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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

第二節 日本の書

文字の伝来

 応神天皇一五年朝鮮半島の百済から阿直岐が来朝して書籍を献上、翌年博士王仁を招き、論語一〇巻と千字文一巻を献上した。
 しかし、文事は久しい間朝鮮半島(三韓)の渡来人によってなされ、その北方系の書風の教えを受けた者は皇族と貴族で一般庶民には及ばなかった。
 欽明天皇一三年(五三八)に仏教が伝来し、仏教興隆につれて書博士を置き、写経生の養成教育が行われた。国立写経所の活動により書写力が向上普及して、しだいに書として独立し、仏教以外の諸文芸も長足に進歩し、書博士・書学生の活動により記録されるようになった。
 推古天皇一八年(六一〇)高麗よりの渡来僧曇徴により紙・墨の製法が伝えられ、また、筆の製法も同じく渡来人によって伝えられたという。

飛鳥時代

 聖徳太子は仏教を尊信し、法華経・勝曼経・維摩経の義疏を作ったと伝えられ、自筆の書は中国六朝風(北派)の隷草書で、その美事な筆跡は皇室御物となり、保存されている。
  〈伊予道後温泉碑〉 推古天皇四年(五九六)建立。法興六年一〇月、聖徳太子が僧恵慈・葛城臣と道後温泉に浴され、霊泉をたたえる辞一九〇余字を刻せしめられたものである。伝説に土民が地中より発掘したが、湯があまりに噴出するので再び埋めたという記事が『釈日本紀』に載っている。
 〈薬師仏光背銘〉 法隆寺金堂の薬師如来の光背の銘である。推古帝一五年(六〇七)、用明天皇の病気平癒を祈り仏像を作る誓いが果たされず。遺詔を奉じて推古帝と聖徳太子が作られた経過が刻されている。筆者不明。
  〈釈迦仏光背銘〉 法隆寺金堂内にあり、推古帝三一年(六二三)製作。筆者不明。薬師仏光背銘ともに用筆力強く精熟して気品高い書。
 〈宇治橋断碑〉 宇治市放生院橋寺にある。大化二年(六四六)の現存する日本最古の石刻である。六朝北魏の書風。
  〈那須国造碑〉 文武天皇四年(七〇〇)下野国那須郡湯津上村に現存し、笠石神社として祀られている。やや隷意を帯びた北魏の風で筆者不明、文中「永昌元年巳丑四月」の句がある。永昌は唐の年号であるから、あるいは渡来人の書ともいう。碑石の高さ一一八㎝、上に笠石がある。一行一九字、八行。一五二字、字大二㎝。
  〈その他の金石文〉 崇峻天皇四年(五九一)より文武天皇の慶雲四年(七〇七)までに二十数点を数える。

文字の習得

 古来、文字を持たなかった日本人は語り部により、歴史や和歌を口伝えしていたが、漢字伝来によって記録する方法を得て大和言葉に漢字を当て使用し、万葉仮名という独自の用法を発明して記録するようになった。
 中国東晋の王義之(大王)の典雅清明な書風は最も愛好され尊敬された。人々は「手師」と慕い学んだので、『万葉集』に大和言葉「行きてし」「なりてし」などの「てし」の意に「大王」「義之」をあてて使用している。

日本書道の開花発展

 英明にして進取の気象に富まれた聖徳太子は大陸文化を吸収され、率先して文明開化に精進された。六〇〇年、隋国に使者を送られ「日出づる国の天子、日没する国の天子に書をいたす。つつかなきや……」の国書を贈られた。六〇七年には小野妹子を使者として国交を計られた。
 三韓のもたらした文化とその移民を尊重し、更に中国と直接国交を開いた古代日本人の代表としての太子の活動により、仏教を国家護持の根幹と定め、それを荘厳にするため寺院建築・仏像彫刻・仏画・写経に励み、宗教的敬虔を根底として精神の浄化、美へのあこがれを高め、美しい大和心の自覚発展の基礎を打ち立てられた。
 隋王朝は僅か三代で亡びたが、六三〇年に舒明天皇は第一回遣唐使を送り、留学生に中国文化を学ばせ、制度・学問・芸術等の大飛躍が実現した。
 和銅五年(七一二)『古事記』、養老四年(七二〇)に『日本書紀』が完成し、万葉仮名(漢字)によって『万葉集』も編集された。
 聖武天皇は仏教を尊信、その普及につとめ、その写経と伝えられる「大聖武」は名筆であり、光明皇后の王義之「楽毅論」の臨書の大傑作とともに今日の学書者に最高級の手本として尊ばれる国宝である。
 養老元年(七一七)の遣唐使に吉備真備・阿倍仲麿・僧玄昉らが同行したが、仲麿は唐土で没した。「天の原ふりさげ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の哀歌が残され伝えられている。

書の日本化

 延暦二二年(八〇四)、桓武天皇は唐に僧最澄・空海らを送られた。翌年最澄(伝教大師)は天台宗を比叡山に開き、空海は帰朝(八〇六)して真言宗を広め、後に高野山金剛峯寺を開いた。最澄は気品高い書を残し、弘法大師空海は在唐中、五筆和尚の名声を得た能書家で、日本書道史上優れた存在である。橘逸勢(学生)も帰朝後自由濶達の名筆を示した。彼らは書籍・法帖・筆・墨などを持ち帰り、平安初期の清新な国風の如く、嵯峨天皇とともに日本書道を飛躍せしめた。嵯峨天皇・空海・橘逸勢を日本三筆といい、唐に肩を並べる書家であった。
 遣唐使は一二回派遣されたが、宇多天皇寛平六年(八九四)菅原道真の献言により廃止された。以後藤原氏の摂関政治となり、貴族文化の栄えとともに文化の日本化が著しくなった。

仮名文字の発明

 漢字・漢文表記は男子の教養として尊ばれたが、平安朝の摂関政治体制に伴い、後宮女性の教養向上により、和歌・日記文章の表現に大和言葉の表記法が工夫され、漢字の扁・旁をもって片仮名を、漢字の草書を一層簡略化した平仮名を作り、表音文字として一般普遍化への道を開拓した。
 漢字・仮名併用の書記は造形の多様化とリズムの自由性を伴い、特に和歌表記において連綿体として造形美とリズムによる感情表現の自由さを料紙工芸の開発により世界に冠たる書芸術を創造したことは特筆すべきだ。
 古今和歌集の編者紀貫之は和歌の第一人者であるとともに書法においても名手であった。次いで小野道風・藤原佐理・藤原行成らが仮名書道を開拓し、漢字の三筆に対して、三蹟と称された。
 以後、源平の武家政治時代に至るまで約四〇〇年の貴族文化は美の探究に研を競い、純日本化書道芸術の最高の業績を残した。
 しかし、藤原行成以来専門化されたその書風を世尊寺流として家伝のものとしたため精巧を極めたが、次第に陳腐(マンネリズム)となり、法性寺流・定家流等の新傾向や個性的な西行法師が新風を注いでいる。

武家政治と書風の変化

 平安朝四〇〇年の貴族文化は純粋日本芸術の花を開かせたが、次第に形式化し気力を失い腐敗の傾向をたどった。武家の勃興は政治・文化に新風を吹きこんだ。書もまた気力盛んにして雄健な姿が好まれた。鎌倉末期に世尊寺流を学んだ伏見天皇の皇子青蓮院宮尊円親王により剛健豊肥な一派が樹立され、他派を圧倒した。これをのち御家流といい、江戸幕府の御用書となり全国各藩に普遍し、士・農・工・商各階級の文字力が向上したことは特筆すべき功績であった。この書風を和様体と言った。
 鎌倉幕府開設から鎖国に至るまで、宋・元・明との交流が多く、新興仏教の渡来・日本僧の留学等によって、新書風が伝来した。
 建久二年(一一九一)僧栄西が宋より臨済派禅宗を伝え、安貞元年(一二二七)僧道元が宋より曹洞派禅宗を伝来し、禅宗の研究が盛んになり、僧の入宋するもの、宋より渡来する僧も多かった。その中に黄檗派禅宗を伝えた名僧隠元・その弟子木庵、即非らが新風の宋書を伝来した。これら禅林の書は茶の湯の隆昌によって「墨跡」と言われ尊重され、書院や茶室に飾られて幽玄・脱俗の気風の趣を高めた。
 茶道は簡素の美を求めて古筆を愛用したので、その断片が古筆として尊重され求められたので、それを古筆切として床に飾られ、書の鑑賞力が高められ広がった。

近世の書道

 江戸幕府二六〇年間は強力な権力によって平和を求め、鎖国、参勤交代制を定めたので、文学、芸術の隆盛を実現したが、御家流の統制による書写力の普遍化と無気力化、国学の隆昌と国体論の目覚ましい研究により、尊王家の輩出を見、神職、僧侶、武士の中から討幕論者となる者多く意気盛んな時代となった。
 これらの人々は御家流の俗調を嫌い、清新にして濶達剛健な宋・元・明の書風を愛し、これを唐様書といった。和様書家にも御家流以外に独自書風を開拓した近衛三貌院信尹・本阿弥光悦・滝本松花堂が寛永の三筆として個性的華麗な書を残し、その他公卿に近衛竜山・烏丸光広・近衛予楽院、国学者歌人に北村季吟・僧契冲・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・小沢芦庵・平田篤胤・香川景樹・大国隆正・八田知紀・太田垣蓮月らの能手があったが、権威主義思想のもとに模倣追隋の弊により気力を失ったので、清新な書風が欲求された。

唐様書風の隆盛

 幕末、外国船の渡来により、大平の夢は破られ、国体論の勃興とともに尊王攘夷論より討幕論へ進み、革命の気運が盛り上り、書の世界も革新の気運がみなぎり、新唐様の研究と古典への探求が進み、書芸術への意識が高まった。
 肥後藩士北島雪山は長崎にて明人愈立徳から明の文徴明の書法を学び、江戸の細井広沢に伝え、広沢は六芸に通じ、気慨に富み、その人品と技倆と地位により書風を広めた。門人関思恭・三井親和・松下烏石らの能書家を育てた。三輪田米山はこの影響を受けて大成の基を開いた。
 文化(一八〇四~一七)文政(一八一八~二九)の頃、儒者間では宋代の米元章の書が重んじられ、柴野栗山・頼山陽・梁川星巌・大窪詩仏・篠崎小竹らがこの風を学び、市河米庵は特に諸侯間に重んじられた。巻菱湖は唐の欧陽詢・褚遂良を学び、温雅清暢の書が広く流行した。貫名菘翁は空海の書に感動し画業よりも書に没頭し晋の二王・唐の四大家・日本の三筆・三蹟を学び、空海以来の第一人者と称せられた。その後元の趙子昻・明の董其昌・祝允明らの書風も行われた。(川谷尚亭著『書道史大観』、藤原鶴来著『和漢書道史』による。)

書の古典研究

 中国清時代に書道復興の気運が盛り上り、科学的研究(金石学)の進歩と帖の編集が行われ、古文より篆・隷・楷・行・草の複刻と活字の発明により、入手が容易になり広く普及されたので書法の研究が深まった。
 明治一三年(一八八〇)支那公使に従って来朝した楊守敬が一万数千部の碑版法帖をもたらし、書学の開眼を唱えるとともに、能筆を示したので、日下部鳴鶴・巌谷一六・松田雪何らが学び、中林梧竹は渡支して楊守敬の師瀋存に師事して、帰朝後六朝風の健勁な書風を示し、僧北方心泉も支那に学び、六朝風を推賞したので書道界に新鮮な気風が盛り上がった。
 なお発掘による古代文字の発見や、探険隊により敦煌地方から多くの古文書を得て、書の研究に偉大な貢献がなされた。これらの新風書道に心酔して学んだ巌谷一六・日下部鳴鶴・中林梧竹はそれぞれ個性を発揮して明治の三筆と称された。
 徳川幕府中期から唐様書は盛んになり気力を加えたが、和様は陳腐無気力となり本来の美を失ったので、国粋存の気風が起こり、明治二三年ころ三条実美・東久世通(示へんに喜)・田中光顕・高崎正風らの主唱によって難波津会を創立し、小杉(温のさんずいが木へん)邨・大口鯛二・坂正臣・岡田起作らが会員として貴重な古筆資料の展覧や研究を行い、仮名書道復興発展の機運を開いた。多田親愛・小野鵞堂・大口鯛二の能手が輩出した。尾上柴舟は「平安朝時代の草仮名の研究」により学位を得た。
 明治維新による新興気運を迎えた国民は英気に満ち、文明開化に意欲を盛り上げた。書もまた清新の気を脹らせた。鳴鶴流に非されば書に非らず、鵞堂流に非ざれば書に非らずと漢字・仮名に二大名筆家が出て、その門流を指導して書道隆昌の道を開いた。
 鳴鶴門には渡辺沙鴎・近藤雪竹・井原雲外・丹羽海鶴・比田井天来・山本竟山・岩田鶴皐・吉田苞竹らの能書家が輩出し、全国各地に新風が広まった。
 鳴鶴門の比田井天来・雪竹門の川谷尚亭・辻本史邑らは更に古典の研究に精進して書の美の根元を探究したので、その門流から現代芸術書道の指導者を輩出した。
 洋画家中村不折は六朝書を好み同志と「龍眠会」を結成、正岡子規一門の俳人と研究し、雅趣に富んだ書風を残し、自ら古典を集めて東京根岸に書道博物館を建設して後学の研究に貢献した。
 比田井天来は碑版法帖の研究の第一位的存在で、古法発見と書道芸術論により今日の書道芸術を開発し、鎌倉書学院に学んだ門下から現代書芸術の優れた指導者が輩出した。夫人比田井小琴は坂正臣に仮名を学び、尾上柴舟とともに古典研究と新表現の道を開いた。(川谷尚亭著『書道史大観』藤原鶴来著『和漢書道史』による。)

日展参加と書の芸術意識

 昭和二三年、日展第五科として書道が参加したことは芸術として世の認識を得、書家の意識を自覚させる動機となり、研究団体の組織、展覧会の開催、雑誌の刊行、書塾の激増、海外進出など目覚ましい興隆の機運となった。
 昭和三三年、ブリュセル万国平和博「現代美術の五十年展」に指名出品の「抱牛」(手島右卿書)は、富岡鉄斎・梅原龍三郎・井上有一の四名とマチス・ピカソ等の各国代表美術家の作品の中で最高殊勲金星賞を受けポスターとして使用された。また、日本近代美術館がフランスの要請で日本美術をパリに展示した中に三輪田米山の書も一点含まれていたが、現地の人々の大きな感動を呼んだ。
 昭和五七年、中華人民共和国の要請で手島右卿一門の少字数書展が北京で開かれた。さらに昭和六〇年にも中国政府から日本政府への要請で手島右卿書作展が五月から一か月間、北京革命記念館で開かれ大好評を得たことなどは、現代書芸術への志向と書の国中国の人々の学書理念の革新であろう。