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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 写生派の台頭

 今治の絵師山本雲渓は、既述の通り写生派の正系円山派を導入して愛媛の絵画に新風を吹き込むが、それに続き、森田樵眠は同じ写生の四条派をもたらし、新たな活力を注入する。雲渓は藩絵師であるとともに町絵師としても活躍するが、樵眠に至って全く自由な町絵師の出現となり、伊予の画壇もようやく新しい時代を迎えることとなる。
 これまで長く各藩の主流を形成していた狩野派の沈滞に対し、蔵沢らにより導入された南画が次第に隆盛に向かう。そこへ遠藤父子の住吉派が加わり、さらに、雲渓による円山派、樵眠による同じ写生の四条派が持ち込まれる。伊予の各画流もこれで一応出そろうこととなる。以後、各派それぞれの特質を発揮、交流を重ねながら幕末動乱の時代を迎える。その動乱で結局影を消してしまうのが伝統画流の狩野・住吉であり、それに代わり愛媛画壇の主流を形成するのが南画、続いて樵眠のもたらす四条派である。

森田樵眠

 樵眠は、寛政七年(一七九五)松山の三津に生まれ、養神斉・惺々堂・魯樵とも号し、京都四条派の祖松村呉春の門人岡本豊彦について学び、当地に初めて四条派を導入した町絵師である。文政から幕末にかけて活躍、明治五年(一八七二)五月一二日没す。
 四条派の祖呉春は、京都町人の生まれで、初め与謝蕪村に俳諧と絵を学び、のち円山応挙について写生の画風を学ぶ。つまり、彼の画風は円山派の写実と南画の詩情を融合したもので、それが四条派の特色となる。以後同派は、京都の商人、町衆の嗜好に合致し大いにもてはやされ、関西画壇最大の画流となる。樵眠の画風も、当時三津の商人や近郷の人たちに支持され、また天野方壷、岡本熊眠、松浦巌暉等優れた門弟の輩出により、以後の愛媛画壇に大きい影響を及ぼすこととなる。
 彼の遺墨は、三津、松山を中心に随分多い。特に、中予地区の神社仏閣には軒並というほど多くの絵馬を残し、同じ写生派山本雲渓の絵馬と相対し圧倒的な迫力を示す。それら遺作に見る彼の作風は、狩野の筆法、清新な写実が渾然一体となり、その緊密な構成、躍動、緊迫感は従来の作家には見られない新鮮な感覚と詩情をただよわせ、異様な人気のほどをうなずかせる。
 彼の門弟松浦巌暉は三津の人。岸雪・洞陽とも号し、四条の画風を伝える。松山中学絵の教師として多くの門弟を養成、当地画壇に大きい影響を残す。大正元年没。日露戦争に従軍し負傷、『肉弾』の作者として有名な桜井忠温も巌暉の門弟で、洒脱な写生画を得意とし、軍人作家の盛名とともに、画人忠温もよく知られる。

鷲谷石斎

 石斎は文政一二年(一八二九)松山に生まれ、本名は横山五平、幼名を久次郎といい、石斎と号す。家は松山築城の功により萱町で表紺屋を許され、代々染物業を営む。維新の際、屋号の鷲屋にちなみ鷲谷と名乗り、西堀端に移る。叔父石巒は泉岳寺、大石良雄像の作者としてよく知られる町の彫工である。石斎も、家業のかたわら絵をよくし、松山周辺の社寺に多くの絵馬を残す。その強烈な色彩・筆力は、土佐の絵金にも劣らぬ生々しい現実感を表出し、町絵師として盛名をはせ、明治三二年四月二三日、七一歳で没す。