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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

 つぎに項を改めて、他の一体の彫像を記述する順序となった。これは本稿の主題となっている弘法大師像にほかならない。この像は昭和四八年九月二五日に仏木寺を調査された山口常助氏によって注目され、その銘文が発見されたものである。このことは当時、山口氏より私あてに直接の通報があり、また写真も送付していただいたのだが、ようやく翌年八月三日になって実査の機会を得ることができた。以下、その結果を述べることにしよう。
 大日如来像をまつる本堂の横に並んで大師堂があり、弘法大師像はその本尊として安置されている。ただし、発見当時は堂内の片隅におかれていて、仏壇の中央には別の新しい大師像を安置していたという。
 さて像は正面向きに端坐し、円頂、身に衲衣をまとい、その上に袈裟をかける。左手は左膝上に掌を仰いで念珠をとり、右手は屈臂して胸前で五鈷杵を握るが、現在両持物を失っている。ほぼ通常の弘法大師像と変わりない。坐高八七・五㎝、寄木造り、彩色(後補)で眼には玉を入れない。像の構造を記述すると、まず体幹部は頭・体を通して耳後を通る縦線で前後に矧ぐ。両足部を横木一材で矧ぎつけ、さらに裳先(欠失)を寄せる。両肩外側部を矧ぎつけ、両手前鱒部の袖(左方欠失)と両手首とをそれぞれ矧ぐ。像底は地付から最高一五㎝ぐらいまで刳り、胴体にはそこに棚状のものをのこして、その上方をさらに内刳りするが、このなかは密閉していて、外部からうかがうことができない。なお胴体部の前面材中央下部に心束(高一四・八、幅六・二、奥四・三㎝)を彫りのこし、地付に達する。
 右に記した構造のなかで、一言しておきたいのは、棚状の材をのこした内刳りのことである。このような造法は従来「上げ底式内刳り」と仮称されて専門家の間に注目されているもので、参考までに大要を記してみよう。寄木造りにおいて、この式の刳り方をもつ実例を検討してみると、目立って多いのは鎌倉時代後期の彫像である。しかしその始源を追っていけば、鎌倉期初頭にまでさかのぼり、文治五年(一一八九)運慶作の神奈川・浄楽寺阿弥陀如来坐像をあげることができる。ところがそのほかの初期像についてみても、京都・大報恩寺如意輪観音坐像(貞応三年〈一二二四〉肥後別当定慶一派の作)とか京都・東寺弘法大師坐像(天福元年〈一二三三〉運慶息康勝の作)のように、慶派の作例が指摘されることから、この特殊な内刳り法が慶派と深い結びつきがあるらしいことが推測されている。おそらく、この造法は、従来行われた完全な内刳り(坐像であれば、像底から頭部内までみとおされる)の場合に比べて、像を堅固に保つという特長があり、あわせて納入品を籠めるにも一段と便利であったと考えられる。
 仏木寺像は、右のような内刳りを施した上に、さらに正面材下端から地付まで心束をつくり出しているのだから、像の安定強固の効果は一層大になってきている。。その点では、当時本尊大日如来像も同様であり、その他、両像は体幹部の前後矧ぎ、両足部の横木一材矧ぎなど、構造の上で同巧であるのも注目に値する。なお棚状材と心束との併用例は、たとえば香川・大興寺の天台大師坐像(建治二年〈一二七六〉作)や東京・本門寺の日蓮上人坐像(正応元年〈一二八八〉作)などにもみいだされるところで、鎌倉後期彫刻の一手法になっていたとみてよいであろう。
 さて、仏木寺弘法大師像の心束に墨書銘が発見された。すなわち、その正面と左側面とに分けて書かれている。全文を記すと以下のとおりである。

   (心束正面)
  奉造營弘法大師御影像
   正和二二年十月五日御開
           眼
  右志者爲父母師長往生極
             楽
   結縁輩現世安穏
   後生菩提乃至法界平等□□
   (心束左側面)
   大願主僧賢信 啓白
  □□□ 大佛師三位法橋行継

 この銘記によって、造像の実情がほぼ明らかになるのは幸いである。すなわち、像は父母師長の極楽往生などを願って、正和四年(一三一五)一〇月五日に開眼されたものであり、その願主は僧賢信、仏師は三位法橋行継であったのである。
 仏木寺に弘法大師御影堂が建ったのは、すでに記したように、建治二年(一二七六)のことであったから、本像がつくられたのは、それから後三九年もへだたっていることになる。これはさきに指摘したように、本堂建立と本尊大日如来像の造顕との間にも三二年というずれがあったのだから、弘法大師像においても何かの特殊な事情があったのかもしれない。ただしかし、この大師像が御影堂がんらいの主尊であったと断定することはできない節もある。というのは、最近まで本像は大師堂の片隅にあって、主尊扱いはされていなかったからである。ここでは、像を建治の御影堂の主尊に結びつけることは避けて、銘記そのものだけから考えて行くことにしたい。
 願主の僧賢信のことは、いまのところ、まったく不明というほかはない。つぎに仏師の三位法橋行継について考えてみよう。後で述べるように、洗練度を欠いだ大師像の作風から考えて、行継が地方仏師であったことは、まず間違いないところであろう。そのような推測はいちおう可能であるが、それ以上具体的にこの仏師の来歴を知ることはむつかしい。ただ、名前に用いる「行」字について注目すれば、これよりすこし前に、やはり同地域で活躍した「大仏師東大寺流法教行慶」と「仏師行阿弥陀仏」とがあげられる。両人は北宇和郡吉田町大乗寺に伝存する地蔵菩薩立像の銘記中に出ていて、その作者と考えられる。この像の造立年代は弘安元年(一二七八)と解せられるから、大師像より三七年前となる。行慶の名に冠する「大仏師東大寺流」という特殊な用語は、そのまま仏木寺大日如来像の判読不能の仏師名の上にも記されていて、私はこの方も行慶の名が書かれていたのではないかと推測している。すなわち、地蔵像より三年前につくられた大日像も行慶の作とみるのである。行慶は「慶」字使用から推して、広い意味での慶派の仏師と考えられるから、その出身ないし系譜などの上で、奈良の東大寺と関係があったことが理解される。ことに名前の「行」字は、行快・行心などのような快慶門下にも使用されていることが注目され、さらに同門の仏師栄快が「東大寺大仏師」を称している例もあるから、行慶は慶派、とくに快慶一派との間になんらかの繋がりがあったのかもしれない。地蔵・大日両像の作風に、ただちに快慶様そのものを指摘することは無理であろうが、年代の降った地方化作品としての立場から検討することは不可能でなかろう。行慶とともに出る行阿弥陀仏も、あるいは行慶の弟子などの関係にあった仏師であろうか。快慶一門によくみかけるように、阿弥陀号を使用するのも興味深い。
 このように考えてくると、問題とする弘法大師像の作者行継も「行」字を共通する点で、やはり行慶の末流に属していたのではないかと思われる。それに関して改めて注目されるのは、すでに記したように、行慶作の可能性が大きい仏木寺大日如来像と行継作の弘法大師像とが、寄木構造の上で類似していることである。両像の製作時にはかなりの年数の開きがあるとはいえ、同系として常用された技法は師弟の間に伝承されていたとみるべきであろうか。さらにいえば、同系の仏師が同じ仏木寺の造像を担当しているのも偶然ではないような気がする。やや想像に走りすぎるかもしれないが行慶・行継など一派の仏師が鎌倉後期の南伊予にかなり活躍した事実があったのではないかと推察されるのである。