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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 明治期の建築

西洋建築の導入

 明治文化のキャッチフレーズとなった文明開化の旋風は、西洋建築の導入となり、これまでの伝統的な日本建築の流れを一変させた。日本は古来一貫した木造建築であったが、明治には洋風の石造、煉瓦造が移入され、末期には鉄骨造や鉄筋コンクリート造の新構造が出現して大正期の耐震耐火の本格的近代建築へ発展することになった。
 明治期に風靡した西洋建築の様式は主として一九世紀初めからヨーロッパに普及し既に衰退に傾いた古典的折衷主義の様式建築であった。いわゆるネオルネッサンスとかネオバロックの復古様式の二番煎じが移植され、洋風建築を金科玉条として日本の建築界はその模倣に大いに精魂を注ぎ込んだものである。もともとこの創意性に欠けた折衷主義様式は発展することなく、明治のシンボル的建物として終止符を打った。だが、その余波は大正昭和まで続いている。

官僚建築

 西洋建築の導入に急であった明治の初期に二つの受入れ姿勢があった。その一つは西洋建築の実体を知らない日本に近代化を早く実現さす為には、外国の技術家を招いて設計や工事指導に当たらす事が最も手近な方法であった。政府は各国から百数十名の土木、建築関係の外国人技師を工部省の雇いとして招き、鉄道、港湾から官公庁、軍事工場などの近代施設の建設指導を委嘱し、また日本人の建築教育にも当たらせた。これらの外国人技師は明治中ばには殆ど帰国したが、英国人コンドルは終生日本に止まり、近代建築の黎明期に大きな貢献を果たした。彼はゴシック、ルネサンスの折衷主義様式を日本にもたらし、東京帝堂博物館、鹿鳴館。ニコライ堂など有名な数多くの作品を残した。また工部大学校造家科(後の東京帝国大学建築科)創設以来の講師として、本格的な建築学の教育をほどこし、辰野金吾ら多数の優れた建築家の第一世代を育てあげた。その薫陶を受けた弟子達は大正期を通じて日本の官学派の元老として大いに活躍し、建築界をリードすることになった。

擬洋風建築

 明治の初期から中頃までに都市や各地方に盛んに洋風らしい民間の建物が地元の大工棟梁によって建てられた。本格的な西洋建築としてはまとまりのない稚拙さがあり、洋風のモチーフの装飾の中に、和風の手法が平然と納まって、一見洋風に見えるが、厳格な様式にのっとった洗練さはない。この見よう見真似の奇妙な洋風化の流れを擬洋風建築と称している。近代化へ取り組む民間の受け入れ姿勢は官学派とは対照的なものである。
 大工棟梁たちは様式の歴史とか、工学的な技術、構造には無知識、無頓着で今までに修得した和風建築の伝統的な手法に固執しながら、目新しい洋風のハイカラなスタイルを模倣し加味することが文明開化の先端を行くものだと信じ、一般民衆の新時代に対する期待に対応してひたむきに新ムードの表現に腐心したバイタリティには微笑ましいものがある。この和洋混淆の形式は、様式の確立というまでの展開はなく、明治中期には衰退した。その後民間における小規模な建物のおびただしい需要が増えてゆくにつれ、擬洋風のあの逞しい華やかさはないが土蔵造という建物が防火、防盗の要求から街の店舗住宅、倉庫などに目立って現れ始めた。元々土蔵造の前身は、塗屋造として江戸時代から密集した町並みに防火のために造られたが、明治時代になって近代化した煉瓦造が流行して、その重厚なスタイルを木造で表現しようとした街の棟梁の知恵を働かした結果と見られる。明治の後半から全国の地方銀行が外観は日本風の土蔵造りで内部は西洋の銀行にある吹抜ギャラリーを備えた建築が盛んに建築された。外観も次第に洋風の要素を取り入れ、やはり擬洋風といえるだろう。明治の名残りをとどめている。

愛媛県の明治の建築概要

 愛媛の主要都市は太平洋戦争の空爆により殆ど灰燼に帰し、明治期の建造物は惜しくも僅かを残すのみとなっている。個々の建物については後述することにするが、主要な建物を取り上げ概要を取り上げてみる。全国的に明治期の初期は近代洋風建築が外国人技師の手で初めて日本に導入されたもので、中央からの辺隔の地四国に文明開化の槌音が響くのは時期的に相当遅れるのは当然のことである。が愛媛県には、明治六年に早くも石造三階建の建造物が英国人技師ブラントンの設計監督で完成したのである。松山市泊町の釣島に建った灯台と休息所である。おそらく近代日本での石造洋風建築の最も古いものの一つであろう。なお煉瓦造の芸予要塞小島砲台が明治三三年に建設された。弾薬庫や地下兵員壕が設営され壕の曲面屋根に厚いコンクリート(無筋)が使われたことは珍しい。他に煉瓦造としては住友共電端出場発電所が新居浜に明治四五年に建設された。これらの特殊建築は外国人技師の指導になるもので、明治の西洋文明輸入時代の貴重な資料である。木造の洋風建築としては明治一五年に宇和の開明学校が建ち、宇和島には警察署(現、西海町役場)が一七年に、新居浜には旧住友病院が三二年に、四阪島に住友の日暮別邸が三九年に建てられ、それぞれに擬洋風建築と称して地元の棟梁達の精魂の込った特色ある意匠をこらした多彩な建築が現存し、明治の文明開化の香り高い面影が偲ばれる。
 わが国最古の歴史を持つとされ、国際観光温泉文化都市を標榜する松山市の核となっている道後温泉が戦災をのがれたことは幸せであった。明治二五年に温泉本館を三層楼に改築し、古来外湯として入湯客に親しまれていた情趣を残し、江戸時代よりあった神の湯、養生湯、霊の湯と皇族方専用の又新殿の複雑な配置を有機的にまとめ、近代化した施設は他の温泉地にない独特な雰囲気を醸し、貴重な明治の遺産といえる。
 ところで、明治の洋風建築に圧倒されて影を潜めた日本の伝統建築が思わぬ所に息づいていることがある。その一つは大洲の臥竜山荘である。肱川の清流を眺める景勝の地に粋をこらした草庵風の茶席を含んだ住居と露地庭がある。明治四〇年に着工し、上方から名工を招き八年の歳月をかけ、すばらしい構想をもとに優れた手法と材料で建てられた。地方には稀にみる真の数寄屋造とみるべき建物で、県の文化財指定を受け、寄贈された大洲市は名所として公開している。その他、県下にはまだ隠された貴重な文化財が散在するものと思われる。

釣島灯台

 松山港の西方、興居島の沖合いにある釣島の傾斜地中腹に設置されたこの灯台は、周防灘より瀬戸内海中央部への関門に当たる内海航路の要衝に位置している。
 明治元年に新政府は天保山ほか八か所の灯台設置を決定し、その内の釣島灯台は明治四年に早くも建設工事に着手している。英国人技師R・ヘンリー・ブラントンがその設計管理に当たった。島人の伝える話では当時工部省所属の測量船が突如沖に現れ、外国人や工事関係者が島に上陸してきたので慌てて住民は山中に逃げ込んだそうである。
 明治三年に東京湾内のお台場に品川灯台が日本で初めて洋式灯台として設置され、その翌年にこの釣島灯台が着工された事はいかに重要施設として取り上げられたかが分かる。ちなみに品川灯台は廃灯となり東京都が解体保存していたものを「明治村」に移して再建し、重要文化財の指定を受けている。
 釣島灯台の建築は中央に高さ一〇・三mの円筒形の灯塔を抱き囲むように半円形の平家建付属屋(五二㎡)が建ち、同時に職員退息所(一八四㎡)を何れも倉橋島より運んだ石材を積み上げて築かれ、明治六年初點と刻した銘板を入口扉に掲げて完成した。最も重要な灯塔の頂部は四方総硝子張りの放光窓で、半球形の屋根を一二角に割り、三角形のサッシュを巧みに組み合せ円筒窓を構成している。このサッシュは金属屋根を支える柱の用を兼ね、永年の激しい海の風雨に堪えた軽快なデザインは特筆に値する。
 白亜のスマートな姿は、釣島水道のシンボルとして、ここを航行する船員にとって生命の女神のように光を照らし続けてきた。

旧開明学校

 宇和盆地の穀倉地帯の中心で交通の要路として古くから栄えた東宇和郡宇和町卯之町を一望する小高い所に建っている。昔からこの町は教育に熱心で、明治二年に私塾として申義堂が坪ヶ谷に建てられ、明治五年の学制布告にいち早く開明学校と改められた。明治一五年に大念寺の境内に新校舎を新築し、申義堂も隣接して移築されたもので、西日本では最も古い校舎といわれている。建物は単純な矩形の木造二階建(延三六二・二三㎡)和小屋組の寄棟造日本瓦葺、車寄せに唐破風屋根をあしらった建物そのものは和風である。しかし、文明開化にふさわしい洋風スタイルにしたいという地元の要望に応え棟梁(都築熊吉)が洋風建築を実地見聞して外壁を白漆喰塗込め洋壁としたり、洋風アーチ型の窓にして、内側にガラス戸を嵌めるなど工夫をこらしたものである。工法上の未熟さはあるが、西洋館としてのイメージの表現には苦心したらしい。当時の町の人達はハイカラな校舎を誇りとして、一層子弟の向学心をあおったことが想像できる。
 明治初期は本格的な洋風建築の様式に対して街の棟梁たちは充分な理解がなく、見よう見まねで外形的に洋風らしい姿を在来の伝統の和風建築に取り入れ、文明に立ち遅れまいとする傾向が各地方を風靡した。この「擬洋風建築」と称する本建物は明治の初め建築の近代化への歩みを物語る数少ない遺構の一つである。(愛媛県指定文化財)

西海町役場

 この建物は明治一七年に宇和島警察署として同市広小路に建てられたもので、当時の地方では贅沢な建物として理事者は非難の的となったが、街の人々はハイカラな建物を誇りとしていた。昭和二七年、南宇和郡西海町の町制施行に当たり宇和島市から譲渡されて現在地に移築した。明治、大正、昭和の三代の風雪に耐えてきたこの町役場も建物の傷みと、狭く不便なため改築の計画もあるが、黎明期の数少ない貴重な遺構として何かの形で保存したいものである。
 建物は寄棟造、バルコニー部は切妻とし、もと日本瓦葺セメント瓦葺に葺き替えている。小屋組は洋風トラスを模したものである。正面中央に車寄せが張り出し、上部は。バルコニーとなり、四隅の柱は一階は八角、二階は丸柱、一階人口は洋風アーチ型、二階手摺は和風の意匠が加味されている。破風や軒回りの蛇腹、窓回りの手の込んだ繰形には洋風の古典様式を取り入れた熱意が見受けられる。
 宇和島市堀端町に明治四〇年建築の同様式の旧樋口医院があるが、何れも設計者は不詳である。おそらく地元の優れた棟梁が都会の洋館を見聞して、その構造や意匠をよく観察し、忠実に模倣に努め、文明開化へ遅れまいとして精進した擬洋風建築の傑作といえる。

道後温泉本館

 松山市の道後温泉は古くは大国主命・少彦名命の入湯伝説があり、神話の時代から知られる日本最古の温泉である。近代の観光ブームに煽られて、冠山を巡る狭い傾斜地には新しいホテル建築が乱立している。この歓楽境と化した街の中心に太古を偲ぶ和風造の温泉本館がある。古来外湯の名残りを止どめ、温泉情趣豊かな憩いの場として入湯客に親しまれている。道後湯之町の初代町長であった伊佐庭如矢は温泉の近代化に熱意を燃やし、明治二五年に養生湯を、二七年にはこの三層楼本館を改築した。湯釜の取り替えは神罰により湯が止まるなどの反対もあったが、現在の施設の改善に立ち向かったのである。この改築工事に当たった棟梁の坂本八郎は藩主松平定行公お抱えの家筋で、一〇代目に当たる篤実豪胆な性格で、よく町長を助け、技術的にも困難な改築に立派な足跡を残している。
 この建築は本館の三階建の神の湯、二階建の俗に砂湯といわれる養生湯と二階建の特等級の霊の湯と皇族専用の又新殿の三棟で構成している。次々に増設した各棟は瓦葺や銅板葺で、寄棟造の伝統的和風の複雑な屋根をよくまとめ、見事な日本建築の構成美を呈している。大衆浴場として各棟の男女別に区分される機能性を損うことなく便利に配置していることは並々ならぬ設計の配慮がある。本館二、三階と神の湯二階には昔ながらの浴衣に寛ぎ天目茶碗の茶をすすりながら温泉気分をゆっくり楽しむ特有の休憩場や豪華な桃山時代の風格ある貴賓室、鷺をシンボルに載せた振鷺閣の太鼓楼など、特殊な情趣と意匠を凝らした愛媛の誇るべき明治建築の遺産である。

旧住友病院本館

 別子銅山が元禄三年(一六九〇)に開坑以来、明治に至り施設の近代化によって一層の発展を遂げ、新居浜市は住友王国の基盤となり栄えた。それに伴い新居浜の住友関係の社員や家族も増え、その診療を目的として当時の新居浜郡金子村に明治三二年、住友病院が開設された。昭和一一年に病院が別敷地に移るまでの三七年間、地域の診療にも貢献し、その後学校などに利用され、昭和二二年から今日まで新居浜海運事務所として用いられた。
 建物は木造二階建、切妻屋根の日本瓦葺、棟の鬼瓦には住友の紋章井桁が彫り込まれ、屋根の中央飾りに換気用のドーム屋根が載っていたが今は除かれている。外観は左右に破風をあしらうシンメトリーの形をなし、中心にバルコニーを張り出した車寄せのある洋風の外観を呈していたが、今は簡単な角柱にフラットの屋根が置かれている。内部一階は診療管理部で、二階は病室に使われたものと思われる。内外観ともに単純明快なデザインで、病院にふさわしい清潔感があり、過剰装飾のないスッキリとした清楚さが、現在も古さを感じさせずに引き続いて活用されているゆえんでないかと思われる。様式的には擬洋風建築に類するものである。

芸予要塞小島砲台

 今治市波止浜の海上二㎞にある小島に築造された旧陸軍の要塞砲台である。ここは瀬戸内海の喉元といえる狭い来島海峡に位置し、潮流の激しい難所であり、また軍事上の重要なる拠点でもある。最近、愛媛県文化振興財団の調査班により、旧陸軍の築城史にも明らかでなかった西日本一帯の要塞計画の古文書が発見された。それによると明治一五年に時の陸軍卿大山巌から要請を受けた滞欧中の参議伊藤博文が、オランダと折衝して砲台築造に練達の士を招聘することになった。選ばれたオランダ国工兵大尉ヴアンスケルムベークはやがて来日し、陸軍省の委託を受け明治一八年各地を調査の上提出した日本国南部海岸防禦復命書がその文書である。その計画によると内海防衛上に来島海峡を制する小島の砲塁設置の重要性を力説し、配備すべき詳細なる平面計画図まで添付している。この報告書がきっかけとなり明治三三年より三五年にかけてこの小島砲台が築造されたのである。工事は旧陸軍の直轄で設計管理は工兵中佐上原勇作(後の陸軍大臣)で、施工は実に入念正確で堅牢に仕上げられている。
 建築は地下兵員壕、弾薬庫、発電所の何れも平家建煉瓦造の厚い壁体である。地下兵員壕は新しい工法を用い間仕切ごとに穹窿の天井を厚い無筋コンクリート造のスラブで覆い、その上を大量の土で隠蔽している。
 この砲台は大正一一年廃止以来雑草に蔽われ全くの廃墟となり、その後軍の飛行機からの爆撃演習の標的にされ、その爆発の跡が一層荒廃した惨状を露呈している現状である。

日暮別邸

 新居浜市の北方一八㎞の沖合に四阪島がある。明治二七年住友家はこの島を買収し、溶鉱炉を移築して別子銅山製錬の煙害問題を解決したのである。同時に関連施設を次々に建設し、住民のための社会施設を整備して、すばらしい住友王城を築きあげた。
 この四阪島の中腹に緑に包まれ燧灘を一望する住友家の日暮別邸が明治三九年に建築された。鉱溶煉瓦を敷きつめた急な石段を登った閑静な敷地に木造三階建の洋館と後日建増した別棟平家建の和風造の構えである。
 外観は日本瓦葺の反りをつけた和風屋根に外壁はドイツ下見張ペンキ仕上げの洋風式で、突出した煉瓦の煙突が目立つ。現代人には、いささか異和感を覚える姿であるが、明治の洋風摂取時代には、ハイカラな建築であったといえる。
 急勾配の敷地の関係で玄関は二階に取り、住居の主要な部屋に通じている。玄関ホールの左側は吹抜階段のある応接間とその奥に食堂があり、また右側へは別棟の座敷(一〇畳と八畳続き)に繋っている。吹抜階段を上がった三階には二室の洋風寝室があり、また階段を降りた一階には客用撞球場や事務用の室が配され、何れも南面する海の眺めを満喫できる静かな住まいと、来賓を迎える落ち着いた空間を構成して、現代の合理的住宅を先取りした優れた間取りである。
 設計者は野口孫市で、明治二七年に帝国大学工科大学を卒業し、住友家が大阪府に寄贈した大阪府立図書館(重要文化財)の設計にも携さわった明治時代の優れた建築家である。
 昭和四七年、別子銅山の閉鎖により永い使命を終え諸施設も撤去し、今は廃墟と化したが、日暮別邸は明治の記念的建物として是非とも保存したいものである。

臥龍山荘

 水郷大洲の町はずれ神楽山が肱川の清流に臨む景勝地に粋を凝らした庭園と三棟の草庵風の風雅な建物がある。総じて臥龍山荘と呼んでいる。この地はかつて大洲藩主の遊賞の地であったが、大洲市新谷出身の貿易商河内寅次郎が明治三〇年頃この地を購入し、八年の歳月をかけて築庭と建築に腐心し明治四〇年に完成したものである。二代目陽一郎は昭和五三年に総て施設を大洲市に譲り、市は名所に指定し保存公開している。
 庭園は神戸より庭師を招き関西その他から銘石名木を集め遠洲好みの閑寂な草庵にふさわしい露地庭を築いている。
 建物三棟の内主屋となる臥竜院は、茅葺寄棟造の平家建、桂・修学院離宮の名建築を参考にし京都より茶室専門家や名工を招き、当主自ら構想を練り優れた技術と吟味された材料を用いた立派な建築である。主座敷である一三畳半の壱是の間は広い床の間と出書院のある格調高い書院造が基調であるが、そのいかめしい硬直さにくだけた数奇屋の風情を調和させるために各所に工夫が凝らされている。例えば面皮柱に生節を見せ、長押に杉半丸太を用い、床回りは砂壁を鳥の子紙張りにしたり、欄間には優しい野菊の透彫を嵌め込んだり、桂離宮の円形の明かり取りを千鳥に配するなど苦心が窺われる。さらに特筆すべきは畳をはがせば能舞台になり、床下には反響音を出すための瓶も配置されている。
 書斎である九畳の霞月の間は純数寄屋造に趣を変えて、木割の細い寛いだ部屋である。特に床脇の壁面は低い地袋の上に三段の霞棚を配し、右寄りの空間に丸窓をあけて恰も雲上に漂う月のイメージを表出している。その窓は裏側にある仏間の燈明によって浮き出すことになる。その横の押入襖は全面ねずみ色の染和紙を張り、引手金物に刻まれた蝙蝠が薄闇に飛び交うという心にくい意匠である。なお床間の隅壁をわざと塗残し下地の木舞竹を露わして、田舎屋の佗びた風情をにおわすなどその他各所に粋な心遣いがある。別棟の不老庵は飛石伝いの露地庭の南端にあり臥竜ケ淵の崖際にある高楼式の瀟洒な茶席である。八畳会席用茶室は三方の回縁からの眺望はすばらしく、床の間は仙台松の敷通しの簡素さでアーチ型の天井が空間構成に独特な変化をみせている。そして川面に映った月の光が天井の網代張の皮竹に反射する薄明かりで、電灯の無かったころ招かれた客人が酒宴や句会に興じた様子が偲ばれる。(愛媛県指定文化財)

旧大洲商業銀行

 肱川流域の農林業の中心として古くから発展した大洲に大洲商業銀行が明治三四年に開設した。その後は農工銀行、勧業銀行大洲出張所、大洲警察署、現在は大洲商工会議所と移り変わり、明治より三代に亘る時代の変遷を物語っている。明治の煉瓦造の教科書といえる建物で県下最古のものである。屋根は寄棟和瓦葺、小屋組はキングポストトラス、壁体はイギリス式二枚積みの堅牢な構造である。明治期は煉瓦は貴重な資材として大阪から丁重な荷作りで輸送され、当時の入念な施工に頭の下がる思いがする。軒や胴回りの蛇腹、柱型などの装飾的な煉瓦積みが硬直平坦な壁面に変化ある潤いをもたらし、特に玄関の近代的な半円型の庇は外観を引き締めたデザインである。窓は上げ下げ式の硝子戸の外側
に防災防犯の鉄製開戸を取り付けてある。

道後温泉駅

 松山市の道後温泉の玄関口に明治の錦絵から抜け出た様な当時としてはハイカラな洋館の道後駅があり、長く親しまれてきた。明治末期か大正初めの建築と見られていたが、伊豫鉄道の社内資料より明治四四年八月から一二月までの建築と判明した。
 明治二八年に道後鉄道が松山-道後-古町の汽車路線を開設した。伊豫鉄道が明治三三年に道後鉄道を合併し、明治四四年に汽車を電車の運行に切り替えたがその直後ライバルの松山電気軌道が別に路線を三津-松山-道後に開設したために道後駅は二社が立ち並び、猛烈な乗客争奪戦が繰り広げられることになった。
 当時の古い写真を見ると、伊豫鉄道は隣の松電の駅舎に対抗して思い切ってハイカラな建物に改築したと思われる。これが現在の駅舎である。さしもの松山電気軌道も大正一〇年に屈して伊豫鉄道に合併されたいきさつがあった。
 駅舎の外観は隣の松山電気軌道と張り合って派手な西洋風を取り入れ、多くの入湯客の目を奪ったことが想像される。当時全国的に風靡した擬洋風建築である。この建物は木造二階建で屋根は天然スレート葺き外壁下見板張り棟の露台部、妻破風の丸窓、軒回りの内樋式蛇腹、表玄関上部のバルコニー(今は取り除いている)の張り出し等に洋風のオーナメントをあしらい相当洗練されたデザインをほどこしている。設計者は不明である。小屋組には洋トラスが用いてあり、近代建築への黎明期に数少ない郷土の優れた遺構として貴重な建物であったが、昭和六〇年に解体された。