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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 戦時下の新聞

しのび寄る軍国主義の足音

 大正年代末から昭和初期にかけての愛媛県内における日刊地方新聞は、松山の海南新聞・愛媛新報・伊豫日日新聞・伊豫新報、宇和島の南豫時事新聞の五紙を数えており、正に新聞戦国時代の様相を呈していた。そして、やがて時代の流れは軍部の台頭により急激に変化、昭和六年に満州事変勃発、七年には上海事変、五・一五事件、八年の国際連盟脱退、一一年の二・二六事件、そして一二年の蘆溝橋事件に端を発する日中戦争へと日本の歴史は戦時体制へ傾いていくのである。
 その間、愛媛県下の主な新聞界の動きはつぎの通り。

  大正一五年 五月に海南新聞が発行部数五万部突破、六月に伊予一二景決める
  昭和 二年 二月海南新聞など全国有力紙が第一回普通選挙に共同声明を発表
  昭和 四年 一二月に海南新聞社屋落成
  昭和 六年 七月南豫時事三〇周年記念園遊会を宇和島天赦園で開く
  昭和 七年 三月伊豫新報が木山記者を上海へ特派、三月海南が松山二二連隊凱旋記念号を増刷
  昭和 八年 伊豫新報創刊一〇周年で八月に記念号八頁発行
  昭和一一年 二・二六事件で海南新聞二日間差し押さえ
  昭和一二年 海南新聞輪転機増設、読者サービスとして支那事変戦局地図を無料配布

愛媛合同新聞の発足

 昭和一二年七月七日、中国北京郊外の蘆溝橋で発生した日中両軍の衝突事件は、やがて両国間の全面戦争に拡大する。政府はこの事態に伴い、翌一三年には国家総動員法を公布、国内の諸政策は急速に戦時体制へ切り替えられ、国民生活のすべてに厳しい統制の枠がはめられるようになった。
 新聞発行もこの国策によって資材の統制が強化されるようになり、新聞用紙の配給が制限されたのをはじめ、客観情勢は新聞統制整理の方向に進む。この推進者となったのは一六年五月に発足した新聞連盟で、言論報道の統制について政府に協力し、編集・経営改善についての調査、新聞用紙その他の資材割り当て調査をするのが連盟結成の目的だった。この目的にそい、まず新聞の共同販売システムが発足した。しかし政府はより強力な言論統制を推進するため、やがて一県一紙とする方向を打ち出した。
 昭和一六年当時、県下の日刊紙発行はすでに海南新聞・伊予新報・南予時事新聞となっていたが、愛媛県の指導のもとに三紙統合のための創立委員会が組織され、委員長に県警察部長高村坂彦、委員には香川熊太郎・大谷丈夫(海南新聞)、大本貞太郎・安井隆(伊豫新報)、井上雄馬・小泉源吉(南豫時事新聞)がなり、山田繁吉同盟通信松山支局長・佐々木久吉松山警察署長がオブザーバーとして加わった。この結果、一二月一日をもって三紙統合による「愛媛合同新聞」が発足、ここに一県一紙体制が実現した。それは実に日本が太平洋戦争に突入する一週間前のことであった。
 愛媛合同新聞は、本社を松山市南堀端の旧海南新聞社屋とし(翌年四月松山市大手町一丁目の伊豫新報社屋に移転)、経営陣は、取締役会長に大本貞太郎(伊豫新報社長)、取締役社長に香川熊太郎(海南新聞社長)、取締役副社長に井上雄馬(南豫時事新聞社長)が就任した。その他の役員も三社からそれぞれ送り込まれたが、それら経営陣のひとりに陸軍少将田中清一が加えられたのは戦時下という異例の措置であった。
 新しく発足した愛媛合同新聞は朝夕刊六頁、本版のほかに南予版を宇和島で刷ったが総発行部数は五万部だった。翌一七年三月、香川社長は新聞統制の強化を図る県当局の意図に合わず、退陣を余儀なくされ近藤正平に交代した。そして新聞用紙の配給統制はさらに厳しくなり、同月一七日から朝夕刊統合版に、また南予版も四頁にそれぞれ減頁となった。しかし六月になって朝夕刊が復活している。そして六月には平田陽一郎が編集局長に迎えられた。
 昭和一六年一二月八日のハワイ奇襲攻撃によって始まった太平洋戦争は、一七年六月のミッドウェー海戦に日本は惨敗、彼我の戦力やバランスは明らかに逆転していた。そして翌一八年になるとガダルカナル島で敗れて撤退せざるを得なくなり、太平洋戦争の主導権は完全にアメリカ軍によって握られてしまっていた。この年、「愛媛合同新聞」という社名・題字の変更が決定、翌一九年三月一日をもって「愛媛新聞」に改題された。この題字は奇しくも愛媛県に最初の新聞が誕生したときの同じ名称であり、県紙としての伝統が受け継がれていくのであるが、同時に新しく社是・社則が制定された。五項目に亘る社是は、

  皇室の尊厳を顕揚し、皇国民たるの感激を灼熱す
  日本精神を昂揚し、神州正気の文化を啓発普及す
  戦時の言論報道は特に戦力増強に全力を集中す
  県政に協力して国策の滲透を敏速に推進助勢す
  県政を内外に宣揚して県民の実力発揮を促進す

とあり、戦時下体制の新聞の姿勢が強く打ち出されていた。
 この間、愛媛新聞の社長は近藤が退いて井上が代行、さらに政界にあった武知勇記が一九年六月社長に就任しているが、翌二〇年三月政務多端を理由に辞任、井上が社長になった。すでに戦局は各戦線において日本軍の劣勢が目立ち、相次ぐ敵機の本土空襲によって各都市は焼土と化しつつあり、新聞の発行も容易ならぬ事態が切迫していた。そこで政府は二〇年四月一日に「戦局に対処する新聞非常態勢に関する緊急措置法」を発令、これに基づき中央紙が「持分合同」によって地方紙の発行に参加することになった。愛媛県では愛媛新聞に朝日新聞・毎日新聞・大阪新聞がそれぞれの発行部数を持って参加、愛媛新聞の題字下にそれぞれ三社の題字を併記することになった。こうして愛媛新聞の従来の発行部数五万二〇〇〇部は一躍一三万五〇〇〇部に達した。このことはとは愛媛新聞の将来に対しても大きな弾みをつけることになったといえる。
 しかし、戦時下の新聞は、軍部による極端な報道管制を受けており、真実は覆い隠されてもはや本来の使命である言論の自由は失われ、いたずらに戦争遂行の具に供されるものだけとなっていた。そして、愛媛新聞の社屋が敵機の松山大空襲によって全焼したのはその年の七月二六日夜のことであった。それ以前、戦災の被害を予測していた愛媛新聞は、石手川沿いの松山市樽味にあった撰果工場に輪転機と平版印刷機各一台を疎開しており、空襲によって本社が全焼した翌二七日、その仮社屋に多くの社員が駆けつけ、社長以下が手動で機械を動かし、タブロイドの二八日付朝刊三〇〇〇部を印刷、ついに新聞発行を一日として休むことはなかったのである。正に新聞人の不屈の心意気が発揮された一事といえよう。が、日本の敗戦は目前に迫っていた。