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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 戦後復興期

リュックで国体参加

 昭和二〇年一〇月一二日、終戦二か月後に日本体育協会県支部がいち早く再発足した。「祖国再建はまずスポーツから」と平田陽一郎、鞍懸琢磨、長坂親和、辻栄次郎らが中心になり、戦災の瓦礫の中で活動を開始した。翌二一年九月、まず京阪神で開催の第一回国民体育大会に県代表を送るべく県予選を実施した。県選手団は食糧品を詰め込んだリュックを背負い、清新の気溢れ、参加する意義をかみしめて陸上競技、卓球、バスケットボール、軟式野球、軟式庭球、相撲の六競技に善戦、卓球一般女子ダブルスで高市・郷田組(済美高女)が準優勝をとげた。

愛媛五輪大会

 二一年一〇月二〇日、第一回愛媛オリンピック大会は松山中学グラウンドで開催された。愛媛新聞が主唱し、全国に先駆けた画期的な大会で地下足袋も多かった。同大会は二四年から愛媛スポーツ祭と呼称を改め、その後、運営方法も変わり、広く県民が参加できるよう工夫され、五七年からは愛媛県民スポーツ大会として継続、親子三世代にわたり七〇市町村から約二万人が参加し盛況を極めている。

総合運動場建設

 昭和二二年九月三〇日、さきに民間からの熱意で発足した「日本体協愛媛県支部」が愛媛県の肝いりで「愛媛県体育協会」として再発足、一〇競技団体、七地域団体および学徒体育会で構成することになり、社会体育の振興と県営総合グラウンド建設促進を二本柱として打ち出したことも画期的であった。
 まずアメリカ駐留軍が占有していた松山市堀之内(旧二二連隊跡)をスポーツと文化のセンターとしての施設を作ることを条件に返還してもらい、とりあえず野球場と陸上競技場を建設することになった。その初期作業は県下の体育部に所属する生徒、青年、学生、教員、指導者を動員して約半年間、雨天を除き連日数百人が交替で勤労奉仕して土堤を築き上げた。野球場は松山市営球場として昭二三年七月完成、仮設陸上競技場四百米トラックも出来上り、同年一〇月松山市体育協会が誕生し総合グラウンドの管理を担当した。

競輪場を併設

 その後、松山市は陸上競技トラック、フィールド外周五百米に競輪用バンクをつくり、陸上競技場を包含した市営競輪場を建設した。二五年松山競輪は開設されたが、当時、全国屈指の赤字財政だった松山市であっただけに苦肉の策ともいわれ、競輪存廃論争は国体誘致問題とからめ激しく続いた。ともあれ結果的には二八年第八回四国国体の開会式は同競輪場で天皇、皇后両陛下をお迎えして行われたが、同陸上競技場は一種公認の規格に外れた。

国体誘致

 昭和二五年一月七日「愛媛県スポーツ振興会議」が民間団体から盛り上がり、スポーツ振興の推進母体として発足。さきに県議会、松山、今治両市議会で決議された第八回国体誘致を民間団体からも誘致委員会を設け、強力に運動を展開することを決議した。同年二月一三日、日本体協国内常任委員会で正式に立候補、さらに第五回愛知国体期間中の体協支部長会議で井部栄治県議会副議長、田辺義治県体協理事長が計画を説明し二八年開催を希望した。第五回愛知国体には誘致を左右する大会として役員、選手団もこれまで最高の三一四人が参加し心意気が違っていた。果たして軟式野球一般で伊豫鉄ナインが本県初優勝をとげ、相撲高校個人で越智正人(新田)が初の横綱に輝き翌二六年にも二連勝のスーパーぶり、馬術貸与馬中障害でも白石英男が堂々優勝の活躍ぶり。またさきの夏季大会水泳青年百米背泳ぎで砂田正行(今治)が本県水泳で初優勝するなど活況を呈した。二六年二月には県教育委員会に保健体育課が復活、国体誘致へ万全の体制を固め、遊津孟を課長に据えた。同年一〇月三日、日本体協国内委員会で「四国四県開催、開閉会式は松山市で、愛媛は六市で一八競技実施」と決定、両陛下行幸で本県が主導権を握る形となった。

県高体連誕生

 国体誘致が刺激となり同年五月一七日、従来の県学校体育会から高校が分離独立し、県高等学校体育連盟が誕生。結成記念第一回県高校総合体育大会が六月二、三日松山市を中心に挙行され若人の祭典としてスポーツ界の一大行事となった。同大会水泳平泳ぎでスーパースター田中守(丹原)が誕生した。県予選、四国大会で抜群の強味を発揮、全国大会で百米1分12秒〇、二百米2分45秒4でともに大会新で優勝した。前年の二五年同大会陸上五千米予選で15分56秒Oと初の16分台を割った井上治(大洲農高)とともに双壁のエースであった。

女子ボート

 二八年、国体開催を前に第一回全日本高校漕艇大会が琵琶湖で開かれ、本県クルーは戦前の伝統を引き継ぎ大活躍した。殊に女子ナックルフォアは前年国体二位の今治西高校と、準決勝で名門浦和第一女子高校(埼玉県)を破る殊勲を立てた宇和島東高校の本県クルーがともに決勝へ進出、同士討ちの決戦となった。今治西クルーがスタート直後からリードを奪い五艇身差で初優勝、翌二九年も準決勝で柳学園(兵庫県)を四艇身離し、決勝でも浦和第一女子高校を五艇身差で圧勝、二年連続制覇を成しとげる黄金期だった。

国体の開催

 第八回国民体育大会は昭和二八年九月の水泳(高知市)ヨット(高松市)の夏季大会を前哨とし、秋季大会は一〇月二二日から五日間、四国四県一八市町、六四会場で参加選手一万八千人が国民の一大スポーツ祭典を繰り広げたのである。松山城もくっきりと秋晴れ快晴、まさに国体日和、観衆二万五千人、天皇・皇后両陛下をお迎えし、競輪場仮設スタンドは溢れんばかりの人人人で、揺らぎ、どよめいた。
 選手団入場の誘導者はオリンピックニ連勝の鶴田義行、炬火捧持者は愛媛スポーツ界の元老、相原正一郎と二人の象徴が堀之内の舞台をいやが上にも盛り上げ万歳万歳の声は大きなうねりとなって松山城にこだました。
 「美わしの山河なり 若き光呼ぶ四国の地よ 真澄める空に 紅見ずや ああ聖火の 耀よう苑に 晴れの国体いざ讃えん 生命の花の 生命の花のひらけるを」四国国体賛歌の大合唱とともに愛媛の近代スポーツの夜明けとして県史に永久に刻みこまれる一大祭典であった。大会関係者は三年の誘致の労苦がいっぺんに吹きとぶ大成功に手を取り、肩組み合って感涙にむせんだのも当然であろう。
 秋季種目二八種目のうち一九種目まで本県で開催されたが、国体開催を機にホッケー(女子)・フェンシングの二種目が本県に誕生し、射撃・バドミントン・馬術も協会を再編成、強化された。また本県会場で行われたハンドボール、ボクシング、弓道なども強い刺激を受け、急激にレベルアップした。
 開催県として賜杯得点順位で天皇杯九位、皇后杯八位の好成績はスポーツ不毛の地四国にあって盟主の地位を占める愛媛県としての面目は保ったといえる。異常強化策などをしない正々の順位と誇ってもよいのではないか。