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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 根をはる音楽活動

音楽会の開催

 大正末期から昭和一〇年代に至っては学生の音楽会が盛んに開催される。これは、愛媛師範学校の清家嘉寿恵、松山中学校に赴任した山内一郎、松山商業学校の橋本一の三氏による学生達への指導の成果が表れた結果であり、昭和四年には二宮徹が帰県しピアノ奏者として活躍する一方、女学生達の指導に当たり、松山における音楽活動は一段と盛んになるのである。
 当時の音楽会プログラムを見ると面白いことに、愛媛師範学校・松山中学校・松山高等女学校、松山商業学校の合同による音楽会が大変多い。例えば昭和六年四月三日、松山中学校で行われた松山中学校ピアノ開き音楽会では、まず、松山中学校の松野五郎、児島一豊、宇和川清、富田吉郎ら学生、卒業生によるバイオリン四重奏に始まり、学生・生徒による独唱や合唱、ピアノ演奏のあと、松山商業学校音楽部員による吹奏楽、松山高等女学校音楽部による合唱などがあり、続いて教官の演奏と多彩な音楽会であった。
 昭和九年一二月二日、愛媛師範学校講堂で行われた第一回学生連合音楽会は市内各小学校の女子一五〇名の賛助出演をえて、混声四部合唱「君が代」「躍進日本」の演奏に始まり、松山中学校のハーモニカバンド、愛媛師範学校の吹奏楽などがあり、演奏曲目も、スッペ作曲の「軽騎兵」序曲やグノー作曲の歌劇「ファウスト」抜粋などかなり高度の技術が要求される名曲を演奏している。この学生連合音楽会は昭和一四年二月一九日、愛媛女子師範学校講堂で第四回を開催して以後、途絶えることになるが、反面、戦時下らしく、「白衣の勇士に捧ぐ」と題する音楽会が開催されるなど、音楽の世界にも戦争の影響が見られるようになるのである。
 学生達は県内での演奏に満足せず、昭和九年一一月二四日、広島文理科大学講堂で開催された第九五回関西学生音楽会に出演している。そこではプログラムの一一番目に出演し、エンゲルマン作曲のミリタリー・マーチとグノー作曲の歌劇「ファウスト」抜粋を演奏した。演奏者はクラリネット五年中村信之助、バリトン五年大政正二郎、トランペット四年大森保行、ピアノ四年岸田雅信であった。またこの音楽会で山内一郎は松山師範の長崎秀憲教諭の伴奏でバッハ作曲、組曲第二番からロンド、サラバンド、ポロネーズ、メヌエットを演奏している。この松山中学校音楽部は昭和九年の暮れに学校が全焼して、大切にしていた楽器のほとんどを焼失してしまう。しかし、音楽をしたい気持ちはそれにくじけず、学校の僅かな部費と山内一郎の出費により学生達は楽器を再び持つことができたのである。昭和一〇年二月四日付東京神田にあったヲグラ楽器店からの請求書によると、クラリネット三〇円、オーボエ九〇円、コルネット二○円、スライドトロンボーン三〇円、アルト五五円、バス一二○円、タンバリン一円五〇銭、トライアングル一円三〇銭、カスタネット二円、サイドドラム一五円の計三六四円八〇銭で楽器を購入している。山内一郎がほとんど立て替え、それを少しずつ部費から返していたようであるが、師弟の深い絆がうかがえる。

中等学校吹奏楽連盟の誕生

 昭和一二年、国家体制が段々と戦時体制になっていく一方、音楽好きの学生達は、音楽による報国を図り、松山中等学校吹奏楽連盟の結成へと動いていくのである。
 昭和一二年一一月一四日付の海南新聞の記事には「団体的音楽報国に吹奏楽連盟結成」の見出しで次のように掲載されている。

  豫てくわしく準備中であった松山中等学校吹奏楽連盟結成についての原案が作制されて関係力面にその賛同を求めることになった、これは現下の時局に鑑み溌刺たる吹奏楽によって青年学生の士気を鼓舞し剛健純真なる情操を養い団体訓練によって和協精神を発揚し音楽報国の実を挙げんとする目的によるものである。該連盟の組織、範囲、事業計画等は要左の如きものである。右乃如き趣旨によって近く結成されたものであるが本年度行事予定は次の通りである。
  △会員は松中、北中、松商、松農、愛師範
  △会長には本県学務部長を推戴し、加盟各学校長を顧問に推し各校指導者を理事とする。
  △各校生徒二名を委員とし、事務所は愛媛師範に置く。
  △常務理事は師範校の栗田國彦氏がつかさどり理事には山内一郎、三並俊、田村二男、橋本一、藤原信義、清家嘉寿恵、栗田國彦の諸氏が就任することになっている。
  △事業の主なるものは毎年音楽週間に街頭行進を行ひ、毎学期演奏会を開き此の他県体育連盟、合同体操祭、軍事動員、祝賀行進等に参加するものである。
  △十一月十五日午後三時半までに東雲神社前に集合して、武運祈願、感謝報告、軍歌合唱、皇居遥拝等を行い大街道、港町等を行進する。
  △十一月廿三日は合同演奏会を開催する予定になっている。

 この中等学校吹奏楽連盟の活動は昭和一九年ころまで続けられたといわれているが、戦火が激しくなるとともに学生達は吹奏楽から遠ざかっていった。現存する記録によると、昭和一四年二月一四日愛媛県女子師
範学校で開催された中等学校連合音楽会で演奏した、ローレンドウ作曲序曲「栄光」と「愛国行進曲」の演奏、さらに、同年一二月二三日、松山中学校で開催された「白衣の勇士に捧ぐ」と題する音楽会で演奏したのが最後である。

市民オーケストラ運動

 昭和初年より洋楽の普及に深い理解を示し、市民活動をした人がいる。実業家の栗田與三である。彼は仏教主義の女学校である崇徳女学校の経営者でもあり、伊豫新報にいた末政審ニ記者が文芸や音楽の普及に力を入れているのをみて、最もよき理解者でありパトロンであった(『燧陽大観』)。
 栗田は松山にオーケストラをという強い願望の結果、昭和六年団長・栗田與三、指揮者・三並俊以下二一名で「松山管弦楽団」を結成している。第一回演奏会のプログラムは残念ながら残ってないが、第四回演奏会のプログラムは残っている。それによると昭和八年七月八日、夕七時半より松山管弦楽団練習場であった松山西堀端の観善社という栗田の社屋で開催している。編成は第一バイオリン四名、第三バイオリン五名、チェロ一名の弦楽器奏者に、フルート一名、クラリネット二名、トランペット三名、アルトホーン一名、トロンボーン一名、バリトン一名、バスチューバ一名、大太鼓一名の小編成から成っていて、演奏曲目はシューベルトの軍隊行進曲などの管弦楽による小曲と、独唱やブラス四重奏などのアンサンブルであった。これをみてもわかるように、管弦楽といっても本格的な曲目は演奏しておらず、本県におけるオーケストラの芽生えだと捉えるべきであろう。
 この「松山管弦楽団」も長続きはせず、昭和一二年には新しく「松山シンフォニーオーケストラ」が誕生している。このオーケストラは愛媛師範学校の長崎秀豊が指揮をして第一回演奏会ではシューベルト作曲の「未完成交響曲」を演奏している。団員は以前の松山管弦楽団のメンバーとほぼ同じで、今度は松山高等学校を練習場に、本格的な交響曲に取り組んでいる。昭和一三年の第二回演奏会では、ベートーベン作曲「交響曲第五番運命」に取り組み、本県における交響楽運動がようやく実を結びかけてきたのである。しかし、このシンフォニーオーケストラも昭和一四年、第三回の演奏会を最後に、世の中が戦争一色に染まると同時に、団員が次々と召集されていき、結局、昭和一五年には演奏会を開催するに至らなかった。
 当時を振り返り、メンバーの一員であった池田康一は、「第一回発表会で未完成交響曲の練習をしていたが、演奏会目前になって私は召集されて外地へ行った。あの時、団員達が練習を終わったあと、心温まる送別会をしてくれた。今でもあの時のことは忘れられない。」と語っている。
 このようにようやく灯がともりかけた本県のオーケストラ運動も戦争によって中断してしまったのであるが、戦争も終わり世の中が、ようやく明るさを取り戻し、復興の兆しを見せてきた昭和二五年、オーケストラを再びという熱い願いのもとに、山内一郎・浅井健一らの呼びかけで「松山交響楽団」が結成され、四月二九日、松山東高等学校講堂で第一回定期演奏会が開催された。この時は生の演奏に遠ざかっていた市民の間で大評判になり、昼・夜二回の演奏をしている。
 指揮は外国人女性のベティ・ブラウンで、彼女は、はっきりとわからないが宣教師として松山に来ていた人ではないかと思われ、指揮者としてオーケストラを指導するとともにトロンボーンも吹いていたようである。演奏曲目は、J・シュトラウス作曲「青きドナウ」、ビゼー作曲「カルメン組曲」、シューベルト作曲「未完成交響曲」などでメンバーも四〇名を数えている。そして注目すべきことは、新居浜フィルハーモニー弦楽団と松山放送合唱団も賛助出演していることである。
 この交響楽団は温泉郡三内村井内(現、川内町)への出張演奏もしたようで、同年暮れの一二月二四日には第二回の定期演奏会を開催している。この時の会場は市庁ホールで、ハイドン作曲「サプライズ交響曲」等である。そして翌年の昭和二六年三月三一日には「バレーと交響楽の夕べ」と題した音楽会を国際劇場で開催し、南條バレー団と交響楽団との合同演奏を本県で初めて実現したのである。
 しかし、この交響楽団もなぜかそれ以後の活動がなく、自然消滅したのではないかと思われる。そして六年後の昭和三二年、橋本一、浅井健一らが再びオーケストラの結成を呼びかけ、再成「松山シンフォニーオーケストラ」が再出発するのである。この第一回定期演奏会のプログラムに次のような挨拶が掲載されている。

  私達松山シンフォニーオーケストラは昭和十二年二月十一日に第一回発表会を開き以来年々定期的に発表の機会を作ってまいりましたが戦禍により中絶の止むなきに至りました。
  漸く昨春同志が相集り地方音楽文化向上を唯一の目的として練習を
開始、お互いにはげまし合って今日あるを得ました。元団員中には戦の犠牲となりたる故人も数多く、今をさかのぼる同じ日に再出発するこの音楽会にうたた感慨無量なものがあり、その御霊に対し冥福を祈るためにも益々オーケストラ運動を推進し、市内唯一の音楽文化団体として向上したく考えます。
今後共、皆様の御後援、御鞭撻をお願い申します。   代表者 浅井

 このように、戦後一〇年に及んで、元団員達に新しく音楽大学を卒業して帰県した久保不二朗、学生の岩井倫明、松浦健らを加えて、指揮橋本一で若々しいシンフォニーオーケストラが再出発したのである。第一回演奏会は二月一一日市庁ホールで行われ、ソプラノの愛媛大学教官久保カヨ子を賛助出演に招き、バラエティに富んだ演奏曲目でメインはベートーベン作曲「交響曲第六番田園」であった。
 このオーケストラはその後、クラシック音楽にこだわらず、軽音楽の分野でも活躍して、松山ラジオオーケストラ、そして、初期の松山放送管弦楽団へと発展的解消をとげていったのである。そして昭和三七年、松山放送管弦楽団を母体として、再び県下に交響楽団をとの呼びかけで、発起人代表に伊豫鉄道の宮脇先を選び、県下政界、経済界の大物から音楽関係者までの広い範囲の人達から発起人を募り、「松山交響楽団」を創立させたのである。この交響楽団には中田勝博も発起人、そして団員として加わり、第一回の定期演奏会へ努力した。定期演奏会は昭和三八年一月二五日、松山放送管弦楽団指揮者の黒木篁を迎えて愛媛県民館で行われ、当日は松山には珍しい寒い日であったが、広い県民館をほぼ埋め尽くす聴衆であった。この交響楽団には以前のオーケストラ経験者も多数参加し、県下の器楽関係者総出演といった感があり、東京放送管弦楽団からも応援がかけつけ、地方のオーケストラとしては、最大級の大編成となった。
 しかし、この交響楽団もNHKを最大のスポンサーとし、経済的な基盤がなかったことなどの理由で、華々しかった第一回演奏会に比べ次第に弱体化していき、昭和四二年の演奏会を最後に自然消滅していったのである。
 このように、本県におけるオーケストラ運動は間に戦争を挾み設立しては消えの連続であった。そもそも、オーケストラは魔物であるといわれるほど、人と金が必要で、経済基盤のない音楽愛好家達が努力すれど限界があったのかも知れない。それゆえに、愛媛ではオーケストラは育たないといわれた時期もあった。しかし、後述する愛媛交響楽団の創立と一〇年を超えての演奏活動は県民の一様に注目するところであろう。

合唱音楽の普及

 清家嘉寿恵は愛媛師範学校の教官として、器楽の分野でも力を注いだが、合唱音楽の普及には特に力を入れた。
 彼は昭和初年、松山に「松山混声合唱団」を設立して、本県初の合唱団として、県下における合唱運動の拠点とした。そして、数々の合唱音楽を本県に紹介したのである。
 また、昭和五年には二宮徹の呼びかけで、女性合唱団「若草会」が設立されている。この合唱団は当時流行していた、成田為三の「浜辺の歌」などの日本歌曲の紹介や宗教音楽までの幅広い合唱を発表して、松山混声合唱団との合同演奏会なども行い、本県における合唱運動をリードしていたのである。その結果、県下各地に合唱団の誕生をみるが、これらの合唱団も、戦争突入とともにその活動を次第に弱体化していった。
 戦後、いちはやく音楽が行われるようになったのは合唱である。昭和二二年、愛媛県教育委員会とNHK松山放送局の主催による音楽コンクールが開催され、県下各地の小・中・高校生達の合唱が聴こえるようになり、学校に歌声が帰って来た。当時、三津浜小学校、高縄中学校(現、北条南中学校)、今治日吉中学校は特に合唱が盛んで、昭和二三年一二月三一日付の愛媛新聞のその年の回顧の中にこれらの学校の合唱のレベルの高さを伝えている。そして、今治第二高等学校(現、今治北高等学校)の合唱については特に優れた演奏であったと評している。
 このコンクールの成果は、各地に合唱団が再編成されたことである。それは新居浜では上田美登を中心に新居浜混声合唱団、今治では菅一市による今治混声合唱団、同じく、菅一市の指導による大洲合唱団、南予では北宇和鉄道(現、予土線)沿線の子供を対象とした、河野豊一の合唱団が誕生し、従来からあった松山混声合唱団、神尾光慶の宇和島合唱団、北宇和合唱団、吉田混声合唱団など県下全域に合唱団が生まれ、歌声運動を展開していくのである。これは昭和五〇年代後半になって盛んになって来たママさんコーラスの基盤をなすものである。

音楽放送の始まり

 昭和一六年三月九日、松山市小栗町の三反地筋の旧雄郡小学校跡地に、JOVKのコールサインで広島中央放送局のローカル局として開局したのが、松山での公式放送の初めであるが、その当時のローカル番組は総て生放送だったために、特に音楽放送には苦労したようである。
 月、一~二回の音楽放送は歌謡ショーで、橋本一のグループが出演していた。メンバーは一〇人程度で、それ以上はスタジオに入れなかったのである。音楽の場合、それぞれのバランスをとることが必要で、狭いスタジオではドラムの音が響きすぎて、ドラムだけスタジオの扉を開けて外で演奏したり、ドラムの上に布をかぶせたりの苦労が続いた。しかし、喜びに沸いた開局の同年末には、太平洋戦争の勃発でローカル番組はほとんど休止状態になった。
 戦後の放送はCIE(GHQ民間情報教育局)の検閲と指導で再開したが、音楽放送では昭和二四年二月に始まったラジオショーに人気があった。第一回の放送はフォスターアルバムを放送し、第二回は同年二月二四日午後八時~八時三〇分の三〇分番組で、ラジオショー、演奏会形式によるオペラ「カルメン」を放送している。この時の独唱は古賀葉子・小西喜和子・三好日出夫・神尾光慶・松村英子・都築京子で合唱は清家嘉寿恵指揮の松山放送合唱団、松山混声合唱団、管弦楽は山内一郎指揮の松山ラジオオーケストラで、本県の音楽関係者総出演であった。
 このラジオショーは人気番組として長らく続いたようである。これは郷土の人達による身近な演奏として親しみがあったためである。
 そして「のど自慢」などが盛んになるにつれて、橋本一らはニューゲールバンドを結成し、宇和島分局の開局祝いやZK開局一〇周年記念番組を担当した。その後、和田定範(バイオリン)や鎌田光雄(ペース)のグループの結成した楽団が次々に誕生し、それらをまとめて、昭和二七年、松山放送管弦楽団が結成された。ところが、そのころ九州ではNHK熊本放送局にあった九州放送管弦楽団が解散し、そのメンバーの中から指揮者・黒木篁やコンサートマスター・宮山典雄ら八人を四国に招くことになり、地元のメンバーと合わせて一四人でNHKと専属契約を結び、新しく松山放送管弦楽団が結成された。指揮者が初代の黒木篁から和田定範に代わり、昭和五〇年ころまでは盛んな活動をするが、現在はNHKの方針もあるのか、ほとんど活動していない。しかし、昭和三〇年代から四〇年代にかけては、例年辺地の学校へ出向いて「音楽教室」を開いたり、各地の施設を慰問したりして、四国で唯一の放送管弦楽団として、本県のみに限らず広く四国地方の音楽文化の向上に尽くした貢献は計り知れないものがある。

ニューゲールバンド

 愛媛県は、昭和二〇年の終戦直後、農産物の増産奨励と農民慰問の目的で、県下の各郡・市の歌舞団に委嘱して各地を巡回させている。
 松山市、伊予郡、温泉郡を委嘱されたのが橋本一らの松山商業学校音楽部出身のグループで、「碧空」楽劇団を結成し、国民歌謡、踊り、万才などの大衆娯楽を中心に各地を巡回していったのである。昭和二二年七月五日、橋本一・一色一雄・桐山俊一・小田義和・長尾操・池田康一らが集まって、農村慰問の楽劇団から離れて、「松山軽音楽研究所」を設立、歌謡曲の他にアメリカのジャズ研究に力を注いだ。そして生まれたのが、「ニューゲールバンド」である。
 このニューゲールバンドは進駐軍からジャズの楽譜やレコードを譲り受け、当時としては最新の音楽を演奏していた。このバンドも、橋本一という、総ての情熱をこれに傾け、私財を投じて運営に当たった純粋なアマチュア人がいたからである。昭和二五年の愛媛新聞の地軸欄に「純然たるアマチュアの楽団として旗をあげたニューゲールはバンドマスターの橋本一の念願として、本格的なアメリカジャズ、スイングバンドの完成にあるようだが、フォアサックスの編成は関西には類例を見ない誇るに足るものである。昨秋、松島詩子が来県したときのことである。はじめ田舎のバンドと見くびり、伴奏をなめてかかっていたが、中途から認識をあらためて、急に物腰が低くなった。このエピソードはニューゲールの真価を物語るものである」というように、関西屈指の実力を持っていた。そして、前述のようにNHKの放送などで活躍をしたのち昭和三〇年ころから次第に活動が少なくなり、自然消滅していったのである。

県民の音楽嗜好

 昭和二四年一〇月、松山商科大学音楽部の学生が音楽の世論調査を行っている。調査内容は、「一、西洋音楽への関心ノ有無 二、趣向音楽の種別 三、最も愛好する音楽家名及び作品四、音楽の研究について 五、ジャズ、流行歌に対する批判 六、所有する楽器名」などを調査対象としている。当時の県民の音楽的嗜好を知ることができる興味深い資料である。

音楽鑑賞団体

 愛媛労音は昭和三〇年一月、「よい音楽を安く、より多くの人に」を目標に会員制の自主的音楽鑑賞組織として発足した。当時は生の音楽に接する機会は稀で、労音の誕生は音楽家の演奏の場をつくり、愛好家に鑑賞の場をつくることで、音楽の地方への普及に大きな役割を果たすものとなった。松山市の愛媛労音は、全国で一五番目に組織されたものであり、次いで今治労音、八幡浜労音、宇和島労音が組織され、これらに刺激されて昭和三五年末に新居浜労音、そして翌年の一月に大洲労音が結成され、県下の主な市に一通り労音が組織されたかたちとなった。もっとも、八幡浜・大洲両市の労音は赤字のため一年で休会になり組織の定着には至らなかったが他の労音は順調に会員数も増し、昭和三七年五月には愛媛労音三、〇〇〇人、新居浜労音四、五〇〇人、今治労音一、五〇〇人、宇和島労音五〇〇人と拡大される。そして、新居浜労音では例会日程を二日取るなど労音の全盛時代を迎え、さらに昭和四一年に行った会員四〇〇人の合唱によるショスタコビッチの「森のうた」は、労音の組織活動に重要な一ページをつくった。以後、オペラやミュージカル、寄席にいたるまで、あらゆる分野の公演を実現し、昭和五八年までで四〇〇回を超えているが、現在は組織も弱体化して、例会の数も年間数回で、組織の再生が望まれている。
 民主音楽協会は「民音」と呼ばれている音楽文化団体で、広く民衆の間に健康で明るい音楽運動を起こすなどの五つのスローガンを掲げ、昭和三八年池田大作の提唱で創設された創価学会を母体にする組織で、昭和四二年四国事務局を高松市に開設し、四国での本格的な活動を開始している。その後五六年に四国事務局を松山市に移し、県下約一万一、〇〇〇人の賛助会員で栄んな活動を行っている。
 一方、愛媛新聞社では音楽を毎日の生活のリズムに取り入れようと、昭和五三年一一月に会員制の音楽会、「愛媛新聞コンサートホール」を開催し、司会者の解説を聴きながら奏者と同一フロアで鑑賞できるユニークな演奏会スタイルが好まれている。また、この演奏会では休憩時間にコーヒー、ワインなどがサービスされて、音楽的な社交場ともなっている。そしてこの演奏会は昭和五六年には新居浜市でも開催されるようになり、国内外の一流演奏家の演奏を家庭的な雰囲気の中で鑑賞できる演奏会として発展している。これまでの主な出演者として、カール・ライスター(クラリネット)、前橋汀子(バイオリン)、伊藤京子(声楽)などがいる。

愛媛大学教育学部特設音楽科の設立

 昭和三一年城多又兵衛は、東京芸術大学の教授を突然辞任して愛媛大学教育学部の教授として赴任した。彼は、東京芸術大学附属高校の校長として、同音楽学部声楽科の教授として、我が国音楽界をリードしていた。その彼が愛媛大学に着任したことによって、にわかに特設音楽科(特別教科音楽教員養成課程)設立の話が持ち上がった。そして翌年、大学側の全面的理解と協力によって準備は着々と進められ、松山市、愛媛県当局への働きかけなどが始められた。昭和三三年、城多の要請により、福井大学からピアノの大給正夫を教授として招き、既存の音楽科の教授陣の充実と特設音楽科設立準備の内部を固めた。
 そして、城多・大給らは県出身の国会議員の応援と、東京芸術大学の協力を得て、文部省当局へ強力な交渉が展開されたのである。昭和三三年、文部省の予算折衝では第一次で認められず、年を越した早春の復活折衝で設置が認められたとの報が入り関係者をはじめ県民全体で、その認可を喜んだのである。
 この特設音楽科設立の運動には、学生・教官・同窓生・地域の人々の全面的な支援があったことを忘れてはならない。同窓生達はこの運動に呼応して、音楽科充実のための寄金を寄せ、一方、教官・学生も資金募集の演奏会を再々開催し、音楽科のアピールを県民や中央にしたのである。地元の新聞や放送などの報道機関もこの運動に応えて全面的な応援をしたことも、その運動を盛り上げるのに大きく貢献した、と当時を振り返り大給は語っている。
 昭和三四年四月、全国八番目の特設音楽科として、第一期生二七名を入学させた。二七名のうち七名は中等科からの転入生で設立の為に運動を展開した音楽研究に強い研究心を持っていた学生であった。事実、現在この一期生秋山義朗・佐伯光男達の県下での活躍には目をみはるものがある。卒業生は、県下は勿論のこと全国各地で音楽活動を行い、「愛媛の特音」としてその評価も高い。とくに県内小・中・高等学校の音楽教員としてはその中核となって活動し、コンクールなどの対外的活動においても素晴らしい成果を上げている。定員三〇名の、この教育学部特別教科音楽教員養成課程も、昭和六〇年には二六期生を迎え入れ、愛媛県はもとより四国で唯一の音楽センターとして益々の発展が期待されている。

合唱運動と吹奏楽運動

 県下の合唱団の統一組織として昭和三六年愛媛県合唱連盟が佐藤陽三らの呼びかけで設立された。これは全日本合唱連盟の傘下にあり、高校・大学・職場・一般の各合唱団が加わり、年々多彩な活動を続けている。連盟の設立によって、各地域で活躍していた合唱団が同一レベルで活動し、新しく設立される合唱団もあり、昭和三〇年代の後半から四〇年前半にかけて盛んな活動をした。とくに、連盟設立の一年前、昭和三五年第一回の合唱祭は県下から七団体が集まり、愛媛大学記念講堂で開催され、県下の合唱団が初めて一同に会しての合唱フェスティバルとなった。以後、毎年一回、この合唱祭は連盟主催で開催され、第一〇回の昭和四四年には会場を松山市民会館に移し二〇団体が参加した。これをみても、本県での合唱が年々盛んになっていることが理解される。中でも、近年の高校・一般部門の充実が著しく、全国的にも高いレベルの団体が増えている。
 さて。この合唱連盟に所属している松山市民合唱団の活躍もまた注目されるものである。この合唱団は、昭和三九年三月二六日に松山交響楽団の第二回定期演奏会が愛媛県民館で開催されるのを機会に、佐藤陽三・杉野喜伊一・松本三郎らが中心になって団員を募集した。これは三五年に結成された、エヒメボーカルグループのメンバーが中心になってアンサンブルの練習を始めていたが、その後松山交響楽団の結成や、松山市民会館の建設問題に刺激されて、地方文化の向上という理想を掲げ、設立を呼びかけたものであった。(昭和三九年三月二五日付愛媛新聞)
 以後、そのメンバーは八〇人を数え、幅広く、会社員・教員・商店主・学生・OL・主婦などから団員を構成し、佐藤の一貫した指導により、昭和四二年の第一回定期演奏会以後、全日本合唱コンクール(四国代表)や東京交響楽団との共演、池辺晋一郎作曲の「合唱による構成・銅山」(創立一〇周年委嘱作品)、石丸寛、愛媛交響楽団などとのモーツァルト作曲「レクイエム」、ヘンデル作曲「メサイア」の公演など素晴らしい活動をしている。とくに、近年、二度に亘る愛媛交響楽団との共演による渡辺暁雄指揮のベートーベン作曲「交響曲第九番合唱付」の演奏は県下の合唱団の中心として、県下全域からメンバーを集め、本県音楽史上の一大イベントになった。
 さらに、創立二〇周年委嘱作品池辺晋一郎作曲「合唱組曲、異聞・坊っちゃん」は芸術祭優秀賞を受賞し、そのレベルの高さを全国に知らしめた。その他、合唱コンクールでの愛媛大学教育学部附属小・中学校、松山東高校、西条高校の全国優勝も本県の合唱史に大きく残るものである。
 また、県下には昭和三八年に結成された新居浜混声合唱団があり、メンバーは新居浜市のほか西条市、東予市にも広がり、活発な活動を続けている。また、宇和島市には戦後まもなく結成された宇和島合唱団の他に昭和四三年結成された宇和島市民合唱団が幅広く市民に呼びかけ、松影通男を指導者に毎年定期演奏会を開催している。
 戦後の吹奏楽運動は、昭和二八年、愛媛県を中心に開催された第八回国民体育大会の開会式における吹奏楽からである。一色豊重・松村弘三郎らは国体を成功させようと、二〇〇名からなる奏者を養成し、本県としては画期的な編成による吹奏団による開会式の演奏であった。このメンバーが各地に散らばり、吹奏楽活動を行い、昭和三二年県吹奏楽連盟が設立され、全国的な組織の中で活動を始めたのである。連盟設立当時は松山、今治の中学が八、高校一、大学一の一〇団体で組織され、その後、学校行事への吹奏楽の参加などもからんで、急速な普及が進み、近年は、中学・高校・大学・一般を合わせて一〇〇団体を超える大所帯の連盟に成長して、四国地方では団体数、レベルとも他県を圧倒している。とくに、中学校では、松山市の拓南中学校・雄新中学校、伊豫市の港南中学校、重信町の重信中学校が高いレベルにあって全国的にも注目を集めている。高校では今治北高校、松山東高校、松山南高校がコンクールで、常に好成績を残している。新設校の伊予高校は昭和五九年、コンクール初出場でいきなり全国大会出場を果たし、本県のレベルの高さを全国に知らしめた。また全国学校合奏コンクールにおける今治北高校の三度に亘る優勝は本県の吹奏楽史に大きな足跡を印した。
 吹奏楽運動は学校中心であるが、近年、一般の吹奏楽団の結成が県下で五団体を数え地道な活動をしている。なかでも松山市民吹奏楽団は昭和四九年一〇月一〇日、二八名のメンバーによって結成され、以後、吹奏楽連盟に加盟して、コンクールを始め盛んな活動をしている。とくに四国の全国コンクール出場は一般の団体としては他県に例をみず、全国的にも認識されている。また、この楽団は少年院や刑務所での慰問演奏などの奉仕活動でも成果を上げており、野外コンサートなどを含めて、市民に根付いた楽団として定着して来ていることは非常に喜ばしい限りである。
 その他、今治市の今治市民吹奏楽団、東予市の東予シンフォニックウインドアンサンブル、新居浜市には新居浜市民吹奏楽団がそれぞれ青年を中心に地道な活動を続けている。

愛媛交響楽団の誕生

 愛媛交響楽団(愛響)の本県における存在価値には大きなものがある。この愛媛交響楽団は昭和四六年オーケストラを前提にした愛媛弦楽合奏団の公演を契機に翌四七年二月、四四名からなる発起人会を発足させ交響楽団結成へと進んだものである。以前の交響楽団の失敗から発起人には、実動の音楽人及び愛好家を入れて形だけの発起人会にしなかったことがこの楽団の成功の基になったと、松山交響楽団などとの比較から推測される。結局、アマチュアの楽団は他力では運営できないことを「愛響」創立時の幹部たちはよく知っていたのだろう。しかし、この愛媛交響楽団も順調な滑りだしをしたと思われたが、なかなかうまくはいかなかった。結成当時の様子を山田事務局長が『愛響楽団小史』の中で次のように書いているので引用してみよう。

 何年続いたか、弦楽合奏グループが深刻な感情のもつれで仲間割れし、雲散霧消したのは昭和四六年の春だった。
 音楽人の余りにもきびしい非妥協ぶりと感情争いに巻き込まれ、いくら解決に努力しても徒労に終る散々な目にあって、深く失望し、シラケきっていた時、当時、グループの一メンバーだった、河野国光氏が同じ世話役をしていた私を一夜襲撃し……(中略)……河野氏の不退転な決心と熱意にまず共鳴した松野、岩井、秋山氏らは夫々に古い仲間、新しい友人を説得し、誘い、宮山、井部、玉井、鬼頭、砂野、八束、矢野氏など十八名で八月二八日「愛媛弦楽合奏団」を結成、河野氏を団長に十二月結成記念公演「バロックの夕べ」を催すことに決意した。
 しかも、最初からオーケストラづくりの下敷きにする事を決意して。……(中略)……ところがオケづくりに全面共鳴する管楽グループの応援と言う伏兵がいる嬉しい事実があった。現愛響の中核、中田、篠原、三嶋氏等である。
 そして、十一月愛媛新聞はこの公演を大きく取り上げ、「市民オーケストラに!愛媛弦楽合奏団が旗あげ」の見出しで、楽団結成のいきさつ、内容、過去の市民オケの挫折の歴史を併せて詳述し、「オーケストラの有無は、その地方の音楽水準を示すもの……(中略)……ぜひ本県にもオーケストラをの声が強い」と報じた。
 かくて、十二月二三日大ホールは予想を越える千五百余人の入場客で処女公演は成功した。
 しかも、この成功の収獲は懸念されていた過去の挫折感、相互不信感を中和する副作用をも同時にもたらせた。
 そして、その熱気がさめぬ間にと、直ちにオケづくりの作業が開始され、四七年二月の発起人会を機に吾が愛響は呱呱の声をあげた。団員数は総数五七名。こうして郷土の音楽界に新しい歴史を拓く「愛響」第一回定期公演は九月二三日、松山市民会館大ホールを超満員にする公演になった。(『愛響楽団小史』)

 このようにして誕生した愛媛交響楽団も指導者に困った。第一回定期公演後、我が国楽団の大物指揮者渡辺暁雄に会うべく団長の河野国光と中田勝博が上京し、第一回公演の録音を聴いてもらい指導を仰いだ。その時から渡辺との強い絆ができ、楽団の発展も始まったのである。そして昭和五〇年には渡辺を音楽顧問に要請し、現在まで続いている。
 さて、愛媛交響楽団の本県の音楽史に大きく残る公演は昭和五五年のベートーベン作曲第九交響曲「合唱付」を演奏した、第八回定期演奏会である。この公演には本県合唱連盟が総力をあげての合唱を担当し、独唱者にソプラノ嶺貞子、アルトに西条市出身の妻鳥純子、テノール藤沼昭彦、バリトン佐藤陽三を招き指揮渡辺暁雄で高いレベルの第九を県民に披露した。)
 この愛響の大きな特色は年二回の大きな演奏会には必ず、中央からプロの指揮者を招いて指導を仰いでいることである。
 これは第二回公演以後続いている。現在まで愛響を振った指揮者は久山恵子、石丸寛、三瓶十郎、渡辺暁雄、佐藤功太郎、伴有雄、中島良史、尾高忠明、手塚幸紀、大町陽一郎、平井哲三郎、田中良和、山田一雄、渡辺康雄の一四名に及び、我が国楽界の新進からベテランまで多岐に亘っている。このような地方アマチュアオーケストラはほかに例がなく、中央でも高い評価を得ている。
 そして、毎年のサマーコンサートの前日、中予地方の小学五年生を招いた「子どもの為のコンサート」は子ども達に生の音を聴かせる生きた教材として喜ばれている。また各地方を巡回する芸術祭移動公演も県下各地で開催し、県民のオーケストラとして定着しているのである。

音楽興論調査

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