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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 南画の勃興

 南画・文人画・南宗画の言葉はよく混同されて使われるが、南画は日本独自の呼び名で、中国では文人画または南宗画という。日本でその南画が盛んになるのは江戸中期である。徳川幕府の文治政策による漢学の奨励は長い泰平とともに漢文・漢詩・中国趣味の大流行となり、それが当時中国で盛んな南宗画導入の素地となる。また、室町以来、雪舟らにより移入された北宗画が狩野に受け継がれ、長く日本画壇の主派をなして来たが、その沈滞を打破する革新気運が高まっていたことも南画勃興の大きい原動力であろう。
 中国における絵画の伝統には、古来宮廷の画院を中心とする北宗画系の専門画家の絵と、アマチュア精神をモットーとする士太夫の絵との二つの大きい流れがあった。士太夫の絵は文人画ともいい、身分・官職をもつ文人たちが、読書、研学のかたわら世評などを顧慮せず、ただ興趣の赴くままに余技として描く絵で、別にきまった様式などはなかった。ところが、中国は北方黄河流域の文化圏と南方揚子江流域の文化圏とに分かれており、北方の厳しい風土と宮廷の格式が結びつき、いわゆる院体といわれる厳格な画風を形成する。その北宗画に対し、南方の温雅な自然・風物には多くの文人たちがあこがれてそこに集まり、道教の神仙・脱俗の思想と結びつき、元・明の時代には一定の表現様式をもつに至り、そのころから南宗画と呼ぶようになる。つまり、中国における南宗・北宗は、表現様式上の呼び名であるが、いつしか画家の自分を示す文人画と混交され、同義のように使われてくる。
 ともあれ、中国の南宗画は明末清初がその全盛期で、北宗画を圧倒し、画院の専門画家でさえそれをかくように成ってくる。江戸の中期、明末清初の動乱をのがれ日本に亡命した文化人のうちには、南宗画をよくするものが多く、その人たちの伝える自由な絵画思潮を受け継ぎ、日本南画の先駆者たちはその模倣・摂取を始め、それを受け継いだ大雅・蕪村のころに至って、ようやく日本南画が大成される。

1 南画の先駆、吉田蔵沢

 わが伊予の画人蔵沢は、大雅より一つ年長で、この地に在りながら、中国渡来の画僧大鵬や鶴亭の清新自由な南宗画風に傾倒し、六〇年に及ぶ執拗な追求でそれを見事に醇化結晶させ、比類稀な独自の画風を確立した数少ない日本南画先駆者の一人である。
 蔵沢は名を良香、字を子馨、通称を彌三郎、後に吉田家の世襲名久太夫を名乗る。蔵沢はその号である。他に予章人・贅巌・白雪・応乾・翠蘭亭・倦翼・東井・白浜鴎・不二庵・醉桃館など別号も多い。
 彼は、享保七年(一七二二)、松山藩士吉田直良(一六○石)の長男として生まれ、四二歳で風早郡(北条市付近)代官となり、六〇歳で持筒頭、六三歳で者頭となり二〇〇石に加増される。七七歳で事件に連座、役を免じられ隠居。享和二年(一八〇二)八一歳で没す。寿正院蔵澤良香居士と諡名し、松山市大宝寺に葬られる。
 蔵沢の生きた時代、松山には蔵山・明月ら有名な寛政八僧がおり、彼はその学僧たちとも交友厚く、禅とともに中国文芸を身につけ、その高い学識と生来の性癖は、しばしば当時の封建社会に強硬な反発を示し、数々の奇行・逸話が語り伝えられている。
 彼は、若いころ、自ら代官を志望、その強硬な自薦運動のため閉門の処罰を受ける。また一方、当時の藩主定喬公に親孝行を直言し、今度はそれが聞き入れられて大いに面目をほどこし、特別な恩賞に浴す。そうした功罪合わせもつ彼が、待望の代官役を命じられたのは四二歳である。彼はそれから一八年間風早郡(北条市付近)代官を勤め名代官とうたわれ、武士の規範と仰がれるに至る。ところが、七七歳で事件に連座、その名声、家禄も剥奪される。事件の内容ははっきりしないが、当時よくある幕府側役人に対する配慮から、藩士に不当な罪をきせようとする藩当局の弱腰を批判したことによるらしい。ともあれ、彼の見識と性癖は、一面、武士の規範と仰がれるとともに、二度までも藩の忌避にふれる不行跡となり、いろいろ話題をまいている。
 日本南画の先駆者たちは、大雅・蕪村ら町人出身者は別として、南海・淇園・玉堂・米山人・山陽・竹田など武士出身の画人は、いずれも当時の社会通念に反逆し、脱藩、逐電など不行跡の熔印をおされ、「放蕩無頼」といわれた面々である。その「方蕩無頼」といわれる反体制的エネルギーの奔騰がなければ、日本南画のあの輝かしい作品群と圧倒的な大衆の支持は、とても得られなかったであろう。
 伊予の画人蔵沢が、松山という僻地に孤立しながらも、よくその先駆者たちに伍し、輝かしい画境を開拓し得たのも、その根底には彼らと同じ「不羈奔走」の血が流れ、その呼応によるともいえよう。
 墨竹の名手といわれるだけに、彼の遺墨は竹が圧倒的に多い。その次は蘭・菊・梅である。それら四君子以外に、玉・蟹・馬・桃・桜・芭蕉など、また禅画・戯画の類も交じり、画題はかなり多彩である。だが、それらほとんどが初期・中期の手すさびであり、晩年になるに従い、竹に集約、竹に徹底し、独自の自在な画境に突入する。
 彼は大幹の竹を最も得意とする。性癖そのままに豪快無比、奔走自在、胸のすくような爽快さである。だが、彼の墨竹は大幹だけでなく、竹のあらゆる変化をあさり、時には干竿の密集をかき、若竹の孤竿、実竹の華麗さ、風竹、雨竹、雪竹、月竹、それぞれの風趣を描破し尽くしている。

2 蔵沢画系とその影響

 「蔵沢の先に蔵沢なく、蔵沢の後に蔵沢なし」という伝承がある。確かに彼の画風は特異で、中国・日本にも類例のない、一代限り孤立の画系ともいえよう。まだ、日本南画の黎明期、松山という僻地で新時代の息吹を鋭敏に受け入れたとはいえ、いずれからも決定的な影響は受けていない。彼墨竹の特質は、その特異な人物と彼自身の模索・精進によるものであり、その画業に先例を求めることも難しく、それを継承することもまた困難である。だが、彼の名声は、生前既に、四国はもとより対岸の中国・九州から関西一円に拡がり、その画風を慕い教えを請うものも少なくなかった。そのうち、特に彼の息吹をよく伝えているのが大高坂南海である。
 南海は、代々松山藩の儒者として有名な大高坂家七代の当主であり、天山・大平・如風・魯斎・竹石・玉亀とも号す。蔵沢の甥に当たり、特に目をかけて指導し、愛用の雀印を授けて画系の後継者としたのである。彼の身分、人格も蔵沢に劣らず、画風もよく似てほとんど見分けのつかないものさえある。だが、性格は大分おだやかとみえ、その気迫は遠く及ばない。しかし、それなりに別の風格をそなえ一家をなしている。彼の遺墨はかなり多く、松山城の「墨竹屏風」一双もその代表作の一つである。天覧の栄に浴したとみえ、賜天覧の大きい印が押してある。
 雀印は蔵沢が用いた多くの印章中、人々に最もよく知られたものである。その印章は、元来、室町時代中国から輸入される絹糸の荷物に商標代わりに入れられたもので、糸印といわれる銅印である。彼は、その雅致と雀類似の文字をめでて特に愛用したが、七六歳の時、それを南海に譲り、以後南海から画系後継者に相伝したものである。
 原紫泉もその雀印を継承した後継者であるが、蔵沢に直接指導を受けたものか、南海を通じての孫弟子なのか、その関係はよくわからない。彼の画風も蔵沢に似て大幹を描き、覇気を縦横に走らせ、なかなかの健筆である。その気迫は南海以上に蔵沢の息吹を伝えているが、余りにも才筆が勝ち、その含蓄・格調は到底南海に及ばない。
 南海の弟子に丸山閑山(一八一〇~一八七二)、その弟子に中野雲涛(一八二一~一九〇八)がいる。ともに画系の継承者として雀印を受け継いでいる。だが、これまでくると蔵沢の息吹はほとんど消えうせ、全く別種の墨竹となっている。雲涛には後継者がなく、蔵沢画系もここで一応絶えている。
 だが、それは蔵沢画系の直系であり、その影響は当時ようやく普及の漢詩・漢文・中国趣味に支えられ、各層の文人たちに幅広く浸透していく。蔵沢と同じく黄檗僧鶴亭の影響を受けたといわれる松山藩の閨秀画家山川阿谷(一七七二~一八三〇)や、大雅風の瓢逸洒脱な画風で知られる僧克譲(一七八七~一八六四)、松山商家の井門久渓(一七九八~一八五〇)らの活躍も加わり、文人たちはだれもが競って絵筆を執り、全県各地、津々浦々まで異常な勢いで南画趣味が浸透する。そうした時流に乗じ、幕末から明治にかけて優れた画人が続出し、やがてその流れが愛媛画壇の主流となる。