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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

第四節 愛媛の書家(近世~現代)

 伊達 秀宗(一五九一~一六五八)

 宇和島藩伊達家初代。天正一九年九月二五日、仙台に政宗の長男として生まれる。幼名兵五郎、義山と号した。豊臣秀吉に秀頼が生まれたとき、兵五郎を家人に献じたいとの申し出に対し、秀吉から秀宗の名を与えられたという。慶長一九年宇和島一〇万石に封じられた。万治元年六月八日、江戸で没した。六八歳。暢達流麗な漢字仮名まじりの和歌、俳句の書に藩主の風格を見る。

 中江 藤樹(一六〇八~四八)

 近江聖人といわれた。慶長一三年三月七日近江高島郡小川村生まれ、米子藩主加藤貞泰に仕えた祖父吉長に養われ、一〇歳の時、加藤家の国替えのため伊予に来た。元和八年から寛永九年まで大洲、新谷藩に仕え、二七歳のとき母への孝養のため近江へ去った。慶安元年八月二五日没、四一歳。その書は温雅の中に自在性あり、老成の風を感じさす。天性とともに厳しい精進によるものであろう。

 懶翁 玄東(一六一三~七六)

 松山市山越の臨済宗江西山天徳寺第三世で、豊後府内(大分市)の人。慶安二年四月同寺に来る。枯淡、気鋭、禅機に通じ、藩主、藩士に尊敬された。書は筆力雄健、雅致ありと評された。寛文六年豊後に帰り、延宝四年二月二六日入寂、六四歳。

 南明禅師(一六一八~八四)

 元和三年四月八日、越智郡龍岡村(現、玉川町)元幸門城主正岡盛元の子として芸州(広島県)で生まれた。九歳のとき東予市の長福寺に入り、一七歳で奥州瑞巌寺雲居和尚(土佐出身)に師事。慶安三年、小松藩主のため仏心寺を開設、寛文一二年に京都妙心寺の第二一五世となる。貞享元年一〇月一五日入寂、六七歳。

 盤珪禅師(一六二三~九五)

 臨済宗の高僧、元和八年三月八日播磨(兵庫県)生まれ。初号永珪、後に永琢、一七歳で得度。慶安三年、長崎崇福寺で明僧超元に禅義を得た(不生禅)。大洲藩主加藤泰興の帰依をうけ、寛文一二年如法寺を開山。元禄六年九月三日入寂、七二歳。勅諡号大法正眼国師。

 桑折 宗臣(一六三四~八六)

 宇和島藩主伊達秀宗の四男、家老桑折家を嗣ぐ。通称左衛門・青松軒・本水と号す。学問に通じ、風流を好み和歌、俳句をよくす。貞享三年三月三日没、五三歳。『大海集』を著す。

 伊達 宗利(一六三四~一七〇八)

 宇和島藩主第二代。初代秀宗の三男で寛永一一年生まれ、号は賢山。明暦三年七月襲封。在任中宇和島城の修築を行う。和歌を愛し、自詠九〇〇首を集録した『自詠愚草』がある。宝永五年一二月二一日没、七五歳。

 川田 雄琴(一六八四~一七六〇)

 貞享元年四月二八日、江戸に生まれる。名は資深、字は君淵、通称半太夫。初号琴郷・築田蛻巌、三輪執斎に学ぶ、初め備中浅尾侯、のち享保一七年大洲藩に仕官、藩校明倫堂を設けた。宝暦一〇年一一月二九日没、七七歳。

 伊藤 子礼(一六八五~一七六一)

 松山の能書家、藩士井上氏の男で伊藤浅右衛門の養子となる。円光寺明月、天徳寺蔵山と松山の三能筆と称せられた。実名は好章、字は恒充、雪旦、船竜堂の号を使った。貞享二年生まれ、宝暦一一年一月四日没、七七歳。

 蔵山和尚(一七一二~八八)

 正徳二年、上浮穴郡美川村日の浦に生まれた。幼名を矢九良といい、字は貴謙、老後散木子・大聾翁など号した。九歳の時松山市山越の臨済宗江西山天徳寺に入り、延享二年三四歳のとき、天徳寺第一一代として法統を継いだ。その後天明二年に隠居、同寺吸江庵に住し、天明八年一〇月七日没、七七歳。

 吉田 蔵沢(一七二二~一八〇二)

 松山藩士、墨竹画を描いた文化人。号は蔵沢のほか酔桃館・白雪堂・翠蘭亭・不二庵がある。風早郡奉行を勤めた。享和二年二月二七日没、八一歳。

 学信和尚(一七二二~八九)

 浄土宗の高僧、字は敬阿・正蓮院行誉・華王道人・古月・無為などと称した。享保七年今治市鳥生に生まれ、同地円浄寺で落髪。江戸増上寺に学び、京都・備前・筑紫・日向・長門を遊歴した。寛政元年六月七日、宮島の加祐軒にて寂、六八歳。

 伊達村候(一七二五~九四)

 宇和島藩主第五代、四代村年の子。享保一〇年五月一一日生まれ、名は伊織、村房、村隆、政徳、政教など、号は天台、楽山、南強など称し、才気すぐれ、文武兼備、治藩六〇年、三百諸侯中屈指の名君といわれた。寛政六年九月江戸で没した。七〇歳。

 明月和尚(一七二七~九七)

 享保一二年山口県屋代島(大島)に生まれ、幼名を義道といい、後明逸と改めた。字は曇寧、八月一五日生まれにより明月と号したという。別に解脱隠居・化物園と号した。少年の時から松山湊町円光寺に住み、二〇歳のころ京都・江戸に出て仏典・漢字(徂徒学派)を学んだ。特に詩文にすぐれ、酒を好んで奇行が多かった。宝暦一〇年、帰松して円光寺第八代の住職となった。寛政九年、七〇歳で没す。書は新潟の良寛、岡山の寂厳と並び僧の三名筆と称せられた。

 童麟和尚(一七三七~一八二五)

 松山末広町の法竜寺第一〇世。石夫と号した。仏典に通じ、学徳高く書をよくし、松山地方寛政の八僧の一人。文政八年七月没、七九歳。

 伊達 村賢(一七四五~九〇)

 吉田藩主第五代。四代村信の第二子。宝暦言一年襲封。天資英明、学を好み殊に書道に熟す。寛政二年六月没、四六歳。

 妙菴禅師(一七四五~一八二一)

 松山の黄檗宗千秋寺第二一世。陸奥の人。延享二年七月二二日生まれ。山内氏。名は普最。字は勝音、五峰とも号した。安永八年、今治波止浜円蔵寺の住職となり、天明六年千秋寺に座した。書画ともによくし、松山寛政八僧の一人。文政四年一一月一一日没、七七歳。

 誠拙和尚(一七四六~一八二一)

 号は無用道人。北宇和郡津島町柿ノ浦の人。延享二年六月二九日生。宝暦三年七歳の時宇和島仏海寺霊谷和尚について得度。海蔵寺荊林・松蔭寺白隠らに参じ、武蔵東輝庵月船和尚の会下に入る。天明六年宇和島に帰り仏海寺に昇座した。歌・書・画をよくし、白隠・仙崖と共に禅画の三輻対といわれる。文政三年六月二八日寂、七六歳。

 尾藤 二洲(一七四七~一八一三)

 延享四年一〇月八日川之江に生まれる。実名は孝肇、字は志尹、別名約山・半隠・静寄軒。医儒宇田川楊軒に陽明学、大坂の片山北海に徂徠学を学び、頼春水と交友して朱子学に転じた。寛政の三博士の一人。文政一〇年一二月四日没、六七歳。

 栗田 樗堂(一七四九~一八一四)

 俳人・備前屋後藤喜右衛門の三男、名は貞蔵・専助、実名政範。栗田羅蝶により栗田家に入り第七代与三左衛門を継ぎ、町方大年寄を勤めた。俳諧を加藤暁台に学び俳名江戸にとどろくといわれ、一茶も来訪した。文化一一年八月二一日没、六六歳。

 行応 玄節(一七五五~一八三一)

 宇和島竜華寺住職。八幡浜の人。一〇歳で出家。豊前捷洲・甲府快巌・東福寺天貌らの各禅師に参じ、寛政六年川之石竜潭寺に住した。享和二年宇和島藩主に請われて等覚寺に入り法席を開いた。天保二年一一月二〇日没。七七歳。

 杉山 熊台(一七五五~一八二二)

 松山藩儒者・名は惟修、通称平兵衛、別号遊子斎。円光寺明月から文辞、徂徠学を江戸の古賀精里に学ぶ。文化二年松山藩校孝徳館の督学に任ぜられ業績大いに上がったという。文政五年八月七日没。六八歳。


 桑折 桂園(一七六一~一八三一) 宇和島藩家老。藩主村候・村寿・宗紀三代に仕え藩政の中心的人物だったという。頼春水に師事し、文・書とも非凡の評がある。宝暦一一年一〇月二四日生まれ、天保二年二月七日没。七一歳。

 近藤 篤山(一七六六~一八四六)

 小松藩儒官。宇摩郡土居の人。名は春崧、字は駿甫。通称は敏・金作・大八郎・新九郎・高太郎、別号竹馬・勿斎・尋芳堂・五友園あり、尾藤二洲に学び、深く感化された。享和二年、小松藩主一柳頼親に招かれ開塾、伊予聖人と称せられた。弘化三年二月二六日没、八一歳。

 宮原 桐月(一七六九~一八四二)

 宮原竜山の実弟、名は模、字は子体。尾藤二洲・服部栗斎に学ぶ。松山藩儒員となり、詩文・書をよくした。天保一四年九月一九日没、七四歳。

 伊達満喜子(一七七三~一八三九)

 第六代吉田藩主村芳夫人、安永四年五月三日生。和歌をよくし、歌集『袖が香』あり、「雨後春月、春雨の名残の露の玉柳 みがきてかかる月の影かな」。村芳没後は善性院と号し、嘉永四年一二月七日没。七七歳。

 千秋寺蓮華心(一七七三~一八三四)

 伊予の人、松本氏。名は要中通玄。諱は達玄聾玄、別名無求。松山千秋寺第一四代、書名高し。天保一〇年七月一〇日没、六二歳。

 本間 游清(一七七六~一八五〇)

 吉田藩医、和漢学者、村田春海に学び、同藩国学に大きい影響を与えた。安永五年生。字は子龍、号は眠雲・九江・潜雲・消閑子など。著書は医・漢・国学を通じて多く『みみと川』『眠雲舎詩抄』などがある。嘉永三年八月一六日江戸で没、七五歳。

 雄山和尚(一七八二~一八三二)

 江西山天徳寺一三世、島根県松江の人。文化四年一二月二四日、円城寺より松山天徳寺に入山。江西閑鴎とも詩書に巧みだった。天保三年一一月二日没、五一歳。

 長野 豊山(一七八三~一八三七)

 川之江の人。天明三年七月二八日生。名は確、字は孟確、通称友太郎、惣左衛門、大坂中井竹山、京都邱本遜斎、江戸昌平黌尾藤二洲らに学び、『嘉声軒文約』などの著書がある。学名高く門人に林鶴梁がある。天保八年八月二二日没、五五歳。

 日下 伯巌(一七八五~一八六六)

 松山藩儒臣、天明五年二月一七日生。号は陶渓、名は梁、伯巌は字。文政一〇年、藩校明教館創立の時教授になり主教を勤む。安政元年引退まで四〇年、門人に大原観山・武知五友・藤野南海がいる。慶応二年九月一四日没、八二歳。

 菅  南台(一七八六~一八五七)

 松山藩家老職。本名良史・保輔・隼人・五郷左衛門・藤九。詩歌俳書画の趣味あり。菅良彦の男。安政四年九月九日没、七二歳。

 克譲和尚(一七八七~一八六四)

 松山真宗正覚寺六世乗信の二男。幼名恵忠、字は大痴。二洲山人・玩石・石室と号した。藩儒杉山熊台に学び石見の浄泉寺にはいり、北陸の治天和尚にっいて修行、京都本願寺学林で教えた。博学達識、和漢仏に通じた悟道の大器といわれた。元治元年一月一日、温泉郡中島町正賢寺で没。七八歳。

 大野 約庵(一七八八~八六四)

 松山藩士、書家。書は越智高洲につき、のち山陽、春水に習い、さらに晋・唐の書を学んだという。江戸泉岳寺山門の扁額は佐藤一斎の推薦で書いたと伝えられる。元治元年六月五日没、七七歳。

 伊達 宗紀(一七九二~一八八九)

 宇和島藩主第七代。六代村寿の男、寛政四年九月一六日生。名は扇千代丸・扇松丸・主馬、号春山。率先質素節約、産業振興、信賞必罰よろしきを得て、氏力大いにあがる。幕末進歩派大名の一人で能書家として有名。明治二二年一一月二五日没、九八歳。

 晦巌 道廓(一七九八~一八七二)

 臨済宗金剛山大隆寺(宇和島)住持、万休と号した。九歳で出家、博多聖福寺仙崖に師事。鎌倉円覚寺誠拙、妙心寺淡海らに学んで法を嗣ぐ。宇和島藩主伊達宗紀に請われ大隆寺に入り礼遇を受けた。高識の勤王僧。明治五年八月二八日没、七五歳。

 樵禅和尚(一七九八~一八七五)

 大洲臨済宗曹渓院住職。名は禅鎧、号は九江・九江叟・吸江軒また柄樵・禿樵・華山など。寛政一〇年一〇月二五日生。広瀬淡窓に漢学を学び、二〇歳のとき京都に行き妙心寺棲神和尚に師事、文政八年曹渓院に入った。詩文の才あり『九江夜話』などの書がある。明治八年七月一〇日没、七八歳

 陶  惟貞(一七九九~一八七三)

 郡中(伊豫市)の医師で能書家。実名は観、字は惟貞、幼名儀三郎。明治六年九月一八日没。七五歳。

 城  長洲(一八〇四~六六)

 医者で詩人。康郷、晋、隆平といい、政堂華臍道人とも号した。江戸高輪に生まれ、紀州長島に移って医業を開き、晩年は松山に住んで医師開業。慶応二年九月一日没、六三歳。

 二宮 敬作(一八〇四~六二)

 オランダの長崎出島商館付き医師シーボルトの門人。号は如山・桂策。文化元年五月一〇日磯崎(西宇和郡保内町)に生まれ、一九歳のとき長崎に行き鳴滝塾で理学・植物学を学ぶ。東宇和郡宇和町卯之町で外科医を開業。文久二年三月一二日長崎で客死、五九歳。

 鷲野 南村(一八〇五~七七)

 文化二年七月二五日生。伊予郡黒田村(現、松前町)の庄屋。名は翰。通称驥太郎。篠崎小竹に学び、私塾を開いて子弟を教育した。明治一〇年八月一五日没、七三歳。

 石井 義郷(一八一二~五九)

 歌人で松山藩士。馬廻り役、東門番頭。文化九年五月一七日生。通称喜太郎。歌号萩の屋・芳宜の屋。歌は同藩三浦幸郷、伊東祐根、田内董史らに学び、また江戸の海野遊翁についたという。幕末地方歌壇不振のとき松山地方は彼の存在で、ひとり隆盛を維持した。門人に西村清臣、星野久樹あり。安政六年七月一六日没、四八歳。

 半井 梧菴(一八一三~八九)

 医師、文化一〇年六月二三日今治生まれ。名は忠見。京都で医学を修め、天保一〇年今治に帰り藩医になる。薬園を開き、化学を講じるなど進歩的医家で、また国学に通じ、歌に長じ、地誌の学才があった。晩年石鎚神社、京都護王神社などの神職をつとめ、明治二二年一月二日没、七七歳。

 武知 五友(一八一六~九三)

 松山藩儒官。名は方獲、字は伯憲、通称作八、幾右衛門。号は清風、臥南、愛山あり。日下伯巌や江戸昌平黌に学び、帰って藩校明教館教授。正岡子規の師。子規に与えた「香雲」の書は松山市正宗寺子規堂に保存されている。明治二六年一月三日没、七八歳。

 巣内 式部(一八一六~七二)

 文政元年一一月七日大洲生まれ、本姓松井、名は信善、幼名は民三郎・五郎。国学者常磐井中衛(厳戈)に師事、矢野玄道・武田斐三郎らと交友があった。安政六年、京都に出て勤王志士と往来、新撰組に捕えられて在獄三年、慶応三年に出獄し、その後大洲に禁固された。明治五年一〇月五日没、五五歳。

 三好 竹陰(一八一六~八九)

 宇和島生まれ。書に精進し、医者としてよりも書において世に知られた。明治二二年没、七四歳。

 上甲 振洋(一八一七~七八)

 宇和島藩儒官、名はせき、別号を遂幽。父拙園に学び、近藤篤山につき、江戸に遊学、帰藩後藩校教授。安政元年八幡浜に引退、私塾を開く。門人数千人に及んだという。明治一一年九月九日没、六二歳。

 三上是庵(一八一八~七六)

 松山の人。文政元年六月四日生まれ。名は景雄、通称は退助、新左衛門ともいう。松山城三の丸門番勤務のかたわら勉学、のち江戸にて佐藤一斎に師事。田部藩に招かれたが慶応元年帰松、松山藩主の顧問となり維新の難局を処理した。明治九年一二月四日没、五九歳。

 伊達 宗城(一八一八~九二)

 宇和島藩主第八代。文政元年八月二〇日、江戸生まれ。幼名亀三郎・知次郎・兵五郎、南洲と号した。弘化元年七月職を継ぐ。英明活達で統率力にすぐれ、薩摩、土佐、福井各藩主とともに賢諸侯といわれた。明治一六年修史館副総裁を最後に官を辞す。明治二五年一二月二〇日没、七五歳。

 大原 観山(一八一八~七五)

 松山藩士、藩儒日下伯巌につき、江戸昌平黌に学び、帰って明教館助教、教授を勤め、また藩主定昭の側用人となる。高徳の士で国勢に通じ、維新のとき藩を安泰に導いた一人という。正岡子規の母八重はその女、加藤拓川は男。明治八年四月一八日没、五七歳。

 常磐井厳戈(一八一九~六三)

 大洲八幡神社の神職。学統を平田篤胤に受け矢野玄道・三輪田米山・元綱らと親交、家塾を継いで古学堂と名づけ、神道国学に努め、洋学にも関心を招き電信の実験を試み、地球儀を作って教えた。号は(且にト)雲棲、古学堂主人。文久三年三月一三日没、四五歳。

 三輪田米山(一八二一~一九〇七)とその兄弟。

 松山市久米、日尾八幡大神社の神職。河内守清敏の長男として文政四年一月一〇日生。幼名秀雄、後に国学者野之口隆正(平田篤胤学派)に入門して常貞の名をもらう。別名を清門といい、字は子廉、米山と号し、得正軒主人ともいう。二〇歳で家職を継ぎ、氏子の教導に精進した。また、次弟高房(漢学者)と末弟元綱(平田派国学者)を江戸に遊学させ、三輪田三兄弟と藩内に称賛された。祖母里与、母米子の両賢夫人の養育を受けた三兄弟は孝養を尽くし、学芸にはげみ、名声を得た。米山は自然を愛し、和歌を楽しみ、酒を好み、書は王義之・紀貫之ら最高の筆跡を目標として生涯精進して日本書道史上屈指の作品を残し、高房は漢学を以って藩士となり明教館助教、藩主の側近に登用され、のも神官として久邇宮朝彦親王神道長官に請われて補佐の任に当たった。また、のちに学習院道徳会講師及び幹事となった。元綱は平田派国学の王政復古の実践主謀者として米山とともに活躍、のち明治維新政府の外務権大丞となり、故郷に錦を飾った。その妻真佐子は、女子教育者として東京に三輪田女学校を開設した。
 明治二年、母米子(七一歳)は藩知事より良妻賢母として表彰され、金二〇〇疋を下賜された。明治二一年、九二歳で米山に見守られて没した。久遠宮朝彦親王、米子の米寿を賀せる歌「ときはなる松の山辺に住む人のよはひは千代も変わらざらまし」。
 『米山-人と書』(昭和四四年墨美社)や昭和五九年一一月芸術新聞社特集号『三輪田米山』が出された。

 矢野 玄道(一八二三~八七)

 国学者、大洲市阿蔵の人。文政六年一一月一七日生。実名は敬達、号は子清・天放散人・後楽閑人など。川田雄琴・日下伯巌に学び、幕末に京阪神を往来して有志と交際、明治元年二月徴士で神祇官判事、同八年修史局御用掛、皇典講究所文学部長となる。同二〇年五月一九日大洲で没、六五歳。

 尾埼 星山(一八二六~一九〇三)

 宇摩郡土居町北野の人。名は義正、字は士弘。文政九年七月二三日生。矢野翠竹、近藤篤山らに学ぶ。慶応四年、西条藩の懇望により助教となり、学頭に進み藩政参与権少参事主務文武館総督。明治四年辞職。以後「三余学舎」を開いて教育に尽くす。明治三六年一一月没、七八歳。

 武田 敬孝(一八二六~八六)

 大洲市中村の人。斐三郎の実兄。通称亀五郎。号は熟軒・修古堂。大洲藩校明倫堂に入り山田東海に学び、藩主の侍講になり、藩校教授を兼ねた。維新後、胆沢県(現、岩手県)権知事となる。明治一九年二月没、六一歳。

 武田斐三郎(一八二七~八〇)

 幕末、明治初期の洋学、兵学者。日本最初の洋式城で築城史上最後の城である箱館五稜廓を設計施行した。大洲藩士、別名は成章、号は竹塘。大坂、江戸で緒方洪庵、佐久間象山につき蘭学・兵学を学ぶ。維新後は兵部省出仕、砲兵大佐、幼年学校長。明治一三年一月没、五四歳。

 伊佐庭如矢(一八二八~一九〇七)

 道後の医者成川国雄の男。文政一一年九月一二日生まれ、通称斧右衛門。震庵、禿毫庵碧梧桐など号した。維新後、山田香川郡長、金刀比羅宮神官をつとめ、晩年道後湯之町初代町長になる。明治四〇年九月四日没、八〇歳。

 左氏 珠山(一八二九~九六)

 文政一二年八月二三日八幡浜市舌間に生まれ、名は犢。上甲振洋に師事。卯之町に私塾を開き子弟教育に当たること二〇年。藩士として明倫館教授。廃藩置県後は県判事補、南予中学、松山中学、宇和島中学校などの教員を務めた。明治二九年七月二〇日没、六八歳。

 河東 静渓(一八三〇~九四)

 碧梧桐の父、名は坤。天保元年九月一日、松山生まれ。江戸昌平黌に学び、藩校明教館教授を務め、維新後は「千舟学舎」を開いて教えた。明治二七年四月二四日没、六五歳。

 遠藤 石山(一八三二~一九〇七)

 小松藩士。通称は徳蔵。璞玉とも号した。近藤篤山に学び、一九歳のとき江戸に遊学。帰って藩校養正館教授となる。明治維新に際しては尊王を奉じて京坂に奔走、維新後、風早・竹原・尾道・泉川・宇和島に私塾を開いた。書画をよくした。明治四〇年一一月、泉川村(現、新居浜市)にて没。七六歳。

 高志 大了(一八三四~九八)

 松山市高岡の人。河合政蔵の次男、天保五年生まれ。一四歳で興居島弘正寺に入門。明治八年、松山石手寺第三七世住職となり、同一六年に東京護国寺第四四世住職、さらに二六年には真言宗第二四七代長者大僧正となる。明治三一年没、六五歳。

 児島 惟謙(一八三七~一九〇七)

 天保八年二月一日、宇和島生まれ。父は藩家老職の家臣金子惟彬。幼名雅次郎、のち五兵衛、謙蔵。字は有終。号は天赦園。児島と改姓。大審院々長のとき、大津事件が起こり、犯人を極刑にせよとの政治的圧力や世論を退けて刑法の正条によって処分し、護憲の神と称せられた。明治二六年退官。貴族院議員二回、代議士当選一回。明治四一年七月一日没、七一歳。

 得能亜斯登(一八三七~九六)

 幕末、維新に活躍した宇和島藩の人。本名は林玖十郎。明治二年、得能恭之助亜斯登と改姓名した。天保八年四月生まれ。明治元年二月総督有栖川宮東征のとき、軍参謀で江戸に入城した。また柳原甲州鎮撫軍には参謀兼軍監の任に就いた。明治九年一〇月一〇日没、六〇歳。

 西山 禾山(一八三七~一九一七)

 八幡浜江西山大法寺の第一八世。須賀吟助の男。不顧道人、退休軒と号す。嘉永二年、一八歳で得度。豊後養賢寺で修行、帰って上甲振洋に学ぶ。無慾の大徳と世人に仰がれ、名士の参禅が多かった。大正六年四月没、八一歳。

 日下部鳴鶴(一八三八~一九二二)

 名は東作。字は士暢、号は東嶼、翠羽・鳴鶴・老鶴・鶴叟・鶴廬。彦根藩士。維新後内閣大書記官となったが退官して書の道に一生をかけた。初は書を巻菱湖に学び、後貫名萩翁を慕い、明治一三年楊守敬(清国公使館員)の来朝により、巌谷一六、松田雪何らとともに学び、古典の研究により沈滞していた日本書道界に新風を巻き起こして近代随一の大家と呼ばれ、現代日本書道界の指導者も多くその流れをくんでいる。松山にも来遊した。道後温泉霊の湯の隷書による万葉集和歌、東雲神社神名石、旧裁判所の看板はこの地方の人々に長く大きく影響したであろう。

 都築 鶴洲(一八四五~八五)

 宇和島藩主伊達宗城の側近、二条城で将軍慶喜に大政奉還を説いた諸藩士六人中の一人。藩士末広双竹の長男都築燧洋の養子となる。名は温。維新後、外務事務局御用掛、同局総督書記など歴任。宇和島に帰り、北宇和郡長。のち、八幡浜に私塾を開いた。明治一八年九月二七日没、四一歳。

 内藤 鳴雪(一八四七~一九二六)

 弘化四年四月一五日、松山藩士内藤同人の長男として江戸藩邸で生まれた。一一歳、松山に帰り藩校で学び、京都・江戸に遊学、明治二四年病のため文部省参事官をやめた。俳句は、四六歳のとき正岡子規の感化をうけて始める。晩年、子規とともに俳聖と言われ、慈父のように慕われた。碧梧桐・虚子らの先輩。大正一五年二月二〇日没、八〇歳。

 末広 鉄腸(一八四九~九六)

 明治初期の新聞記者、政治小説家、政治家。嘉永二年二月二一日宇和島生まれ。実名は重恭。別名子儉。通称雄三郎、鉄腸は号、廃藩置県後、官吏を経て言論界に入り、曙新聞、朝野新聞編集時代に新聞条例讒謗律を攻撃する論説を掲載して禁錮、罰金刑を受けたが、一躍論壇の人気者となり、両新聞の声価もあがった。明治一四年自由党入党、同一六年脱党して独立党を組織した。明治二九年二月五日没、四八歳。

 加藤 拓川(一八五九~一九ニ三)

 松山藩儒大原観山の三男として安政六年一月二二日生まれ。幼名忠三郎、恒忠と名乗る。号は拓川。司法省法学校に学び、ベルギー駐在特命全権公使など歴任。明治四〇年五月退官。大正一一年五月松山市長に就任。大市長とうたわれたが、翌一二年三月二六日没。六五歳。

 森 盲天外(一八六四~一九三四)

 俳人。政治家。盲目村長で有名。名は恒太郎、幼名忠孝。俳号は三樹堂孤鶴、天外、失明後盲天外。愛媛県変則中学北予学校を卒業後、上京して早稲田専門学校に学んだ。明治二三年県会議員に当選。同二九年失明。三一年、旧温泉郡余土村長に推され、盲目村長として全国に名を知られた。昭和九年四月七日没。七一歳。

 下村 為山(一八六五~一九四九)

 慶応元年五月二七日、松山で生まれた。名は純孝。明治二七年帰郷して新俳句を紹介指導した。書、画も一流であった。俳誌『ホトトギス』の初号の題字、子規埋髪塔の子規肖像画を書いた。書を龍眠会で研究、画は洋画を学び、後日本画に進んだ。昭和二四年九月一〇日富山県で没、八四歳。

 安藤 正楽(一八六六~一九五三)

 宇摩郡土居町生まれ。任堂と号した。東京明治法律学校に学び、県会議員を一期つとめたが再び上京、東京大学人類学教室白鳥博士の門に入り、人類学、考古学を専攻した。多芸多能。下村為山と親交を結び、自由画をよくし、書もまた自在。郷土に飲料水春日井を掘る。昭和二八年八月没、八八歳。

 岡田 燕子(一八六六~一九四二)

 名は賢次郎。慶応二年四月二一日吉田町生まれ。明治二〇年以来小学校教員を務める。正岡子規に『ホトトギス』で学び、三五年松根東洋城と同調。『渋柿』創刊に参画。南予地方新俳句の草分けの一人。昭和一七年一一月一五日没、七七歳。

 三島 春洞(一八六七~一九二一)

 大三島宮浦の僧。慶応三年生まれ。青洲、墨禅と号す。その明快暢達の書を尊ばれ石文とし各所に建立されている。大正一〇年一月一九日没、五五歳。

 正岡 子規(一八六七~一九〇二)

 名は常規。号は少年時代香雲、のち獺祭書屋主人、竹の里人などが有名。慶応三年九月一七日生。明治一三年に松山中学校入学、一六年上京、東京大学文科に入り、俳句を知る。同二五年日本新聞に入社。同二八年日清戦争に記者として従軍し、帰途船中でかっ血。須磨で療養、松山に帰り、夏目漱石の寓居愚陀仏庵に入り同居二か月。同三〇年上京、根岸の家で療養。三四年ごろから随筆文学の名作『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病床六尺』などを書きつづけ、俳誌『ホトトギス』によって門下を指導した。明治三五年九月一九日没、三六歳。

 柳原 極堂(一八六七~一九五七)

 松山藩士正義の長男。俳号は禄堂、木卯、松籟など。松山で初期子規派俳句の流布に努力する。大正一三年子規遣跡保存会に参与し、子規堂を建立するなど子規顕彰に努めた。昭和二八年第十回愛媛新聞賞、同年愛媛県教育文化賞が贈られ、また松山市名誉市民に推された。昭和三二年一〇月七日没、九一歳。その句とともに筆跡は人々に敬愛されている。

 高山 長幸(一八六七~一九三七)

 慶応三年七月二八日、大洲生まれ。幼名は亀太郎。号は孤竹、朝江。明治二二年慶応義塾卒。三井銀行をふり出しに昭和七年東洋拓殖銀行総裁になった実業家。また政界に入り明治四一年から昭和五年まで代議士当選六回。詩歌、俳句を愛好し、書をよくした。昭和一二年一月一九日没、七一歳。

 白川 義則(一八六七~一九三二)

 明治元年一二月一六日、松山生まれ。同一七年陸軍教導団に入り、一九年卒業。二一年陸軍士官学校、三〇年陸大卒業。大正一一年陸軍次官、ついで関東軍司令官となり、一四年大将に昇任。昭和二年田中内閣の陸軍大臣、昭和七年五月二六日没、六六歳。

 中野 逍遥(一八六七~九四)

 詩人。慶応三年二月一一日宇和島生まれ。南予中学から大学予備門、文科大学漢文科に入学。卒業後研究室で中国文学史を編集中、病にて二七歳で急死。明治二八年発刊された『逍遥遺稿』には大和田建樹、佐々木信綱の挽歌のほか、正岡子規の追悼文が収め
られている。

 秋山 真之(一八六八~一九一八)

 松山藩士の家に生まれた。陸軍大将秋山好古の弟。海軍兵学校卒。日露戦争に連合艦隊参謀中佐で旗艦三笠に乗り組み「敵艦見ゆ……本日天気晴朗なれど波高し……」の名言を発表して有名。大正六年海軍中将で待命、七年二月四日没。五三歳。好古とともに豪放の書を残す。

 岩崎  一高(一八六八~一九四四)

 慶応三年二月一五日、松山生まれ。号は風雨青人、堀庵など。大正一一年、加藤恒忠の後をうけて松山市長に就任。昭和二年道後湯之町町長に推され、温泉開発に私財を投じて尽力した。また和歌・俳句・書をよくし、文化人としても広く世人から尊敬された。明治
一九年三月二二日没、七七歳。

 村上 霽月(一八六九~一九四六)

 松山今出の人。子規派の客員的俳人といわれ、蕪村を研究、転和吟を創始。名は半太郎。今出絣株式会社、伊予農業銀行、愛媛貯蓄銀行などを創始経営し、地方産業発展に尽くした。昭和二一年二月五日没、七八歳。

 五百木飄亭(一八七〇~一九三七)

 医者・俳人・軍人・新聞記者・国士。名は良三。明治二〇年医術開業試験に合格。同二二年上京。正岡子規・新海非風らと親交して文学に関心を持ち、句作にふける時代もあった。無私憂国、政界に陰然たる発言力を持ち国士と称された。松山生れ、別号は犬骨坊・白雲。昭和二年六月一四日東京にて没、六七歳。

 森田雷死久(一八七二~一九一四)

 正岡子規晩年の弟子。明治五年一月二六日伊予郡松前町西高柳生まれ。名は愛五郎。少年時、伊豫市谷上山宝珠寺に入り、のち、権田雷斧に学び少僧都。明治三二年以後、南山崎の真城寺、松山市平田の常福寺に住した。大正三年六月八日没、四二歳。

 河東碧梧桐(一八七三~一九三七)

 明治六年松山生まれ。松山中学卒業後、虚子とともに京都第三高等学校入学。のち子規の推薦で日本新聞に入社し、句作も多くなる。昭和八年俳壇を去るまで新俳句の普及に努める。書は、初め流麗な書体であったが、中村不折をリーダーとして六朝体の研究に情熱を傾け、句風とともに創作活動し、下村為山らと個性豊かな書風を起し、俳句では萩原井泉水、山頭火の先駆となった。昭和一二年二月没、六五歳。河東静渓の五男。

 高浜 虚子(一八七四~一九五九)

 近代俳壇の最高峰、芸術院会員(昭和一二年)。名は清。明治七年二月二二日松山生まれ。中学時代に碧梧桐を通じて子規を知り、俳句を始める。俳誌『ホトトギス』を主宰する。虚子は俳句に客観、写生を唱え、吟行実践に努めた。昭和二九年に文化勲章を受賞、同三四年四月八日没。八六歳。

 皆川 治広(一八七五~一九五八)

 明治八年三月七日松山市生まれ。同三六年、東京帝国大学法科を卒業して司法官試補になる。のち検事に任ぜられ、大阪・小倉・東京各地方検事局を経て外遊し、大正二年帰国。大審院検事、広島・名古屋控訴院検事長を歴任。昭和七年司法次官。同三三年三月七日没、八四歳。

 水野 広徳(一八七五~一九四五)

 明治八年五月二四日、松山市三津浜生まれ。松山中学から海軍兵学校に進み、日露戦争に大尉で従軍、戦記『此一戦』を書いて陸軍の桜井忠温と併賞された。『日米非戦論』を書いて軍籍を追われ、反戦平和主義言論人といわれて弾圧された。昭和二〇年一〇月一八日没、七一歳。

 八木 亀堂(一八七七~一九四五)

 明治一〇年、温泉郡中島町津和地に生まれた。本名常市郎。三〇歳で書に志し、専ら顔真卿・王義之・趙子昻の書風を研究、四〇歳より草書に専念する。松山の書家と交友を深めながら独自の書境開拓に努めたが、鳴鶴の風を排し「書は線にあり」として懸腕直線の筆法を重んじ、雄勁な線画を尊重した。昭和二〇年九月一二日没、六九歳。

 新野 斜村(一八七八~一九七一)

 名は良隆。明治一一年二月、松山市東垣生に生まれる。松山中学校を経て東京帝国大学医学部を卒業。松山市で内科医を開業したが昭和八年廃業。漢詩を研究、普及に努め、斜村と号し、昭和一四年近藤元晋らと「発丑吟社」を創立。夏目漱石の教えを受け、昭和四二年以後「坊ちゃん会」の会長を務め、同四三年に県教育文化賞を受けた。昭和四六年七月二七日没、九四歳。

 松根東洋城(一八七四~一九六四)

 名は豊次郎。父は宇和島藩家老松根図書の長男権六である。松山中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学入学、のも京都帝国大学に転校。卒業後、宮内省に入る。このころ寺田寅彦・鈴木三重吉らを知る。国民新聞俳壇選者を高浜虚子から譲られ、俳誌『渋柿』を創刊主宰した。昭和二九年日本芸術院会員となる。同三九年一〇月二六日没、八七歳。

 桜井 忠温(一八七九~一九六五)

 明治一二年六月一一日松山市生まれ、陸軍士官学校卒。同三七年、松山歩兵第二二連隊の旗手で日露戦争に参戦し重傷を負う。その体験記『肉弾』は広く愛読された。書・画は左手で書いたが余技を超えていた。昭和四〇年九月一七日没、八七歳。

 井上 正夫(一八八一~一九五〇)

 本名小坂勇一。明治一四年六月一五日、伊予郡砥部町生まれ。新派劇に魅せられ、立女形大橋鉄舟を師に芸名小坂幸二と名乗り各地を巡業し、新派、新劇を超越した中間演劇を創立する。昭和一一年には東京に井上演劇道場を造り、演劇の向上に打ち込む。昭和二四年芸術院会員、同二五年二月一七日湯河原にて没。七〇歳。

 菊池 竹風(一八八一~一九五二)

 本名武虎、西宇和郡三瓶町に生まれる。山下亀三郎の姻戚にあたり、同町山下女学校設置に奔走。開校後理事長となり、県会議員となる。幼時より書を好み、近藤雪竹に師事。山下女学校習字指導者となり、広く一般の指導をして、南予の代表的書家となった。昭和二七年没、七二歳。

 後藤朝太郎(一八八一~一九四五)

 明治一四年四月一六日松山市生まれ、号は石農。松山中学・五高・東京帝国大学文科卒。渡支十数回。大陸金石史を研究した。著書多く『文字の研究』『支那文化の研究』『翰墨行脚』など有名。昭和二〇年八月交通事故死、六五歳。

 中井コッフ(一八八一~一九六二)

 本名謙吉、明治一四年六月二三日宇和島市来村生まれ。宇和島中学校から京都美術学校入学、画家を志す。中退して愛知医専に転学。明治四〇年小児科医として宇和島市に開業。短歌は「覇王樹」幹部同人。絵をよくし、書は良寛を慕い独自の善書を残している。作品集『中井コッフ自筆歌集らんきょう』(昭和二三年)あり。ドイツ留学時、下宿の主婦がつけたアダナのコッフ(鶏のトサカ)を号したという。昭和三七年三月一八日没、八二歳。

 種田山頭火(一八八二~一九四〇)

 本名正一、明治一五年一二月三日山口県防府市の竹治郎の長男として生まれた。一一歳のとき母自殺。三四年早稲田大学予科入学したが卒業前に退学、一家は破産。萩原井泉水の層雲にて俳句を学ぶ。出家遍歴中多くの名句を発表し敬慕された。句と酒の中に自由に生きた。『其中日記』は俳友木村緑平・大山澄太によって発刊され、山頭火ブームの原動力となった。書も独自の趣ある快作を残している。昭和一五年一〇月一一日、松山市御幸寺山麓の一草庵にて没。五九歳。

 村上壷天子(一八八七~一九八四)

 明治二〇年一二月一日、越智郡宮窪町に生まれる。本名は万寿男。明治四〇年愛媛県師範学校卒業、昭和一三年余土小学校長を最後に教育界を退く。大正一三年ころより松根東洋城に師事し、『渋柿』同人として俳句に打ち込み、すぐれた天分と精進による書画とともに三絶というべき業績を残した。句集『綿津見』『別れ霜』を残している。八八歳の賀に「よねの春煩悩なほも燃ゆるかな」を発表して人々を喜ばした。昭和三七年愛媛県教育文化賞を受け、昭和四九年宮窪町名誉町民に推奨された。昭和五九年一二月二六日没、九八歳。

 松本 芳翠(一八九三~一九七一)

 明治二六年一月二九日、越智郡伯方町木浦生まれ。本名は英一。一五歳で上京し、加藤芳雲につき漢籍・書法を修め、のち近藤雪竹に師事する。大正一〇年に『書海』誌を創刊、昭和七年東方書道会を結成。同二九年、第一〇回日展出品作「雄飛」で芸術選奨文部大臣賞を受賞、三五年には第二回改組日展出品作「談玄観抄」で芸術院賞受賞。四六年、日本芸術院会員となる。著書に『新撰習字教範』『書道入門』『劫餘詩存』などがある。門下には谷村憙斎・村上孤舟らがいる。

 片山 萬年(一八九四~一九七一)

 明治二七年八月一六日宇和町生まれ。本名は栄一。松山中学校中退後、日本・中国の文献、古代墨跡を研究し、一七歳で書道教授となる。二〇歳過ぎに上京、日下部鳴鶴・井上霊山を知る。平安書道会を主宰し阪神地方に活躍した。別号に芦邨、烏陵あり。門下に村上三島・松丸東魚などがいる。

 織田 子青(一八九六~一九八四)

 明治二九年、周桑郡小松町織田米蔵の四男として生まれる。本名は源九郎。大正三年愛媛師範学校中退、同八年上京。童謡集『銀の種』出版。一三年文検習字科合格、一四年今治実科女学校(明徳高校)教頭。昭和三年聖芸書道会を創立、雑誌『書神』発行。同八年、第二回東方書道展で臨書部最高賞を受け、第三回関西展でも最高賞を受く。一三年、愛媛県視学委員として県下小学校書方指導。三一年今治商工会館にて還暦記念展を開き、『偽庵先生伝』を出版した。三六年愛媛県教育文化賞を受く。四七年には喜寿記念作品集を出版。愛媛教育会館に師道讃仰碑を書くなど、各地に石文を建立。四八年勲五等瑞宝章を受け、五八年には愛媛県立美術館にて米寿記念書作展を開催した。五九年没、八九歳。

 小原六六庵(一九〇一~七五)

 名は清次郎。号は方外・六六庵。明治三四年四月一六日松山に生まれた。大正三年、書を中村翠涛に学び、昭和一三年書道教授となり、六六庵書道塾を創立した。独立書人団参与・愛媛美術会名誉会員・愛媛書芸文化協会同人、個展七回開催。古文・篆書を研究し、現代感覚を取り入れ独特の書風を開発した。著書に『六六庵吟詠詩集』『六六庵詩集』四巻『にぎたづ』合同歌集がある。「松山城詩碑」「星岡詩碑」「高家八幡宮詩碑」の自作漢詩書のほかに「父二峰慰霊碑」「伊予すだれ碑」「湯山藤野々慰霊碑」「三坂峠子規作漢詩碑」「愛媛県護国神社額」「祈平和」などを書いた。昭和五〇年一〇月一五日没、七五歳。

 村上 桂山(一九〇五~七六)

 僧籍も妻子も捨て松山城山の北側へ小屋を作って一人住み、毎日車をひいて一番町電車通り近くの路傍にホロをおろした店を構えて易を業とした。無慾とユーモアの中に人生哲学の言葉と漫画を与えて見料は一〇円と定めていたため、一〇円易者といわれ市民に愛され、乞食のような風彩で夜は近くのスタンドで酒を楽しんで他の客からも親しまれた。書は鴻池楽斎を師として学び、色紙展を開いて好評を得た。昭和五一年病没、七二歳。その告別式は満堂の知己によって盛大に行われた。

 大内 畔水(一九〇六~八一)

 明治三九年九月二四日、松山市馬木町の神主家に生まれた。大正一五年愛媛県師範学校本科第一部卒業、昭和一九年三月文検習字合格。同二〇年松山工業学校教諭、二六年松山市五明中学校長、三二年愛媛県教育委員会事務局管理主事、三九年三月松山市立雄郡小学校長で退職。愛媛書芸文化協会同人、独立書人団会員(幹事・審査員)ならびに愛媛県支部副支部長。独立書展にて会員奨励賞を受く。正・明・直、本名範の通り美しい心を持ち、「酒に量なし、酔いて乱れず」孔子の言のごとく剛快であり、細心で思いやりがあり、人々から愛され、尊敬された。書も剛快の中に細密な配慮があり、愛情のこもった暖かさを備えていた。七四歳没。

 河野 如風(一九一四~七九)

 名は信雄。大正三年、東宇和郡宇和町卯之町に生まれる。幼少より書に親しみ、片山萬年、村上三島に師事。昭和二〇年洗心書道会を設立し、書道誌『洗心』を発刊する。新しい書写技術を掲げ書道の普及に努める。日展入選一九回、第九回展にて特選受賞。パリ秋季芸術祭に参加、ソルボンヌ大学にて席上揮毫す。昭和一三年個展開催。洗心書道会会長・長興会常任理事・日展会友・毎日書道展審査会員・日本書芸院審査会員・愛媛県美術会評議員および審査員。著書『如風条巾百選』『条巾手本集』(一三巻)『如風句集』、書碑一、句碑二。昭和五四年没、六六歳。