データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 伊予の石造美術

 石造美術とは古代から自然の石を加工して美術的に形や姿を創造し、文字やその他のものを刻印したものをいうのであるが、その目的とするところは石材の堅固さから永く後世に伝承したいとの願望によるものであろう。石造にたいする歴史的考証の資料として俄に注目と関心を集め始めたのはそんなに古い話ではない。特に地方史を研究する上で不可欠のものであり、歴史的、学術的、美術的な観点から石造美術に対する評価は高い。伊予における各時代の石造美術は他県と比較して多い方に属する。これは本県の歴史が古いこと、われわれの先人が信仰心の厚かったことで守られ保存されてきたこと、第三番目は瀬戸内海は石材が豊富であったことなどの理由によるものであろう。
 既に冒頭でも述べたように、日本最古の石文といわれる道後温泉碑は六世紀末に推古天皇の摂政であった聖徳太子が、僧恵総法師及び葛城臣たちを伴われ、道後温泉にこられて碑文を作られて、湯岡側に建られたと「伊予国風土記逸文」は伝えている。このことは碑文の内容にも所載されている。しかし、当時から既に一四〇〇年の年月を経た今日に至るも依然として幻の碑文であり、その行方は夭として不明のままである。いろいろの憶測があり、刻石ではなく墨書であったとか、地震で亡失した、いや撰文はしたが建てられなかったかも知れないなどの諸説が伝えられるが、後年に偶然になにかの機会に発見されるかも知れない。

五輪塔

 五輪塔は平安時代の終わりの頃から真言密教の教理より始まったもので、その祖尊である大日如来の象徴として信仰されてきたが、後年は各宗派や、供養の信仰のため、ずっと後年に至っては墓標として造られるようになった。
 平安時代末に始まって鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代とその形式や構造が図4-1のように変わってきた。五輪塔は密教の教理にある、地、水、火、風、空の五大を表徴するものといわれ、各輪を個々に造っているもの、上部の空輪と風輪を一石にあとは個別になっているもの、一石のみで五輪を造ったもの、以上の三つの手法のいずれかである。また各輪に梵字や文字を刻しているが、時代によって形状や文字の表現が異なるし、地方によってはローカル色の豊かなものが多い。
 温泉郡川内町北方の西法寺跡から発見された五輪塔は建長六年(一二五四)の年紀銘が水輪に刻している。石材は凝灰岩で伊豫市稲荷の五輪塔も建長年間の年紀銘があり、同じ凝灰岩を素材としている点、形状や銘文の書風などの共通点があり、一三世紀頃の伊予の五輪塔の特色をうかがうことができる。また伊豫市宮の下の長泉寺付近で発見された五輪塔の水輪に文永二年(一二六五)の年紀銘を刻されているのが二基ある。北条市夏目の福性寺跡に出土した五輪塔は正安四年(一三〇ニ)のものがあり、為僧智覚の銘文があるが、この地は一遍上人の父、河野通弘の館はすぐそこの別府に所在していたのであり、一遍は智真であり、銘文の智覚とは何らかの関係をもっものであろうと推定される。
 今治市延喜の乗禅寺の石造美術群は一一基が同じところに存在し、鎌倉の石造美術の宝庫といわれている。形態も大きく、姿も堂々たる風格を示し、正中三年(一三二六)の年紀銘がある。ここから近いところの野間にある高さ二・六mの堂々たる五輪塔は嘉歴元年(一三二六)の年号があり、前記の正中三年と同年であり嘉暦の改元年号を用いている点は疑問がのこる。あるいは後年にさかのぼって刻銘したのかも知れない。また、この野間部落の通称「覚庵」の畑のなかに二基の五輪塔が保存されている。高さは基壇をいれると二六五㎝で小さい塔は二四五㎝である。この大小二基の五輪塔は刻銘はないが、地輪から空輪までよく均衡がとれている優品といえよう。この地域に数多くの石造美術が保存され、ほぼ同時代の鎌倉時代に造立されていることは、この地方の歴史を物語るものである。
 松山市の石手寺の門前にある五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられているが、もとは境内の裏山に建立されていたのを江戸時代に現在の位置に移したという。総高二七三㎝、花崗岩製で全体の容姿は見事に調和を保ち、重厚で風格の整ったこの五輪塔は刻銘は記されていないが、形式や技法から鎌倉時代の代表的な石造美術であるといってよいだろう。

宝篋印塔

 宝篋の起源は中国五代のころ、呉越王弘俶が釈尊の供養のため八万四千の銅塔を造り、諸国に配布したといわれ、わが国でもこの塔が平安時代に招来され、鎌倉時代に至って今日残されている宝篋印塔に発展したのである。宗教的には密教真言の経典から仏舎利礼拝の塔婆であり、供養や信仰の対象物として造立されたものである。五輪塔に比較すると宝篋印塔は工芸的、美術的に構造が複雑である。基壇には格狭間とよばれる美しい線が刻され、その上に塔身、笠、相輪が乗って構成される。既に述べた如く鎌倉時代は石造美術の最も盛行した時代であるが、そのなかで宝篋印塔は最も重要な美術的位置を占めている。本県は全国的にも石造美術の宝庫として知られるが、その主な所在地を記しておきたい。
 今治市の野間の長円寺と呼ぶ廃寺跡にある宝篋印塔は、高さ三七五㎝の均整のとれた優品で塔身の背面に正中二年(一三二五)の年紀銘がある。また同市神宮野間神社の宝篋印塔は元享二年(一三二二)の銘があり、ともに優品である。同市延喜の乗禅寺に所在する石造美術群のなかにも五基の宝篋印塔があり、いずれも重要文化財の指定を受けている。五基のうち三基は銘文があり正中三年の年紀銘が見える。石造群のうちの五輪塔と同じ年号で同時に造立されたものであろう。いずれも鎌倉石造美術の典形的な優品である。
 瀬戸内海の島々の往時は、伊予水軍の発祥地であり、特に大山祇神社は海の総鎮守として知られるところであるが同神社の境内に、一遍上人が建立したと伝えられる宝篋印塔が三基ある。中央の塔が両側の二基よりやや大きく、三基それぞれ手法に特色をもつが、全体の姿や様式からみて鎌倉時代の堂々たる遺品である。瀬戸内海の宮窪町友浦に所在する宝篋印塔は嘉暦元年(一三二六)の年紀銘をもち、基壇から相輪まで完全な姿で保存され、形式技法からみて銘文通りの鎌倉時代の典型的な石造美術品といえよう。また同じ瀬戸内に浮かぶ小さい島、魚島の亀井八幡神社の宝篋印塔は南北朝時代の武将である篠塚伊賀守の墓と伝えられる。保存状態はよくわずかに基礎や笠の突起部に破損が見られるが全体の容姿や形式、技法からみて銘文や造立の資料を欠くが鎌倉時代の建立に間違いはあるまい。
 周桑郡丹原町の興隆寺の宝篋印塔は源頼朝の供養塔として寺伝に伝え、保存状態がよい。年紀銘はないが、南北朝時代の造立とみられる。北条市八反地の宗昌寺の境内にある宝篋印塔はこの寺を開山した大蟲禅師の三回忌に造立したもので、康安元年(一三六一)に大蟲禅師が没して三年後の貞治三年(一三六四)の年紀銘がある。ただ、九輪の中途から損失し、請花、宝珠を欠いている。越智郡玉川町の宝蔵寺及び光林寺の宝篋印塔は双方ともやや小型であるが均整のとれた優品であり、いずれも鎌倉末期の頃の造立と考えてよいものである。

その他の石造美術

 伊予には石造層塔の数は少ない。伊豫市大平の層塔は凝灰岩を素材とする高さ三・三㎝の五層よりなり、上部二層を欠失している。背面に僅かに判読できる建治二年(一二七六)の年紀銘があり、軸部の正面に見事な書風で金胎両部の大日如来種子梵字が刻されている。塔そのものを大日如来として信仰されたものであろう。伊豫市宮の下に文永二年(一二六五)の年紀銘のある層塔があり、その付近に多喜寺跡にも建治三年の層塔軸部があり、一地区に集中している点が興味深い。西条市福武の金剛院に伝わる七重石塔は鎌倉将軍源実朝の遺髪塔としているが、それを裏付ける資料は全くない。均整のよくとれた作域はまさに石造美術品といえるほどの立派な文化遺産である。
 松山市の道後公園に温泉湯釜がある。湯釜とは温泉の湧くところに湯口として装備する石造のものをいうのである。この湯釜は高さ一一〇㎝、直径は一四八㎝で花崗岩を素材としている。正面上部に薬師如来座像を陽刻し、その左右に比較的長文の銘文を刻するが、下部は湯槽のなかで浸漬し字は崩れて判読も不可能である。藩政時代、儒者の丹波南稜が藩主の命により調査したが解読に至らなかったという逸話がある。年紀銘の享禄四年(一五三一)がはっきり読める点は喜ばしい。最上部に「南無阿弥陀仏」と陰刻されているが、書体からみてさらに二〇〇年をさかのぼる鎌倉時代とおぼしきもので、その時代に造立されて永年湯口として使用されてきたものであろう。
 板碑は庶民信仰を物語る遺品というべきで、石材に簡単な銘文を陰刻し供養碑として庶民信仰の人気を集めた。中島町長師にある板碑は南朝年号の文中元年(一三七二)の年紀銘があり、僅か二、三〇〇mをはなれたところに北朝年号の貞治元年(一三六二)の年紀銘の板碑が存在する。往時は忽那島の水軍を掌握した勢力を誇っていたが、南北朝時代は忽那一族は南北両派に分かれて対立したという史実を立証するものとして興味深い。
 板碑は扁平な石に仏像か種子梵字をいれて造立年月日、願文、願主などを刻したもので最も簡素化された塔婆である。鎌倉時代に盛行した浄土信仰によって板碑を造立するようになったものであろう。松山市伊台の通称「やかしら」にある板碑は寛正六年(一四六五)の年紀銘があり、北条市磯河内にある板碑は造立の意趣が興味をひく。前述のように阿弥陀信仰による供養のため建立するのが普通であるが、自分の死後の安寧を希求し、生前に建立するという、いわゆる逆修の碑である。永正一六年の銘があり、六地蔵を陽刻しており、いわゆる極楽浄土の来世を欣求するという逆修塔の遺品であって、当時の阿弥陀信仰の背景を知るうえで興味深い。
 松山市小坂二丁目にある多聞院の境内に地蔵尊がある。伊予において室町以前の石仏は僅かな遺例しか見当たらないうえに銘文のあるものとしてはこの石仏のみであろう。高さ約一二〇㎝、硬質の砂岩で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ座像で、稚拙に見えるが、造形的に注目されるものである。文中二年(一三七三)の年紀銘があり、多聞院は石手寺の末寺であり、境内から発掘されたものと伝えられている。
 伊予に存在する石鳥居は明治以降のものが殆どで近世以前のものはきわめて数少ないが、中山町三島神社の鳥居は僅かに右柱の下部だけが残され、応永九年(一四〇ニ)の銘があり全国的にも古い鳥居に属するもので県下最古のものである。この三島神社の石段入口にも元禄一六年(一七〇三)の年紀銘の鳥居がある。松山市太山寺の鳥居は神仏習合の名残として寛政三年(一七九一)の銘があり、長浜町住吉神社の鳥居残柱は磨滅がひどい為に判読がむつかしいが□永八年の年紀銘が応永か寛永か、字体からみて応永かと思われるが今後の研究を必要とする。
 松山市山越の還熊八幡宮石額は表面に「八幡宮」、裏面に「永享十年十一月吉日(一四三八)」と陰刻している珍しい石造物である。同市祝谷の常信寺、伊佐爾波神社の石造遺品の石燈籠や手水鉢はいずれも寛文年間の年紀銘があるが、近世の石造遺品についてはなお県内各地に散在しており、今後これらの石造品の保存に意を用いることが課題であろう。

図4-1 五輪塔形式の変遷(模式図)

図4-1 五輪塔形式の変遷(模式図)