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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

 ここで改めて、仏木寺弘法大師像を彫刻作品として観察することにしよう。一見して、彫風は素朴であり、地方色を強く感じさせるものである。面貌は大師独特の比較的のっぺりとした丸顔であるが、毅然として上体を起こし、側面からみれば、面奥深く、首太く、像主の秘められた意欲的なたくましさを示している。このあたりに、さすが鎌倉彫刻らしさを感知させるものがあるといえよう。これに比して、体にまとう衲衣と袈裟の表現となると、惜しいことに、かなりの破綻をみせてくる。一般の大師像は、胸をゆったりとあらわして両襟を合わせるのが普通であるのに対して、これは首のすぐ下で無理に襟を合わせた格好になっているので、このあたりがぎこちない。その上、胸部から腹部へかけての肉どりがすくなく、扁平にさえみられ、膝部にもどっしりとした安定性が失われている。しかも、右の部分における衣文の刻出が技法的にうまく処理されていないので、不自然な煩雑ささえ感じさせる。これらは要するに技法の未熟によるのだが、同時に鎌倉末期の地方仏師の平均的水準をあらわすものであろう。寺記によれば、本像は文化一〇年(一八一三)五月に摂州住大仏師吉村吉五郎頼安が修理したのであるが、現在みられる彩色はその際のものとみてよいと思う。
 さて弘法大師の彫像として文献にみえる最古の例は、『安祥寺資財帳』(貞観三年〈八七一〉撰)に「空海大僧正阿闍梨像壹体」と記されるものであろう。空海が寂したのは承和二年(八三五)であり、安祥寺の創建は嘉祥元年(八四八)にはじまるから、この像は死後いちはやくつくられたものと考えられる。しかし作例として現存している彫像は平安時代にまったくなく、ようやく鎌倉時代に入って、天福元年(一二三三)に康勝のつくった京都・東寺御影堂の木像がもっとも古い作品としてあげられる。その後、鎌倉末期に至るまでの間で、製作年代あるいは作者の知られる作品だけをあげると、次記のようになる。
  京都・六波羅蜜寺木像 巧匠定阿弥陀仏長快作(銘)。
  香川・大興寺木像 建治二年(一二七六)作か(同作の天台大師像銘による)。
  京都・神護寺板彫像 正安四年(一三〇二)定喜作(『神護寺略記』)。
  愛媛・仏木寺木像 正和四年(一三一五)行継作(銘)。
  奈良・元興寺極楽坊木像 正中二年(一三二五)作(納入経奥書)。
  高知・金剛頂寺板彫像 嘉暦二年(一三二七)定審作(銘)。
 この表示によって、仏木寺大師像の年代的な位置づけは了解できるであろう。鎌倉時代において、製作事情を把握できる弘法大師像は十指に満たないのであり、そのすくない作例のなかに仏木寺像が加わることに注目される。ただこの像が作域の上で他の諸像よりもかなり劣るのは事実であるが、彫刻作品という美術的な観点の枠にとらわれず、ひろく文化史的ないしは信仰史的な視野に立てば、仏木寺像にも重要な意義をみいだすことができよう。その一つは、作者行継を考察の中心とする当時の地方造像界の実情把握で、これはすでにくわしく述べたところである。もう一つは、四国の古寺にみられる弘法大師信仰との関係である。四国八十八箇所ら象徴されるように、讃岐国を生誕地とする弘法大師は、四国全土に広範な信仰をかちえているが、仏木寺においても、すでに鎌倉時代から弘法大師御影堂が建っており、そのなかに大師像がまつられていたことが確証されたことになる。四国には、これにっぐものとして、さきに表記した高知・金剛頂寺の板彫像が知られており、これは塔の内壁にはめこんだ真言八祖像の一つである。さらに室町時代に降ると、徳島・焼山寺の大師像があり、銘記に応永七年(一四〇〇)彩色とあるのは、造像時を示すものでもあろう。かようにして、弘法大師信仰の具体的なあらわれの一面として、その造像のあったことがわかるが、現存する古い作品はあまり多くない。他方、大師の遺跡を巡拝するという八十八箇所の霊場は、すくなくとも室町時代中期ごろにはできていたようで、高知・越裡地主地蔵堂の文明三年(一四七一)鰐口銘に「八十八箇所」という名称が記されているのはその「証である。おそらく、弘法大師像やその御影堂などを造立する雰囲気のなかに、霊場巡礼の風も徐々に育ってきたものであろう。このような問題の設定から、仏木寺弘法大師像の重要性を説くことも可能であろうと思う。       (昭和五〇年、注省略)