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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 伊予の華道

 「いけばな」が茶道と並ぶ日本の代表的な伝統芸術で、我々の生活に身近な存在であり、一般大衆に親しまれてきたことはいうまでもない。今日では女性の国民的教養の一つといってもよい程に華道芸術が普及している。「いけばな」の源流は室町時代にさかのぼり、仏に花を献じるいわゆる「供花」の風習が華道の「立花」の源流であるといわれている。この時代、佐々木道誉(一三〇六~一三七二)や中尾能阿弥たちの創始者は下剋上の社会のなかで権威に屈せず、自由に、そして自然の立木をそのままに「立花」と見たて、さらに「たてはな」と座敷飾の仕成法が確立したことが『仙伝抄』『立花初心抄』『立花口伝』などの伝書によってうかがわれる。たとえば『仙伝抄』には「三具足の花は(中略)古今遠近と立べし」とあり、その古今は「古というは一季さりたる花をいう。今とは当季の花をいう」と説明し、「その時の花を本に立つべし」と説いている。このように季節感を大切にし、四季を上、中、下句にわけ、草木を一二か月に配分するなど、詳しく説いている。
 そのなかで多くの縁起担ぎ的禁忌に、新築の建物に赤色の花を用いてはならない(赤は火を連想し、そこから火事を想うからである)、出陣の際に椿をたててはいけない(椿は首が落ち易い)、嫁取に花のあるものはたててはいけない(花は散り易い)、正面を指す枝はいけない(人を刺す)、十文字に枝を交叉させてはいけない(切る)など現代にも通用しているものが随分多いのである。

池 坊

 一六世紀にはいると、将軍家、公家は経済的に逼迫して前世紀後半に見られるような「たてはな」が百花繚乱の姿を消していった。この頃、下京の中心にあった天台宗項法寺の池坊は、台頭する戦国武将や町衆を背景として、たてはな界に大きい力を持つようになった。池坊専応の「専応口伝」にたてはなの基本的な理念について述べ、さらに具体的な構成方法を詳しく説いて、たてはなの基本的なあり方の定着をはかった。桃山時代には「かぶく」の流行によって、心が途中からまがる、いわゆる狂心がもてはやされ、「かぶたて」や「ふたつしん」などが盛行した。わが国の花の歴史は神に供える花から仏の供花となり、たて花を経て立華に完成するという、法式性や公開性を持ち、もう一つは花と人間の素朴な結びつき、形式というものはなく自由に挿花をする流れで、前者は花道史の本流であり、後者はその底流である。この自由な流れを一つにまとめていったのは、禅僧の挿花であり、佗茶の花である。こうして佗茶と花の関連・花器と床(禅僧の書)という四者一体を必要とし、一期一会の精神が生まれたのである。したがって佗茶人は茶花の名手でなければならなかったのである。
 大坂夏冬の陣の後。京洛においては次第に立花が盛行し、寛永六年(一六二九)後水尾天皇から明正天皇への譲位の頃が立花革命ともいうべき近世花道史に絢爛たる足跡を残したのである。このことは偶発的なことでは決してない。寛正の頃(一四六〇~一四六六)の専慶から専応を経て一世専好(池坊一三世)の目覚ましい活躍が路線として確立していたことをその因として忘れてはならない。二世専好は先師を継承し、立花中興の祖と一世紀の後、家煕が評しているように二世専好によって立花は正真の花を開いたということができる。
 江戸中期以降池坊の立花は次第に地方に普及していった。本県には大正の初め、高橋清心によって導入され、黒田よしえ・中川苔石・安部周五郎などによって充実発展していった。戦後になって文化立国という指標のもとに廃墟のなかから、燎原の火の如くいけばな界の画期的な進展充実振りを示したが、池坊は各流派の中心として県内最高の団体に再生していったのである。物質万能の時代から心の豊かさを求めるという時代の要請がわが国の伝統芸術に花を咲かせた要因であろう。昭和五五年には、池坊松山支部が大世帯に発展したため、新たに松山中央支部が創立され、初代支部長に真鍋富美子が就任した。これによって松山地区は二つの支部が誕生という充実発展ぶりを示した。

小原流

 小原流盛花の創始者であった雲心は大正五年に志半ばの五六歳で没したが、その後継者光雲は全国を東奔西走し、小原流の普及に努めた結果、愛好者が激増し、新興流派として発展していった。現在は三代豊雲が小原流家元だけでなく、日本のいけばな界の興隆に大きく貢献している。本県では昭和二五年、「小原流松山支部」が初めて創立をみ、初代支部長に梶野光伯が就任し、以来研修を定期的に実施するなどの支部活動を行い本県いけばな界に定着している。昭和六〇年六月には、小原流創立九〇周年と小原流県支部三五周年の記念事業を行った。現在会員約五〇〇〇人を擁している。
 池坊が室町時代から桃山時代にかけて、いけばな芸術を確立定着させた業績、小原流は明治の末年に新しいいけばな芸術を創案し、近代的な芸術性を吹き込んだ功労を考えるなら、未生流は江戸末期を代表するいけばな芸術を一般的に普及の役割を果たした功を評価すべきであろう。未生流は文化年間(一八〇四~一八一八)未生斎一甫が創始し、いけばな芸術を庶民化した活動を展開した。今日では「池坊」「小原流」「草月流」などの流派とならんで現代のわが国いけばな界に君臨する大きい流派の一つである。

遠州流

 小堀遠州は古田織部・千利休とともに桃山時代以降の三大茶人の一人である。慶長一三年(一六〇八)従五位遠江守に任ぜられてから遠州と号した。三代将軍徳川家光の茶道師範として、また元和九年(一六二三)に伏見奉行となり、二五年間もその職にあって治績をあげた。造園、建築にも才を発揮し、なかでも桂離宮が最も知られるが、建築では大徳寺の孤蓬庵が茶室として有名である。いけばなの流派として本県に導入されたのは明治も終わりの頃で翠松庵指月斎一笑を創立者とする。一笑は幕末の万延元年(一八六〇)新居郡大町村(現、西条市大町)に生まれ、南方浪次郎と称した。長じて伊予郡中村下吾川に住し、鍛冶職を業としていたが、遠州流六世、貞松斎一馬の指導を受け、明治四〇年皆伝免許を受け遠州流いけばなの普及に力を注いだ。昭和五年には門下生三〇〇〇人を教え、皆伝教授者は三〇余名という盛行を示した。一笑は昭和一二年に没したが、その門弟の一人であった高橋一閑が現在支部長として流派の発展向上に努めており、会員は約一、〇〇〇人を数える。

嵯峨御流

 嵯峨御流は仏前の供華の精神に立脚した「嵯峨荘厳華」の花態様式が制定され、「未生御流」「嵯峨流」などのそれぞれの様式を総称して嵯峨御流と呼ぶようになった。この流派の源流は嵯峨天皇(七八六~八四二)に始まる。在位一五年の間にわが国個有の文化を創造発展させ、平安三筆の一人といわれる書家として知られるが、天皇自ら生け花の範を示したといわれるところから、嵯峨御流の歴史が始まった。寛永六年(一六二九)に華様式と、自由ななげいれ様式のいけばなが盛行し、元禄時代から文化文政時代に「生花」といういけばな様式が確立された。未生流の創始者、未生斎一甫もこのころに先覚者として活躍した。明治・大正と全国に普及していったが、本県には大正の中頃に導入され、現在は県内一〇の司所があり、渡辺次洲が中心となり、各司所長たちが普及に努めている。

その他

 華道山月は岡田茂吉を始祖として昭和四七年六月一五日創立した。岡田茂吉は芸術を通して品性を高め、真の文化を創造することを念じ、優れた美術品を収集し箱根美術館、熱海美術館に展示公開しているが、岡田翁の意志を体した華道山月が、三位一体の宇宙観、大自然の真理、調和の理、真善美の具現などの基本原則を踏まえてその理想実現を目指したいけばなを目指している。本県に導入された歴史は浅く、昭和五六年に小野久恵が愛媛に種を蒔き、愛媛県いけばな芸術協会に加入し、県内普及に努力している。
 昭和九年頃、篠崎晄風が龍生派のいけばなを創始し、宇和島地方を中心として普及し、渡部晃雲がその跡を継ぎ、久保美峰が現在の会長として、会員約三〇〇名の指導に当たっている。
 京都未生流は山下応揚が、京都の家元で修業し、終戦後昭和二〇年に帰郷し、花道師範として普及活動を行い南予支部として発足し、現在支部長は山田松揚、会員約二〇〇名を数える。
 新日本華道は池坊に属していた湊宗敬が、昭和二四年に池坊を脱会して創始した流派で、会員は約一〇〇名を数える。現在は二代宗鶴がこの会を支えている。
 池房会は頼本鶴洲が創始した流派で、池坊に所属していた鶴洲が昭和四二年、旧態を脱したいけばな芸術を目指して創立し、普及活動の結果、東・中・南予にそれぞれ支部を設立している。現在は二代鶴雲がその跡を継いでいる。
 以上述べてきたように、本県のいけばな界は各流各派がそれぞれ特色とする主張を掲げて普及活動を実践しており、戦後このかたいろいろの迂余曲折をたどりながら、一挙に花開いた感じである。物質文明の過剰な発展の陰に精神文化の欠如が叫ばれ、物より心の時代に移行し、生活のなかに潤いと豊かさを希求するという時代の要求に伝統芸術のいけばなこそが即応するものとして、いけばな人口も増大しつつある。

愛媛県いけばな芸術協会

 昭和四四年、県下の各流各派の代表者が一堂に集まり、本県いけばな界の充実発展を期するための具体的方策について協議がなされた。そして、いけばなの指導者として研修活動を実施し、常に共通の問題点について打解の協調こそが先決であり、それは各流の個性を決して損なうものではないとの結論に達し、愛媛県いけばな芸術協会が設立されたことは、一部未加入の派もあったものの本県いけばな界にとり、画期的なことであった。初代会長に頼本鶴洲、理事長に渡辺次洲、現在二代会長は乗松茂、理事長に頼本鶴雲が就任している。

愛媛県華道会

 県内の華道教授者を中心に、いけばな芸術と情操教育の向上を意図して昭和一六年に愛媛県華道協会として発足、のち四五年二月に社団法人愛媛県華道会となった。毎年、華道展覧会などを開き、機関誌『愛華』を年二回刊行している。会長久松定武、副会長水野一泉、事務局長正岡一得のほか、加盟流派は表3ー4のとおりである。

表3-3 愛媛県いけばな芸術協会関係者一覧

表3-3 愛媛県いけばな芸術協会関係者一覧


表3-4 愛媛県の流派一覧

表3-4 愛媛県の流派一覧