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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

五 現代演劇と演劇場の消滅

 活動写真が松山市大西座ではじめて上映されたのは、明治三四、私用頃であるという。大正元年、松山市に県下最初の常設活動写真館世界館が、翌二年には松山活動写真館が開館した。井上正夫が「ハムレット」をもって松山へ来演したこの年の五月、世界館は三日から「△新派悲劇 大阪毎日新聞連載 柳川春葉氏作 生さぬ中 △新劇 成田利生記 桂川力蔵 △滑稽 ヒル君のバタ製造 喜劇 春駒△滑稽 禁酒の夢 △実写 回々教祭典△正劇 子なき家庭 △笑劇正直ノ行」を上演上映している。この頃から映画常設館の建設・演劇場の映写設備が急速に始まる。「魚の棚にも常設館大街道世界館の繁昌から思ひ付いた松山活動写真会社が市内三番町寿座の両隣りに『松山館』と云ふ常設館を建築し八月から開業しようとする矢先、茲に又しても小唐人町一丁目の連中は前田呉服店の一部に常設館を設けやうと八日発起人の相談会を開いて愈々設置に一致したりと云ふ」(海南新聞・大正二年五月九日付)というのもその一端を示すものであろう。以後、劇場は演劇と映画上映を兼ねる段階から、映画上映を主体とし演劇を特別興行とする形態となり、さらに映画館専門へと変貌する。無声映画からトーキーへ、さらにカラー・ワイドへ。映画は全盛期を迎える。戦災により焼失した館も再建され、県下の映画館は昭和二七年に一四七館、三二年には二〇一館となり濫立過剰、加えてテレビの出現で大部分が姿を消すことになる。溯って太平洋戦争敗戦時、全国主要都市は勿論、県下の被災都市の劇場はほとんど灰燼に帰し、町村地域の劇場のみが余命を保った。在京の中央劇団は戦中の抑圧耐乏期・戦後の自由混乱期には一座の維持そのものすら困難であった。主要都市における興行は不可能に近く、とくに、食糧事情はきびしくて生命の維持すら危ぶまれた。生きる手だては地方巡業であった。戦後、県下各地に著名演劇一座の興行があったのも当然といえる。
 大正・昭和初期、松山を中心に大一座が来演する。前記の井上正夫一座、近代劇協会(上山草人 山川浦路 衣川孔雀 寿座)ののち、芸術座(大正五年 島村抱月 松井須磨子 松山・八幡浜・宇和島)・新国劇(同一〇年 沢田正二郎 新栄座)・中村雁次郎 中村市蔵 中村福助 松本幸四郎一座(同一三年 新栄座)・大谷友右衛門一座(昭和一二年)・井上正夫一座(同一二年「彦六大いに笑ふ」)・中村吉右衛門(同年)のほか、片岡千恵蔵・阪東妻三郎・長谷川一夫・高田浩吉らの一座が華々しく公演した。
 昭和二〇年一〇月、戦災復興興行と称しての井上正夫一座は倉庫を改造して開場した立花座で興行し、嵐吉三郎や中村福助などの一座は松山三津の永楽座・北条柳原の戎座で、宇和島・八幡浜を経て松山に来た中村雁治郎・扇雀の関西歌舞伎は重信町田窪の小屋で公演せざるを得なかった。新劇の新協劇団の「雷雨」公演は昭和二三年であった。
 昭和二六年、サンフランシスコ講和条約により日本は独立国として主権を回復し復興期を迎える。この年松山市に来演したのは花柳章太郎・菊五郎劇団(尾上梅幸・市川男女蔵)・山本安英とぶどうの会(「夕鶴」)、翌二七年には前進座(河原崎長十郎・瀬川菊五之丞)など、新居浜市では俳優座であった。次いで年を追い、三期会・人形劇団プーク・劇団民芸(宇野重吉・細川ちか子)などが公演した。
 昭和三〇年代後半から四〇年代にかけて県下の都市部以外の演場・映画館は廃業閉鎖され、老朽解体崩壊するか他に転用されるかの運命をたどる。久万町の福井座は昭和三八年の大雪で崩壊解体撤去されて跡かたもないが、株式会社福井座はいまだに法人として存在する。土地を所有しているからである。宇和町栄座は昭和四八年解体され跡地は駐車場となっている。清水チエ(同町卯之町)によって保存された下足札や招き(興行記念板書掲額)などが宇和町立民具館に移管されている。

  東京大歌舞伎大一座(昭和四年四月) 京阪合同大歌舞伎中村歌蔵・市川右団次(同一〇年一〇月) 吉田奈良丸(同一四年三/一三) 酒井雲(同年四/一三) 巴うの子(同一六年二/一六) 井上正夫・市川紅梅大一座(同二〇年一一月) 報国劇団 坂本好太郎一座(同二一年三/一六) 新鋭女歌舞伎 播磨家中村八重子一座(同年五/三〇) 関西大歌舞伎 林又一郎一座(同年六/一九) 東京大歌舞伎 市川男女蔵・尾上菊之助・阪本彦三郎大一座(同年八月)高田浩吉劇団(同年九/九) 前進座大一座 河原崎長十郎・中村翫右衛門・中村芳三郎(同年一〇/二一) 片岡千恵蔵大一座(同年一二/一〇) 東京大歌舞伎 市川八百蔵・岡三十郎大一座(同二二年一一月) 新演伎座地方公演長谷川一夫大一座(同二三年二/一九) 市川右太衛門大一座(同年七/一一) 寿々木米若(同年一〇/二) 初代天中軒雲月追善関東浪曲名人大会 広沢虎造・酒井雲・玉川勝太郎・木村若衛・立石弘志・天中軒雲月(同二四年二/九) 名人浪曲大会広沢虎造・吉田奈良丸・木村友衛・松平国四郎・梅中軒鴬童・立石弘志(同二五年三/八) 中村鴈次郎(同年六月)

 これらの招き二一枚は、戦後混乱期における中央著名一座が生きるために地方巡業を続けた当時の世相を如実に語っている。
 県下の本格的な演劇活動は太平洋戦争後にはじまる。昭和三〇年代前期頃までに自立劇団が結成され、それぞれに公演を持った。松山では第一次「かもめ座」(高橋丈雄)・「松山演劇人クラブ」(-松山実験劇場・山本修一)・「あおい座」(光田稔)・第二次「かもめ座」(安西徹雄・天野祐吉)らがあり、他に「桑の実」(今治)・「村の小劇場」・「山羊の会」(菊間)・「麦の芽」(大洲)・「河童座」(宇和座)など一〇座ほどの自立劇団が発足した。児童演劇では、久万「ブランコ劇場」(菅不二男) 「仔じか座」(武智成彬) 「愛童」(浅井博)が、商業劇団に「碧空楽劇団」(川本三郎)があり、「NHK松山放送劇団」も舞台公演した。現在、東京で演劇活動を続けている露口茂・佐伯赫哉・三木弘子らは、当時これらの舞台を踏んだ。四〇年代以後、「劇団もず」(スオウアキラ・大津ひさと)・「劇団MAD」(片倉良・スオウアキラ)・「ねむの木」(伊予鉄演劇サークル)・「だるま」(国鉄演劇サークル)などのほか、「ロサ・デ・バラス」(やのれいこ) 「蒼茫遊戯団」(丸山みさを) 「劇団実話情報」「ザ・やどかり」「劇団アドリブ」「劇団POP」「エチュード」「あとのまつり」(八幡浜市・古田美登) 「炎」(八幡浜市)などがある。学生演劇は旧制松山高等学校・松山高等商業学校に始まる。新制高校では部活動としての演劇部が校内学校祭で公演を続けるが、松山東雲高校のみが文化庁主管の全国高校演劇協議会に加盟しているにすぎない。ちなみに同会未加盟は香川・愛媛の二県のみで、本県では昭和三三年頃より高校演劇は下火となり、全県規模の大会は開催されていない。青年演劇には前記「山羊の会」(猪野建介)・「麦の芽」(櫛部佐敏)・「村の小劇場」(日野泰)・「桑の実」(木山隆行)のほか、「青い鳥」(新居浜・山路浩一郎)・「つぼみ」(川之石・中岡一茂)などを挙げることができる。しかしながら、これら自立劇団のほとんどは姿を消し、現在、定期公演を持っているものは「こじか座」(畑野稔)・「MAD」「一輪社」(中井聖佳)・「麦」(新居浜)・「南風」(宇和島)などにすぎない。昭和60年には松山市に「アフターフェイス85」「虹」が誕生した。

 ※「近現代戯曲」(秋田忠俊・『愛媛県史』文学編)、「三十年のあしおと愛媛の文学・演劇(一~六)」(坂本忠士・『季刊えひめ』連載)、「児童劇団『プランコ劇場』『仔じか座』」(武智成彬・「ぷりずむ」25~26号)などに、県下演劇の概説記事がある。