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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 彫刻作品

 これまでに私か見聞した南予の彫刻を、地域的に分けて紹介してみよう。すでにいったように、この地方はまだ文化財の未開拓地であるから、ここにあげたもの以外に、将来興味ある作例がいろいろ発見されることも十分ありうる。すくなくとも私は、そのような期待を持つものの一人である。

1 喜多郡長浜町

 瑞龍寺 十一面観音立像

 瑞龍寺は長浜町沖浦にあり、この像はすでに大正元年に旧国宝に指定され、戦前における南予地方ただ一つの指定仏像であった。
 高さ一六三・六㎝、一木造の漆箔像で、姿にはとくに変わったところもない。すらりとした長身で、腹部を幾分前方へ出し、右脚をわずかに浮かせて立つ。顔は目がほそく、両頬の肉付けにやや厚いものを感じるが、このような造形感覚は衣文にも及び、平行的に流れる衣文の彫出は流麗というよりも、むしろ重厚の感が強いようである。その点、当像にはある種の地方色を認めてもよかろう。藤原時代もかなり早いころの作である。
 寺伝によれば、当像はもと長門国の阿弥陀寺にあったが、平家滅亡ののち、建礼門院平徳子より伊予国小田の清盛寺に施入せられ、さらに大洲如法寺の盤珪禅師のもとに移っていたのを、瑞龍寺建立にあたり本尊として迎えられたものという。(一一八~九頁参照)

 出石寺 釈迦如来坐像

 出石寺は長浜町豊茂の出石山頂にある真言宗の古刹で、金山と号する。この寺に安置する釈迦如来像は、形式上興味ある彫刻である。というのは、右手施無畏、左手与願の印をしめす坐像であるが、頭髪は縄状にぐるぐる巻き、法衣は首の近くまでおおう通肩衣で、しかも衣文はきれいに重ねた流水文とよばれるものとなる。このような姿の特色は、明らかに京都市嵯峨の清涼寺の本尊を模したと考えられるが、ただ原像は立像であるのに、これは坐形に作られているのが大きな相違である。
 いうまでもなく、清涼寺の釈迦如来像は、北宋の雍煕二年(九八五)に張延皎、張延襲の兄弟の仏師が作り、これを入宋僧の奝然が日本に将来したという由緒の明確なもので、信仰的には三国伝来の霊像として名高い。その模作はすでに藤原時代から行われたが、とくに鎌倉時代には全国的に流行したようである。出石寺像は様式上室町時代よりさかのぼらないと思うが、坐像の清涼寺式釈迦像という点では注目してよい。そのほか、この式の坐像としては、宇治市の橋寺放生院に一体があることをつけ加えておく。
 像高八六・六㎝、寄木造、漆箔、玉眼をいれる。手指の爪をすこしのばすのも原像に忠実なところであるが、ただ左手は手首より先すべて後補である。当像はもと高野山龍光院にあったのを移したものという。(一三四頁参照)

2 大  洲  市

 如法寺 地蔵菩薩立像

 如法寺は大洲市柚木にあり、臨済宗妙心寺派に属する当地方の名刹で、明暦元年(一六五五)大洲城主加藤泰興が建立し、盤珪禅師を迎えて開祖とした。
 この地蔵菩薩立像は高さ一六二・五㎝で、一木式の構造をみせ、彫眼、後補の彩色を施す。形姿の上で注意されるのは、両足に沓をはく点である。一般的にいえば、このような地蔵像は鎌倉時代を中心にしてときどきみられ、それはおそらく宋代美術の影響ではないかと考えられている。当像には足柄に墨書銘があるので、作者や年代などを明らかにできる。すなわち次のとおりである。

   (左足枘内側)
   大願主右衛門尉藤原孝広
   大仏師法橋興慶
   (左足枘外側)
   藤□        (右足枘内側)
   御画師藤原秀光        建治二年丙子歳

 これによれば、当像は鎌倉中期の建治二年(一二七六)の造立で、願主は右衛門尉藤原考広、仏師は法橋興慶であったことが分る。なお画師の藤原秀光は像の彩色にあたった人であろう。仏師の興慶は越智郡玉川町桂宝蔵寺の清涼寺式釈迦如来像を作った仏師と同人と考えられる。当像は文永五年(一二六八)二月四日に「大仏師薩摩法橋興慶」によって作られたことが胎内墨書銘で分る。興慶は、その名から推せば慶派の仏師らしいが、伊予国に二点の作品をのこすとはいえ、必ずしも地方作家と断定することはできない。地蔵像は顔の作り、衣文、肉どりなどに華奢なところがあり、細長であるが綺麗にととのった面貌には、快慶末流のおもかげさえくみとられる。釈迦像の方は特殊な清涼寺本尊の模作ではあるが、彫技はかなりすぐれ、とくに流水文式の衣文の彫出は巧みといえよう。興慶はがんらい中央の仏師であったが、地方にも進出して活躍したのではないかと思われる。
 なお当像ぱ愛媛県指定の文化財になっている。(一四四~五頁参照)

3 八幡浜市・保内町

 梅之堂 阿弥陀三尊坐像

 当像は八幡浜市五反田の保安寺の管理で、戦後価値が認められて、重要文化財に指定された。寺から少し離れた松柏徳雲坊という丘陵に建つ「梅之堂」とよばれる小堂にあったが、いまはそこに鉄筋コンクリートの堂ができて安置されている。
 さて中尊の阿弥陀如来は坐高一三八・八㎝のいわゆる半丈六像で、寄木造、漆箔、彫眼となる。定印を結び、両膝を大きく張って安定よく坐り、細かく彫出された螺髪やまるく柔和な顔つき、あるいは流麗な衣文のさばき方など、いずれも藤原末期の彫刻に通有の特徴をそなえている。しかもこの像にはすこしも地方的なところがなく、全く中央できの作風であることにも注目すべきであろう。当像の胸腹部内側に墨書銘(一八八~九頁参照)がある。
 この銘文の前半は、天和三年(一六八三)の等覚寺住持の関龍了機による修理を記したものである。等覚寺は山号を龍華山といい、宇和島にあり、藩主伊達氏の菩提寺であった。天和二年の『宇和旧記』に、「此(梅之堂)本尊の仏像、弥陀如来、観音、勢至、龍神、地蔵之五尊、龍華山之薩雲代、御寺へ引今現存、地蔵、龍神二体は潮音寺観音の脇士に成す」とみえるから、このころ「梅之堂」の阿弥陀三尊像は宇和島の龍華山等覚寺に移されていて、そこで修理をしたわけである。ちなみに阿弥陀三尊像がもとの「梅之堂」に返却されたのは、ずっとのちの明治五年のことであった。
 次に上掲銘文の後半は、嘉慶三年(一三八九)の「梅之堂」の棟札を写したものである。この棟札はいま所在を明らかにしないが、すでに『宇和旧記』のなかにも収録されている。そこでは年紀のところを「嘉慶第二天」と読むが、「戊辰」という干支からいえばこの方が正しく、銘文に三年とあるのは誤字であろう。
 この棟札銘によれば、「梅之堂」は、後白河法皇のために平忠光が建てた忠光寺の後身であったようである。平忠光とはどのような人物であろうか。『宇和旧記』では吾妻鏡や源平盛衰記に散見する平家の家人総五郎兵衛尉忠光と同人とみているが、この人は建久三年(一一九二)二月二四日に武蔵国六連海辺で梟首されている。がんらい「梅之堂」のある地は矢野郷とよばれ、吾妻鏡元暦元年(一一八四)四月六日の条によれば、この地方は平清盛の継母の出身である池大納言の家領であった。このように平家に関係のある地に、平忠光が一寺を建立したというのもありうることであり、その時期は藤原末葉と推定することも無理でなかろう。ちなみに喜多郡内子町の福成寺もまた平忠光に関係ある寺といわれる。現存する「梅之堂」の阿弥陀三尊像は、おそらく忠光寺の本尊であったのであろうが、それが京都的な品位を保っているのも、上記のような寺の性格によるものと解してよいのではなかろうか。
 さて中尊阿弥陀像の左右には、蓮台を両手でささげる観音菩薩と合掌形の勢至菩薩の両像が脆坐する。高さは前者が七九・八㎝、後者が八一㎝あり、ともに寄木造、漆箔で、彫眼となる。両像とも顔の表情は温麗で、肉身のモデリングや衣文の表出もまことにおだやかであり、一見して藤原時代の洗練された作であると認められる。ただ看過できないのは、両像の間にかなりの作風手法上の違いがある点である。たとえば勢至の頭部につける冠台は観音になく、また造像法の上で、観音が頭部と体部を通して左右矧合せであるのに対して、勢至は首部を挿込む前後矧ぎとなる。どちらかといえば、勢至の作風の方が阿弥陀に近いが、しかし以上のような両脇侍の違いから、両像はもともと一具ではなかったと考えるのも早計であろう。観音像の腹部裏に「等覚現住関龍三興」、勢至像の胸腹部裏に「等覚現住関龍三興/縁起詳于中尊像内」という墨書がある。中尊の修理銘に対応して、天和の修理時のものとみられる。なお阿弥陀三尊の両脇侍が脆坐となるのは、京都市三千院・宇治市三室戸寺・奈良県安養寺(現在は熱海美術館蔵)などかなりの作例があり、ほとんど藤原後期の像であることを記しておく。

 了月院 阿弥陀三尊立像

 了月院は八幡浜市日土町にある。この三尊は当寺の本尊で、中尊の阿弥陀如来は高さ七九㎝、来迎印を結び、両脇侍菩薩は高さ五四・五㎝、通例のように観音は蓮台をささげ、勢至は合掌する。三尊とも寄木造、玉眼を嵌入する。漆箔で、衣には金泥文様を描くが、これらは近世の補加であって、かなり像様を損じているのは惜しい。阿弥陀の形様は明らかに快慶が創始した秀麗な安阿弥様の流れをくむが、硬化しかけた衣文や頭上の大粒の螺髪などは鎌倉後期らしい制作年代を暗示するものがある。両脇侍の方は腰と膝を曲げて来迎の動相をあらわし、宝髻が目立って高いのも特色である。ただ衣文はかなり煩雑であり、造形上の破綻も認められる。
 ところで当像の制作に関しては、幸い両脇侍の足枘に、次のような同文の墨書銘があることに注目される。

   (左枘外側)               (右枘外側)
   文永六年歳次己巳八月一日          大仏師
   願主左衛門尉               興阿弥陀
      平能忠                  仏

 これによれば、文永六年(一二六九)に平能忠を願主として大仏師興阿弥陀仏の作であることが明かになる。作者の興阿弥陀仏はどのような人か未詳であるが、阿弥陀号でよぶ点から推して、仏師快慶の末流かとも考えられる。周知のように快慶は安阿弥陀仏と号したが、その弟子や流れをくむものにも、阿弥陀号を用いた人がすくなくないのである。当像の作風からみても、作者を快慶の末流と考えることは不当でなかろう。果たしてそうだとすれば、鎌倉中期の文永ごろにおける快慶流の実態が、これによって把握される。しかも当像は地方的な作品でなく、中央の正統派に属するものであることもとくに指摘しておきたい。願主の平能忠が平氏であることは、すでに述べたように、八幡浜地方が平家と関係ある点からも興味深い。しかしまた南予地方には平家滅亡後の落人が棲みついたという土地があちこちにあり、もしそれが事実であったとすれば、あるいは平能忠のような人もそうであったかもしれないが、いまのところ憶測の範囲を出ない。
 ちなみに上掲の銘文は、すでに『宇和旧記』にも採録されているのは感心する。その上、了月院はもと願主の名をとって東向山能忠寺といい、喜木村(現、西宇和郡保内町喜木、了月院の現地に近い)にあったことなども記されている。

 三島神社 男神坐像

 この神社は保内町宮内に鎮座する古社で、当地方の総鎮守とされる。社伝によれば、宝亀五年(七七四)八月に宇和郡の郡司が越智郡大山祇神社の分霊を勧請したというが、もちろん確実なことは分らない。当社に七躯の男神坐像が伝存し、破損するものもあるが、そのうちの五躯は近年愛媛県の有形文化財に指定された。だいたい三〇㎝前後の衣冠姿の小像で、一木造、彩色、簡勁な彫法をもってそれぞれ特色ある姿態をあらわす。うち二体が長い袋状のものをかつぐのは目をひく。おそらく鎌倉後期の作とみられ、一説にこれらを角力人形の一部ともいうが、なお明確なことは分らない。(一四八~九頁参照)
 ちなみに当社には半肉の天部坐像をあらわす一面の銅製懸仏があり、それは建久五年(一一九四)八月一日の制作銘をもつことを付記する。

4 東宇和郡宇和町

 極楽寺 阿弥陀如来坐像

 宇和町小野田にある極楽寺は天台宗に属するが、いまは廃寺同様のさびれた状態となっている。ここに伝存する仏像のうちで、一体の阿弥陀如来坐像がとりあげられる。
 像高八六・七㎝、寄木造り、玉眼をいれる。姿は両手とも第一指と第二指を捻じる来迎印を結んで坐り、しかも両手先が当初のままに保存されているのも幸いである。珍しく彩色像であり、現状は白色の肉身に朱衣をまとうが、よく注意してみると、白い肉身の下には金箔をおいた痕跡もあるようだから、すくなくとも肉身部はもと漆箔となっていたとも考えられる。頭部の螺髪はかなり大粒であるが低平な形で彫出され、法衣のひだには写実的要素が認められる。鎌倉中期の制作と考えられるが、細い目つきのおだやかな顔には、この時代に一般的な理智的面貌とは異なった独自なものを感じる。しかしこれは単に地方的な特色といい切ってしまうこともできない。
 光背は二重円光であるが、やはりもとは周縁部があったらしく、それをとりつけた小孔をのこす。台座は六段魚鱗葺きの蓮台だけでそれ以下を欠失する。光背、台座ともに完全ではないが、像と同時のものとみて差しつかえない。要するに当像はかなりよく原状を保ち、しかも作技も凡庸でなく、この地方の注目すべき彫刻の一つといえる。いま県指定の文化財になっている。(一四五頁参照)
 なお当寺の本尊は千手観音立像で、古い作ではないが、その台座はみのがせない。木造彩色、総高二六・三㎝の小さいもので、上層の蓮台は補作とはいえ、その下に続く反花は美しいカーブを示しさらにその下の三重の八角框座には花菱文を薄肉に彫り、あるいは藤末鎌初のころにさかのぼる作ではないかとみられる。

 福楽寺 薬師如来坐像

 福楽寺は宇和町河内にある天台宗の古寺で、康保二年(九六五)に安一和尚の創建と伝えられ、伽藍広大、山上山下にそれぞれ一二坊をかまえていたといわれる。しかし大僧正教印の住持のとき、長宗我部氏の兵乱にあい、それより寺勢おとろえ、いまは昔日のおもかげを留めない。ここにあげた薬師如来像は、かような古寺にふさわしい特色ある彫刻として興味深い。坐高六〇・四㎝、頭体を通した躯幹部、両側、両手先、膝部、裳先などを寄木するが、内刳りは施されない。ただ玉眼を嵌入しており、そのためマスク部を別に矧いでいるのは注目される。彩色は螺髪に群青、口唇に朱、眉やロひげに墨などを用いる程度で、そのほかは素木のままであり、いわば檀像風の彫刻とみてよい。
 右手施無畏の印、左手に薬壷をもち、結珈した両足先は衣に包み、頭部の螺髪は大粒であるが、肉髻はきわめてひくい。全体的にみてかなり穏健にまとめられ、鎌倉後期ごろにさかのぼる作と考えられる。しかし側面観では、面奥や膝奥が意外に深く、重厚な落着きを示すが、このことは手が不均合に小さく作られたり、後頭部に彫出された螺髪の形にいちじるしい乱れのあることと無関係ではないかもしれない。というのは当像には一見、地方色をあまり感じないようでもあるが、しかし右のような形の上の不均衡な点が指摘されるのは、やはり造形的な破綻を暴露しているもので、ひいてそのことから地方作家の手になるのではないかとも思うのである。このころは、もう中央と地方の交流も盛んで、このような彫像が地方で作られる可能性は十分あったと思われる。
 なお当像は現在光背を欠き、台座は五重蓮華座であるが、大部分後補で、わずかに反花のあたりが当初のものとみられる。この台座も像に比してやや過大であることを記しておく。

5 北宇和郡吉田町

 大乗寺 地蔵菩薩立像

 大乗寺は吉田町立間にある臨済宗の寺であるが、その創建については明確でない。ここに安置する地蔵菩薩像は古来有名で、さまざまな霊験譚も伝えられている。近世になって伽藍が荒廃したのを、藩主伊達宗純によって菩提所として復興され、現在では当地方有数の禅寺となっている。
 さて上記の地蔵菩薩像は、当寺の地蔵堂に現存する半丈六の立像がそれにあたるといわれる。右手に錫杖をもち、左手に宝珠をささげる通常の姿で、寄木造、彫眼、像全体に極彩色を施す。ただし『吉田古記』によれば、これらの持物や彩色は延宝四年(一六七六)の補加であるらしい。両足に沓をはくのは、さきにあげた如法寺の地蔵像と同様で、いちおう注目される。後世の厚い彩色によって彫刻の原様を損じているが、面貌には素朴な地方臭をただよわせ、ことに眼はかなり大きい方で、端に向って急降下する眉や小鼻のひらいた愛嬌ある鼻の形などにも特色がある。衣文は一見彫り浅く繊細なようでもあるが、胸部や脇部の衣文構成にはなお未消化の点も指摘される。なお当像の胎内に次記のような小像を納入していたといわれ、これらはいま取り出して別に保存されている。どれも素朴な一木造の着彩像であるが、彩色は全く剥落している。
  (1) 地蔵立像で両手は屈臂するが、手先を欠く。高さ一九・一㎝。
  (2) 地蔵立像で、右手は垂下して手先欠、左手は屈臂して宝珠をもつ。高さ一七・三㎝。
  (3) 合掌する比丘の立像。高さ一四・六㎝。
  (4) 前像と同様の姿。高さ一五・二㎝。
  (5) 合掌する比丘の坐像。高さ一五㎝。
  (6) 前像と同様の姿。高さ一五・五㎝。
  (7)烏帽子をかぶり、顎ひげをつけ、両手を正面によせて何かをもつ坐像(小孔をのこす)。高さ一四・六㎝。
  (8) 合掌する童形立像。高さ一七・三㎝。
 そのほか、寺蔵の写真によれば、なおやや大きな地蔵菩薩の立像も一体あったらしいが、私は実見することができなかった。ちなみに現在の半丈六地蔵像の背面をみると、竪三五・八㎝、横二五・二㎝の矩形に切取った窓が開き、その蓋もある。これは最初からの施設ではなく、実は近年に胎内を調べるためにしたことという。
 この地蔵像には、さらに胎内に造立銘があるらしい。現在の私たちは、まだその存在を確認していないのだが、『吉田古記』には写しを掲げている。そのなかには誤写と思われるところもすくなくないが、十分参考になるので、全文をそのままあげておく。

    地蔵胴中に書付有之写
   敬白上の分
  八尺地蔵内心過去尊霊引導爲御人衆事
  一高但入道、但御代所御菩提爲御
  一志所四人父母御爲、重貞、白亀、覆但母子
   伊賀二人、高阿子代女父母(火へんに父)(火へんに母)
           観音組  弥太郎組
           福寿組  惣次組
  法印但慶尊霊、竟戒尊霊
         比尼向阿弥陀仏尊霊
         山校尊霊、出離生死
             往生極楽也
  右兵衛尉  伊予組
   右志者、過去尊霊出離生死往生極楽、証大菩提、万至法界、六道衆生、平等利益為事
脇に
 沙弥西願御家、現世安穏、後生清浄土
 沙弥西願御家、現世安穏、後生極楽
  右之書付有り地蔵背左の図之通に
 敬白 此事
 善念(火へんに父)(火へんに母)、善念往生、極楽為此事
               阿子四郎
               沙弥太郎房入道
  仏往御為、師御為     国宗入道
               去公文
 梵阿御前ヲトト子等、弘安元六月十三日午時事
 ミツルイ竟界一切尊霊、普阿弥陀仏尊霊、六道苦出極楽必往生、福寿
 沙弥心楽往生極楽也、皆元貞永尊霊
 殊には男子苦出、惣而子等皆往生極楽也、仏師行阿弥陀仏
 父母現世安穏、往生浄土御為
  沙弥生蓮尊霊
  弘安元年、地蔵彩色之施主芳名一々記之
  田原又太郎忠綱、出鎌倉赴鎮西、其時有巡行于此国、一見此地蔵、以来遭信心焉不浅者也、空海一刀三礼作、弘安元年
  六月九日
    大仏師東大寺流法教行慶
  八尺地蔵菩薩、建治四年歳次戊寅二月廿四日彩色之始り、大願主、立間郷地頭藤原重貞、同高阿子代女、右志者、現世
  安穏、後生清浄土、建治四年戊寅より至延宝九年辛酉四百六年乎
   右之書付地蔵の胸の通に有り

 以上の如くであるが、意味の通じないところや疑問の点も多いので、詳細は将来の研究にまたねばならない。しかし大略をいうと、当像は建治四年すなわち弘安元年(一二七八・二月二九日改元)二月二四日に彩色をはじめて、同年六月一三日に完成し、その願主は立間郷地頭の藤原重貞、同じく高阿子代女であった。それに関係した仏師は「大仏師東大寺流法教(橋の誤りか)行慶」と「仏師行阿弥陀仏」とであったらしい。田原又太郎忠綱がこの地蔵像を信仰したといい、また「空海一刀三礼作」との伝えもあったというから、この像の彫刻されたのは、弘安より前であったとも思われる。田原又太郎忠綱は足利忠綱ともいい、信太義広が源頼朝に反旗をひるがえしたときに参加したが、失敗して九州へ逃亡した人としてしられ、鎌倉初期の人である。しかしながら、現像の作風からみれば、鎌倉後期よりも上にさかのぼる作とは考えられない。そうすると、忠綱の帰信あるいは空海作という伝えは弘安時の筆ではなく、後世の追記ではないかと疑われる節もある。ことに弘安の銘記が彩色だけに関するものとすれば、それを胎内に書いているのは不審である。胎内に書くからには、像の寄木を解き、それをもとに復するのに彫刻的加工があったはずである。銘文中に行慶や行阿弥陀仏のような仏師名を特記していることからも、一層その感を強くする。私の推測では、弘安期には彩色のことが表立っているが、やはりこの時に像が新作されたのではないかと思う。もし空海作というような伝承を無視できないとすれば、そのような古い前身像があったと考えることもできよう。憶測をたくましくすれば、上述した胎内納入像のうちの一体の地蔵菩薩像などが、あるいはそのようなものだったかもしれない。
 「仏師行阿弥陀仏」は銘記中に孤立した形で出ているので、あるいは「大仏師東大寺流法教(橋か)行慶」の次に書かれるのを、別行に混入したのではないかと疑われる。「大仏師東大寺派」の呼称は、次に述べる仏木寺大日如来像の銘記のなかにも書かれ、大いに注目される。行慶は名前から言えば慶派の仏師と思われるが、いっしょに仕事をした行阿弥陀仏が快慶流らしく阿弥陀号をもつこと、さらに行慶の「行」の字は行快、行心などのように快慶の系統によく用いられていることなどから考えれば、行慶もまた快慶の末流であったかもしれない。一般に慶派仏師、従って快慶自身はいうまでもなく、その弟子筋も奈良の東大寺とは深い関係にあり、たとえば弟子の栄快は「東大寺大仏師」を称しているほどである(長命寺地蔵菩薩像銘)。行慶が「東大寺流」と自称するのも不思議でないが、このような系統の仏師が南予地方で活躍していた事実にとくに興味をひかれる。しかし行慶と行阿弥陀仏は、必ずしも中央の仏師とは考えられない。この地蔵像の作域からみれば、出身は東大寺流であったかもしれないが、むしろ当地方に土着した仏師ではなかったかと思う。当像に快慶様すなわち安阿弥様の地方化した姿をみいだすことも、あながち無理ではなかろう。ちなみに、願主の藤原重貞はこの地方立間郷の地頭であり、地方有力者の造像であることが分るのも、研究上の好資料となる。

7 北宇和郡三間町

 仏木寺 大日如来坐像

 三間町則に法灯を伝える仏木寺は四国八十八か所四二番の札所で、真言宗の古寺としてしられる。寺伝によれば、弘法大師が当山に一宿したときに傍らの楠に金剛界の大日如来像を刻んだのが、仏木寺の起こりといわれる。遠古のことはもとより明らかでないが、鎌倉時代には西園寺家の菩提寺となり、仁治四年(一二四三)堂宇造営、建長六年(一二五四)堂宇修理、文永八年(一二七一)鎮守社造営、建治二年(一二七六)弘法大師影堂造立など次々に伽藍の修造が行われ活気を呈した。
 さて現在本尊として安置される大日如来像をここに紹介せねばならない。坐高一一六・五㎝の智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で寄木造、彩色像である。寄木の大体を記すと、頭部と上半身は通しで、しかも前後に矧ぎ、内刳りを施すが、下腹部のあたりで前後に底板風のものをのこし、胎内を閉じるようになっている。また正面腹部下方に地付の枘を出して、上半身の重みを支えているのも注目される。膝部は一本の横木を矧ぎ、内刳りする。なお両手は肩、臂、手首などで寄せられる。
 眼は彫られるだけで、玉をいれない。頭上に八角の箱形の宝冠をいただくが、これは頭部より彫り出されたもので、上膊や手首に刻出された釧とならんで技法上古風をのこすといえよう。眉間の白毫は普通のような水晶でなく、木造の渦巻いたものとなる。
 古風といえば、台座と光背もまたそうである。台座は比較的簡単で低い裳懸座であるが、現在の形が完全なものであることには疑問がある。いったい裳懸座は上代に盛行したのだが、そののちも用例はときどきみられる。ことに当南予地方では、近世までかなり目立って行われているように思うから、仏木寺像にこれをみるのも、あえて異としない。次に光背は月輪をあらわす大形の円光で、径一六二㎝、六枚の板を竪に矧いだものだが、円周部はわずかに表に向って彎曲する。円光の表面は胡粉地とし、それに二重円光を彩画する。このような光背はまさしく板光背というべきで、平安時代に一部で流行した特色ゆたかな光背の流れをくむものとみられる。この点については、のちに重ねて考述したい。
 さて再び像自体にかえって、作風的見地から述べてみよう。顔はかなり異色があり、両眼を大きく開き、厚く大きな上下の唇をかたく結ぶ。その上、眉のカーブも誇張され、鼻の形も小鼻が開いて仏らしくないともいえる。総じてこの顔つきにはなまなましい人間を感じさせるものがあり、それと同時に一種の粗野な面貌であることも否定できない。おそらく、当像は地方作とみるべきで、そのことはまた、両肩にかかる天衣や左肩から右脇にさがる条帛などに刻まれるひだが、不恰好にもたつく点からもいえそうである。しかも同じ衣文であっても、漆部のそれは一見して鎌倉彫刻の本格的な刻出技法を示すもので、とくに裳の折返しともみられる部分は縁を特色ある波状風に刻んで、明かに宋風の影響を認めることができる。そういえば、なまなましい顔つきも鎌倉時代の像にはよくみるものだが、やはり宋風との関係をある程度考えるべきかもしれない。
 以上この像を鎌倉時代の地方作で、宋風の感化もすくなくないようにみたのだが、幸いにも私は当像に貴重な造像銘を発見した。それは胎内背面の地付近くに、次のような文字を墨書したものである。

  大願主僧栄金
  興法大師作仏之楠少々
     此中作入者也
      才次七月
  建治元年
      乙亥廿五日
  大日如来本尊始作
   大仏師東大寺流
       僧□

 これによれば、大日如来像は鎌倉中期の建治元年(一二七五)七月二五日より「大仏師東大寺流」の僧某によって作りはじめられたことが分る。上記したように、この年代のころは仏木寺の活気ある造営期であったようだから、当本尊の作られたのもうなずける。肝心の仏師名が虫損のために全く読めなくなっているのは残念であるが、「大仏師東大寺流」という特殊な肩書きをつげるのは既述の大乗寺地蔵菩薩像の作者と考えられる行慶の場合と全く一致する。しかも年次も、大乗寺像は弘安元年(一二七八)であるから、両者の間は三年のへだたりにすぎない。また両寺の地理的位置も遠く離れない。どうも両像の間には密接な関係があるのではないかと、私は考える。そこで作風について比較検討すると、とくに面相において三つの類似点を指摘することができる。第一は両尻がさがって誇張されたカーブをもって流れる眉(そのため瞼部が広くなる)の形、第二はその両眉から鼻梁にかけての線と愛嬌のある小鼻の発達、第三は一般の仏菩薩に比べれば大きく開いた眼、しかも眼の上下の線がコンケーブ状になること、以上の三点が両者に共通することはみのがせない。このように考察してくると、あるいは両像の作者は同一人物で、仏木寺像も行慶によって作られたのではなかろうかと推測したくなる。
 次に銘記には、この大日像造立の願主が僧栄金であることをしるす。この人の伝歴はよく分らないが、仏末寺の文書に次のような一通の下知状があることに注目される(『吉田古記』にも全文を引用する)。

  一民部坊之所可預知仏木寺院内堺事
    合左四至 東限船岫 南限小河堺 西限立間堺 北限横峯
  右件院内者、一向爲栄全沙汰、致上之御祈祷、重可勤仕国吏之御菩提、仍加下知之状如件
  寛元三年十月十三日 権律師宣俊(花押)

 この文書を私はまだ実見せず、ここにあげた文は『吉田古記』によったのだが、原物を調査された山口常助氏の話によれば、写しか偽文書の疑いもあるという。内容は仏木寺の四至を確認し、栄全の沙汰として上の御祈祷を致し、国吏の御菩提を勤仕すべきことを下知したもので、寛元三年(一二四五)一〇月一三日に権律師宣俊より出されている。問題はここに出る栄全であって、仏木寺の僧とみられ、また寛元三年は造像銘の建治元年より三〇年前にあたるから、この人あるいは銘記に書かれる願主の栄金と関係あるかもしれない。一つの考え方として、文書の「栄全」は「栄金」の誤読あるいは誤写で、両者は実は同一人物であるともいえよう。もっとも文書それ自体に疑問もあるのだから、まだ結論を出す段階ではないが、いちおう注目しておく必要がある。
 なお造像銘によれば、大日如来像のなかに興(弘)法大師作仏の楠をすこしいれたとある。これはすでに述べた仏末寺縁起に関係するもので、その方面からみて興味がある。この楠は像の胎内に現存するかどうか、まだ確認していない。(一四五~六頁参照)
 最後に再び板光背について述べておきたい。この大日像に見事な円形の板光背を使用していることはすでに記した。板光背とは、文字どおり数枚の板を寄せて光背の形を作り、その表面に彩色文様を画いたものである。それが流行したのは、藤原時代およびその前後の時期で、地域的には主として西日本で行われ、なかでも奈良地方は圧倒的に多い。(久野健「板光背像について」美術研究一九九、一九五八年)おそらく奈良地方に板光背の発現を求める
こともできるようで、その意味で、初発性の強い室生寺金堂の現存板光背は最も注目すべきものである。(毛利久「室生寺金堂伝釈迦像の性格」史窓二〇、一九六二年)四国では、これまでに徳島、高知の両県に板光背の存在がしられていたが、愛媛県にもこのような例のあることが分ったわけである。ことに仏木寺像が東大寺流の仏師によって作られているのは、板光背と奈良地方との密接な関係から考えて、興味をひかれるところでもある。

8 宇和島市

 潮音寺 地蔵龍樹両菩薩坐像

 さきに梅之堂の阿弥陀三尊像について記述した際に、『宇和旧記』の記事をあげて、江戸時代に当三尊像が等覚寺に、「地蔵、龍神二体」が潮音寺に移されていたことを述べた。三尊像は明治になってもとの「梅之堂」へ返されたのだが、他の二体は実はそのまま潮音寺に留められて後世に至っている(現、文化庁蔵)。この寺は宇和島市野川にある臨済宗の寺で、境内の観音堂に千手観音像をまつり、その両脇に右の二像を安置する。『宇和旧記』には「地蔵、龍神」とあるが一般的に阿弥陀三尊に随従するのは地蔵と龍樹の両菩薩であるから「龍神」は龍樹の誤りに違いない。
 まず地蔵菩薩は高さ七四・三㎝の坐像で、寄木造り、漆箔、彫眼となる。両手の臂をまげて、右手は掌を表にして第一指と第二指を捻じ、左手に宝珠をささげる。腹部に裳の結び目があらわれるのも注目される。像の構造は、頭部を前後に矧いで首を押しこみ、体幹部は前後と左右に寄せ、別に膝前を横に矧ぐ、全体にかなりの破損や修理が目立ち、右手先、持物、漆箔、胸の聯路、光背、台座などはすべて後補となる。なお近世のものだが、腹部の裏面に次のような墨書がみられる。

  地蔵菩薩
  祈湏田隼人室之延
  命厳飾之仰冀信
  女寿山益聳福海弥
  深病悩永断諸縁吉
  利
    老母妙覚敬白
   貞享甲子孟秋吉旦
        関龍筆

 これは老母の妙覚が、女にあたる湏田隼人の室の延命を地蔵菩薩に祈る願文である。年紀の貞享元年(一六八四)七月は、「梅之堂」の阿弥陀像を修理した天和三年の翌年にあたり、しかも執筆僧の関龍は、阿弥陀像の修理銘にも出る等覚寺の住持であったから、やはりこのときに地蔵像(おそらく龍樹像も同様)も修理されたのであろう。しかも、このような銘文を書くためには、その位置から考えて、おそらく解体修理であったとも推測される。
 次に龍樹菩薩坐像は高さ七七㎝で、合掌の姿、やはり裳紐の結び目を腹部に見せる。漆箔、彫眼、寄木造で、頭部を前後に矧ぎ、首は挿しこみ、体部は前後と両側各二部分を寄せ、膝部を横に矧ぐ。漆箔、両手先、胸の瓔珞、光背、台座などは後世の補作で、破損も多い。しかし前記の地蔵像とともに、作風は梅之堂の阿弥陀如来と勢至菩薩の両像に似ており、これらがもともと藤原末期作の一具像であったことに疑いない。地方には珍しい、洗練された都風の彫像である。
 さて潮音寺の地蔵・龍樹両菩薩像が、もとは梅之堂の阿弥陀如来、観音・勢至両菩薩像と一具となっていたことが明らかになった。かような阿弥陀五尊は浄土教の発達と結びついて平安時代以来行われたらしく、文献の上に散見し、また絵画遺品のなかにもみいだされるが、彫像の実例はきわめて乏しい。現在の私の知見では、右の梅之堂、潮音寺の像が唯一のものではないかと思う。その点、これらの像の仏教史的、美術史的価値は絶大であることを認識すべきでその詳細は第三節に述べてあるので、参照していただきたい。

 八幡神社 散手面

 宇和島市伊吹町に鎮座する八幡神社は当地屈指の古社で、社頭に二本の伊吹の老木があるところから、俗に伊吹八幡の名で親しまれている。慶長一二年(一六〇七)には藤堂高虎が社殿を造営し、その棟札、あるいはそのとき寄進した絵馬三面(松鷹図、弁慶図、牛若丸図)も現存している。
 さて当社に珍しい散手の舞楽面が伝存する。竪二三㎝、横一五・五㎝、桐材らしく、虫害もはなはだしいが、布張り漆地の本格的な彩色を施す。一般に散手面は勇壮な武人面で、冠をつけ、剣をおび、鉾をもって舞われる。それには二つの型がある。一つは最勝四天王院にあったものの系統であり、東大寺に現存する面は承元元年(一二〇七)に写されたもので、顔が細長く、鼻が太く隆く、口を閉じる。他の一つは元興寺系で、寿永三年(一一八四)の写しが春日大社にあり、顔は横に張り、ロをすこし開けるのが特色である。それからいえば八幡神社面は明らかに前者の方に属する。満面朱色を塗り、眼には金箔をおき、鼻下と顎には植毛の痕跡もあり、勇武に満ちた表情となる。面裏はやはり布を張って、黒漆をかけ、その上に次のような文字を朱漆で書いている。消えて読めないところもあるが、貴重な資料である。

  八幡太神宮/散手面/嘉元三年乙巳九月□□/□/□□□/□□/□□□

 右によれば、これは当社の散手面で、鎌倉後期の嘉元三年(一三〇五)九月に作られたらしいことが分る。作域をみるに、地方臭はほとんど感じられない本格作品で、従来知られた厳島神社、春日大社、東大寺、手向山神社、真清田神社、誉田神社などの散手古面につぐ、注目すべき作例といわねばならない。(一四九~五〇頁参照)

9 北宇和郡津島町

 満願寺 薬師如来坐像

 満願寺は津島町岩淵にある臨済宗の寺であるが、もとは相当な模をもった真言寺院であったといわれる。その薬師堂に安置するのが当像である。像高一〇二・五㎝、彫眼、頭体部は前後に寄せ、膝部を別矧ぎにし、内刳りを施すらしいが、後世像底に板を張り、また像全体を黒く塗っているのは見苦しい。
 形姿はすこぶる異色があり、興味をひかれる。頭部に刻出される螺髪はかなりととのったものだが、肉髻の形が丸く高く隆起するのが目をひく。体部は正面からみれば肩が張り、両膝を大きく開いて安定感を与えているが、側面に廻ってみると、上半身がいちじるしく扁平になっているのに注目される。しかしおそらくこれは、用材の大きさに制約されたのであって、むしろたとえば右手や膝部がゆったりと前方へ出されている点に、当像造形の真髄があるものと思う。顔の作りもまた特徴があり、一見かなりおだやかな丸顔であるが、鼻は短小で、口がとがり、やや複雑な表情となる。
 以上指摘したような特徴をもつ当像には明らかに地方色が濃い。しかもその製作期は藤原時代にまでさかのぼってもよいとみられ、そのころにおける当地方の彫像の実態を示す点で重視されよう。部分的にはかなり古い造形的要素ものこすが、造立の実年代は藤原時代も相当進んだころであったと考えられる。たとえば高知県豊楽寺の釈迦如来像は、作風に藤原前期様の古風がありながら、実際は末期の仁平元年(一一五一)の作であることが銘記によって分る。満願寺像にもほぼ同様な事情を考えてよいであろうし、これが地方造像の実情でもある。

 八幡神社 童形神立像

 当社は津島町高田にあるので高田八幡とよばれ、鎌倉末期の正和二年(一三一三)に再興され、天文一三年(一五四四)越智通孝の発願で再建、さらに天正一〇年(一五八二)越智通顕の手で造営されたことなどが棟札銘によって分る。なおまた当社には古文書数通を蔵し、その最も古いものは徳治二年(一三〇七)九月一一日付の右馬助三善朝臣八幡神田寄進状である。とにかく当地方には類少ない古社であり、一説には八条院領の高田社をこの八幡神社にあてるものもある程である。当社の本殿内に安置する童形神像は最も注目されるもので高さ一〇一・五㎝、一木造り、がんらい彩色されていたらしいが、いまはすっかり剥落する。頭髪はみずらに結い、その先を両側に長く垂らす。身には袴に袍を着た上に背子をまとい、沓をはいた両足を開いて立つ。両手は臂をまげるが、ともに手首より先を欠失するのは惜しい。顔は頬が張り、額は広く、無邪気な表情となるが、細部の技巧を述べると、ロをすこし開けて、両頬にはえくぼを刻み、眼の瞳も浅く凹められる。このように、面部にはかなり細部の神経を使っているのに対して、体部の着衣に彫法は簡潔で、しかも要を得た的確さを示す。制作期は鎌倉後期より降るものではなく、その童形ながらも威厳のある風姿の表現は賞すべきである。当像は一見聖徳太子像を思わせるところもあるが、神像としてはかなり珍しい姿といえよう。
 なお当社には、おそらく八幡三所をあらわすと思われる僧形、女形、俗男形の三神像をまつるが、虫害破損が目立ち、時代も室町に降るであろう。また一面の獅子頭もありかなりの古作とみられる。(一五二~三頁参照)

 通正寺 十一面観音立像

 通正寺は津島町山財にある。ここは当地方と宇和島方面を結ぶ旧道の入口にあたり、昔は交通の要衝でもあった。しかしいまは臨済宗の小庵にすぎない。
 さて本尊の十一面観音立像は高さ八七㎝、一木彫成、もと彩色されていたらしいが、現状は全体黒色を呈する。相当徹底した一木造で、両足や天衣はもちろん、頭上の化仏まですべて本体から彫出されている。体躯に比して頭部を大きく作るのも、平安時代の一木彫り檀像様彫刻にときどきみる古い形態である。しかし当像は顔も長目となる上に人間味を加え、鎌倉末期よりさかのぼる作ではなかろう。衣文をはじめとして、全体的に彫技は稚拙であり、おそらく古風をかなりのこす地方の作品とみて誤りなかろう。両手先、左右に垂れる天衣、持物、宝冠、曖路などはすべて後補である。