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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 伊予の茶道

 わが国に喫茶の風習が導入されたのはいつの頃か定かではない。遠く奈良朝から平安朝にかけて貴族社会に流行したとの説もあるが、一般的には栄西禅師(一一四一~一二一五)が宋に渡り茶の実を持ち帰り、筑前背振山に植えて次第に栽培地を拡大し、諸国の寺院に茶園が設けられた。また栄西は『喫茶養生記』を著し、茶の効能を盛んに説いたことから茶の風習が全国的に普及されたものといわれている。
 この鎌倉時代の喫茶の風習は薬用が主目的であり、今日の茶道とはいささか趣を異にしているものである。茶人の説くところによれば、室町時代の終わりころ奈良に珠光という茶人が、初めて茶礼にいろいろの規則をつくって茶の原点を提唱したことから、これまでの奢侈逸楽の華やかさから紹鴎のいう「心ただしく慎み深く奢らぬさま」を本旨とするとか、僧宗啓が「家は漏らぬ程、食事は飢えぬ程にて足ることなり、是仏の教え、茶の湯の本意也」と喝破している。
 豪華絢爛ともいうべき桃山時代に、その世相とは全く逆の世俗的な執着心を否定するところが興味深いところである。こうして戦国武士の間に流行していった。織田信長の時代になって一国一城のあるじともなれば当然茶の湯に親しむものとされるほど盛行し、次第に庶民にも普及していった。茶道が人間修行の一助であるとの考えが定着したのは豊臣秀吉の時代で、千利休をはじめ、堺・南都・博多などの風流人たる町家衆の茶人たちが武将たちの間に伍して活躍した永禄から天正にかけての時代が茶の湯の黄金時代であった。そして能阿彌系の貴族社会の茶道と珠光を祖とし紹鴎に継がれた庶民の茶道とに分かれた。前者は観念的な旧来の茶事で、後者は泉洲堺を中心として地理的・経済的・文化的な環境にも恵まれ、著しい発展興隆をみたのである。
 さて伊予の喫茶は、室町時代に禅宗の僧侶によって伝えられたものであるといわれる。千利休が大成したわび茶の道は、戦国大名の「たしなみ」としてもてはやされ、古くは慶長のころ、藤堂高虎や加藤嘉明、その跡を受けた宇和島の伊達秀宗、大洲の加藤貞泰、松山の松平定行などは、それぞれ茶の湯を愛し、たしなんだ。
 ことに松平定行は、裏千家六世宗安(庵)に命じて隠居地とした東野に庭園を築かせ、「竹のお茶屋」を建てるなど、風流を楽しんだ。また宗安に「茶道師範」として二〇〇石を扶持し、屋敷を与えるなどの処遇をしている。
 定行の弟定政は東野の吟松庵に隠棲し、「不白」と号して茶を楽しんだが、のち、茶道「不自流」の祖となった。このように大名の有形無形の保護によって茶道は急速に普及し、武士の「たしなみ」ともされ、各藩では「茶道方」を置き、扶持している。
 正岡子規の玄祖父一甫も茶道方として松山藩に仕えているが、茶道と深いかかわりを持つものに俳諧がある。松永貞徳以降、多くの俳諧人は好んで茶の湯に親しんだ。伊予においても北村季吟門の桑折宗臣とその門流、松山の奏一景や天野目弓ら「わび・さび」を求める芭蕉門の久松粛山、青地彫棠らは藩主定直とともにこよなく茶を愛した。また既に元禄の時代より藩の御用達となって資力をもった町方商人は「茶の湯」に凝り、茶器の名品を競い合い、所有することが最大の誇りでもあった。武野紹鴎、千利休、沢庵禅師、小堀遠洲などの書幅、三島や長次郎の茶碗、与次郎や寒雉の茶釜、等々が諸家に伝存している。
 このようにして茶道は、天明~文政ころには一層その底辺を広げ、地方の豪農(庄屋)にも数寄者を拡大していった。「茶道」は町方がその資力にものをいわせて主役となり、さらに「香道」などにまで趣味を発展させていったことが伝書にうかがわれる。
 このころ、松山の俳人栗田樗堂、百済魚文、吉田の高月虹器、西条の木村牧雨、土居の山中時風などの俳人たちはそろって茶の湯に風流を求めた。
 また茶会の記録も文化九年(一八一二)頃より流行した。記録というのは今日でいう会記のことであるが、掛幅・茶器・料理などの詳細な記述や、松山藩江戸上屋敷での茶会の記録など、当時の様子がよくうかがえる。
 嘉永年間以降は世情騒然となり、攘夷開港の議論がやかましくなるに及んで、武士は打ち続く財政窮乏の度を加え、他方町方はますます繁栄するという皮肉な現象を呈し、茶道は次第に庶民化するという結果を招いた。
 この頃は町人の多くはそれぞれ茶室を設け、藩家老・奉行などを招いて茶会を催し、朝茶・昼茶・夜話茶と風流に遊んだ様子が、三津町(現、松山市)の大年寄であった天野助左衛門の茶室「以静庵」記として文化九年から明治一一年(一八七八)までの七六年間、二八〇回にわたって記録されている。その一例を次に紹介したい。

  改元寅十二月晦日ニ御沙汰有之  一、掛物 松月老筆 雲霞相海晴
  候時千天保ニ夘正月九日正午谷   一行物          一、茶入 瀬戸
  佐平太殿御茶被下候     一、釜  浄汲作 丸釜    一、茶(木へんに夕) 玄室作 万年寿 共筒箱
  御客左之通           清右衛門極書          帒 金らん
  奥平菟裘様(鴬居様ノ御実父)   一、香合 菊絵 はまぐり       黒上り子椀 角切折敷
  深見五左衛門殿    一、花入 酔月庵 一重 鴬トアリ   織部鴬蓋物
  河合秋左衛門殿    花 柳 紅句梅      向 魚わんむし  汁 合ミそ
  右御屋敷 廣瀬権六 手前    一、水指 新備前 ひし形    かきいわ竹    せりこたし
御舟奉行 町奉行 兼府中    一、茶碗 はん頂    つくし      牛旁輪切
  飯       八寸 鮎 ぎんなん          一、御茶 佐藤 銘
    香ノ物 奈良漬うり 菓子 松山製 とらやまんぢう
  菓子椀 一塩鯛切身 わり串       ようかん
  吸物  ほご せにり か屋    惣菓子 三種

 また、京都の動乱で、裏千家一一世の玄々斎宗室は、たびたび来遊し、茶道の名器を将来して、この地の門流を育てたことが、残された手紙によってうかがえる。
 さて、一方、煎茶の通は、寛永のころ、黄檗僧隠元の来朝によってもたらされる。まず、長崎に上陸した隠元一行は、やがて宇治に幕府の許しを得て万福寺を建て、黄檗宗を開き、新知識としてその門流はまたたく間に全国を風びした。この一行とともに煎茶が伝えられ、わが伊予では、「海南法窟」といわれる、千秋寺の創建以来、千呆、雪广、別峰、妙庵などの先覚者によって、「売茶流茶道」は一般に迎合せられ、多くの流派を生みながら流行していくのである。
 しかし、幕末維新期の武士階級の崩壊により御用商人は没落し、さらに、維新後の税制改革や地租の施行は、豪農(庄屋)層の分解を進め、「茶道」は大きな打撃を受ける。その再建は明治新政の確立、産業資本の樹立を俟つこととなるのである。