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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 東雲さんの能と能楽復興

 松山藩は佐幕方であったから明治維新は大変動で能どころではなかったのではと思われるが、それでも明治四年(一八七一)には旧藩主の新邸が落成して一月一六日能が催され、二月・三月・五月と城中で能があり、池内信夫(高浜虚子の実父)は下掛宝生流で地頭を勤め酒肴や褒美をもらっている。旧藩主の東京移住が決定し、五月二四日お抱え能楽師達がお名残りの献能を行った。池内信夫も三男信嘉を伴って出勤し、信嘉は一二歳の子方として安宅の判官・皇帝の楊貴妃を勤め、二人とも料理と金二〇〇疋をもらっている。

能装束の払い下げ

 旧藩ではニノ丸・三ノ丸に能舞台があったが、ニノ丸舞台所属の能面・装束は藩主が直々用いるお召口と呼ばれ、三ノ丸舞台のは並の物であった。旧藩主の東京移住にあたり、三ノ丸舞台所属のものが払い下げられることになった。競売で散逸しては大変と能楽人達は心を痛め、歌原良七(子規母方の大叔父)池内信夫らが中心となって懇請し、総額三五〇円、内一五〇円は一時払い、残りは五年賦で払い下げを受けた。資金調達のため演能団を組織し、二番町吉田屋敷跡に仮小屋掛けの能舞台を造り、入場料一分(二五銭)で一〇日間の勧進興行を行った。殿様の能装束が拝めるとあって大盛況で、一時金一五〇円は勿論、多少の余裕も出た。味をしめて味酒神社でも三日間、後には今治・西条・郡中・大洲まで出かけたが、手配師に甘い汁を吸われ次第に不首尾となった。

東雲神社の神能

 明治六年一二月家禄・賞典禄奉還があり旧士族の生活は窮迫して演能団の運営も困難となり、翌七年旧藩主へ願い出て払い下げ代金の残額を棒引きしてもらい、代わりに能装束などは全部東雲神社へ寄付することになった。久松家も東京へ持参した能面・装束など、一部は青山御所へ献上したが、残りは同神社へ寄付した。味酒にあった能舞台も同社本殿北側へ移築され、久松家から若干の演能料も下賜されることになり、毎年一月三日の松囃子と春秋二回の神能が始まったのである。一説には、この能舞台は城中のものが移されたともいわれる。右の演能団は松山能楽会と称されたようで、歌原良七・池内信夫らの手で運営されたが、明治一七年ころ規則も定め、有志を募るなどして再出発し記念能も行った。明治二四年池内信夫が没し、同二六年歌原良七も東京で没し、松山能楽会の運営は池内信嘉(後述)らの手に移った。藤野漸も同二五年に東京から松山に帰り、喜多流・下掛宝生流・囃子方・狂言方一丸となって東雲神社神能を拠り所として活動したので神能組とも呼ばれた。

藤野漸の活動

 藤野漸は正岡子規の叔父で、幼時池内信夫に下掛宝生流を習い、明治一三年上京して官職や久松家々職を勤める傍ら、吉田寛親(元の藩抱えワキ師)の口添えで八代家元宝生新朔に入門して免許皆伝を受けた。帰松して五十二銀行(伊豫銀行前身)経営に携わり、二代目頭取を勤めている。洋々会を作り、度々家元らを招いて同流の普及に努め、のち松山能楽会会長として神能の地頭をも務め、同流五番綴謡本の校正を手がけたが、大正四年に没した。

有力能楽師の来松

 明治二五年藤野の招きで、大鼓石井流家元石井一斎が来松し市公会堂で能が行われ、一斎は邯鄲の能を打って喝采を博した。この時川崎利吉(九淵-後述)も異流ながら教えを受けた。同二七年夏に宝生新朔が来松して藤野邸に滞在し、演能も計画されたが日清戦争騒ぎで実現しなかった。この時に撮影したのが写真2ー3である。旧藩抱えのワキ師渡部伝(門左衛門)もこの時鉢木の稽古を受けたというが、写真には写っていない。同三〇年には喜多六平太(喜多流家元)、友枝三郎(同流熊本住)、石井一斎らが来松して能を催している。同三一年池内信嘉の招きで、京都豊国祭の帰りに下掛宝生流九代家元宝生金五郎が、息朝太郎(後の一〇代宝生新)、石井一斎とともに来松し、五月六日の東雲神社神能に出演しており、番組は表2-2の通りである。

各流の動向

 この番組で見る如く、喜多流には荻山辰生(権三)、崎山龍太郎、越智磯次郎、山本惣太郎と当時の実力者が名を連ねているが、明治二〇年には藩政以来の高橋節之助(閑景)が没し、同三四年には荻山辰生も大阪へ去り、崎山以下の時代になった。崎山は安政三年(一八五六)生まれで、高橋・荻山に学び後には同流名誉師範となり、明治・大正・昭和にわたって活躍した。吉野屋という菓子商で、和歌・俳句から生花・盆景まで多芸に通じ、昭和九年に没している。実弟越智磯次郎はのち大連へ渡り謡曲指南をしたが、兄ら松山能楽人を同地へ招き海外演能の嚆矢となった。山本惣太郎は狂言山本岩三郎の子であり、金子亀五郎は後年上京して喜多流の重鎮として活躍した。ワキ方では吉田寛古・寛親父子の下に多くの人材が育ち、藤野漸の洋々会、鉄井豊太郎の宝謡会、柳田音五郎の宝曲会など、シテ方を圧するばかりの勢を示した。吉田家は代々家元直門で、寛親は明治三六年には東京宝生会別会能で野口政吉(兼資)の巴のワキを勤めている。鉄井は四国・中国一帯に名を知られて活躍し、大正三年に没したが息昻が跡を継いだ。柳田は家元宝生金五郎に入門したが一時中断し、のち池内信嘉の取り成しで再度修行して帰松し、東雲神社神能でも活躍している。洋々会には伊藤秀夫・小川尚義ら教育会に名を残す文化人もあり、その影響は現在にまで及んでいる。観世流では津田茂尚が明治九年、再度松山に来て三番町横町に妻帯定住して活動し、家主松田某の末子四郎(三一郎)は津田の養子となり、同三五年に観世家元の内弟子に入り、のち名家山階家の芸養子となっている。津田らは真観社を作り市内玉川町(現一番町二丁目)円蔵寺に敷舞台を設け、社中の松諷会とともに勢力を伸ばした。神能組から「町人の能無しが能をして、家も無うする蔵も無うする」と皮肉られたが、財界有力者を抱えて次第に盛んになった。日露戦争時には軍人慰問やロシア人捕虜慰安などの能も行い、池内信嘉の斡旋で神能へも参加できる様になったが、神能組との融和はなかなか難しかったようである。
 囃子方では、明治一三年元藩太鼓方升久松翁(九郎太夫)が没するなど次第に囃子方不足が叫ばれ、同一七年には元藩抱え町方狂言師の児玉喜蔵宅(西堀端)二階に囃子稽古場が設けられ、笛は室崎勘右衡門、大鼓は越智専助が指導に当たり、岩崎福太郎・川崎利吉らが育った。囃子方不足の傾向は続き、同三五年高知から鼓の野崎尚直を招いて濤声社が作られ、約五〇名が社費二〇銭、伝習費三〇銭と定めて、古町・外側・道後に稽古場を設け三か年計画で出発したが、野崎が事情あって同三六年に郷里伊勢へ帰ったため自然消滅の形となった。

能楽の衰勢

 池内信嘉の勧めで、明治三二年川崎利吉、同三四年金子亀五郎、同三五年には池内信嘉自身が上京するなど、藩政以来の能楽人の死去などと相俟って次第に人材が少なくなり、能楽衰勢を憂える声が高まってきた。同三五年春で八〇余回を数えた東雲神社神能も、池内信嘉の斡旋もあって観世流の手も借りる様になった。その為もあってか、同三六年一月松山能楽会規則が改正されて役員も改選し、体制を立直し会費年三円とし、松囃子、春秋神能、月一回の小会を維持しようとした。会長藤野漸、幹事白石徳次郎・山本惣太郎・鮒田胖次郎らが就任した。しかし同三七年には日露戦争のためもあって春季神能は中止となり、後には他県
からの応援を頼む様になって、池内信嘉や川崎利吉らの帰松を望む声すら上がるようになった。

照葉狂言の松山興行

 既述の仙助能の系統を引く泉祐三郎の照葉狂言一座が、何度も松山へ巡業に来ている。正岡子規の散策集、明治二八年一〇月六日の記に、夏目漱石とともに大街道の芝居小屋(元新栄座)で「てには狂言」を見た話が書かれている。越智二良の発表によれば、道後温泉館改築資金調達のため道後町長伊佐庭如矢が、折柄来演中のこの一座で銀行重役を接待し、祐三郎は狂言三十日囃子、妻作は懐妊の身で能の望月を演じたという。散策集の記事は、この時の町興行の様子を記したものである。能に三味線を加え、手踊り・歌謡などを入れて中々評判はよかった。一座は大正時代に入って解散し、家族は娘房の婚家を頼って大連へ移り住み、大正六年松山能楽人が大連へ出かけた時、祐三郎はまだ元気に太鼓の手助けをしている。高浜虚子は昭和四年に同地で祐三郎に会っているが、同七年に没した。

池内信嘉の活躍

 彼は既述の如く、父信夫の薫陶もあって幼時から能楽に親しみ、高橋節之助・荻山辰生らに喜多流を学び、また太鼓にも長じた。父の没後松山能楽会を率いて東雲神社神能を中心に松山地方の能楽振興に力を注いだが、夙に日本能楽の衰微に心を痛めて中央能楽界とも接触し、遂に明治三五年松山での政財界の地位を抛ち、日本の能楽再建の志を立てて上京した。着京するや早速に能楽館を設立して、中に能楽倶楽部を置いて楽師の養成に着手し、雑誌「能楽」を発刊して能楽界の啓蒙指導に当たった。郷土出身の実弟高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・大和田建樹・松根東洋城らとともに論陣を張り、早稲田大学の学者、研究者と共同して能文学の研究にも手をつけた。彼の努力により東京音楽学校に能楽囃子科が設けられると教授として教鞭を執り、また囃子方勤料問題、能楽会改組、政界への働きかけ、能楽協会の設立、観梅問題など、能楽界のあらゆる問題に関係してその解決に尽力した。昭和九年に没しているが、日本能楽の今日あるのはこの人の力によるものとして、斯界でその功績をたたえぬ人はない。

表2-2 明治31年東雲神社神能番組

表2-2 明治31年東雲神社神能番組