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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 敗戦直後の県美術界

 終戦という言葉が多く使われるけれども、あれは完全な敗戦で、日本人のだれもが考えてもいなかった無条件降伏をしたわけである。一体これからどうなるのか、お互いの生活はどう変わるのか、全く見通しのたたないお先真っ暗で、ただおろおろするばかりであった。さあ戦争は終わった、これからはなんでも思い通りといわれても、どうしていいのか分からない。その虚脱混迷の気持ちの整理、それよりも先ず食うことが先決であり、おいそれとはもとの絵筆をとる生活には帰れない。だが、その後、ほうはいと起こった文化国家建設の呼び声は、絵をかく者にとり明るい福音であり、どうやら出番到来という感じがしてくる。
 県都松山も灰燼に帰し、昔をしのぶ何物もない焼け野が原となったように、これまでとかく絵をかく連中にありがちな派閥の対立、感情のしこりも、この異常な事態の中ではなんとなく影をひそめる。一方、これまで中央・外地で活躍していた疎開、引き揚げの連中も加わり、一切の行きがかりを捨て、新しい組織で芸術運動を起こそうという機運が次第に盛り上がってくる。

1 県代表美術展と愛媛美術懇話会

 そうした状勢をいちはやく察知した愛媛新聞社伊賀上文化部長の呼びかけに呼応し、藤谷庸夫を中心に愛媛美術懇話会が結成され、両者共催で一般公募展に先だち、県代表美術展が開催されることとなる。
 敗戦後五か月、昭和二一年一月二八日から六日間、焼け野が原に建ったばかりの御宝教会を会場に、その展覧会は開かれる。戦後混乱の真っただ中で、出品作家も長い間のうっ屈を一挙に爆発させたかと思わせる力作を出陳、各方面からの異常な反響を呼び、連日押すな押すなの大盛況であった。
 出品者は旧帝展・文展の審査員田辺至、二科審査員の野間仁根、文展無鑑査木村八郎、坂田虎一、河本一男、藤谷庸夫、牧田嘉一郎、古茂田公雄、西沢富義、越智恒孝、三好計加、松原一、筒井昇らの洋画家。日本画では大輪画院の伊賀上雄鳳、長谷川竹友、佐賀晴江、阿部桂鳳、菅野剛吉、石井進、好永紫芳らである。
 この県代表美術展の成功が導火線で秋の第一回愛媛美術工芸展の開催となり、今の県展への道を開く。また一方、それに呼応した愛媛美術懇話会が発展して愛媛美術協会の結成となり、戦後愛媛美術発展の基盤をつくる。

第一回愛媛美術工芸展

 県代表美術展の成功により秋の公募展への期待が一層高まり、昭和二一年一一月三日から五日間、新築成った愛媛新聞社を第一会場、三越を第二会場として開催。日本画・洋画・彫塑・工芸の四部門合計三七二点を陳列する。
 その新聞評に「洋画会場には浮雲の秋空に熟れた柿の実の如く悟り切った静観境を見せる旧文展無鑑査の木村八郎氏(八幡浜)、太平洋画会会員河本一男(松山)、藤谷庸夫(同)などの力作、ユニークな近代感覚に生きる古茂田守介(在東京)が本年度新制作派協会展受賞の余力をかって製作した「こども」、同氏の令兄、新製作派常連の古茂田公雄氏の「農夫」、本年度受賞の栄誉をかち得た弱冠二〇歳の新人脇寛(宇摩郡)同井上和(八幡浜)両作品が横溢せるフレッシュな感覚で観賞者を魅了してゐる。日本画部には低迷せる戦事美術の旧殼を脱し、新しい日本画の方向を指示せんとする新人新進の期待深き裡に西原観風(今治)の本年度特賞が紹介されており、気高く心憎きまでに童女を描いた当展唯一の圧観石井進氏(松山)の大作「朝」、伊賀上雄鳳氏の「憩ひ」、高橋幸枝女史の「頼り」など二〇数点の作品がまさに(女へんに幵)を競ふばかりの風景である」と。

2 愛媛美術協会の結成

 県代表美術展をきっかけに愛媛美術懇話会は生まれたが、この会はまだはっきりした組織もなく、これから全県美術家の意向を結集、新しい組織作りの足がかりにということであり、藤谷庸夫を中心に精力的な話し合いはもたれたが、なにしろ戦後の混乱期、話はそうたやすくは進まない。したがって、秋の公募展は愛媛新聞社の新築落成記念展と称し、新聞社と懇話会の共催とし、翌二二年七月一三日に、ようやく全県の美術家を一丸とする愛媛美術協会が新発足をすることとなる。
 その結成式は松山市湊町の白石旅館で行われ、各部門の作家二三〇余名、賛助会員五〇余名が参集。役員に理事長井上頼明、専務理事に藤谷庸夫を推し、庶務部長に石井進、会計部長に和田貞行、事業部長に河本一男三氏を決定。各部門ごとに理事を選出、名実共に全県一体の協会が発足する。したがって、以後の展覧会は協会が主体となり、県と愛媛新聞社三者共催で、名称も愛媛美術展と改める。
 第二回展、愛媛美術展は昭和二二年一〇月一五日から五日間、愛媛新聞社・ヤママン・三越の三会場を前期第一部の日本画・工芸・書道、後期第二部の洋画・彫刻・写真を二二日から五日間と二回に分けて開催する。出品点数は日本画七〇点、洋画一二四点、工芸九〇点、書道一二○点、写真三六点、版画一三点、彫塑一二点の合計四六五点である。
 第三回展、昭和二三年一〇月二六日から六日間、ヤママン・いよや・平和会館・三越の四会場で開催。出品点数は日本画六三点、洋画二三〇点、版画一六点、工芸三六点、彫塑四点、書道三九点、写真三八点、計四二六点である。
 第四回展、昭和二四年一一月一日から六日間。三越・ヤママン・平和会館・愛媛商工会館の四会場、搬入点数二七〇点である。
 第五回展、昭和二五年一一月一日から五日間。伊豫鉄ホール・平和会館・ヤママン・商工会館の四会場、出品作品は図案部をのぞいて各部とも大幅増、質量ともに格段の進歩という。
 第六回展、昭和二六年一〇月三一日から五日間。市内三会場、出品点数は日本画二八点、洋画一三〇点、工芸二三点、写真五七点、書道九七点、図案五点、版画四点、彫塑八点、計三五二点。

3 愛媛美術協会の分裂

 協会は、結成以来、毎年秋の「文化の日」を中心に展覧会を開催。美術の秋にふさわしい年中行事として定着させ、順調な歩みを続けてきた。また、道後公園内の聚楽館を借り受け愛媛美術館と称し、美術館建設ののろしをあげる。さらに二二年、四国の他の三県に呼びかけ四国美術協会を結成、翌二三年の松山大博覧会に呼応し、道後公会堂を会場に四国美術展を開催するなど、戦後の動乱期に郷土美術振興の主役を務めてきた。だが、二六年、思いがけない分裂騒ぎが起こり、協会は終末を迎えることとなる。
 美術家は元来個性が強い。したがって、美術の集団に主義主張による対立抗争はつきものである。中央画壇における明治以来の分裂抗争、本県における従来の暗流にも明らかな通り、斯道発展のためその争いはむしろ望ましいともいえよう。だが、この協会の分裂騒ぎは作家間のそうした争いでなく、作家でない理事者と作家との争いであり、美術団体における普通の内紛とは違った様相を呈す。
 理事長井上頼明は松山市長選にも立候補した若く敏腕の政治家といわれ、戦後の混迷に協会の組織作りや運営には、そうした方の助力も必要と、かつぎだされた人である。そうして、協会も発足、毎回の展覧会、四国美術協会の結成、それに続く四国美術展の開催、また、道後公園に事務所を開設、そこを拠点に活発な活動を展開する。その手ぎわのよさはさすがといわれ、一同も喜んでいた。ところが、そうした理事長の手腕とともに、さまざまな風評が乱れ飛び、不信の声も高まってくる。
 その事態を憂慮した役員一同、協議の結果、理事長の功は認めながらも、それ以上行動は共にできないと勇退をすすめるが、一向に聞き入れない。やむなく、役員自身が身を引こうということになり、各部の理事と幹部役員四七名が連結脱会することとなる。そうして、直ちに全県の美術団体に呼びかけ、昭和二七年一月七日、松山市堀之内CIE図書館で、新たな愛媛美術連盟の発会式を挙げる。参加者七五名、旧理事から経過報告があり、直ちに連盟規約を審議決定。発会第一回の事業として春季展の開催を決議。県下各団体から委員を推薦、従来の中予中心の傾向を打破し、全県一体の組織とする。
 その委員は日本画部=長谷川竹友・石井南放・菅野剛吉・村上無羅・佐賀晴江・西村大湖・野村麦秋・高橋信雄。洋画部=河本一男・大槻達二・池田友重・新海英一郎・御手洗三郎・森修・家久正十郎・徳本立憲・田代博・渡部徹・中村明・筒井昇・芝清福・森本憲夫・吉田橙子・坂田虎一・西澤富義・高階重紀・矢野真胤・徳永義一・児玉正彦・小泉政孝・井上和・木村八郎・新穂義幸・有海庄門・高島功・三輪田俊助。版画部=石崎重利・中尾義隆であり、他の工芸・彫塑・写真・図案・書道部の委員二二名は略す。当時における現役の実力作家はほとんど網羅されており、これにより県美術協会の機能は事実上停止されたわけである。
 かくて第一回春季展「愛媛アンデパンダン展」は五月一三日から六日間、県・愛媛新聞社と共催で、三越・ヤママン・伊予鉄会館の三会場で予定通り開催され、着々と活動を始める。一方協会も対策を協議し、第四回春季展を四月二五日から六日間開き、春季総会、創立五周年記念事業、第七回展を一一月一日から開催を決定し、対抗する。