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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 混迷・不況の四九年まで

 四〇年

 繊維不況で実業団チームの帝人松山・倉レ西条・東レ愛媛三工場が相次いで一年間県外試合自粛を発表、県スポーツ界は大きな痛手をくらった。さきに三七年、ボートの男子富士紡壬生川、女子東洋紡今治に続く自粛で、県体協から「せめて国体参加を」と要望書を提出し、一部緩和された種目もあった。しかし社会人野球の倉レ西条・東レ愛媛両チームは選手の補強難などで解散を余儀なくされた。

 四一年

 七月三日、小田原陸上競技場の第六回実業団・学生対抗陸上で片山美佐子(帝人松山)は女子ヤリ投げで53米92の日本新記録を出した。ヤリ投げ転向以来七年ぶりで、翌四二年六月一六日の同大会では、さらに54米28と自己の記録を更新、同年一〇月メキシコ国際大会で二位。急ぎ帰国し郷土代表として埼玉国体に出場した際に左膝関節を負傷、それがもとで四三年九月引退表明した。
 四一年の第五回アジア競技大会(バンコク)では、陸上走り幅跳びの山田宏臣(道後小ー順天堂大-東急)、女子ヤリ投げの片山美佐子(帝人松山)がともに優勝して金メダルを獲得、マラソンでは重松森雄(倉レ西条)が君原に次いで二位となった。水球日本代表には藤本忠司、中野皓司の大洲高ー日大コンビが出場、三連勝に貢献した。女子バレーボール日本チームの一員として日野隆子(今治明徳-林兼産業)が活躍、二連勝し気を吐いた。
 同年、青森の第二〇回高校総体ボクシングで新田高校は団体戦で念願の初優勝を果たした。部結成一八年目の快挙で、決勝は地元八戸電波高と対戦、4-1で快勝した。個人戦ではモスキート級富久光輝が優勝、フライ級門田新一が準優勝をとげた。第六回二六年の高校大会に出場以来、一五年を経て、この年初めて県高校体育連盟を認められた。県協会として感無量だったことだろう。翌四二年第二一回大会(福井県小浜市)で個人戦フライ級伊賀上正敏(新田)ヘビー級矢野彰則(同)が優勝、帰郷後、国体チーム強化合宿の九月末、新田高校部員に暴力不祥事件が起き七か月間部活動停止処分となり協会としては親の心、子知らずの落胆ぶりであった。
 同年盛岡市の全国高校体操個人で河野泰治(新田高)が平行棒・つり輪でともに一位、総合三位と新田高校体操部創設以来初の上位入賞をとげた。さらに河野は第二一回大分国体高校体操で床、つり輪でともに一位となり個人総合優勝を成しとげた。さきの三七年高知高校体操で鞍馬四位初入賞の小西義明(新田高-日体大)を上回る成績を上げた。小西は四〇年全日本学生選手権で個人総合優勝したが、その後ケガを重ね天禀の素質を生かせなかった。国体大分大会の高校野球では甲子園準優勝の松山商高が西本-沢田のバッテリーで初優勝した。
 四一年、第一〇回日本体協理事会で全国四番目の青少年スポーツセンター建設予定地に北条市下灘波を正式決定した。北条市の立地条件と地元の熱意が実を結んだもので、四三年五月から着工、同年九月に水泳プール完成、陸上競技場・多目的運動場・テニスコート・宿泊施設・管理本館・体育館・キャンプ場など総工費七億円をかけて四八年四月完成、同七月一日常陸宮ご夫妻を迎えて開所した。

 四二年

 久久子湖(福井県)の高校漕艇で宇和島東高校は男子フィックスで二度目の優勝をとげ、第二二回埼玉国体でも決勝で石巻工(宮城)を一艇身半差で押え四度目の優勝を果たした。さきの四一年第一四回高校総体女子ナックルフォアでも宇和島東が強豪加茂(岐阜県)を押えて初優勝しており、戦前からの宇和島中学の伝統が光っている。
 また高校体操クライミングロープで法輪敬道(宇和島東高)が優勝、この種目は愛媛のお家芸といわれていた。埼玉国体陸上教員走り高跳びで木下博正(新田高-日本大・埼玉県)が1米90で優勝し、二位に河野勝昭(拓南中)が1米85と続いたのも異色。

 四三年

 高校総体弓道男子で大島高校が見事優勝、個人でも藤田泰夫(大島)優勝の金的を射止めた。さらに高校漕艇男子ナックルフォアで今治西高校が初優勝した。第二三回福井国体を最後にフィックス種目廃止となるが、高校は宇和島東高校二位。同高クルーは国体八回参加中、優勝四回、二位二回、五、六位各一回の好成績で、本県クルーはフィックスを得意の種目としただけに寂しい。同国体陸上青年男子五千米では、谷村隼美(倉レ西条)が14分25秒6で優勝、佐々木(広島県)とラストで激しい競り合いから同タイムで僅差で勝った好レースであった。
 この年、明治百年記念事業として総工費一億円で着工した愛媛県武道館が松山市道後姫塚に完成、柔道・剣道・空手・拳法・なぎなたなど武道のメッカとして少年から女子、中学・高校、大学・一般、老・壮年に至るまで広く利用されている。同年、奇しくも全国警察官剣道大会で愛媛県警が三五年ぶり優勝の快挙を成しとげた。昭和八年初優勝以来だが地方県警の優勝は至難とされ、四一年二部から念願の一部へ昇格したばかりであった。決勝では大阪府警と対戦、上垣、宮谷、矢野が三連勝して幸先よいスタートたったが大阪も奮起し3ー2と迫った。しかし、副将平野・大将水口踏ん張ってともに引き分け、そのまま優勝を掴んだ。
 この年はまた愛媛県トレーニングセンターが松山市堀之内に開設され、県民に体力づくりの場を提供、一般・OL・主婦らが利用し盛況である。
 また、メキシコ五輪に水泳・田口信教、走幅跳び・山田宏臣、水球・中野皓司、ライフル射撃・楠成人の愛媛県出身四選手が参加した。同年一〇月には県教育委員会の提唱で第一回県民体育祭が始まり、各教育事務所ごとに開催し、広く県民が参加して今日に至っている。

 四四年

 全国高校陸上ハンマー投げで二年生の渡辺和己(今治工)が62米32の自己最高で優勝、円盤投げでも45米70で優勝、二種目を制覇、県陸上七年ぶりの優勝であった。第二四回長崎国体でもハンマー投げで63米94の大会新で優勝、高校生最後の四五年にも八月高校総体でハンマー投げ64米84で二連勝。第二五回岩手国体でもハンマー投げ二連勝を飾り、渡辺は二年間にわたって高校タイトルを独占した。
 四四年、第三九回全日本アマ・ボクシング大会(東京)でフライ級伊賀上正敏(新田・近大)、フェザー級中居明志(同・拓大)、ウェルター級前川義秋(新居浜東・日大)の三選手が揃って優勝する豪華さだった。
 四四年、全国高校総体ハンドボール女子で新居浜商高が初優勝した。準々決勝で高崎市立女子(群馬県)を12-5、準決勝で和洋女子(秋田県)を8-7と接戦で降し決勝進出、栃木女子と対戦した。滑り出し好調の新商は終始リードし10-4で楽勝、チーム結成五年目で全国制覇を成しとげた。真木崇監督の好指導が実を結んだといえる。秋の第二四回長崎国体でも準決勝で再び秋田選抜と対戦8ー7と苦戦の末、勝ち、決勝で地元島原農に12-4で決勝し初優勝。高校二大タイトルを獲得した。
 さらに翌四五年の全国高校総体では男子ハンドボール新居浜工高も宿望の初優勝を果たし、二五年の初出場以来二〇年目の快挙であった。準々決勝の中央大付属(東京都)とはノータイム寸前、杉山の逆転シュートで勝ち、準決勝の松蔭(愛知県)とは第二延長の接戦の末12-11で辛勝。決勝は枚方(大阪府)と一点を争う試合となり新工が杉山のシュートで同点に追いつき、喜井の逆転シュートで9-8の初優勝をとげた。創部以来面倒を見た高橋満年の二四年にわたる労苦が初めて花開いた優勝であろう。
 四四年一二月、第四回福岡国際マラソンで谷村隼美(クラレ西条)が折り返し後25キロで積極的に出て2時間12分3秒4(当時の世界歴代八位、日本歴代四位)で日本選手最高の三位で表彰台に上がった。また四六年二月の第三回京都国際マラソンでは外国招待選手を抑え、折り返し後は独走となり2時間13分45秒2の大会新で初優勝した。谷村の県記録はまだ一六年経っても破られていない。

 四五年

 六月七日、小田原市営陸上競技場の実業団・学生対抗陸上走り幅跳びで山田宏臣(東急)は日本人で初めて8米を突破する8米01を跳んだ。昭和六年、南部忠平(美津濃)の7米98を実に三九年ぶりに破った日本新記録で山田は六回目(追い風一・一米)にマーク。世界三九人目の快挙だった。五四年向井淳一(順天堂大)が8米10を記録するまで破られなかった。山田は五六年一〇月二一日、三九歳で夭逝。
 また、同年一二月バンコクの第六回アジア大会水泳平泳ぎで田口信教(広島商大)が百、二百米で優勝、水球中野皓司(黄桜酒造)も日本チーム四連勝に貢献した。

 四六年

 八月一日、全国高校総体は皇太子ご夫妻をお迎えし鳴門市運動公園陸上競技場で総合開会式を行い、四国四県で一一日間、二四競技に若人二万三千人が力と技を競った。本県はハンドボール・バレーボール女子・柔道・ボクシング・庭球・ボートの六競技を運営、二八年の第八回国体以来のビッグイベントとして施設の補充整備と選手強化三年計画を立てて見事に運営、成績も一一競技、二五種目に入賞を果たした。中でもボートは今治南高校が男女アベック優勝をとげ、同競技史上初の快挙を成しとげた。
 卓球女子も済美高校が宿望の団体初優勝を果たした。準決勝で四天王寺高校の三連勝を阻み、決勝では由利高校(秋田県)に快勝、病床の兵頭部長への何よりの花むけとなった。軟式庭球男子の今治工高も伝統校を次々と倒し、大会出場三年目で遂に初優勝を掴んだ。またボクシング個人戦ライトミドル級で尾上長文(新田)が一人チャンピオンの座についた。
 同年八月、第一七回全日本一般男子ソフトボール(東京都)で丸善石油は決勝で航空自衛隊府中を延長一〇回小林の決勝ホーマーで1-0で勝ち初優勝、四七年三月マニラの世界選手権に出場。同年第二七回鹿児島国体では準々で日体大に延長一四回抽選勝ち、決勝でも延長一三回住友金岡を1-Oで競り勝ち初優勝をとげ二冠。

 四七年

 一月全国高校サッカー選手権(大阪府)で壬生川工高校が準優勝した。柴田清監督の基礎づくりから芥川正監督が引き継ぎ、次第に頭角を現し二回戦1-0仙台育英、三回戦2-O大分工と名門、強豪を連破して四国地区代表としては初めて決勝進出を果たした。習志野とも一歩もヒケをとらずタテ攻撃を展開したが0-2で惜敗した。準優勝の健闘ぶりは「四国不毛の地に新しいサッカーの芽」「随一の個性的イレブン」「キープ力、読みは抜群」と激賞された。この年県サッカーリーグが結成され六チームで三〇試合を行い帝人松山が一〇戦全勝して優勝、帝人松山は全日本社会人大会に出場し準決勝で浦和クを1-0で降し初めて決勝に進出した。永大産業には敗れたが待望の日本リーグ二部入りを果たした。
 同年八月のミュンヘン五輪に本県出身の田口信教・中野皓司が出場。田口は百米平泳ぎで1分4秒9の驚異的世界新記録で優勝、不振の水泳界にあって一六年ぶり、メルボルン五輪古川勝(日大)以来の金メダルを獲得した。二百米平泳ぎは2分23秒9で三位だったが百米平泳ぎにおける後半鋭いケリで猛スパートし、アメリカのブルースを一気に抜き去ったレースは五輪史に残るものである。田口は帰国早々、高橋県体協会長に公認室内プールの建設を強く陳情した。中野皓司(黄桜酒造)は水球日本代表として連続出場。高校ボクシングバンタム級で梁川春錫(新田高)がチャンピオンに。同年一一月一一日には県家庭婦人バレーボール連盟が発足、初めて全役員を女性で占めた。

 四八年

 第二一回全国高校漕艇選手権男子フィックスで宇和島東高校が四度目の制覇をとげたが、本県得意のフィックス種目が本大会で最後となり廃止された。同校は最後の琵琶湖大会でも優勝しており、高体連会議で最終の優勝校に大優勝旗を永久保存してもらうこととなった。さらに宇和島東ナックルフォアクルーは第二六回朝日レガッタでも初優勝、同高校女子は今治南高校が二度目の優勝をとげた。愛媛のボート健在なりである。
 三重県の全国高校総体重量あげミドル級で小野正(新居浜工高)が初優勝し、千葉県の第二八回国体でも悠々優勝、二冠を制した。さらに高校陸上ヤリ投げで中谷博(弓削高)が65米94を投げて唯一の優勝を果たし、初の表彰台に立った。しかし女子スポーツ育ての親、竹田直一、軟庭の元老、松沢嶐、県サッカー中興の功労者、菅章の三指導者が相次ぎ死去、悲しみの年でもあった。この年県体協がスポーツ優秀賞を新設したのはヒットであった。

 四九年

 四月、朝日レガッタ、九月の茨城国体ボート両大会で高校シングルスカルの井手勝敏(今治西高二年生)が大活躍した。琵琶湖の朝日レガッタでは圧倒的強味をみせて初優勝、西独の世界選手権に出場、帰国して直ぐ第二九回茨城国体で悠々と優勝して脚光を浴びた。
 同年九月、テヘランの第七回アジア大会で平泳ぎの田口信教(広島修道大)は百米、二百米で軽く二連勝し四百メドレーリレーでメンバー優勝、三つの金メダルに輝いた。クレー射撃の高松久(北宇和郡日吉村)はトラップ団体で金メダル、スキート団体で銀メダルと大活躍。女子バスケットボール日本代表には門屋加寿子(聖カタリナ高-ユニチカ)が出場し健闘した。
 八月の全国高校総体(福岡県・佐賀県)で県勢は六種目に優勝し、三四年の愛媛ブームの再来を思わせる一五年ぶりの活躍を示した。まず軟式庭球は女子団体で新居浜商高が初優勝、男子個人で宮野篤夫・高原晴資(新田高)が初制覇。団体女子新商は決勝で優勝候補随一の熊本中央女子を大接戦の末2-1で勝利を手中に収めた。
 弓道女子団体の松山商高は予選で二〇射中一四的中の最高で決勝トーナメントに進み、一戦ごとに勝負強さを発揮して初優勝したのは大金星。陸上女子二百米で島田恵美子(済美高)が気を吐き準決勝で25秒2の自己最高を出し、決勝では二位に二米以上の差をつけテープを切った。峰本光弼監督は県高校陸上史上初の校旗掲揚にともに泣いたと話した。柔道個人戦で軽量級寺町良次初段(新田高)が決勝で花岡(飯塚商・福岡県)に優勢勝ちして表彰台へ上がった。登山男子の吉田高も、また最優秀パーティに選ばれた。
 同年一二月、東京の全日本卓球選手権女子ジュニアで松田一三(済美二年生)が本県初のチャンピオンに輝いた。サウスポーを生かし決勝に進出。ノーラバーで変則タイプの福田(青森真岡女子)を打ち抜き2-0のストレート勝ちした。この年、四国リトルリーグ連盟が発足、会長大亀孝裕、理事長篠崎治郎。
 同年一二月二五日、県スポーツ振興事業団(財団法人)設立が許可され新発足した。五億円(県二億五千万円、市町村一億二千五百万円、財界一億二千五百万円)を基金とし、県民スポーツの振興を目的とし、ファミリースポーツやレクリエーション活動を実施するとともに、指導者の養成、巡回指導、体育施設の運営などを行うもので全国に先駆け本県で発足し注目された。