藩士内海多次郎の子として生まれる。愛之丞と称した。相応軒・花の本とも号す。仕官をやめて上京,桜井梅室に師事し,梅室の養子となったが,後旧姓に復す。花之本脇宗匠となり,洛北一乗寺芭蕉庵に入った。明治5年帰郷して地方俳人の指導に当たったが,3年後に再び上京し,京都を中心に活動した。『青客帖』を編し,其戎の『あら株集』に序文を寄せ,『逐波集』『知那美久佐』等に出句する等伊予俳壇との関係も深い。明治7年6月14日64歳で没した。その養子(娘婿)の良大も花の本七世を継ぎ,『俳諧発句明治集』(明治13年)等を出して活躍した人である。良大は明治25年9月14日没,59歳。

 宇喜多 秀穂 (うきた ひでは)
 生没年不詳 畜産功労者。香川県の生まれ。明治28年(1895)上京して津田仙の開いた営農舎農学校に学び,明治12年卒業して愛媛県庁(そのころは讃岐は愛媛県の内であった)に奉職し産業指導に従事していた人で,はやくから畜産業の振興に意を注ぎ,上司に献策して明治19年獣医学講習所を設け,自ら講師となり40余名の講習生を養成し,更に県下数万の家畜飼養者を説いて七千余円の資金を募り,翌年の20年12月文部大臣の認可を得て愛媛県立獣医学校を創立した。当時我が国に於て獣医学専修の学校は国立の東京駒場の獣医学校以外にはなく地方では実に最初の獣医学校であった。かくして68名の卒業生を送り出したが,開校5か年にして廃校の止むなきに至ったが,宇喜多が養成した獣医師は講習所当時の卒業生と併せて110余名に達し,ある者は陸軍の獣医官となり,また地方官庁に入って畜産行政に従事し,ある者は民間にあって家畜の診療あるいは改良増殖に従って,明治,大正期の畜産振興の基盤を築き上げた人々であって,ひとえに翁の卓見の賜であり,実に本県獣医師の育ての父ともいうべき人である。翁はその後実業界に入り諸々の産業会社に参画して重要なる役割を果たしたが,その偉大なる功績を不朽に伝えるべく,薫陶を受けた卒業生が相謀って,昭和4年11月松山城地,長者が平に寿像並びに頌徳碑が建立され,その後昭和62年愛媛県獣医師会によって碑は愛媛大学農学部「ゆうかり会舘」前の庭園に改築移転された。

 宇佐美 淡斎 (うさみ たんさい)
 寛延2年~文化13年(1749~1816)松山藩町奉行。寛延2年1月28日生まれ,名は正平,通称源兵衛。藩目付役,三津浜・松山町奉行を勤める。父は俳人でもあった宇佐美幾杯。丹波南陵に儒学,僧明月に詩文を学んだ。人間味あふれる奇行が多く,それは『去り睡草』に録されている。詩作を好み,漢詩集5篇があったが今は伝わらない。芝居も好きで,自身も『出世奴孫子軍配』『鎌倉山星月夜』の浄瑠璃を作った。前者は曽孫に当る内藤鳴雪が雑誌「日本及び日本人」に紹介した(県史文学資料編参照)。鳴雪もまた本誌解説で詳しく淡斎を紹介している。『愛媛文学手鏡』にもその一端を紹介した。文化13年12月12日没。67歳。


 宇田川 楊軒 (うだがわ ようけん)
 享保20年~寛政5年(1735~1793)川之江儒医。尾藤二洲,長野豊山の旧師。享保20年川之江に生まれる。父宇田川毅斎は,古医法を後藤艮山に儒学を伊藤仁斎に学んで「儒と医は根本に於て同じ」と断じ「一本堂」と号した香川修庵の門人である。
 楊軒,諱は之龍,字は子雲。養軒,南海とも号した。尾藤二洲は楊軒を「括嚢先生」と呼んでいる。括嚢とは「ふくろの口を結ぶ」ことで世に出ぬ意である。
 若くして父を亡くしたが,京に上り,香川氏に学び帰郷して川之江に開業した。
 従って儒学は,古学派であるが,当時天下に流行していた荻生徂徠の崇信者であった。資性すこぶる謙抑廉退,人と是非を校べず,博く古書を渉り,喜んで詩文を作り,村医に甘んじた人である。
 尾藤二洲の「宇処士墓誌銘」に「既にして還り,門を閉じて講習す。里人稍々その能を知り延請日に広く声文遂に南州に盛なり。而れどもその意之に居るを欲せざる者の若し。粛然として自ら潜めり焉」(原漢文)とある。また長野豊山もその著『松陰快談』(巻三)に「吾が郷に宇南海先生なる者有り。人と為り温厚澹雅にして毫も鄙吝の気無く,詩を作るに清麗なり」(原漢文)と述べている。
 後に朱子学の泰斗となり,昌平黌の教授となって「寛政異学の禁」を推進した旧門弟尾藤二洲の懇切丁重な朱子学への転向の再度の慫慂にも動ぜず,医業に励むかたから「医に於てトに於て君自ら晦まし……南窓北窓,随意に眠る」(原漢詩,尾藤二洲「括嚢先生に寄せ奉る」『清寄軒集』)境地を楽しみ,古文辞学を悦び,寛政5年6月5日58年の生涯を閉じた。
 長野豊山は,「教悔愛撫至らざる所靡き楊軒を徳とし君子人と呼び,その詩を郷人今に至るまで伝誦す」とたたえている。

 宇都本 市蔵 (うつもと いちぞう)
 明治9年~昭和22年(1876~1947)歯科医師・県歯科医師会長。明治9年8月8日浮穴郡東川村(現上浮穴郡美川村)で生まれた。明治33年松山市出淵町で歯科医院を開業した。明治40年7月~大正15年6月県歯科医師会副会長として会長西田福十郎を補佐,大正15年6月二代目会長になり昭和20年1月まで在任した。その間,昭和3年以来ムシ歯予防デーの実施,4年全国で最初の県歯科医師会館の建設, 5年県学校歯科医師会の結成などに尽力した。昭和22年2月9日70歳で没した。

 宇都宮 音吉 (うつのみや おときち)
 明治14年~昭和38年(1881~1963)医師。久万町公民活動功労者。明治14年9月15日,上浮穴郡東明神村(現久万町)で宇都宮又三郎の四男に生まれた。独力で学を修め青年団活動に従事した。日露戦争従軍後,一念発起して明治40年東京医学校に入学,43年卒業して温泉郡中島町ついで伊予郡郡中町で開業した。大正5年郷里久万町に帰り,「医は仁術」を実践して患者の治療に当たり,学校医として児童生徒の健康管理に力を注いだ。昭和36年には学校保健功労者として文部大臣表彰を受けた。傍ら久万町消防組頭,方面委員として地域住民の民生保護に努め,戦後は久万町・上浮穴郡社会福祉協議会長・町教育委員長などを歴任して町民の福祉・文化・教育などあらゆる分野にわたり献身的に奉仕した。また昭和29年「浮穴史談」を発刊して郷土史の発展に努めた。その間,県知事・厚生大臣表彰などを数回受け,28年には藍綬褒章を受章した。昭和38年12月8日82歳で没した。

 宇都宮 角治 (うつのみや かくじ)
 寛政11年~明治11年(1799~1878)高山石灰業の開祖。宇和郡高山浦(現東宇和郡明浜町)で生まれた。本名辰右衛門。嘉永元年~3年土佐で石灰焼きを習得,帰郷して小僧都に窯を築き石灰製造を開始した。製造が軌道に乗ると同志の指導に専念し,村人から親しみと尊敬を受けた。また組合を作って販路の拡大に努め,「伊予高山石灰」の名を高めた。明治11年2月79歳で没した。昭和52年この高山石灰業の開祖を顕彰するために頌徳碑を建立した。

 宇都宮 孝平 (うつのみや こうへい)
 明治30年~昭和63年(1897~1988)戦時下青森県知事を務め,昭和38年から3期12年間松山市長を歴任した。明治30年5月6日喜多郡内子町で生まれ,松山中学校・第七高等学校を経て大正12年東京帝国大学法学部政治科を卒業した。在学中に高察文官試験に合格,東京府属となって庶務課・上木課に勤務した。1年間志願兵で入隊した後,同14年兵庫県警視に復活,社会局事務官,内務省警保局事務官,兵庫県事務官,青森県学務部長,内閣賞勲局書記官,内閣東北局長を経て,昭和18年3月青森県知事に就任した。戦時下資材不足の中「ネブタ祭り」を継続しで県民に感謝されるなどのエピソードを残して,19年8月退官した。戦後,井関農機の顧問・役員などを務めた。昭和38年5月現職の黒田政一を破って松山市長に当選,3期12年在職して,石手川ダム・市民会館の建設,松山城の復元,中央卸売市場の設営,松山南部環状線の建設など市勢の伸展と市民福祉の増進に務めた。昭和50年5月市長を勇退,52年松山市名誉市民の称号を受け, 53年勲二等瑞宝章を受章した。昭和63年5月18日91歳で没した。

 宇都宮 貞泰 (うつのみや さだやす)
 生没年不詳 鎌倉時代末期~南北朝時代の武士。伊予国守護宇都宮貞宗の弟。遠江守。法名蓮智。宇都宮氏は,下野国宇都宮郷を本拠とする豪族で,鎌倉時代を通じて伊予国の守護職を相伝してきた一族である。
 鎌倉時代末期,喜多郡地頭であった貞泰は,元弘3年(1333),反幕府方の忽那重清らに攻められ,喜多郡根来城に拠って戦うが陥落。南北朝内乱には足利尊氏に従い,室町幕府下で直勤御家人(引付衆・評定衆)となる。西禅寺文書中の観応3年(1352)6月23日の「蓮智置文」によると,喜多郡一円の検断権を掌握していたとみられる。

 宇都宮 丹精 (うつのみや たんせい)
 文政5年~明治42年(1822~1909)俳人。喜多郡滝川村(現長浜町)に生まれ,幼名柳三郎。20歳で出家し京都三宝院に入り,帰郷して長浜の竜泉寺31世を継ぐ。安政4年36歳で還俗し,松山に転任。易業のかたわら俳句に親しみ,内海淡節の門下となる。明治26年,子規が東京から自作の句10句を丹靖のもとへ送り添削を求めて以来交友がはじまる。子規が同28年喀血して療養のため帰省して二人は初めて会う。時に丹靖74歳,愚陀仏庵の北隣に住んでいた。以来子規に傾倒し,新聞「日本」にも投句を続ける。大原其戎,奥平鴬居の没後,黒田青菱とともに松山俳壇の中心的人物であった。明治42年8月24日没,87歳。

 宇都宮 豊綱 (うつのみや とよつな)
 生没年不詳 戦国時代末期の喜多郡の領主。宇都宮氏は,鎌倉時代に伊予国の守護となった下野国の御家人宇都宮氏の一族が土着して領主化したもので,豊綱はその末裔。はじめ弥三郎と称し,永禄年間ころ遠江守の官途を得た。天文初年の三崎安芸守宛大友義鑑書状に豊綱とみえるのが初見で,天正5年(1577)までの存在を確認することができる。大津(のもの大洲)地蔵嶽城を本城とし,周辺には,八幡城,菅田城,滝ノ城など多数の支城が所在していた。地蔵嶽城の地にはのちに大洲城が建造されたので,中世の遺構はほとんど残っていない。
 永禄11年(1568)には,娘婿の土佐国幡多郡の一条兼定と結んで河野氏に反旗を翻し,喜多・宇和両郡の境の鳥坂峠で激戦を展開した。この時,河野氏を支援した毛利氏の軍勢の攻撃によって地蔵嶽・八幡両城が落成した。この敗戦ののち,備後国三原に追放されて,そこで病死したとも,のちに家臣大野直之に城を追われたとも伝えられ,晩年の事績は定かでない。

 宇都宮 誠集 (うつのみや のぶちか)
 安政2年~明治40年(1855~1907)佐田岬半島の夏柑栽培の先覚者。誠集は安政2年5月8日,今の三崎町松の宇都宮半十郎の次男に生まれた。戸籍には次男とあるが,実際は三男で,長兄が夭折している。幼名を頼吉というと書いた論文があるが,これは誤りで,甥や姪の話では誠集には子なく,養子を従善と称したので混同したのだという。
 誠集は旅行好きで,16歳のとき大阪に出て漢学塾で学び,帰郷後は与侈の小学校の代用教員を勤めた。明治16年(1883)から郵便局に勤め,同19年に県下で最年少の局長となり,同38年まで勤務した。明治18年10月10日に「貯金勧誘文」を作成し配布している。「三崎駅逓貯金預処」宇都宮誠集(印)が伝宗寺の堀中哲一住職宅に保存されていた。文章が面白い。
 明治40年5月4日享年53歳で病死している。その間明治16年宇和島(須賀通り中臣次郎宅)で温州や夏柑を見て試植した。温州みかんは失敗したが,夏柑が有望なので,大阪近郊(摂津東野)より夏柑苗100本(1本1円50銭)を取り寄せ,自宅に近い唐岩に植え,又萩からも仕入れて村に普及した。「三崎町誌」には明治16年でなく,明治23年で,旅先の加古川で夏柑を試食し栽培を思いついたと書いている。誠集の夫妻の墓は三崎町の松にある。西に面して戒名は「天運院一道誠集居士」,南側に「明治四十年五月四日没,宇都宮誠集,行年五十三歳」とある。夏柑栽培の父として敬慕され,明治43年伊沢知事より果樹裁培功労者として追賞された。同年7月に,三崎の伝宗寺の近くに彰功碑が建てられた。宮脇鯉渓撰書で「宇都宮誠集翁果樹栽培彰功碑」が杉山 勝蔵・川口定松ら有志によって建立された。
 三崎の盆踊りに「だいたい音頭」というのがある。その文句には誠集と称している。宇都宮誠集は夏柑栽培の先覚者として,戦後中教出版社の小学校4年生用の教科書に採用された。誠集のことは「果樹園芸」(愛媛県青果連発行月刊誌)の17巻7号(昭和39年)の「人物コーナー」に詳しい。

 宇都宮 政市 (うつのみや まさいち)
 明治10年~昭和33年(1877~1958)弁護士・運輸実業家。明治10年3月10日,宇和郡布喜川村鴨山(現西宇和郡三瓶町)で生まれた。若くして上京,苦学して日本法律学校(現日本大学)を卒業した。弁護士試験に合格して東京で法律事務所を開業,大正12年東京市会議員に当選した。根津嘉一郎に見込まれて民間の鉄道事業に参画,下野電気鉄道・常総筑波鉄道社長のほか昭和土地専務,王子環状乗合自動車,日光登山鉄道重役などを務め,帝都周辺の交通事業に貢献した。昭和32年鴨山に簡易上水道の開設,共同作業場の建設に当たって私財100万円を寄付,地区の人々は作業場わきに頌徳碑を建てて感謝の意を表した。昭和33年8月5日81歳で没した。

 宇都宮 政一 (うつのみや まさいち)
 明治20年~昭和43年(1887~1968)化学染料功労者・旭化学工業創設者。明治20年12月19日,西宇和郡国木村(現八幡浜市)で宇都宮定治の6男に生まれた。家は「晒屋」の屋号で製蝋業を営んでいた。明治36年八幡浜商業学校の在学中米国へ渡り,働きながら学資を得,中学・高校を経てカルフォルニア大学に進み,更にコロンビア大学化学工業科を卒業した。同地の化学会社へ入社し,染料の研究に取り組み,新しい化学染料を開発した。大正11年帰国して,大阪で旭染料製造所(のち旭化学工業)を創立,硫化ブルー染料,オレンジ,イエローなど化学染料を開発して国産化に成功,染料工業の基礎を築くとともに我が国繊維産業の発展に大きく貢献した。この功により,大阪府産業功労賞・藍綬褒章・勲四等旭日章を受けた。郷土のためには近畿愛媛県人会長を長く務めた。昭和43年11月23日80歳で没した。

 宇都宮 勇太郎 (うつのみや ゆうたろう)
 明治30年~昭和45年(1897~1970)畜産・蚕糸功労者。明治30年10月18日東宇和郡野村町野村に生まれ,大正10年野村町産業技手に就任,当時は雄牛肥育を重点畜産としていたが,同15年に至り郡畜産組合の総会において酪農導入のための調査研究をすることが決議された。その後昭和8年野村町農会長となるも12年以降は戦乱時代と化し主殺偏重が続く中にも酪農への夢捨て切れず,18年2回にわたる先進地の視察の結果翌19年には有志適格者78名で構成する野村酪農実行組合(任意)を結成,自らが組合長となり,野村種畜場とタイアップして乳牛の導入を推進した。19年からは農業会長あるいは町長ともなり,直接間接に酪農業の指導奨励に尽酔し,生産に併行して処理販売事業も進み20年には明治乳業の生乳受入れ操業が開始せられるまでになった。次いで22年には酪農模範村の指定となり町専任畜産技師も設置された。23年野村町酪農業協同組合の結成に当たっては顧問となり後進の指導に当たっていたが, 26年7月野村町酪農業協同組合を発展的に解消し郡一円を区域とする東宇和郡酪農業協同組合の設立を見るに至って推されて組合長となり,同30年から一期県議会議員を勤めた。同年12月県畜産功労者として知事表彰を受け,また東宇和郡酪農振興対策協議会設立,酪農同志会の結成など数々の事績を残され,さらに酪農創業10周年記念事業として組合事務所を移転改築するなど,その功績は誠に偉大なものがあった。またこの外愛媛県酪農協会長あるいは東宇和郡蚕糸農業協同組合長など数多くの役職を歴任し,「ミルクとシルクの町 野村町」を築き上げた功労が買われ,36年11月黄綬褒章を受章するなど表彰,感謝状に輝く生涯であったが昭和45年10月24日73歳で他界した。

 宇都宮 利助 (うつのみや りすけ)
 明治20年~昭和38年(1887~1963)県会議員・宇和町長。明治20年12月10日,宇和郡川津南村(現東宇和郡城川町)で河野利三郎の次男に生まれ,36年8月上宇和村永長(現東宇和郡宇和町)宇都宮宇一郎の養子になった。酒造業を継ぎ,大正11年以来宇和町会議員を4期務め,昭和14年9月~22年4月県会議員に在職した。昭和27年8月宇和町長に就任,29年3月の6か町村合併による新宇和町誕生に尽力した。昭和38年3月6日75歳で没した。

 宇都宮 龍山 (うつのみや りょうざん)
 享和3年~明治19年(1803~1886)教育者。喜多郡新谷村(現大洲市)に生まれる。名は靖,通称清記。竹雪山房とも号した。大洲の儒官山田東海に学び,16歳のとき選ばれて江戸に遊学し,古河庵の門に入り,のち静岡の山梨稲川に学ぶ。帰郷して藩の意見と合わず脱藩をして,内子,松山と住居を変えて,のち備後に渡って三原,尾道で塾を開いたが,塾生はその門に満ちて龍山の名は遠近に聞こえた。三原藩主に招聘されて,政事にも参与し,献策して絲崎港を開いた。彼は詩文令書に長じ,母への孝養も厚く,偉名は一世に高かった。『竹雪山房詩紗』『開港夜話問答』などの著があり,明治19年8月11日死去。83歳。大正13年従五位が贈られる。墓は尾道市慈観寺にある。


 宇和川 宇太郎 (うわがわ うたろう)
 安政3年~明治35年(1856~1902)三内村長・県会議員。安政3年11月2日,下浮穴郡則之内村(現温泉郡川内町)で宇和川八三郎の長男として生まれた。明治16年則之内村戸長を務めた後,明治19年愛媛県師範学校を卒業して郷里の小学校で教職についた。明治27年4月三内村長に就任して32年8月まで村政を担当,里道改修を企て35年5月竣工,村民に多大の便益を与えた。明治35年12月11日46歳で没した。昭和3年村民が相議して三内農協前に記念の彰功碑を建てた。

 宇和川 浜蔵 (うわがわ はまぞう)
 明治17年~昭和30年(1884~1955)弁護士,松山市会議長,県会議員・議長。明治17年2月1日,下浮穴郡河之内村(現温泉郡川内町)で生まれた。松山中学校を中退して上京し,正則英語学校・国民英学舎を経て,35年東京法学院(現中央大学)に入学,同院2年生21歳のとき弁護士試験に合格した。38年岡村法律事務所で実地研修後39年松山で弁護士を開業した。 44年松山市会議員となり,以来昭和17年まで昭和初期の一時期を除いて在職,大正9年~11年,昭和5年~9年,10年~17年と三度議長を務めた。大正12年9月~昭和2年9月,6年9月~22年9月と4期県会議員になり,昭和8年11月~9年12月,13年12月~14年9月県会議長に選ばれた。党派は憲政会一民政党に所属,同県支部幹部の一人であった。松山弁護士会長などにも推された。昭和30年5月8日71歳で没した。

 鵜久森 熊太郎 (うぐもり くまたろう)
 明治16年~昭和24年(1883~1949)考古学者。明治16年4月1日温泉郡和気村太山寺(現松山市太山寺町)の仁王門左下の家に生まれる。明治30年ころ松山中学校に進み,海軍兵学校を志して成らず,退学して東上遊学したが,中退して考古学の大家鳥居龍蔵の助言で海軍の測量術を学ぶ。のち小松の法安寺跡を測図して国史跡の指定に尽力している。大正8年ころまで東京四谷にて伊予史料の収集研究に熱中,「伊予史談」に「熟田津所在考」を17号と19号に寄せ,昭和4年『和気村史稿』に同村古墳石室や遺物図など収載,翌5年「道後地方の遺跡・遺物」を「人類学雑誌」に,聖徳太子「道後行啓と久米寺」を「伊予史談」62号に寄稿,同6年以後,西条に逗留,東予地方の遺跡遺物を調査し「奈良原山経塚」「東予史研究の基礎問題」を発表,同13年角田文衛『国分寺の研究』に「伊予国分寺」を分担執筆,昭和15年2月ころ大島(現吉海町)大亀八幡矢野宮司宅に寄属して藤崎古墳や周辺を調査,また『佐方保及菊万荘』を著わして昭和18年以降岡山県金光に逗留,付近の黒土遺跡などを東大の山内博士や京大考古研究室の助力で調査,その成果を『高島聖蹟写真帳』に刊行。昭和24年7月29日金光町岡山大学分院で病没。享年67歳。この間穴熊の愛称をえた郷村を去って県内外に遍歴研究,東京大学・京都大学の考古研究室にも出入,粗衣粗食に甘んじ,家族も顧みず,橋下を宿とするを厭わず考古研究に精根を傾けた。その間にも唯一縷の望みを托した嗣子康氏が,東京高等師範学校(筑波大学の前身)を卒業直前病死後,その遺品参考書類を,高島黒土出土遺物と共に金光図書館に納め,わずかにその遺図をとどめている。

 上田 久衛 (うえだ きゅうえ)
 明治3年~昭和14年(1870~1939)明治3年11月24日喜多郡粟津村大字八多喜甲103番地(現大洲市)に生まれる。父は庄屋の上田久太郎,母は千代子の長男。字は正明。県立松山中学校卒業,慶応義塾に学ぶ。日清日露の戦争に応召。明治39年1月満州雄飛を志し,渡満し奉天に『上田○商会』を設立し,雑貨文具の貿易商を営み漸次大をなす。殊に人力車輸入の嗜矢者として名を挙げ,家紋入りの人力車を走らせた。明治39年6月より両替商を兼ね営む。大正5年6月上田○商会設立満10周年に当り張作霖より花瓶や掲額(上田商号十年記念,日新又新,張作霖祝)を贈られている。大正6年4月,渡満後初めて帰国郷里を訪ね,喜多郡長倉根是翼を通し,喜多郡に4,250円を寄贈している。
 昭和5年8月還暦を機会に,事業の経営を養嗣子正揵(上田謙吉の三男)に譲り帰国した。昭和6年井上要らの協力により,松山市大街道2丁目に,支那料理店真円園を開店した。昭和14年1月6日久衛は病気のため死去。 68歳。墓は郷里の大洲市八多喜の聖臨寺境内にある。
 久衛は文筆を能くし,和歌に心を託し,冊子「光栄」「故郷の錦」「上田○商会開業十周年記念誌」「日の丸」などを刊行し,関係者に贈っている。正義を愛し公共心に富み,郷土を大切にし,郷土の人を多く店員に採用し,多額の寄附を行っている。加屋の上田謙吉は久太郎の弟で,久衛の叔父である。謙吉は上田正の父である。大洲市八多喜の祇園神社には上田久太郎(1837~1901)の頌徳碑が建っている。

 上田 善淵 (うえだ ぜんえい)
 安永元年ころ~嘉永4年(1772ころ~1851)西条藩士,儒学者。初め八三郎・雄次郎,のち善右衛門。名は節,字は子成,善渕と号した。細井平洲(1728~1801)の弟子,師の平洲は尾張知多郡の出で漢学で身を立てるべく江戸に出て私塾を開いた,宝暦11年西条藩主松平頼淳より賓師として招へいされ,5人扶持を給された(明和3年10人扶持,安永4年15人扶持となる,平洲は明和元年より米沢藩主上杉薦山に招かれ,のち尾張徳川宗睦の待講となった)。平洲の教えをうけた者には大久保彦卿(音右衛門)・林忠助らがおり,善淵は忠助の推挙によって寛政4年,(20歳)平洲の塾に入った。彼は寛政11年より家中の武士に対し素読指南役を命じられた。文化7年父藤右衛門が没したので,翌年家督を相続した。善淵は松崎慊堂(1771~1844,肥後国出身の儒学者)とも親交があった。文政7年西条藩世子松平哲丸(頼学)の教育を松崎慊堂が引き受けたが,その際善淵は慊堂推挙の中心となったとされている。善淵は大久保彦卿らに続いて,天保3年学開所の教授役となり西条藩文教の基礎を築いた。慊堂の弟子渡辺璞輔をして山井崑崙の家名再興を実現させたのも,善淵の尽力があったとされている。善淵は常府であったらしく,西条で勤務することなく嘉永4年3月30日79歳で没し,東京目黒正覚寺に葬られた。善淵の談話を熊本藩の木下犀潭が筆録した『山窓閑話』は細井平洲の事蹟を知るためにも欠かせないものである。

 上田 宗一 (うえだ そういち)
 明治23年~昭和57年(1890~1982)医師・実業家・宇和島市長。明治23年12月22日,西宇和郡伊方村(現伊方町)で生まれた。大正4年肩山医学専門学校(現岡山大学医学部)を卒業して東京順天堂大学に勤め, 7年宇和島広小路に医院を開業した。昭和14年6月医業を休業して宇和島澱粉会社社長に就任した。 17年8月宇和島市長に就任,戦時中の困難のなか宇和島港湾修築工事を完成した。また陸海軍用機「宇和島市民号」を献納するなど大政翼賛運動の実をあげた。 20年空談により焼土と化した市街の復旧と罹災者救護に奔走して,21年3月退任した。その後,宇和島信用金庫理事長17年,伊達倉庫社長を28年間務めた。昭和57年8月8日91歳で没した。

 上田 武雄 (うえだ たけお)
 明治31年~昭和56年(1898~1981)明治31年1月3日,北宇和郡津島町に生まれる。大正4年広島県呉市の海成中学校を卒業し,大正13年北宇和郡岩松町役場につとめる。昭和24年日本画大阪有秋会会員となる。同26年には司法保護司となる。昭和5年津島町高田八幡神社の文化財調査に参加して以来, 50年の長きにわたり郷土の文化財の保存と保護に専念する。その間,同37年には津島町の文化財保護専門委員会議長,同40年には県の文化財保護協会常任理事に就任し,同45年には文化財功労感謝状を文化庁より受賞する。おう盛な研究心をもって郷土の文化財を調査研究し,県下にさきがけて文化財保護条例の制定に尽力する。同48年,南予文化団体連絡協議会副会長となり,同51年には町の文化財保護審議会会長となる。同55年愛媛県教育文化賞を受賞する。昭和56年12月10日83歳で死去。

 上田 名洲 (うえだ めいしゅう)
 嘉永6年~昭和13年(1853~1938)画家。嘉永6年1月2日,宇和島に生まれる。本名富太郎。宇和島藩校明倫館で学ぶ。自由党の壮士として自由民権を唱え,政治に奔走したこともあった。明治34年,西宇和郡立八幡浜商業学校が創立されると,書道・漢文・絵画・歴史の教師として招かれ,栗野浦に居住した。以来28年間,教職にあり,特に書道教育に熱心であった。南画は,野田青石に学び,多くの作品を残している。昭和13年11月23日死去,85歳。墓地は宇和島市内大谷口にある。

 上原 専禄 (うえはら せんろく)
 明治32年~昭和50年(1899~1975)歴史学者・一橋大学学長。明治32年5月21日京都西陣の商家に生まれた。小学校3年から大正5年松山中学校を卒業するまでの9年間,大街道で薬種商を営んでいた叔父の家に寄寓,松山を第二の故郷とした。東京高等商業学校・ウィーン大学を卒業,ドイツ中世史を専攻して昭和35年まで母校一橋大学で経済学・西洋史を教え,同大学長に就任した。昭和20年代後半,平和運動・民主主義を守る運動に参加,国民文化会議の議長を務めた。 60年安保闘争では学者・文化人グループの思想的支柱の1人であった。安保後の状況変化,夫人の死をめぐる医療の実態などで衝撃を受け,46年以降消息を絶ち,昭和50年10月28日76歳で没した。『日本人の創造』『平和の創造一人類と国民の歴史的課題』『歴史学序説』など多数の著書がある。

 上松 栄吾 (うえまつ えいご)
 寛政12年~安政元年(1800~1854)改良米の功労者。
 和気郡堀江村大栗(現松山市東大栗町)。嘉永2年(1849)4月,四国霊場八十八か所を順拝の途次,土佐国幡多郡(現高知県)の山間で,稲茎の甚大な1株を見つけ, 3条の穂を選抜して持ち帰り,里正の河内又次郎から,田地提供をえて,翌嘉永3年試作の結果,強稈・無芒・大粒・多収・光沢は透明で,米質も良好で,酒米にも適する優秀な品種が育った。
 栄吾は霊場順拝の途で入手したことを考え,これこそ大師の恵みと感じ,「大師米」と呼称していたが,この稲が近郷近在に栽培面積を拡大するに及び,一般に「栄吾米」と呼ばれるようになった。
 「栄吾」は近世末から明治にかけて,大阪市場でも「伊予栄吾米」として高く評価され,明治21年大阪堂島米商会で調査の「外国輸出用として最も著名なる米種」の中に,本県では東宇和郡地方で栽培されていた「水戸」と掲載されている。また,栄吾は白玉・都・高砂と共に優秀4品種の1つに数えられ,明治時代には山口県にも普及していた。
 上松栄吾は,安政元年12月2日に54歳で病没(戒名,雪霜覚佑信士)したが,明治22年4月,栄吾の35回忌に有志により,東大粟医座寺山門に「改良米元祖上松栄吾之墓」,70回忌の大正13年4月には,大上山山腹に,大倉安太郎・門屋文一らによって自然石の墓碑が建てられ,栄吾の恩徳が伝えられている。
 医座寺の寺田の一部で,今日まで毎年「栄吾米」の栽培が続けられている。

 植木 秀幹 (うえき ほみき)
 明治15年~昭和51年(1882~1976)林学者。喜多郡柚木村(現大洲市柚木)で明治15年7月26日に生まれる。明治37年(1904)東京帝国大学農学部卒業。明治40年から昭和20年。(1907~1945)の間,水原農林専門学校教授として朝鮮の林業発展に寄与した。戦後,愛媛県に帰郷し,愛媛県立農林専門学校,愛媛大学教授として,学生の指導と樹木学・造林学の発展に貢献した。昭和31年(1956)退官後も名誉教授として後進の指導育成にあたるとともに,「木を愛する会」の会長として県民の植物愛護,自然保護の精神の育成に専念した。なお,朝鮮及び日本で発見した植物の新種,新品種などとして認められた種は約150種に及び,日本を代表する植物学者でもある。県内では,アイグロマツ,アイアカマツ,オニツルボ,ナガミコナラなどが有名である。愛媛県教育文化賞を受賞し,大洲市名誉市民となる。昭和51年1月12日死去。93歳。

 植松 暢美 (うえまつ あきみ)
 弘化2年~大正4年(1845~1915)県会議員・副議長。弘化2年9月1日新居郡飯岡村(現西条市)に生まれた。商業・質屋を営み,明治16年3月村上桂策の辞任に伴う補欠選挙で県会議員になり,17年3月まで在職した。19年3月再度県会議員になり, 29年3月まで在職,27年4月~29年4月副議長を務めた。国会開設を前にした大同団結運動の時期には工藤干城らの三大事件建白書の署名活動に奔走,大同派の結社東予倶楽部を結成し,のち自由党に所属した。大正4年8月22日69歳で没した。

 植松 イマ (うえまつ いま)
 明治8年~昭和21年(1875~1946)貯蓄の高揚に努めた地方改良功労者。明治8年7月香川県三豊郡和田村に生まれ,宇摩郡三島村植松米吉に嫁した。明治40年7月悪性網膜炎に侵され失明寸前であったが,京都帝大病院で奇跡的に全快した。失明を救われたのは国家社会の賜と悟るところがあり,瑞宝寺の近藤愚道和尚の勧めで貯蓄運動の高揚普及に身命をもって奉仕奔走,「貯金婆さん」と称されて,人を動かし地域の貯金率を高めた。早朝町内を一巡して反古屑を拾得してこれを売り,筆墨を買って貧困児童に与え,行路病者に医薬を投与してこれを看病するなど善行を重ねたので,大正6年地方改良功労者として異例の知事表影を受けた。昭和21年1月17日70歳で没した。昭和30年10月有志により伊予三島市の三島公園内に頌徳碑が建てられた。

 魚本 藤吉郎 (うおもと とうきちろう)
 大正6年~昭和63年(1917~1988)外交官。八幡浜市で大正6年11月29日生まれる。昭和10年八幡浜商業学校を卒業し,山口高等商業学校へ進み,昭和16年東京商科大学(現一橋大学)を卒業する。同年外務省に入り,同47年シンガポール大使となり,以後,同51年エジプト,同53年ソビエト連邦大使を歴任,同57年退官し,昭和59年から財団法人交流協会理事長を務める。同62年,愛媛県功労賞を受賞するとともに,愛媛県生活文化県政推進懇談会の顧問にもなっていた。国際性豊かな経験をもとに県勢の伸展に尽力する。昭和63年3月31日死去,70歳。

 魚本 義若 (うおもと よしわか)
 明治29年~昭和49年(1896~1974)県議会議員・八幡浜市長・愛媛県機船底曳網漁業の功労者。明治29年9月21日,八幡浜町向灘,父魚本伊作,母ヨ子の次男として生まれる。明治44年西宇和郡矢野崎村立矢野崎尋常高等小学校を卒業して半農半漁の家業に従事した。幼少のころより進取の気性に富み地元の指導者より積極的な薫陶を受けつつ,青年団長として文化活動や地域開発に熱意を注いだ。昭和4年から漁業を自営したが,特に昭和15年4月以来皆無となっていた本県の2そう曳機船底曳網漁業が太平洋戦争末期の昭和19年に国が食糧増産と,たん白源確保対策の一環としてうち出した同漁業の解禁と許可権限の知事への移管を契機に魚本義若の第一・第二八幡丸,菊池宏の第五・第六金比羅丸等7統が許可され,終戦前後の食糧難時代の救世主的役割を演ずるとともに,昭和21年5月には同業者を糾合して,愛媛県機船底曳網組合を組織し,その組合長に就き,さらに昭和24年8月には新たに制定された水産業協同組合法に基づく愛媛県機船底曳網漁業協同組合が設立されるとその初代組合長に就任した。さらに昭和27年の機船底曳網漁業取締規則の改正に伴い,15 t以上の底曳網で新たに組織された日本西海漁業協同組合の組合長として,今日の沖合底曳網漁業育ての親として偉大な足跡を残した。また地方自治においては大正15年弱冠29歳で矢野崎村村会議員に当選したのを皮切りに八幡浜町会議員・同市会議員を径て昭和13年~22年,30年~34年の間愛媛県議会議員を務め,さらに昭和38年5月~42年4月の間八幡浜市長に就任し,市の振興のため,港湾施設の整備に尽力し,フェリー桟橋を建造して九州との海上交通の拠点としての地位を確立した。これらの功績により昭和45年11月3日に勲五等双光旭日章の栄に浴している。魚本翁の長年にわたる社会的活動を通じて多大の恩顧を受けた同志の手によって昭和46年10月同市愛宕山に頌功碑が建造せられ,その功績を永く後世に伝え名誉を不朽のものとしている。昭和49年10月7日78歳で没した。

 潮見 琢磨 (うしおみ たくま)
 安政元年~大正3年(1854~1914)神道家・歌人。碧城,静の舎と号す。山口県都濃郡の村上家に安政元年生まれ,長じて潮見清磨の養子となる。清輛は伊勢神宮の神官で,松山に来住して神宮教を弘めた。琢磨も明治8年松山に来住し, 20年ころ神宮奉斎会を創立して初代会長となり神宮教の普及に努めた。琢磨は幼くより学を好み,漢詩文をよくしたが,後清鞆に国学を学び,和歌に転じた。師岡正胤を招聘して「奨弘新誌」を創刊し,歌壇を設けて和歌の振興にも努めた。正胤は30年病のため帰京したが,後琢磨は寄せられた詠草の添削など編集に骨身を惜しまなかった。大正3年3月60歳で没し,千秋寺に葬られた。和歌漢詩文をまとめた『静廼舎遺稿』三巻がある。

 歌原 蒼台 (うたはら そうだい)
 明治8年~昭和17年(1875~1942)俳人。松山市湊町に生まれ,本名は恒(ひさし),父は子規の曽祖父歌原松陽の次男で,子規とはいとこはんに当たる。上京して明治義会中学校・一高に学び,3年で中退,やはりいとこはんに当たる藤野古白に俳句を学び,のち子規にも師事する。一時松山中学校の教員もしたが,明治41年朝鮮に渡り,大邱で農園を経営しながら大邱府立図書館長も務めた。昭和11年,かつぎ吟社を結成,同14年には朝鮮民報の俳壇選者ともなり,晩年まで「ほととぎす」に投句をつづけ子規の流れを汲む写生道を堅実に歩みつづけた。同16年帰国,同17年5月2日,松山市小栗で死去。 67歳。

 内田 音四郎 (うちだ おとしろう)
 明治25年~昭和42年(1892~1967)農業改良技術者。明治25年4月4日香川県三野郡財田大野村(現三豊郡山本町)で生まれる。明治43年宇摩郡立農林学校卒業と同時に愛媛県立農事試験場見習生として入場,大正3年農事試験場助手を拝命,いらい昭和21年3月まで試験場に勤務。米麦の育種改良に心血を注ぎ数々の名品種を育成するほか,米麦作技術の研究改良に専念,品種改良の父,米麦作の神様として畏敬される。富民協会,大日本農会,県知事,愛媛新聞社などから愛媛農業賞ほか数々の功労賞を受賞,昭和19年に正六位勲六等瑞宝章に叙せらる。昭和21年に研究業務から退き,温泉郡東温指導農場長に就任し,第一線での現地実証試験と地域の技術指導に活躍。農業改良普及事業の発足と同時に県農業改良課の稲専門技術員を拝命,普及員,県下農業者の教育に当たる。この間各種の委員に就任,晩年は愛媛県農業共済組合連合会に勤務。昭和42年12月19 日,75歳で永眠。生涯を米麦作の研究で貫いた足跡を綴った遺稿が,昭和61年後輩によって『愛媛米麦作研究50年の歩み』として上梓された。

 内田  実 (うちだ みのる)
 慶応2年~没年不詳(1866~)果樹栽培功労者。中予地方の果樹草創期における大規模果樹経営者,慶応2年5月2日温泉郡道後村持田(現松山市持田町)の松山藩士竹村覚之助の子として生まれ,幼時に同藩士内田正純の嗣子となる。明治28年道後村の三好保徳とともに,温泉郡桑原村東野(現松山市東野町)に4町歩の梨園を開墾,明治32年温泉郡小野村播磨塚(現松山市北梅本町)に1O町歩の開拓に着手し「内田眞香園」と呼んだ。明治44年ころには,梨園面積14町歩に及び園員50人,収穫果実5万貫となった。一時伊予鉄道横河原線に内田駅を特設して出荷場としたこともあった。明治39年中予の果樹生産者と果実移出業者の共同出資による,三津浜果物市株式会社の設立に当って生産者側の発起人として参画した。明治43年伊予郡,温泉郡の果樹栽培者を糾合して園芸研究会を設立その会長となった。この研究会が母胎となって,大正2年伊予果物同業組合が設立された。明治43年伊沢知事より果樹栽培功労者として表彰された。

 内海 突破 (うつみ とっぱ)
 大正4年~昭和43年(1915~1968)コメディアン。大正4年2月25日南宇和郡内海村魚神山の生まれ。本名は木村貞行。父は建築業であったので県内各地を転々とした。小学校卒業後は宇和島市内の商店にも奉公したが,のち大阪市役所港湾局に勤めながら,浪華商業を経て,関西大学専門部を卒業する。昭和11年に芸能界へ入り,西条凡児の弟子となる。古川ロッパにあやかり,故郷の名をとって内海突破と命名。並木一路とコンビを組んで大いに売り出す。吉本興業から東宝演芸部に所属し,映画にも出演。ボードビリアン,タレントとしてラジオ等にも大活躍をする。兄は万才作家の御荘金吾,弟は笹山丹波で兄弟ともに芸能一家である。昭和43年6月8日, 53歳で死去。

 馬越  晃 (うまごし あきら)
 明治35年~昭和46年(1902~1971)県会議員・衆議院議員。明治35年3月6日,越智郡今治町今治(現今治市)で生まれた。大正13年県立弓削商船学校を卒業して昭和5年甲種船長に合格した。やがて今治市で家業の魚問屋を継ぎ会社組織にした。7年今治市会議員,8年11年補欠選挙で県会議員になり,21年まで3期在職して民政党に所属した。その間,県漁業組合連合会,水産業会会長を務めた。戦後,昭和21年4月の第22回衆議院議員選挙に進歩党公認で立候補して当選, 22年4月の第23回選挙でも民主党公認で立ち再選され,院内では水産常任委員長として漁業法・漁港法の成立に尽力した。24年1月の第24回選挙での落選を機に政界から退き,今治商工会議所顧問などの名誉職に任じた。昭和46年7月19日69歳で没した。

 梅木 源平 (うめき げんぺい)
 天保6年~明治21年(1835~1888)庄屋・区長・郡書記として上浮穴郡の発展に尽くし,のち県会議員。天保6年2月22日,浮穴郡直瀬村(現上浮穴郡久万町)で庄屋小倉藤太の四男に生まれ,弘化3年6月梅木家に養子に入り,4年西明神村庄屋となった。幕末,久万山会所詰庄屋として人造硝石の製造など松山藩兵備の急を補い,進駐してきた土佐藩兵の接待に当たり,維新期久万山騒動の鎮撫に努めるなど,職務に尽力した。また斎院敬和を迎えて山間の教育の発展を図るなどした。明治5年副区長,10年第14大区長・学区取締に任ぜられ,地租改正事業や小学教育の振興に従事した。12年郡長秋山静の要請で上浮穴郡書記になって初期郡政を補佐した。 15年8月県会議員に選ばれ, 19年3月まで在職した。 18年久万山凶荒予備組合設立の世話をし,郡長桧垣伸と協力して予土横断新道開さく実現に奔走,19年開さく事業が開始されると,三坂-県境間の難工事請負人に加わり献身的な努力を重ねた。明治21年12月10日,新道完成を目前にして53歳で没した。

 梅野 鶴市 (うめの つるいち)
 明治23年~昭和44年(1890~1969)砥部焼の陶業家・砥部町長。明治23年11月23日,下浮穴郡砥部村大南(現伊予郡砥部町)で山本秀五郎の三男に生まれた。 21歳のとき製陶業梅野家の女婿となり,陶磁器製造・販売に精励した。昭和9年伊予陶磁工業組合初代理事長に就任,組合の共同設備の推進,近代的坏土工場と電磁器・化学磁器製造工場の完成,陶石山採掘設備の新設,釉薬・石膏型工場の設置など砥部焼発展の基礎を築いた。昭和18年砥部町長に就任,21年11月まで戦中・終戦直後の困難な時期の町政を担当した。昭和30年4月原町村との合併による新生砥部町の初代町長に選任され, 36年3月まで町発展のため政治手腕を発揮した。 31年藍綬褒章,33年愛媛新聞賞,41年勲五等双光旭日章など数々の賞を受けた。昭和44年4月8日78歳で没し,陶祖の丘に銅像が建てられた。

 梅本 新吉 (うめもと しんいち)
 明治33年~昭和53年(1900~1978)教育者。明治33年7月31日越智郡日吉村(現今治市)で田窪幸太郎の次男として生まれる。大正8年愛媛県立今治中学校を卒業し,愛媛県師範学校に入学,翌9年3月同校を卒業し,今治第一尋常高等小学校に奉職,昭和15年越智郡日高尋常高等小学校長,同17年同郡下朝倉国民学校長,同19年愛媛県視学官,同23年県教育委員会管理課長,同24年越智郡桜井小学校長となり情操教育を基調に豊かな人間性の育成に11年間にわたり,自己の教育理念を全うした。その間,県教育行政に従事したOBの会「春秋会」を組織して会長となり,また愛媛県中小学校長会会長を勤め,教育秩序の確立と教育正常化に献身する。同35年現職を退職,同41年3月愛媛県教育会が結成され初代会長に就任,現職教員とOBをとりまとめ,愛媛の教育推進と後輩の指導に当たる。文教会館の建設を軌道にのせる。退職後も,豊かな体験と新鮮な感覚で講演を各方面で行い,学校・家庭・社会教育の一体化とその進展に大きな貢献をする。なお,中江藤樹・近藤篤山を敬仰思慕し,戦後日本の精神的支柱の欠如を憂い,伝統継承の重要性を強調するなど,時代の進歩と共に教育技術は変遷しても「師道」の根幹は変わることがないという確固たる信念を持ち,「教育愛の行者」の風格を持っていた。昭和53年4月24日77歳で死没する。生前,文部大臣から教育功労賞,愛媛県教育文化賞,勲五等旭日双光章,愛媛県功労賞等数々の受賞がある。昭和55年ゆかりの人びとによって遺徳をしのび『梅本新吉先生』の遺稿集が発行された。

 浦川 富天 (うらかわ ふてん)
 生年不詳~明和4年(~1767)松木淡々(半時庵)門下の俳人。浪速(大坂)生まれである。清得舎と号し,淡々の後継者で半時庵二世と称した。富天は寛保2年師匠の淡々から淡々門拡張の指示を受け,伊予を中心に,讃岐・中国筋に旅した。各地に滞在中は,弟子らの句作の指導に当たった。このときの旅行記は『棗亀』にまとめられ,富天の句と共に,呉天(土居)・里々(大頭)・李大(丹原)・一志(波止浜)・合芽(三津)・狸兄(吉田)ら,門下の句が収められている。淡々流は,「歌仙合」・「発句合」などの点取俳諧の隆盛に伴って,庄屋・豪農・豪商など地方有産階級に広まった。

 浦中 友治郎 (うらなか ともじろう)
 明治5年~昭和32年(1872~1957)実業家,八幡浜町長・県会議員。明治5年7月6日,宇和郡八幡浜浦新地(現八幡浜市堀川町)で菊池守太郎の次男に生まれ,23年製蝋業浦中要次郎の養子になった。26年日本法律学校(現日本大学)を卒業して帰郷,八幡浜商業銀行に入り,のち同銀行専務取締役に就任した。 39年銀行を退き,鉱山業に着手する一方,宇和水電・共盛社(海運)・伊予自動車会社などの重役として実業界で活躍した。36年9月~40年9月県会議員であったが,大正4年10月実兄菊池虎太郎急死の後を受けて再度県会に返り咲き,憲政会に所属して12年9月まで在職した。大正15年八幡浜町長に就任,以来9年間,諸庁舎・病院・公会堂の改築新築,八幡浜港の築港,上水道施設の完成,国有鉄道の誘致実現などの事績をあげ,周辺4か町村を合併して市制施行に尽力した。昭和32年11月17日85歳で没し,翌年愛宕山に頌徳碑が建立された。

 浦屋 雲林 (うらや うりん)
 天保11年~明治31年(1840~1898)漢学者。松山藩士,寛親の長男。名は寛制,通称は登蔵,号は雲林と称す。藩校明教館で日下伯巌,高橋復斉らに教えをうける。藩に仕えて大小姓から祐筆役を勤めるが,漢詩文に秀でていた。近藤南洋,河東静渓と親しく,私塾「桃源黌」を開いて子弟の指導に当たるかたわら詩作につとめ,その数数千首に及ぶといわれている。その主なものは「雲林遺稿」にまとめられており,門下の主なものには,内藤鳴雪や正岡子規がいる。
 とくに雲林の塾生への指導は師弟同行の一対一の教育であった。なかんずく子規との交情は深く,子規の遺稿にもその様子がうかがわれる。明治28年に子規が松山へ帰省した時の句「花木横雲林先生恙なきや」は師を思う子規の心情がよく表れている名句である。58歳で死去。

 浦和 盛三郎 (うらわ せいさぶろう)
 天保14年~明治25年(1843~1892)金輪網の発明者で明治時代における本県まき網漁業発展の基礎をつくった人。
 天保14年11月3日,宇和島藩内海浦(現南宇和郡内海村)網代に生まれる。浦和家は高知県幡多郡平田村(現宿毛市平田町)より出たもので代々神官であった。祖先和田又四郎が諸国を遊歴し,内海の魚神山に来て農業を営んだ。その子儀左衛門(盛三郎の祖父)が家業を継いで文化5年2月由良山というところで浦を開拓しようと同志20名を募って翌年山林を焼き払い開墾にとりくんだが,その年に儀左衛門は死亡した。孤子となった萬蔵の生活は父からの遺産をすべて消費し,困窮をきわめており,海草を採り,釣をするかたわら,人夫で賃金を得ての貧しいものであった。文政4年(1821)のころ,やっとつくった農作物を猪や鹿に食害されその対策には非常に頭を悩ませていた。そんなある日萬蔵が山に登って眼下の海をながめたところ岸近くを魚の大群が遊行するのをみて,今後の生活のよりどころを漁業と決心した。その後火災により財産を失くしたりして困難にも遭遇したが,弘化3年には網代長を拝命しその翌年には功により苗字呼ぶことをゆるされ,浦和盛次兵衛(のち平内と改める)と名のった。浦和盛三郎は父萬蔵,母シュンの末子として生まれたが,長兄寿老左衛門に子がないため明治3年,28歳で養子となって家督を相続した。盛三郎は荘重で,寡言静かに図り,決断力に優れ,威厳を備えていたという。当時の経営状況は漁業は大敷網3帖(定置網の一種)と鰯網2帖(船びき網)を主体として,農業では小作料と自作収入によって生活を維持していた。同氏は広大な土地を所有していたが,その大部分を地元民に開放し,区民の信頼と服従を得ることができた。これはやがて漁業や漁獲物の加工従事者との雇用関係を緊密なものとさせる原動力となった。漁業の面で最も力を注いだのが大敷網であったが盛漁期には数千尾のまぐろやかつおその他の魚で活況を呈していた。一時に大豊漁となる漁獲物の有効保存について研究し,まぐろ等の塩蔵や燻製を行うため網代に大加工場を建設した。これは当時としては全国でも有数の大規模なものといわれた。先見の明かあった盛三郎は今後の漁業は沖取漁業をおいてほかにないものと考え,明治20年にその研究を開始した。そして22年8月23日付で県から操業の許可を得た。この漁法は金輪式と呼ばれるまき網漁法の一種で,明治14年に農商務省技師関沢明清か米国から導入した米式巾着網の長所をとり入れ,これに独特の改良を加えて完成したもので,本県独自の技術開発によるものとして注目され,明治年代における巾着網の発達に強烈な刺激を与えた意義は非常に大きい。また,明治20年に定められた漁場借区制に伴う南宇和郡関係の第23漁区の取締りを勤めたほか,明治19年4月1日第15水産区組合の南宇和郡組合の頭取に選出され,大分県,高知県等隣県との漁業調整に尽力した。明治22年には綿漁網の開発や砲殺捕鯨法を考案した。漁業以外でも銀行の設立,運輸,水産物流通機構等の改善に努めたほか,村会,郡会,県議会の各議員としても活躍した。このように多岐にわたって活躍したが明治25年10月6日48歳で松山市の客舎で没した。明治31年9月網代では氏の功績に報いるため地元に頌徳碑を建立している。