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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

五 特別天然記念物 カワウソの衰退

 1 環境開発とカワウソ

 カワウソはイタチ科に属する水中適応動物で、世界に一〇種知られるが、日本のものはふつう、そのうちのヨーロッパカワウソの亜種とされている。ラッコ(ウミカワウソ)やブラジルのオオカワウソなどの近縁属を入れると世界で五属一七種となる。日本のカワウソは、農林省の狩猟統計から見ても、大正年間までは全国各地にかなり生息していたようで、毛皮商の情報では、昭和にはいってからも、狩猟獣からはずされたのに密猟されていたらしい。しかし戦後は全くその消息もなく、全国的に絶滅されたものと思われていた。ところが昭和二九年二月のこと、大洲市大川の肱川畔で、懐妊しているメス一頭がトラバサミにかかり、それ以来、本県で七〇件(そのうち愛媛県立博物館には、はく製メス一一、オス一○、骨格二など、計二四個体の標本が残され、愛媛県立道後動物園にも、はく製四と骨格一、頭骨三の計八標本がある)、高知県で三九件、徳島県で一件、実に合計して一一〇件もの捕獲や死体確認がなされ、その生存と保護が大きい反響を呼んだものであった。
 その間、昭和三九年には天然記念物に、翌年の四〇年には特別天然記念物に指定され、愛媛県では県獣にまで指定されながら、次第にその生息域が縮小し、昭和五〇年以降は、あれほど多くいたと思われた愛媛県にもほとんど生息の望みがないまでになり、高知県西南部でも昭和五四年以降は、五八年の一例を除いてその消息がなくなってきている。
 この絶滅への足どりは実に昭和三〇年ごろから昭和五〇年ごろにかけて、日本の高度経済成長期にあたるわずか二〇年間ほどの期間にあり、保護の努力はほとんど、実らなかった。河川の改修や山林の伐採、農業(ミカン畑は農薬づけ農業と言われる)、海岸では埋め立てにはじまり、急速な道路建設、岩石、砂利採取、観光開発、強力な農薬多用などが挙げられている。しかし、もう一つ、カワウソを絶滅に追いこんだものに、ハマチ養殖の拡大とナイロン網の使用が挙げられる。ナイロン網や建網にかかって死んだと思われるカワウソは、昭和三七、八年ごろから二四件ほども記録されているが、養殖ハマチ荒らしなどで密殺されたカワウソもかなりいるだろう。

 2 国・県のカワウソ保護対応

 愛媛県では、昭和三五年道後動物園園長の清水栄盛らによる捕獲作戦が、三崎半島や宇和海で実施された。これに対して県教育委員会では、昭和三八年、文部省の文化財保護委員会から鏑木外岐雄(東京大学名誉教授)らを迎え、県文化財専門委員の八木繁一などによる保護を目的とした棲息状況の調査が、八幡浜市外地の大島や南宇和郡西海町ほかで行われた。そして翌年の昭和三九年に県獣指定、さらに特別天然記念物に指定ということになった。県の文化財委員会では、その後、八幡浜市の離島の地の大島を特別保護地域に考えたが、島民の開発計画にはばまれ、最後に南宇和郡御荘町菊川銭坪に向田伊之一の協力で、入り江を仕切って、昭和四一年五月、自然保護増殖施設(通称カワウソ村)を開設した。特別保護区は南宇和郡の西海地区と城辺地区になった。一方、捕獲により人口増殖を目ざす道後動物園では当分カワウソの飼育を続けた。
 高知県でも、幡多郡の辻康雄を中心に、昭和四六、四七年と世界野生動物保護基金日本委員会(WWFJ)の援助もあって調査が行われたり、高知県教育委員会によって昭和四八年から五次にわたる調査が行われた。これら資料にもとづいて、高知県では環境庁の委託事業として、昭和五一年度から幡多地方でカワウソの給餌事業を始め、昭和五四年から国設西南鳥獣保護区、県設佐賀鳥獣保護区を設定した。
 カワウソはもともと川に多くすんでいたものであろうが、県内各河川の護岸その他の改変やダム構築、汚染の進行などで、川魚の減少も伴って、行動圏の広いカワウソにとって生息に適した自然環境はほとんどなくなり、海にすむようになったと思われる。しかし海の魚とりは上手でないようで、養殖魚をよくねらい、網にかかって死ぬことにもなったようである。世界的にも、その残存の珍しい四国のカワウソではあるが、残念ながらもうその生息の望みはないように思われる。

愛媛県内における県・市・町・村指定の自然の残された(照葉樹林を主とした)社樹叢の分布

愛媛県内における県・市・町・村指定の自然の残された(照葉樹林を主とした)社樹叢の分布


四国におけるカワウソ捕獲・死体発見記録の年次変遷

四国におけるカワウソ捕獲・死体発見記録の年次変遷