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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

おわりに

 わが国プロテスタント教会の最初は、明治五年、横浜における日本基督公会の創立であったが、明治初年、米英より一〇に余る教派がやって来たにも拘らず、その中の何れの教派にも偏せずして、超教派合同教会として発足した。本来、キリストの教会は一つであるべきであるという思想と心情は、どの信徒にもあるが、超教派合同教会の伝統を持つ日本プロテスタント諸教会は、それぞれ独立しながらも、時に協同の集会や運動を企画し実施した。例えば、松山市では明治二三年、伊予基督教青年会による廃娼運動、明治二七年、組合及びメソジスト教会合同の大演説会(新栄座)、明治三四年三派連合大挙伝道、大正一四年一月、六教会連合祈とう会、昭和二年、松山市で催された産業博覧会への四教会協同参加とその成功のための連合祈禱会、昭和四年から同七年の賀川豊彦提唱の神之国運動と共同主催の大伝道会(これには聖公会も参加した)、大正六年、各教派参加の日曜学校大会とデモンストレーションなどがなされた。この運動は南予や東予でもほぼ同じである。そして、昭和一六年六月二四日、宗教団体法の外的要因もあって、新教のほとんどの教会は合同して、日本基督教団を結成した。
 戦局は日々に厳しくなり、教団・教会もまた、勤労奉仕、慰問袋の作成と発送、軍用機献納運動や、礼拝における戦勝祈禱まで行い戦争遂行のため物心両面の協力をなした。しかし、かかる情況の中にも、セヴンスディ、アドべンチスト教会早川辰三郎牧師の如きは、徴役五年の刑を受けて投獄されても、なお、信仰において反戦の意志を貫いた。戦前の国情と軍国主義風潮の中にあったとはいえ、戦後になってみれば何のための戦争であったか、敗北と損失と飢餓と貧困とそして精神的虚脱、それは単なる被害者であるのみでなく、外地における他国民への凌辱と殺戮と破壊と略奪、そしてわが国への拭い難い不信を抱かせた加害者であったと気づいた時、教団では昭和二一年の総会にて懺悔の宣告を決議、また、昭和四六年総会議長鈴木正久の戦争責任の告白がなされたのである。
 戦後、各教会はアメリカなど他国の教会の援助を得て、あるいは独力にて、信仰の復活、教会の復興、福音の宣伝に努め、戦後のキリスト教ブームも手伝って、教会の門をたたく人々は多勢であった。
 そして、この時期においても、各教会協同の活動は盛んであった。東予では、昭和二五年と昭和三二年の二回、音楽によるラクーア伝道集会、スタンレー・ジョウンズ博士特別伝道、昭和三八年より毎年持たれる市民クリスマスなど、また、中予では、上述の外各教会、教会学校連合(日本基督教協議会内の教会学校へ連合)によって年二回、春の復活祭と秋の教育週間に城山山頂の合同礼拝や教会学校大会、昭和三三年、東京において開かれたキリスト教世界大会に続く松山地方大会(於松山東雲高校体育館)、昭和四三年五月、全国教会学校教師大会(於松山東雲短期大学)、昭和四四年六月、靖国神社国家護持法案反対総決起大会(於松山番町教会)などの活動を続けてきた。
 しかし、概ね昭和五〇年以降は、各個教会毎の集会と活動を多くし、地味にして健実な牧会と伝道に力を入れるようになってきている。ただ、毎年二月一一日の建国記念日は、教会において「信仰の自由を守る日」として、八月一五日は第二次世界大戦における戦没者の慰霊と世界平和祈念の日として、各教会ともに参集してこれを守っている。各教会内諸団体の連合会(連合婦人会)、キリスト教婦人矯風会(一)、YMCA(二)、ギデオン協会なども(三)、各教会協同のキリスト教活動であって、朝禱(四)会などは、プロテスタントのみでなくカトリックも参加して、長い間の実績を積み重ねている。これは、キリスト教の底辺に流れている、教会再一致運動(エキュメニカル・ムーヴメント)に添う活動といってよく、全世界の新・旧両教を含むキリスト教会の高遠なる理想でもあり、わが国最初の教会、郷土(松山)出身押川方義ら創立の横浜における日本基督公会(超教派)の心でもあった。

 (一) 基督教婦人矯風会

 アメリカ中部の禁酒運動が母体となって、明治一六年(一八八三)、オハイオ州にて結成された。日本では、その特派員レビット夫人の来日を期に、東京在住八六人のキリスト教婦人が矯風会を作った。これは婦人団体としてわが国最初のものである。会員四〇〇〇名。大正八年(一九一八)六月四日、八六歳の矢島揖子会頭が守屋東とともに松山に来り、松山榎町教会宣教師パミリー女史の家で発会式を挙げた。その時の出席は三〇名であった。目的として、世界の平和・純潔・排酒の三つを掲げ、キリスト教の信仰に基づいて家庭を守り国を守り世界を守って、人類の幸福のために努力している。廃娼・結婚改善・貧困家庭の救済(城のぶの神戸婦人同情会と提携)、婦人参政権獲得・青少年少女に対する純潔教育・世界平和の祈りなど、六七年(昭和六〇年現在)の歴史の中で果たしてきた役割は大きい。今治と宇和島にもあったが、現在は松山支部のみとなり、市内一〇教会約一一〇名の会員がある。

 (二) YMCA

 わが国では明治一二年(一八七九)に創設せられ、現在、東京本部の下、三一都市に支部を持つ世界規模の団体である。キリストへの信仰に基づき、スポーツや文化活動を通じてキリスト教精神が青少年の間に生かされるよう努めている。愛媛県では、戦後から支部結成の希望があったが、昭和二四年(一九四九)、山内一郎・森健一・渡部保次郎・沢田允明らが集まり、理事会を作りその準備に入った。その後しばらく休止の状態が続き、一五年後再出発して広島YMCAより主事の派遣を受け、専任主事着任の上本格的な活動を始めたのは、昭和四八年(一九七三)であった。喜多郡河辺村河辺中学校や松山東雲中・高等学校を借用してのサマー・スクール・少年サッカー教室・グレード別英会話クラス・英語暗誦大会(現在は休止)など、いわゆる学校外活動においても先進的な役割を果たしている。ちなみに、創立当時、会名のうちYoung Menの和訳について、適切な日本語は何かと苦心したが、初代会長小崎弘道が、「青年」という、若者のイメージに最適の新造語を作ったという。もっとも「青年」という語はそれ以前にも使われていたことが分かったが、当時の辞書には見当たらず、しかも、中国YWCAの全国大会でその訳語「青年」が紹介され、採用されて以来、中国でも一般的用語となっている。YMCAは、市Yの外、学Y(学校単位のYMCA)があり、愛媛県では、愛媛大学・松山商科大学・松山東雲短期大学(ここではYMCA)などにできている。

 (三) 日本国際ギデオン協会

 The Gideons Interhational. アメリカのクリスチャン実業家三名が、「現在われわれの生きているのは、聖書によって救われたことによる」ことを感謝し、事業から得た金額を献金して、聖書の無料頒布による伝道機関を作った。明治三二年(一八九九)であった。クリスチャン実業人など専門職業人ならば誰でも参加できる。現在は世界九〇を越す国々に支部があるが、わが国では戦後昭和二五年に発会し、全国一一五の支部がある。ホテル・旅館、病院、刑務所の部屋部屋に新約聖書を置き、また、公私立中学校・高等学校・自衛官・警察官・看護婦に無料贈呈しているが、県下では、今治・松山・宇和島の三市に支部が結成されている。

 (四) 朝 禱 会

 朝食祈禱会の略で、東京に連合本部を置き、全国に一〇七、海外(ソウル・ロスアンジェルス・シカゴ・ブラジル・台北)に五、合計一一二の支部を擁する会に発展している。三津教会員井上明が、大阪へ出向いた際、大阪朝禱会に出席し、その祈りと交わりの新鮮さに感激して帰り、当時松山番町教会牧師であった宇都宮充に相談、共鳴者を糾合して昭和三五年、一一月二一日に松山朝禱会を設立した。以来、毎週月曜日(宇和島は月一回)午前七時より約一時間、毎回主題を決め、奨めのことばを述べ、祈禱を合わたてのち、朝食をともにしてそれぞれの職場に出勤する。昭和六〇年三月二五日は一二五八回目の朝禱会の日に当たった。プロテスタント、カトリックを問わず参加し、「体は一つ、御霊は一つなり。汝らが召にかかはる一つ望をもて召されたるが如し。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべての者の父なる神は一つなり」(新約聖書、エペソ人への手紙、第四章一節~六節)の信仰のもとに、教会の一致と世界の平和のために祈りを続けている。県下には、松山・北条・宇和島の三つの支部がある。
(参照 「愛媛県下の諸教会(創立年月)」)
(参照 「愛媛県における教派別教会数」)

愛媛県下の諸教会(創立年月)1

愛媛県下の諸教会(創立年月)1


愛媛県下の諸教会(創立年月)2

愛媛県下の諸教会(創立年月)2


愛媛県下の諸教会(創立年月)3

愛媛県下の諸教会(創立年月)3


愛媛県下の諸教会(創立年月)4

愛媛県下の諸教会(創立年月)4


愛媛県における教派別教会数

愛媛県における教派別教会数