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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

五 施設拡充の六〇年まで

 五〇年

 高校重量挙げフライ級真鍋和人(新居浜工高二年)が五〇、五一年の高校、国体全タイトルを独占優勝、重量挙げ王国新居浜の星として光る。第三〇回三重国体夏季大会でボート男子シングルスカル井手勝敏(今治西高)が初めて4分を割る3分58秒5で二連勝、身長一八〇㎝、七五㎏の偉丈夫がフィックス廃止に代わるエース。秋季大会陸上少年男子走高跳びで松下浩(宇和高)が雨中もものかは2米06をクリアーして初優勝、雨に強い男といわれた。また成年男子ソフトボールで帝人松山が決勝進出し地元明和ク(三重県)と対戦予定だったが雨のため中止となり両チーム優勝と決まった。四七年鹿児島国体で丸善石油優勝以来三年ぶり二度目の優勝となった。高校硬式野球出場の新居浜商高は夏の甲子園と同じ習志野高(千葉)と対戦したが九回裏、逆転2ランで3-4と惜敗、夏の雪辱は成らなかった。

 五一年

 モントリオール・オリンピックに水泳の田口信教、バスケットボールの門屋加寿子(現姓大野)の本県両選手が出場、田口はレース終了後、現地で引退を表明して注目された。
 高校総体登山(白馬岳)で男子吉田高校が最優秀校に選ばれたのは、清家一明監督の好指導の賜物である。同校は五二年岡山総体でも最優秀校に選ばれ、二年連続三度目の栄光に輝く。また、第三一回佐賀国体の陸上少年女子A八百米では武智玲子(松山商二年生)が2分14秒2の大会新を記録した。

 五二年

 男子ソフトボールの丸善石油は全日本実業団・全日本総合両大会でともに優勝をとげ、地元には実力伯仲の帝人松山がおり、青森国体には帝人松山が出場した。柔道・剣道では二人の学生日本チャンピオンが同時に誕生した。全日本学生柔道軽量級で浜田初幸三段(松山商大)が得意の背負い投げで初優勝、三度目の出場で念願の勝利だった。同学生剣道選手権では大城戸功四段(松山商大)が初優勝、中、四国三連勝の貫録を示した。揃って県警入りし全国警察官大会で活躍。また全国なぎなた選手権大会で東雲短大が団体優勝を果たし気焰を上げた。重量挙げ学生日本チャンピオンも続出、五二キロ級真鍋和人(新居浜工高-中央大)、六七・五キロ級福田輝彦(松山聖陵高-中央大)が全日本学生、世界ジュニア選手権選考会でともに優勝、八二・五キロ級小野正(新居浜工高・中央大)も全日本学生でチャンピオンに。さらに同年一一月の全日本学生卓球で小野誠治(三瓶高-近畿大)が優勝し、本県では女子山泉和子(樟蔭女大)に続いてのチャンピオンである。
 五二年、高校総体(岡山県)卓球女子シングルス田村友子(済美高)が初優勝、五一年秋の日本選手権ジュニア優勝に続く殊勲を立てた。決勝はカットマン同士の宿敵、神田(青森東奥女高)と対戦、ストレートで破り、これまで三連敗の雪辱をとげた。本県にとって四六年済美高校の団体優勝以来六年ぶりの朗報であった。同陸上女子八百米で武智玲子(松山商高)は胸一つ差で二位だったが、2分11秒Oと大幅に記録を縮めた。
 同年、第三二回青森国体陸上教員男子千五百米で森岡昭彦(松山商高教員)が3分50秒1で優勝、教え子武智とともに米國遠征など大活躍、本県陸上では四六年和歌山国体教員女子砲丸投げ優勝の今村絹代以来の快挙だった。
 日本体協常任理事でもある高橋士県体協会長は「せめて中位の上に」と常々賜杯得点の低落に苦慮していたが五二年五月急死をとげた。同年六月、高橋前会長生前の意向通り、県体協は関宏成を新会長に選任し以後五選、現在(六〇年)に至っている。

 五三年

 福島高校総体で弓道女子団体で松山北高校が見事初優勝を成しとげた。昨年三位の同校は、三二校が決勝トーナメントに進んだ。決勝で豊見城(沖縄県)と対し二〇射中、15-14と激しい競り合いで金的を射止めた。田中浩部長は昨年の陣容七人中五人残る強味と落ち着き、じっくり射ったのが勝因と涙ぐんだ。

 五四年

 ハイライトは五月ピョンヤンでの第三五回世界卓球選手権大会男子シングルスで小野誠治(三瓶高―近畿大)がサウスポー長身の利を生かしたダイナミックな攻撃で見事世界チャンピオンを獲得したことである。準決勝で梁戈亮(中国)をフルセットの末サーブの威力で見事に破って波に乗り、決勝でも世界ランク一位郭躍葺(同)を圧倒、第四セット途中郭が足を痛め棄権、小野初優勝が決まり日本は同種目で河野満に続き二連勝し面目を保った。
 同年第三四回宮崎国体のライフル射撃エア・ライフル伏射(六〇発)で梶浦研三(愛媛語学研究所)が五八九点をあげ初優勝の殊勲を立てた。ライフル経験一年にして、県協会発足一一年目の国体初入賞が優勝に輝いたのである。国際選手で優勝候補の福永(自衛隊体育学校)に一点勝った。同軟式野球少年準決勝に進んだ松山クラブは台風二〇号の影響で試合中止となり、四強ともに優勝と決まった。

 五五年

 県民の憩いとスポーツの場として愛媛県が四七年以来、松山市上野町と伊予郡砥部町にまたがる丘陵地五二・八haに総工費八〇億円をかけ、九年がかりで建設していた県総合運動公園が五月一五日オープンした。陸上競技場は全天候型、観客三万人収容、一級公認。体育館は補助体育館を備え用具充実、庭球場全天候型一六面、補助陸上競技場、多目的広場および球技場全面芝張りと西日本一。八月一日、同運動公園で皇太子ご夫妻を迎え五五年高校総体の総合開会式が開かれ、一〇日間四国四県で二万一千人の若人を集め熱戦を展開した。テーマは「四国路を駆けろ若人、意気と熱」で、式には約四万人の観衆が集まり、二八年第八回四国国体以来のビッグイベントに県民は感動し、殊に大会史上初の四千二百人による人文字集団演技の公開で新境地を開いた。
 五五年四国高校総体の登山(石鎚山)で宇和島南高校男女がアベックで優秀校に選ばれ、大会史上初の快挙だった。水泳女子百米バタフライで柳田順子(済美高一年)が1分6秒で初優勝、さきの二百米バタフライで敗れた山本(近畿大付高)を抑え雪辱をとげた。二百米バタフライ二位とともに一四年ぶり入賞、女子は二九年ぶりの優勝で県水泳界にとって初の朗報といえよう。高校なぎなたでも松山東雲が四年ぶり二度目の優勝をとげ気を吐いた。
 同年第三五回栃木国体は五五総体強化の波に乗り、まず今回から正式種目の登山谷光市)で少年女子宇和島南高校が総体に続いて優秀校となり二冠を制した。しかも、踏査種目では二位だったのを縦走種目で地元栃木を抜き、逆転優勝する素晴らしさであった。成年男子弓道は遠的二位、近的優勝で総合優勝の金星をあげた。大学OBの若手で固め、準決勝・決勝と連続一二射皆中の快調ぶりで、四六年成年女子近的優勝以来九年ぶりの金字塔であった。お陰で賜杯得点順位は久々に天皇杯二五位、皇后杯二九位、四九年の茨城国体以来(二五位、一七位)六年ぶりに県目標の二〇位台にのせた。

 五六年

 八月、神奈川県の全国高校総体メイン陸上競技の圧観は、男子百米決勝で北尾定則(新田高)が会心のレースで感激のテープを切った初優勝であろう。記録は10秒87だったが、前年地元で期待の重圧で勝てなかっただけに恩師の浜崎教諭と抱き合い喜びを分け合った。その余勢を駆って四百米リレー新田高校チームのアンカーとしてゴボウ抜きの快走を見せ、同校に初優勝をもたらせた。まさにヤング日本一のスプリンターとなったのである。北尾らは日・中・加ジュニア対抗陸上の日本代表に選ばれた。また、登山で宇和島南高校が男女揃って三年連続優秀校に選ばれた輝く偉業も特筆されてよかろう。
 五六年の第三六回滋賀国体陸上少年男子A百米で北尾定則(新胆局)が10秒61の大会新記録で初優勝、高校総体に続き二冠を制した。総体三位の少年男子Aヤリ投げ矢茸久富(新居浜南高)が67米44で逆転優勝したのは立派である。重量挙げで学生から社会人になった真鍋和人(一宮グループ)が成年52キロ級で二三七・五キロの日本タイ記録で初優勝、ジャークで逆転の勝利だった。高校軟式野球で毎年有力候補にあげられる松山商高が決勝で総体に敗れた大津高(山口県)を2-1で降して雪辱、念願の初優勝をとげた。松山商高創立八〇周年に花を添える栄光であった。また硬式高校野球でも今治西が決勝で荒木投手の早稲田実業を2-1で破り初優勝し、硬式・軟式高校野球一県制覇を成しとげた。これは史上四度目、高校野球の県勢優勝は三七年西条、四一年松商についで一五年ぶり三度目。
 さらに陸上成年女子千五百米決勝で武智玲子(日本女子体育大)が4分30秒3の大会新記録で初優勝したのは、国体出場六回目で日本学生選手権優勝、同年ランキング一位、日本女子体育大主将として最後の栄光だっただけに感激もひとしおであったろう。同琵琶湖夏季大会ヨット成年男子四七〇級B(実業団)で磯部和利・坂口博一(松山乳販)が準優勝、本県ヨット国体史上最高の快挙となった。この年から初めて国体種目となった空手道に浜石監督ら本県勢も初出場し、早くも八強入りなど敢闘した。にもかかわらず滋賀国体の賜杯得点順位は天皇杯四五位、皇后杯四一位と史上最低の成績に落ち込み、対策が急がれた。
 高校総体とは別の全国高校なぎなた選手権では、松山東雲高校が決勝で大谷高校(大阪)を3-1で降し二年連続三度目の優勝、演技の部では井上・村井(松山東雲高)が準優勝した。また同全日本大学選手権では、団体で松山東雲短大が決勝で大阪体育大を5-Oと圧勝して初優勝、団体戦で松山東雲学園が高校、大学「姉妹日本一」に輝いた。この年、県家庭婦人ソフトボール連盟が生まれ、全国大会など中央連盟との窓口となり女性の自主運営に動き始めた。

 五七年

 鹿児島高校総体の柔道重量級で村上修司二段(今治南高)が初優勝したのは県柔道界の一大朗報であった。高校柔道個人優勝は四九年軽量級寺町良次(新田高)以来八年ぶり、今治南高校にとって三八、三九年軽、中量級河野義光二連勝以来一八年ぶりの、しかも重量級では初の偉丈夫誕生である。日本大学へ進学した村上は六〇年全日本学生選手権で初優勝しており、久々の大器として期待されている。払い腰が得意技。新体操女子のホープとして吉田中学から松山東雲高校入りした大塚裕子は一年生で早くも片鱗を現し総合四位に入賞、素晴らしい跳躍力を披露した。
 同年ロサンゼルス・オリンピック第一次選考兼第九回アジア競技大会の重量挙げ52キロ級で真鍋和人(日泉化学)はスナッチ一一二・五キロ=日本新、ジャーク一三五キロ=日本タイ、総合二四七・五キロ=日本新で優勝した。同大会では卓球男子ダブルスで小野誠治(三瓶町出身)が阿部博幸(協和発酵)と組み見事優勝をとげた。庭球女子ダブルスに出場した木村・伊藤組(園田女大)は準優勝して銀。木村純子(済美高出身)は五七年女子ダブルス種目を独占優勝した。
 同年七月、全日本実業団男子ソフトボール選手権で丸善石油は五年ぶり二度目の優勝を飾った。準決勝で前年国体優勝のトヨタ自工(愛知県)を延長八回2-1で逆転勝ち。決勝は二連覇めざす旭化成(宮崎県)を4-2で降し望みを達した。市川投手の攻守に亘る活躍とチームワークの勝利であった。

 五八年

 一〇月ニュージーランドのワンガヌイで開かれた世界ジュニア自転車競技選手権スプリント種目に出場した清家孝志(松山聖陵高三年)は日本人として初めて優勝、本県スポーツ界に久しぶりの世界チャンピオンが誕生した。県人の世界一は五四年卓球の小野誠治(三瓶町・日本楽器)以来の快挙だった。その勝ちっぷりが鮮やか、一次予選でフランスを最後の二百米10秒4のバンクレコードで快勝、二次でオーストラリア、準々でイタリア、準決勝でデンマークと自転車どころの欧州勢を連破。決勝はソ連ニコライ・コフシェを一本目はアウトコースからスタートしニコーナーから先行二分の一輪差で逃げ切り勝ち。二本目はインからスタート、二コーナーから逃げ大差勝ちし一三か国、参加二一人の頂点に立った。身長一七一㎝、体重八〇㎏、太もも左右六三㎝。目標は世界の中野浩一をめざして、早くもA級競輪選手として大器の片鱗をうかがわせている。
 華麗に舞う女子新体操は今や人気絶頂、若手のホープ大塚裕子(松山東雲高二年)は五八年世界選手権日本代表に選ばれたのをはじめ、全日本選手権兼五輪第一次予選で個人総合二位に入る健闘を見せた。もちろん全国高校総体では個人総合のほか種目別の帯状布、輪を完全制覇した。吉田中学校三年のとき全日本中学選手権で帯状布三位、昨年の高校総体個人総合四位から順調に成長、身長一五九㎝体重四二㎏の素晴らしいプロポーションの妖精は、豊かなジャンプカと柔軟性を身上とし、五九年八月秋田の高校総体では個人総合でボール、帯状布とも最高得点で悠々二連勝を飾った。四月下旬のロス五輪最終選考会では山崎・秋山に大差をつけられ代表洩れとなったが、一一月の世界選手権選考を兼ねた全日本選手権で個人総合三位、種目別ボール、こん棒ともに二位で代表に選ばれた。
 五八年第一回全国都道府県対抗アマチュアゴルフ選手権大会(静岡)で愛媛チームが東京、大阪など強豪チームを尻目にあれよあれよという間に二位に五打差をつけて優勝した。松本洋右、客野恵輔(共に松山国際)浜西文夫(今治C)の三人が県連盟推薦で出場、チームプレーだから誰かブレーキになると迷惑がかかるという重圧に終始苦しみ県代表という重荷に喘いだらしい。一名国体ゴルフと呼ばれたが、ともあれ第一回で全国制覇という金字塔を立てた愛媛県の名は高まり、愛好者一〇万人を喜ばせた。県内一五クラブの会員はおよそ二万人で会員外も含めゴルフ人口は緩やかだが上昇している。その広い裾野に支えられた初優勝といえるだろう。

 五九年

 ロサンゼルス・オリンピックで唯一の県選手、重量挙げ52キロ級の真鍋和人(日泉化学)は日本選手団で最初の三位入賞で表彰台に上り選手団の士気を奮い立たせた。大会直前に左手首を痛め激痛をこらえての試技に場内から盛んな拍手を浴びる健闘ぶりであった。真鍋は一〇月の第三九回奈良国体にも故障を押して出場したが、体重差で二位に甘んじた。多くのオリンピック代表が国体欠場する中で真鍋は県民の期待を優先し、立派な態度であった。さらに同国体では、馬術少年障害飛越団体で松本麻里(二年)植木利枝(一年)松山東雲高校ペアーは、地元奈良とジャンプオフの末、堂々初優勝する大殊勲を立てた。二八年第八回国体で男子貸与馬で一色都義・白石英男が優勝して以来の快挙で、個人では松本三位、植木五位と健闘した。
 また一〇月には待望の松山市総合コミュニティセンター体育館が完成、卓球・バレーボールなどの国際大会が相次いで開催された。補助体育館、温水プールなども完備しており、諸種の大会運営だけでなく市民の健康とコミュニティづくりに活用され、既設の県総合運動公園、北条青少年スポーツセンターとともに県都のスポーツの三大拠点として向上と普及に貢献している。なお、県体育協会は大正一三年一〇月の創立以来六〇周年の記念式典を祝い、功労者を表彰した。

 六〇年

 第四〇回鳥取国体夏季大会の圧巻は水泳少年B四百米個人メドレーで矢野泰司(鴨川中・新田高一年)が4分46秒40で初優勝したことである。さきの高校総体で敗れた磯(日大豊山高)と再び激しいデッドヒートを演じ、タッチの差で破り雪辱をとげた。五五年の第三五回栃木国体で少年女子B百米バタフライの柳田順子(済美高)以来五年ぶりの優勝であった。矢野、柳田ともにスイミングクラブで鍛えた選手である。男子の優勝は、四四年第二四回長崎国体青年二百米平泳ぎの有元幸吉(宇和島)以来一六年ぶりだった。
 同秋季国体で自転車競技成年男子スプリントに出場した大森積(法政大)は、四度目の出場でついに念願の初制覇を達成した。準決勝で案浦(中央大・福岡県)を軽く2-Oで制し、決勝で過去三連敗の吉田徹栄(マツダ工業・滋賀県)と対戦した。一本目は写真判定で敗れたが、二、三本目ともラスト二百米でスパートして鮮やかに逃げ切って逆転Vを果たした。六位入賞二度、前年の奈良国体で惜敗、本国体で執念の栄冠をかち得た男の勝利といえる。しかも風邪による発熱を押しての出場であった。しかし国体賜杯順位は四〇位、三八位と依然低迷を続けており、たまりかねた県体育協会競技力向上委員会は強化策を抜本的に変え、強化費の集中配分など新方針を打ち出した。