データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 愛媛県指定有形文化財の彫刻

 銅造如来立像 一躯 愛媛県指定文化財 周桑郡丹原町古田 興隆寺蔵

 西山川の上流の西山の山腹にある興隆寺は、真言宗醍醐派の別格本山で、寺伝では平安時代の開基といわれている。
 この銅造如来立像は、像高二五・四㎝、金厚一~〇・四㎝、通肩の衲衣をつけ、胸前には下着の襟と腰紐の結び目をあらわし、左手は掌を前にして下げ、第五指を曲げて他指は伸ばし、右手は掌を前にして立て、五指を伸ばして直立している。
 像の鋳造には、ろう型を用いて全身を同鋳しており、金厚は薄手でほぼ平均し、鋳造の技法は巧みである。鍍金には火による損傷が目立っているが、面相や胸前の肉身部に一部残っており、衣文などの意匠は、金銅仏の中でもよく古式の特色を示している。手慣れた技法、平明で温雅な表現などから製作は奈良時代とみられる。

 金銅誕生仏立像 一躯 愛媛県指定文化財 北条市善応寺 善応寺蔵

 北条市善応寺は、高縄山のはるか西麓の三方を山に囲まれ西が開けた要害の地にある。その地名は、建武年間(一三三四~三八)に河野通盛が造営した善応寺に由来する。
 この金銅誕生仏立像は、像高一〇・三㎝、鋳銅製、鍍金、上体はややそり身に上半身裸形で下半身に裳を着け、右手は斜め上方に左手はまっすぐ下に伸ばした像である。
 像は、大正一二~一三年ころ、善応寺付近の丘陵で土砂採取中に発見されたといわれ、前額部、鼻、右手先及び背面頭部に損傷があるが、厚手の鍍金がほぼ全面に残っている。小形の像であるが、まろやかな顔の形や腰裳の形、全体のプロポーションなどから、製作は奈良時代後期とみられ、大陸風の感じを受けるのも興味深い。

 銅造誕生釈迦仏立像 一躯 愛媛県指定文化財 南宇和郡御荘町平城 石野瑞木蔵(北宇和郡津島町高田 岡村美鈴保管)

 この像は、昭和一〇年ごろ、南宇和郡御荘町平城の山王社付近から出土したものといわれている。
 像高七㎝、上方にあげる右手の大半を失い、また両足は裳の下方の一部を残して欠失し、鍍金は全く見当たらない。大ぶりの面相に微笑をうかべ、裳にいかにも図式的な衣襞をたたんだ古式の誕生仏で、右手先や衣文には塹仕上げのあとが明瞭に認められる。製作は奈良時代も早いころとみられる。

 木造十一面観音立像 一躯 愛媛県指定文化財 川之江市金田町 三角寺蔵

 三角寺は、川之江市南部の三角寺八反地にある。高野山真言宗の寺で、四国八十八か所の六五番札所である。
 本尊の十一面観音立像は、像高一六八㎝、ヒノキ材、一木造で、内刳りはなく、髪部は墨彩し、天冠台下の地髪部分のみ緑青彩、他は漆箔が施されている。地髪の一部、裳先の衣端、両足先に若干の損傷があるが、衣文などはほぼ造像当時のものを残している。
 像容は古像らしく優れてたくましい姿を示し、強い衣文の刻み、裳の折返しの部分の古い形式などから、製作は一〇世紀も早いころのものとみられる。

 木造薬師如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 新居浜市高木町 河内寺蔵

 河内寺のある高木町付近は、その昔河内村といい、その後金子村と改められた地である。真言宗善通寺派の寺で、境内からは飛鳥時代の布目瓦が多数発見され、五重塔のものとみえる礎石が一三個残っており、このあたりが古代の寺院跡と推定されている。
 本尊の薬師如来坐像は、像高九一・五㎝、臂張り五四・二㎝、膝張り七〇・三㎝、一木造、彫眼の坐像で、切付螺髪、肉髻高く、両眼は細く長く、結んだ口もとは強い力がこもっている。面相は豊満で密教特有の威厳に満ち、右肩より左脇下に流れる衣文は、古い一木造によくみられる粗豪さがあり、右手と薬つぼを持った左手は、後補のものと思われるが比較的調和が保たれている。
 昭和四一年に修理の際、阿弥陀経の印本が発見されたが、寛文八年(一六六八)の墨書があり、修理のとき納められたものと思われる。膝前の衲衣には翻波式の彫法が見られるが、全体的には地方色の強い粗豪な作品であり、製作は平安時代もかなり古く、一〇世紀末から一一世紀ころとみられる。

 木造大日如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 周桑郡小松町石鎚 横峰寺蔵

 横峰寺は、石鎚山の西北部、西条市の境に接する深山にあり、真言宗御室派に属し、四国八十八か所の六〇番札所である。
 本尊の大日如来坐像は、像高九三・五㎝、ヒノキ材、寄木造で漆箔、彫眼を施し、智拳印を結ぶ坐像である。
 作風は総体的に都風で、裳の折返一段、それに重ねて膝を彫り出しているのも周到な作技として注目される。おだやかな表情の藤原様式の佳作であり、製作は平安時代末期とみられる。

 木造薬師如来坐像 二躯 愛媛県指定文化財 東予市北条字福王院 金性寺蔵

 壬生川駅の南東約二㎞の国鉄予讃本線東側水田地帯に高野山真言宗の金性寺があり、二躯の薬師如来像が伝わっている。
 二躯の像は、共にヒノキ材、寄木造、彫眼、布ばりサビ下地の漆箔像である。
 その一躯は、像高一三九・二㎝と大きく、他の一躯は像高八七㎝、面相や膝前の衣文の特色が似通っていて、おそらく同一の作者の手になるものと思われる。材は厚手で堅固な構造を示しているが、製作は一一世紀末ころとみられる。如来坐像として、殊に大きい方の像は注目されるが、その作技にはやはり地方風が顕著である。

 木造阿弥陀如来立像 一躯 木造聖観音菩薩立像 一躯
 愛媛県指定文化財 北条市高田 光徳院蔵

 光徳院は、高縄山の西麓にある。嘉元元年(一三〇三)僧尊竜により開基され、最盛期には脇坊一二か寺、末寺五七か寺を数えたといわれる。
 本尊の阿弥陀如来立像は、像高一五七・五㎝、ヒノキ材の一木造である。わずかに力ーブを描く切れ長の目、力強く結んだ厚い口元など神秘的で、豊満な両肩からあらわな胸の両側に流れる衣文は腹部に集まり、平行線上に流れ落ち、両股の豊かな肉づきを官能的にあらわしている。翻波式彫法を見事にこなした密教的な貞観風の手法で、平安も早いころの作と思われる。
 聖観音菩薩立像は、像高一六五・五㎝、一木造で、各部に後補のあとがみられるが、大ぶりの髻や翻波式の刀法など古風な技法を示している。現在は十一面観音の姿となっているが、髻の形を見ると聖観音として造立されたものであろう。製作は一〇世紀と思われる。

 木造毘沙門天立像 一躯 愛媛県指定文化財 北条市庄 庄地区蔵

 毘沙門天立像は、像高一八二㎝、カヤ材の一木造で、高さ三八㎝の地天の掌に、豊かな腰をやや左にふって立っている姿には迫力が感じられる。現在両腕を失っているが、全体の像容はむしろおだやかで、緻密な作技を示すものではないが、一木造らしい堂々とした重厚さがあり、一〇世紀から一一世紀ころの作風がうかがわれる。

 木造千手観音立像 一躯 愛媛県指定文化財 北条市米之野 高縄寺蔵

 高縄山の頂上に近い平坦地に高縄寺がある。寺伝によれば創建当時は横谷にあったが、天文元年(一五二二)四月に河野通宣が現在の地に移したといわれる。寺は古くから河野氏の主要な防衛拠点の地にあり、高縄城と運命を共にしてきた。今は真言宗の寺である。
 本尊の千手観音立像は、像高一四七・三㎝、ヒノキ材、一木造、彫眼、頭上に髻頂仏面を頂き、一一面、四二臂の像である。
 像は、昭和五二年度に京都の美術院で修理され、持物を除いておおむね原形に復しており、当初の面影をよく残している。頭部の形、衣文の形態、両膝前の二重の天衣や全体のプロポーションなど、地方色が顕著であり、製作は平安時代後期とみられる。

 木造十一面観音立像 一躯 愛媛県指定文化財 松山市久保田町 安楽寺蔵

 安楽寺は、真言宗智山派の寺で、履脱天満神社と同じ敷地にある。
 この十一面観音立像は、像高一六四㎝、カヤ材の一木造である。背面は襟下から裾にわたって背板(後補)をはぎつけ、体部には内刳りが施され、左手の肘から右手首まで本体と共木でつくられている。
 現在の姿は、頭上諸面をつけ十一面観音の姿となっているが、大ぶりの古様な髻には、頭上面を植え付けるべき工大が認められないことから、元来は聖観音像であったものと思われる。各所に虫害による傷みがあり、原状を損なっているが、像容はいかにも堂々とした趣があり、像容にも、衣文の意匠にも手慣れた技法を示している。製作は一〇世紀ころとみられ、伊予の平安時代の作品として注目される。

 木造聖観音菩薩立像 一躯 愛媛県指定文化財 温泉郡重信町山之内 福見寺蔵

 福見寺は、福見山頂から南西にやや下ったところに奥院があり、それより南へ重信川沿いまで下った岡という地に本坊がある。真言宗豊山派の寺で、岡に本坊が造営されたのは大同二年(八〇七)といわれる。
 奥院に安置された本尊の聖観音菩薩立像は、像高一六一㎝、ヒノキ材、一木造で、全身に漆箔のあとと下半身には色彩のあとが見られる。頭頂部から足下、両腕まで一木でつくられ、両手首より先は欠損しているが、これは別材で矧ぎつけていたものである。
 頭部の毛髪を荒目に彫り、宝髻はあまり高くなく結び、眉の末端が強く上り、半眼に開いた眼や、しまった口元は密教の本尊によくみかける古様を示している。
 豊満な両肩より両脇下に流れる天衣は、下腹部と両膝前を二重にゆったりと曲線を描き、右肩より右脇下にかかる綬帯は、自然なふくらみをみせた腹部を斜めに覆い、両股に平行線上に流れる衣文は、官能的な美しさを表現している。
 側面よりみても、奥行のあるしっかりとした技法は迫力があり、都風の洗練された感じがあって、地方色著しい当時の彫刻としては異色である。製作は平安時代後期とみられる。

 木造釈迦如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 喜多郡長浜町豊茂 出石寺蔵

 出石寺は、大洲と八幡浜との境に近い出石山の頂上にあり、金山と号する真言宗御室派の別格本山である。寺の由緒書きによれば、養老二年(七一八)に一猟師が山中から涌出した千手観音像を祀ったのが寺の始めといわれる。
 この釈迦如来坐像は、像高八七・五㎝、ヒノキ材、寄木造、漆箔、玉眼で、普通の釈迦如来像と異なり、頭部の螺髪は縄状で、衣文は首から下をほとんど覆っている。京都清涼寺の釈迦如来像と同様に、中国・宋の様式をとったいわゆる清涼寺式の像であるが、両手先、裳先を後補するほかは概して保存はよい。
 県内では玉川町宝蔵寺の釈迦如来立像と同形式であるが、この像は坐像であり、いわゆる清涼寺式の像を坐像につくる特殊な作例である。

 木造兜践毘沙門天立像 一躯 愛媛県指定文化財
 木造吉祥天立像    一躯 大洲市手成 金龍寺蔵

 金龍寺は、肱川をさかのぼることおよそ八㎞、米津の北方高地の手成にある。無住の寺は地元の人々にみまもられ、折々の集会の場などともなっている。
 この寺の兜跋毘沙門天立像は、右手を上方にあげ、左手は下げて腰脇に構え、形のごとく地天の両掌の上に立っており、地天を含め像高一七二・八㎝、ハルニレ材と思われる材を用いた一木造で、右手首より先と左前O部より先及び持物が欠けている。
 像は、両腕、地天まですべて一材から木取りされ、大きくみひらいた両眼を刻み、太づくりのあらあらしい刀技のもので、地方作らしい粗豪さに独特の力強さを示している。像容は古風にみえるが、製作は一〇~一一世紀ころのものと思われる。
 また、木造吉祥天立像は、像高一六〇㎝、ヒノキ材、一木造で、両袖先までを共木でつくり内刳りを施さず、両肩前に太い垂髪を垂らしているが、両手は欠失している。面相や衣文の刀法は温雅でよく調和を保ち、像容も整っており、古風であるが、製作は一一世紀に入ったころとみられる。地方作風の顕著な作例である。

 木造薬師如来立像 一躯 愛媛県指定文化財 宇和島市薬師谷 薬師谷自治会蔵

 鬼ヶ城山と権現山を源流とする薬師谷川の渓谷に、薬師谷地区がある。
 この薬師如来立像は、今は廃寺となった東光寺の本尊であったもので、現在は地区の集会所前の堂に安置されている。像高は、一五〇・二㎝、ケヤキ材、一木造で、背面に背刳りがある。丸くて高い肉髻、先のとがった螺髪、浅くはあるが鎬を立てて彫られている下半身の衣文などに特徴かあり、平安時代後期の作とみられる。保存の状態も良く地方作として興味深い。

 木造観世音菩薩坐像 一躯 愛媛県指定文化財
 木造薬師如来坐像  一躯 北宇和郡津島町岩淵 満願寺蔵

 津島町のほぼ中央部で、増穂川が岩松川に合流する地、岩淵の南側山麓に満願寺がある。本尊は薬師如来で、臨済宗妙心寺派の寺は、かつては真言宗であったともいわれる。
 この寺の観世音菩薩坐像は、像高九〇㎝、一木造の古風な構造のもので、内刳りを施して背板を矧ぎ、粗豪な作風を示している。像容もあまり整わず、それだけに地方色豊かで、へき遠の地の作例として興味深いものがある。製作は平安時代中ごろとみられる。
 本尊の薬師如来坐像は、像高一〇二・五㎝、一木造の古風な構造のもので、頭、体部を通じて前後二材を寄せ、首枘を設けず、粗豪な作風のものである。丸顔で鼻は短く、ロをとがらした奇異な表情をもっており、地方色豊かな作例として興味深い。製作は平安時代中ごろとみられる。

 木造釈迦如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 松山市下伊台町 西法寺蔵

 この像は薄墨桜で知られた西法寺にある。寺は延暦年間(七八二~八〇六)の創建と伝えられ、盛運を誇ったが、その後たび重なる火災にあい、江戸時代の中ごろに現在地に移ったという。
 釈迦如来坐像は、像高六三・六㎝、坐張り七一・二㎝、肩幅四八・五㎝、彫眼の像である。面相は豊かな表情をたたえ、全体の容姿はよく均整がとれ、頭部の形や螺髪に古い手法がみられるが、衣文の刀法などから鎌倉時代中期の作とみられる。寺伝によれば、伊予国守護の河野通有の寄進といわれている。

 木造阿弥陀三尊像のうち両脇侍立像 二躯 愛媛県指定文化財 松山市和気町一丁目 円明寺蔵

 円明寺は、松山平野の北西端の和気町にあり、真言宗智山派に属し、四国八十八か所の五三番札所である。
 円明寺の阿弥陀三尊像は、そのうち中尊の阿弥陀如来坐像は後世の補作のもので、両脇侍像の観音菩薩立像と勢至菩薩立像が県指定の有形文化財となっている。
 像高は観音菩薩立像六〇・二㎝、勢至菩薩立像六〇・六㎝、寄木造で玉眼を入れ、髪部は群青彩、肉身と裳は漆箔を施している。作技はこまやかで、肉髻の形や装飾味のある衣装など都風の像容である。像内に遺髪を納め、その包紙に建長二年(一二五〇)の墨書がある。像の製作もそのころとみられる。

 木造阿弥陀如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 松山市浄瑠璃町 八坂寺蔵

 八坂寺本尊の阿弥陀如来坐像である。寺は、砥部町に近い浄瑠璃町にあり、真言宗醍醐派に属し、四国八十八か所の四七番札所である。
 この像は、上品下生印を結ぶ阿弥陀如来坐像で、像高八〇㎝の寄木造である。粒の粗い螺髪や低い肉髻、髪際のゆるい波形、面相の張りのある引き締ったさま、深い衣文の彫法など、鎌倉時代から南北朝も早いころの特色が顕著で、当時の代表的な作例といえる。

 木造金剛力士立像 二躯 愛媛県指定文化財 松山市石手二丁目 石手寺蔵

 石手寺の金剛力士像は、国宝の二王門にあり、数多いこの寺の文化財の中で訪れる人々が最初に目にする彫像である。
 石手寺は、寺伝によると神亀五年(七二八)の創建といわれ、真言宗豊山派に属する四国八十八か所の五一番札所である。
 金剛力士像は、太造りの堂々たる像で、像高は口をあけた形の阿形の方が二五三・五㎝、口を閉じた形の吽形の方は二五一㎝である。鎌倉後期の普通の形のものであるが、筋骨たくましい表現はなかなか的確で、このころの彫像としては佳品といえよう。風雨にさらされることの多い像としては、よく完形を保っており、製作の時代は一三世紀後半も早いころとみられる。

 木造不動明王及び二童子立像 三躯 愛媛県指定文化財 松山市 石手寺蔵

 この三像は石手寺の護摩堂(国指定重要文化財)に安置されている。
 中尊の不動明王は像高五一・八㎝、二童子が二七㎝と二七・六㎝の三尊一具で、いずれも一木造である。中尊の巻髪の強い彫り口といい、天地眼を刻む面相の的確なかたどり、衣文の深い刀法など美しい作である。二童子のかわいい肉づきの童顔はこころにくいまでである。
 銘記はないが、鎌倉時代中期の巧技を今日によく伝えている。

 木造天人面  二面 愛媛県指定文化財
 木造菩薩面 二四面 松山市 石手寺蔵

 石手寺に伝わる行道面は二十数面を数えるが、そのうち童子風の天人面が二面ある。やや小ぶりでいじらしい様子の童顔がすばらしい。製作は鎌倉時代末ころとみられる。
 また、木造菩薩面二四面は、すべてが同じ時代に作られたものではなく、いずれも製作を明らかにする銘記もないが、そのうち古いもの数例は、鎌倉時代末期の作とみられる。古例の整った大ぶりの面相は注目すべきものがある。

 木造獅子頭 二面 愛媛県指定文化財 松山市 石手寺蔵

 獅子は悪魔を払うものとして庶民の生活の中に生きてきた。石手寺でも鎌倉時代のころから菩薩面をかむったり、獅子舞をしたりして行列する練り供養が始まったといわれる。
 この獅子頭は、松材を用いた大ぶりのもので、前後四七~四八㎝、高さ三〇~三二㎝余りで、彫技は的確、鎌倉時代末から南北朝ころの作と思われる。

 木造阿弥陀如来及び両脇侍立像 三躯 愛媛県指定文化財 喜多郡五十崎町古田 宗光寺蔵

 五十崎町と大洲市の境に神南山がそびえ、その東山麓から低地にかかる古田の地に、曹洞宗の宗光寺がある。
 この宗光寺の阿弥陀如来及び両脇侍立像は、中尊が像高九六・八㎝、左脇侍(向かって右)の観音菩薩立像が像高五五・五㎝、右脇侍の勢至菩薩立像が像高六四㎝である。
 中尊は来迎印を結び、衲衣に袈裟をかけて立ち、両脇侍は共に上体を前に傾け、観音菩薩は前方に出した両掌に蓮華を捧げ、勢至菩薩は合掌して立ついわゆる来迎型の弥陀三尊像である。
 この三像は、いずれも損傷と後補の箇所が目立っているが、その作技はなかなか見事なものであり、ことに中尊は、張りのあるみずみずしい肉どりを示す面相に、衲衣の衣文も巧みに整え快慶風の特色が顕著である。的確な作技の快慶風の来迎弥陀三尊像として注目される作例であり、製作は鎌倉時代も早いころと思われる。

 木造地蔵菩薩立像 一躯 愛媛県指定文化財 大洲市柚木 如法寺蔵

 如法寺は、大洲盆地の中央部、肱川右岸の冨士山の中腹にある。臨済宗妙心寺派のこの寺は、大洲二代藩主加藤泰興が寛文九年(一六六九)、盤珪禅師を開山として創建したものである。
 境内の地蔵堂に安置された地蔵菩薩立像は像高一六ニ・五㎝、等身大で、頭部、体部を通じ前面二材、背面を一材で造り、両肩をはいで体の両側部を寄せ、両手先、沓先をはぎ合わせている。ほとんど内刳りを施さず、足枘に建治二年(一二七八)法橋興慶の造立銘がある。
 越智郡玉川町宝蔵寺の木造釈迦如来立像を製作した仏師と同じ仏師とみられる。

 木造阿弥陀如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 東宇和郡宇和町小野田 極楽寺蔵

 極楽寺は、宇和盆地の西部、宇和川支流の根笹川に沿った谷間の小野田にある。今は観音堂だけとなった無住の寺は、地元小野田の人々によってみまもられている。
 この阿弥陀如来坐像は、像高八七㎝、寄木造で、本体にも台座の蓮華座にもほとんど欠損はなく、着色されていることのほかはよく原形を保っており、光背も一部欠損しているが、なお原形を残している。面相は豊麗で全体の均整もよくとれた坐像である。製作は鎌倉時代中期とみられる。

 木造大日如来坐像 一躯 愛媛県指定文化財 北宇和郡三間町則 仏木寺蔵

 三間盆地西北隅の則にある仏木寺は、真言宗御室派の寺で四国八十八か所の四二番札所である。
 本尊の大日如来坐像は、宝冠を頂き、智拳印を結ぶ金剛界大日如来像で、像高一二〇・二㎝、膝張り九二・〇㎝、カヤ材、一木造の構造であるが、頭、体部を通じて前後二材を寄せている。地髪はまばらに毛筋を刻み、本体の肉身や裳の各所に丸刀の刀痕を残し、仕上げはすこぶる粗放なもので、背面には大ぶりの円形光背がある。
 総じて地方作風の顕著なものであるが、鎌倉時代中ごろの伊予の地方風を知る好個の作例であろう。
 像の背面地付近に、「大願主僧栄金 興法大師作佛之楠少々 此中作入タル也 建治元年才次七月乙卯廿五日大日如来本尊始作 大佛師東大寺流 僧□□」の墨書があり、建治元年(一二七五)の作のものと知られる。

 木造弘法大師坐像 一躯 愛媛県指定文化財 北宇和郡三間町則 仏木寺蔵

 仏木寺には、本尊の大日如来坐像のほか弘法大師坐像がある。
 この像は、像高八七・五㎝、ヒノキ材、寄木造で、内刳りを施し、衲衣の上に袈裟をかけ、念珠を持った左手は左膝上に、右手は右胸前にあげて五鈷杵を持つ。胎内仏が三躯ある。
 像容は、面奥も深く鎌倉彫刻らしく意欲的なものがあるが、体部をまとう衲衣や袈裟と頭部のつり合いや膝のあたりの彫りに不自然さがあり、いわゆる都風とは異なった地方色の顕著なものとなっている。
 心束正面に「奉造営弘法大師御影像 正聖年十月五日御開……」(一三一五年)、心束左側面に「大願主僧賢信啓白 □□□大佛師三位法橋行継」の墨書銘があり、鎌倉時代後期の作と知れる。像の美術的価値もさることながら、四国霊場の大師信仰を裏付けるものとして意義深いものがある。

 木造御神像 三躯 愛媛県指定文化財 越智郡玉川町八幡 石清水八幡神社蔵

 石清水八幡神社は、八幡山の山頂にあり、貞観元年(八五九)越智深躬の勧請と伝えられる。境内の一部には平安時代以前とされる祭祀跡がある。
 この神社に伝わる神像三躯は、その一が像高八九㎝、その二が七二㎝、その三が六五㎝で、いずれもヒノキ材、一木造の坐像である。言い伝えによると、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇の像といわれ、銘文等の記録はないが、いずれも鎌倉時代も早いころの作とみられる。県内に数少ない神像彫刻である。

 木造御神像 五躯 愛媛県指定文化財 西宇和郡保内町宮内 三島神社蔵

 保内町宮内の三島神社は、古くは中島三島神社、保内入船明神と称したと伝えられ、宝亀五年(七七四)宇和郡司により創建されたといわれる。神社には七躯の神像が伝えられ、そのうち傷みのはげしい二躯を除いた五躯が県指定の有形文化財となっている。
 この五躯の神像は、像高三〇・九~三六・七㎝、ヒノキ材、丸彫りの像で、いずれも巾子冠を頂き、袍や狩衣をつけている。眉を寄せてロをへの字に結び、あるいは上歯をむき出したもの、口をわずかに開いて笑みを浮かべるもの、口をつぐんでとぼけた味わいのもの、謹直な表情を示すものなど、それぞれの表情と姿態の変化はいかにもおもしろく、その表情はまことに手慣れて巧みなものがある。製作は鎌倉時代後期ころとみられる。

 木造舞楽面 一面 愛媛県指定文化財 宇和島市伊吹町 八幡神社蔵

 須賀川中流の八幡河原の近くに、伊吹八幡と呼ばれる神社があり、一面の舞楽面が伝えられている。
 この舞楽面は、散手面という武人面で、縦二三・一㎝、横一五・七㎝、厚さ二一・六㎝である。キリ材を用い、面表は布ばり黒漆、下地に朱漆を塗り、眼は箔押し、面裏は黒漆塗りとし、朱漆で「嘉元三年乙九月□□」言霊年)の銘がある。
 鎌倉時代末期の舞楽面として貴重な作例であり、昭和五六年には保存のための修理が施された。

 木造文殊菩薩坐像 一躯 愛媛県指定文化財 
 木造大蟲禅師坐像 一躯 北条市八反地 宗昌寺蔵

 宗昌寺は、元弘元年(一三三一)大蟲宗岑を開山として創建されたといわれ、今は黄檗宗の寺である。
 本尊の文殊菩薩坐像は、像高八一㎝、台座高五七・五㎝、ヒノキ材の寄木造で、衣文は複雑な写実性を示している。室町時代の作と思われるが、作風にはしっかりとした的確な手法が見られ、鎌倉時代の余風が残る一四世紀独特のものがある。
 顔面内刳り部に「願主保意 佛師 往持宗岑 法□康安壬寅 院什」
の墨書があり、造立の年と思われる康安二年(一三六二)は、よく作風の時期と一致している。また、本体裏には修理銘と思われる墨書もある。
 この像は、同じく宗昌寺にある大蟲禅師坐像、石造宝篋印塔とともに三者一体のものとし
て、当時の歴史を知る上で貴重なものである。
 一方、大轟禅師坐像は、元弘元年(一三三一)に宗昌寺を開山したといわれる大蟲禅師の肖像である。
 像は、頭頂部から裳裾まで一一五㎝、坐高七八・七㎝、ヒノキ材、寄木造で椅子に坐した姿である。本尊の文殊菩薩坐像とほぼ同じ時代につくられたものと思われ、しっかりとした的確な手法が見られる。
 頭部内刳りには「~□□□□辛□□」の朱書銘があり、辛の文字より康安元年辛丑(一三六一)と推定され、室町時代の早いころの作として興味深いものがある。

 木造大暁禅師座像 一躯 愛媛県指定文化財  北条市下難波 大通寺蔵

 腰折山の麓にある大通寺は、貞和年間(一三四五~五〇)に大暁禅師の開山と伝えられる。
 大暁禅師坐像は、像高六二・五㎝、頭頂部から裳裾まで八九・六㎝、ヒノキ材、内刳り、寄木造で椅子に坐している。全体的に丸刀で仕上げられた像は、近年修理されているが、当初の技法をしのぶことができる。
 作風は手慣れた手法であり、伊予国における肖像彫刻としては、小形ではあるが貴重なものといえよう。製作は南北朝時代とみられる。

 木造童形御神像 一躯 愛媛県指定文化財 北宇和郡津島町高田 八幡神社蔵

 八幡神社は、釈迦森山の南麓にあり、岩松川がその南を流れている。神社の由緒は古いが創建は明らかではない。
 この像は、像高一〇一・五㎝、カヤ材、一木造で、内刳りはない。髪はみずらに結い、その先を両肩の前に長く垂らし、袍衣をつけ、沓をはき、両足を開いて立っている。曲げた両臂の手首から先を失っているので、何の像か明らかではないが、額広く頬が張り、童形ながら威厳のある像容である。面相などの細部は確かめがたいが、製作は鎌倉時代末から南北朝ころとみられる。

 木造随身立像 二躯 愛媛県指定文化財 温泉郡川内町則之内 三島神社蔵

 この随身立像二躯は、川内町則之内の三島神社の楼門にある。神社は六世紀末に大山積神を奉斎して、氏之宮大明神と称したのが始まりであるといわれる。
 一体は、像高一三八㎝、他の一体は一三五㎝、いずれもヒノキ材、寄木造、彩色の像で、神門を守る随身像である。頭部、体部それぞれに内刳りを施し、共に一手を上げ、他の手を腰わきに構えて持物を執る形で、片足を踏み出して体勢に動きがあり、両袖もこれに応じてひるがえっている。
 木寄せは神像の常として簡古の風を示すが、胴部を強く引きしめた肉どり、動きのある体勢には鎌倉末ないし南北朝のころの特色が認められる。うち一体の背面材の内側に墨書銘があり、「延文二二年五月 ほうけんのさく」(一三五九)と読める。
 ただ、随身像は阿・吽の形につくるのが通例であるが、この三島神社の両像は、共に口を閉じた吽型であり、左足を踏み出す体勢も同じである。木寄せの風、造形の特色からみてこの二体はほぼ同じころに、同じ作者の手になるものと思われるが、あるいは一対のものではなく、かつて境域に神門が二つあって二対の随身であったものを、後に一対にまとめたものかとも想像される。
 随身像の古例は少ないが、この二体の像は、面相も簡古の風を示し、いかにも神像らしく、体部の造形、体勢も巧みな佳品であり、銘文によって造立の時代を知りうることも貴重である。