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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 城郭建築

松山城 国指定重要文化財 天守ほか二一棟 松山市丸之内

 県都のシンボルであるこの松山城は、もと道後平野の中心部にある標高一三二m、周囲四㎞の丘陵地、勝山の山上高く石塁を積み上げて築かれ、別名勝山城とも称し、日本の三大平山城の一つである。その築城は伊予国正木(松前町)城主加藤嘉明であり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦功により禄二〇万石に加増された二年後に、足立重信を普請奉行に任じて着工し、嘉明が会津若松城主に転封になる寛永四年(一六二七)までの二六年の歳月をかけほぼ完成させたものである。その後、桑名より松平定行が寛永一二年に一五万石の領主として入部以来、松平家の居城となったが、大正一二年に後裔の久松定謨はこの城を、松山市に寄贈した。市は度重なる災禍で焼失した建物を次々と復興し、また山上へケーブルを架設したり、時報のサイレンに懐かしのメロディを響かせたり、夜は電光に照らし出された空の不夜城を演出するなど、城山公園として開発し、県民や旅行者から親しまれている。
 創建時の本丸は五重六階の大天守であったが、寛永一九年(一六四一)に三重に改築された。その後落雷で焼失し、安政元年(一八五四)に現在の天守が再建された。この天守閣を中核に小天守を初め、各種の門、櫓、廊塀など複雑に配置され、卓抜な築城技術によって、堅牢な構造と各種の雄大な容姿による見事な構成美を展開し、慶長年間の創立当時の面影を残しており二一棟が代表的な連立式城郭として国の重要文化財指定を受けている。
 天守閣の建物は地下一階、地上三階建、本瓦葺、寄棟造、総ての軸材は極めて太く、一階は楠材の柱四六㎝角、梁六六㎝角、二階は﨔材の通柱三四㎝角、栂材の管柱三一㎝角、その他頑丈な部材は武将の威厳を示し、内部の華麗な飾付けを頑なにしりぞけ、防塞の機能に徹した素朴と豪壮さが城郭の特色を表している。

宇和島城天守 国指定重要文化財 天守一棟 宇和島市丸之内 宇和島市所有

 宇和島湾頭の丘陵に築かれた平山城で、慶長年間(一五九六~一六一五)に藤堂高虎によって築城されたのち、寛文五年(一六六五)に伊達氏二代の宗利によって天守の大改修が行われたのが現存する天守である。敷地は珍しく五角形をなし西方と北方は海に面し、他の三面は海水を取り入れた濠を巡らす海と陸の要塞に適した地である。天守は独立式で三重三階、本瓦葺、寄棟造、高さ一五・八m、一階は一一・八二m角、二、三階を漸減し塔風の総塗込造で各層の大型の千鳥破風や唐破風を安定よく配した桃山時代初期の城郭様式を偲ばせる小型の建物である。昭和三五年から二か年を費やし解体修理が行われた。

大洲城 国指定重要文化財 櫓四棟  付 棟札二枚 大洲市大洲 大洲市および加藤家所有

 大洲盆地の中心を流れる肱川の左岸に接し大洲市街に近い小高い丘陵を利用して築かれた平山城で、慶長年間に藤堂高虎、脇坂安治によって建築整備された。かつては四層四階の天守閣を初めとして一八の櫓が建っていたが、今は四櫓(高欄櫓、台所櫓、二の丸苧綿櫓、三の丸の南隅櫓)が残り国指定重要文化財となっている。昭和三〇年から四〇年代に解体修理された。四棟の建物は皆同じ城郭様式で二重二階櫓、本瓦葺、寄棟造腰屋根付、白壁の総塗込めの小型の城郭である。
 高欄櫓は江戸末期万延元年(一八六〇)の再建で、北側に渡櫓が接続し天守に通じていた。西南隅に化粧板張りの袴腰形石落としを付けている。台所櫓は安政六年(一八五九)の再建で、一階は炊事に使われた土間がある。苧綿櫓は天保一四年(一八四二)の再建で二の丸の南隅にある独立した建物である。
 三の丸にある南隅櫓は棟札から明和三年(一七六六)の再建である。この四棟の他に下台所が城内の賄所と食糧庫として二階建切妻造があり、愛媛県指定文化財となっている。

今治城跡 愛媛県指定史跡 今治市通町 今治市ほか所有

 今治市蒼社川の三角州北岸に築造された平城で、別名を吹揚城とよぶ。
 関ヶ原の戦功で伊予半国二〇万石の太守となった藤堂高虎は、国分山城を廃し、今張浦を城地として今治と改め、築城奉行を渡辺勘兵衛、普請奉行を木山六之丞とし、慶長七年(一六〇二)から同一三年までの歳月をかけ築城させた。
 かつての城域は六〇〇m方形で、中央に本丸、二の丸、三の丸を構え櫓は二三、周囲に内、中、外濠を巡らし海水を引き入れていた。現存するのは内堀、三の丸堀と石垣のみであるが昭和五五年に新天守閣が復元された。

明教館 愛媛県指定文化財 松山市持田町二丁目 松山東高校内

 松山藩主松平定通公が文政一一年(一八二八)に文武奨励のために創建した藩校であった。東を武道場とし、南を学問所とした校舎のうち、講堂が残り、松山東高校の校庭の一隅に移築している。建物は木造平家建、桁行一七・七m、梁間一二・七mの入母屋造で和瓦葺である。
 藩政時代における藩校から明治時代の英学所、松山中学校の集会場と変わり、愛媛の近代教育の草分け時代を物語る資料として、県の有形文化財に指定された。

麟鳳閣 愛媛県指定文化財 大洲市新谷町 新谷小学校内

 大洲盆地の東北に当たる新谷にあり、大洲藩主加藤貞泰が次男直泰に分封して開設さした新谷藩の藩政評議所、謁見所の役を果たした建物である。現在は新谷小学校の附属施設として利用管理されている。慶応四年(一八六八)の建築で、木造平家建、桁行二七・九m、梁間八・一m、寄棟造和瓦葺で三方総硝子戸建込みである。
 当時の遺構はこの建物しか残っていないが旧藩時代の陣屋をしのぶ貴重な資料である。