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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第三節 プロテスタント(新教)諸教会

 1 プロテスタントの来日

 安政五年(一八五八)、日米修好通商条約が結ばれるや、その翌年からプロテスタントの宣教師たちJ・リギンズ、C・M・ウィリアムズ(以上聖公会)、J・C・ヘッバアン夫妻、S・Rブラウン、D・シモンズ、G・F・フルベッキ、J・H・バラ(以上プレシビテリアン)、J・ゴーブル(バプテスト)が続々来日した。当時はいまだ禁教令が解かれていなかったので、表立っての宣教はできず、外国人のための教会建設か洋学・英語学校の設立、聖書の翻訳、医療活動などにより、満を持しながらそこに来る青年たちを教導した。松山藩貢進生押川方義が東京開成学校に遊学、のち、キリスト教を知り入信して明治五年(一八七二)同志本多庸一・井深梶之助・植村正久ら一一人でわが国最初のプロテスタント日本基督公会(のちの横浜海岸教会)を創立したのも、バラやブラオンの修文館に移り、深くその影響を受けたためであった。彼は松山市の出身、明治九年、新潟へ赴き、教会では伝道に従いつつ、北陸学館を建て、同一九年、仙台に移って仙台神学校(現在の東北学院)と宮城女学校(現在の宮城女学院)とを創立し、晩年は政界に入って憲政会より衆議院議員(愛媛県選出)に当選した。
 京浜地方に渡米したプロテスタントは、主として長老教会・聖公会・バプテストの各派であって、それらより約一〇年遅れて組合教会、メソディスト教会などの宣教師が来日した。そこで、組合派・メソディスト派は、まだ十分に開拓されていない関西地方に重点を置くこととし、D・C・グリーン、D・デイヴィス、J・Cべリーら(以上組合派)は、神戸にステージョンを置き、京都・大阪・岡山・松山への伝道に努めた。日本人には教派を超えた教会一致の心情と試みはあったが、いまだ教派別の伝道活動の時代であった。

 2 旧組合教会

 宗教的に言えば、神の計画(みこころ)は、どんな形で実現するか人知では測り知れない。カトリック(キリシタン)が、偶然の形(人知を超えたところに働く神の意志と言えよう)で四国そして愛媛へ到来したのに対して、プロテスタントは個人の招待とそれへの応答の形で計画的にやって来た。
 明治九年(一八七六)、三月二五日午前一〇時、三津浜(松山市)に着いた外国人と二人の日本人がいた。アメリカン・ボート(外国伝道を仕事とする団体)のJ・L・アッキンソン(一八四二~一九〇八)と摂津第一基督教会(日本基督教団神戸教会)会員鈴木清と小野俊二であった。彼らは松山の住人黒田嘉幸と菱田中行の二人が是非松山へ来てキリスト教の話をしてくれと依頼した手紙に応えて教会から派遣されたのであった。三人の旅費は教会が出すこととし、不足の分は有志の献金で補った。
 しかし、松山入りも簡単ではなかった。耶蘇教が来るという噂が流れると神官・僧侶が反対や妨害の計画を立てているというので一か月遅らせ、三津浜に上陸しても誰の出迎えもなく、そこに二、三日滞在して松山の様子を探ってみた。すると、招待者黒田は親威会議の末自室に幽閉されているという始末、ひとまず松山入りを断念しその代わり三津で集会をし、小冊子を配った。その間、神官や僧侶らと信仰論争がくりかえされたという。
 松山へは、彼らの来松がかなりの評判になっていること、また、中央政府よりアッキンソンらの安全を保障するようにと県令(岩村高俊)宛の要望が来ていることを知ってから出かけた。三月二八日であった。第一日目は一五名と女子五、六名、第二日目は二四名、第三日目は二〇〇名を数え、部屋から溢れて縁や庭園にまで一杯の人であった。多くは学生であったが、官吏や元武士もおり、僧侶や子どもも交じっていた。(資料編九〇九頁)
 この伝道説教を聞いて心を動かし、もっと詳しく学びたいと願い出た者に、菱田中行・上代知新・村井知至・杉山重義らがいた。菱田は松山藩から国内留学生に選ばれ、明治九年慶応義塾を卒業、大蔵省に勤めていたが、辞めて松山中学の教師となり、明治一四年、今治教会牧師伊勢時雄より受洗、同一八年松山教会創立の時、信者の一人として名を連ねている。その後、伝道師となり、松山・今治・丸亀・高松と各地で活躍した。
 上代知新は、菱田と同じく留学生として上京し、明治新塾に学び、のち大阪教会牧師となる。また、村井知至は、愛媛県変則中学から横浜。ハラの先志学校に学び、さらに同志社英学校に転じ、新島襄の感化を受けて牧師たらんとし、渡米してアンドーヴァー神学校を終え、今治教会伝道師として伝道に励み、教会内に徳富蘆花と英語塾を開いた。東京本郷教会牧師に就いたこともあるが、また、東京外国語大学の教授を務め、のち第一外国語学校を自ら開いて校長となった。(資料編九三七頁)
 アッキンソンの松山伝道を聴いた者に今治の増田精平がいた。彼はその説教に感じ是非今治へも寄ってくれるよう懇望した。今治では増田の紹介で重松栄順医師らに会い、アッキンソンらは四週間の伝道に従事し、大成功の裡に神戸へ引揚げた。(資料編九〇八頁)
 プロテスタントが、最初に愛媛県に上陸したのは松山であったが、伝道が定着し教会が最も早く設立されたのは、松山ではなく松山伝道の帰路立ち寄った今治であった。それは、松山が保守的な傾向のあったのに比べ、今治には、開港場として進取的な受容性があったためであろう。
 好反響のあった今治伝道の成果をさらに実りあるものとするため、アッキンソンは、翌一〇年五月、横山円造、小崎弘道を伴って今治に入り種々の会合を開いた。連日多くの求道者がきたり、聖書を研究して講話を聴き、その中には洗礼を受けたいと願い出る者もあった。さらに、一一年五月、アッキンソンはダッドレー、バロスの二嬢を伴って再び来り、伝道した結果、有志約三〇名が集まって「愛隣社」なるものを結成し求道に努めた。そこで、組合教会内国伝道会社は、赤峰瀬一郎を派遣し約二か月滞在させた。
 今治出身、大阪公会会員前神醇一と真鍋定造、あるいは大阪公会仮牧師上代知新らが交々来り応援したので、明治一二年三月一六日、米屋町一丁目に仮会堂を借り講義所の設立を見た。そして、真鍋定造に牧師の人選を依頼し、真鍋は六月同志社卒業予定の伊勢時雄を推薦した。伊勢は招きに応じて着任し伝道牧会に努めたが、愛隣社員を説いて信仰の告日をなさしめ、講義所を教会として正式に設立すべくすすめ、厳重な試問をパスした六名のものと大阪教会より転入した八木治作の合計七名をもって、明治一二年(一八七九)九月一二日、今治教会を創立した。愛媛県下、最初のプロテスタント教会である。

 今治教会

 明治一三年、会堂を風早町一丁目に移し、川本政之助を伝道師に迎えて体制を整え、松山・北条・津倉村・大井村・小松・西条・波止浜・大島・伯方島・岩城島、そして丸亀にまで伝道圏を広げた。(波止浜は明治二五年、町の中心本町に新会堂を建て、二宮邦次郎が兼牧している。)
 ところが一方、キリスト教に対するひぼう・排斥・迫害運動が神道、仏教側より起こって来た。『今治基督教会沿革小史』(昭和四年発行)によると、

 其頃或夜矢野某なる者質問ありと称して新会堂を襲うた事があった。群衆約一〇〇〇名一、二の質問の後、投石殴打、様々の乱暴狼籍を試みんとの為め信徒は恐慌に絶えず祈りつつ善後策を相談したが或者は此の暴挙制止の為警察に訴えよと言い、また或者は古の迫害を受けし聖徒の亀鑑に基き、我等は官権の力を頼るより、大能の力を頼るべしとして、遂には柔軟なる態度に出づる事に決した。而かも不思議や反対者の巨魁二名迄他の事件によって警察に拘留せらるる事となり信者は梢々安堵するに至った。

 その他、大阪よりの講釈師松井馬琴の反基督教演説や神社側の「奉幣組」結成によるキリスト信徒排斥運動、あるいは、藤嶋了穏「耶蘇教の無道理」二篇(明治二四年六月二四日刊)なるパンフレットの散布など、妨害活動は熾烈を極めた。
 これに対し、教会側の反論、論駁も盛んで、伊勢牧師は「真教弁明」三篇を発刊してキリスト教は真教であることを弁明(資料編九二六頁)、また、教会員渡辺福治らは聖書販売人となって聖書を売りさばきつつ街頭に立って大いに宣伝し、一方、中央より新島襄・海老名弾正・宮川経輝・松山高吉・アッキンソンらを招いて、大伝道集会を開き同時に基督教青年会を結成した。教会青年一丸となって、「風俗の矯正、道念の向上などを目的として学校教師、私立中学生徒、其他一般青年を糾合した」。(今治基督教会沿革小言三二頁)
 明治一五年(一八八二)五月、二宮邦次郎伝道師着任、もっぱら地方伝道の任に当たり東奔西走、西条・小松・大島へ、同一六年松山へ、また、同一七年にははるばる宇和島・吉田方面まで伝道の足をのばした。
 とくに、重点を置いたのは、小松と松山であって、午前は松山、午後は小松というような計画が多かった。『今治基督教会沿革小史』によると、

 翌一〇月(明治一六年四月)バロス女史は大森マサ女と二宮と共に松山に赴き、東宅にて伝道、近来稀しき好き集会を持った。一一日滞在、求道者の質疑に答え、一二日午前一〇時小松に向け出発した。時恰かも小松行き道路は途中修繕にて人力車の便なく加ふるに雨降り来たり遂には泥淳脚を没す有様となり、漸く同夜午前二時に一行三名小松長谷部 宅に着いた。

 また、『七一雑報』(明治八年刊行キリスト教週刊誌)には、

 ……鶏鳴暁を報じ天漸く明けるを待ちて同地の信者続々来訪し其恙なきを祝す。午後同氏宅に会読あり。夜は中水宅に於て中谷、真鍋、二宮の説教あり聴衆は屋中に立ち塞がり門外にある者其数を知らず。内に這入ってきて聴きし人々は何れも感心屈服の模様なりしも戸外に佇み聴きし人々の中には大声を発して妨げんと試むる者あり。或は罵言するものあり或は嘲笑するものありたれど只数人の少年輩にて道理を学ぶ人等は是等の行為を喜ばざりしと。

 松山教会

 かくて、松山における信徒数も次第に増加し、明治一八年(一八八五)一月二八日、今治教会よりの移籍状と祝福を受け、四七名をもって松山第一基督教会(日本基督教団松山教会)が誕生した。牧師は二宮邦次郎、教会の諸費用を差し引いて残った金額を月ごとの謝儀(月給)とするという契約で就任した。
 一方、小松と西条への伝道の結実として、小松教会は今治教会より五一名の信徒が移籍され、松山教会より四日遅れて二月一日の創立となった。それは松山教会創立の式典に参列した京阪地方の人たちが、その足で小松へ回り式典に参加するために要する日数であった。
 当時のプロテスタント教会も、カトリック・キリシタンと同様に、キリスト教に対する一般の無理解と、キリシタン以来の禁教と摘発政策による感情的嫌悪などにより、迫害の苦しみの中に産み出されたのであったが、その中で最も激しかったのは、小松教会であった。

 伊予小松教会西条教会

 小松においては、町民の有志が集まり「善道会」なる団体を組織し、各戸の軒々に「善道会員の章」なる木札を掲げ、キリスト教の集会ごとに罵言・乱暴、石を投げ込み、ために鮮血を流すものもあり、また、信者の家(中水真則)に火をつけ、危うく焼失するところ、家人これを知って未然に防いだということもあった。しかして、投げ込まれた大中小の石は数百を超えたが、これを敷石として小松教会は教会堂を建築した。これはキリスト教史上、有名な話となっている。
 西条教会は、明治一七年五月二〇日設立、以後、西条と小松の両教会はそれぞれ、ある時は専任、ある時は兼任の間柄で東予伝道の一翼を担って来たが、現在は独立教会として地方教化に努めている。
 小松教会信徒に喜多川久徴がいる。彼は小松藩家老の家に生まれ、成長して小松県大参事となって知事一柳頼明を助けたが、明治一五年信仰に入り長老として教会を支えた。最も激しい迫害を受けた一人であるが、二宮邦次郎が創立した松山女学校(松山東雲学園)の経営援助を求められたので、松山へ転住し家財一切を捧げ、女学校の経営危機を救った。
 明治初期のキリスト教信徒として永田方正(一八四四~一九一一)がある。天保一五年(一八四四)三月一日、伊予国宇高村出身の宇高家の子として江戸西条藩邸に生まれたが、永田吉平の養子となり昌平黌に学び、藩主の侍講を務めた。維新における制度の改変に伴い、大阪に出で先に修学していた英語を以て身を立て、英書の翻訳多数、中でも旧新約聖書を抄訳した「西洋教草」三巻は、まだ教科書の揃わなかった初期小学校の道徳教科書として採用されたが、外国宣教師による聖書の翻訳は出版されても、日本人による聖書和訳(明治六年)は彼のものが最初であって、聖書翻訳史上評価されるものである。のち、山梨県や北海道で教育にかかわり、札幌農学校・遺愛女学校・北鳴学校(北星学園)で教鞭をとったこともある。なお、アイヌ・ユーカラ研究の上でもその全訳や北海小文典など執筆も多い。
 喜多川久徴か献身的援助を惜しまなかった松山女学校は、二宮邦次郎の創設した学校である。松山教会牧師であった彼は、アメリカ清教徒の信仰を受げ継ぎ、その思想に共感していた。それは信仰と良心の自由を尊び、これを守るために一六二〇年、メイフラワー号に乗り、イギリスより新大陸へ移住した清教徒(ピューリタン)が、最初に教会を、次に学校を建てて、キリスト教信仰と教育とを以て新国家建設の基とした歴史に学び、新日本もまた、かくあるべしと信じて松山教会を創立したその翌年、一九年(一八八六)九月一六日に、松山女学校を建てたのである。特に、明治初期まだ女子教育について一般の認識の低かった時、その重要性をいち早く見出したのであった。四国で最も古い女子校である。その初期の生徒の中に遠田ステがいて、夏目漱石の「坊っちゃん」に登場するマドンナのモデルであるといわれている。現在、中学と高校、短大を擁する総合女子学園として栄えている。
 松山女学校より五年遅れて、明治二四年一月一四日、キリスト教主義に立つ普通夜学会が創立した。これはのちの松山夜学校、松山城南中学、同高等学校に発展するが、アメリカン・ボード宣教師コルネリア・ジャドソンが、松山女学校教師として赴任し、ある日街中を歩いて不就学児童の多きを嘆き、教会員西村清雄とともに始めた小学校程度の私塾であった。学制が頒布されて小学校は出来ても、授業料の要る学校であってみれば、就学できない児童は少なくなかったのである。のちに小学校が整って来、生徒の学習意欲も高まって勤労青少年を対象とする高等小学校あるいは中学校に等しい夜学校としてその使命を果たすようになるが、戦後設置された定時制高校に匹敵する働く青少年のための学校が、約六〇年前よりこれらともすれば忘れがちにされて来た若者たちに、暖い愛の目をもって勉学の機会を与えてきていたのである。
 明治二〇年九月、教会ぱ小唐人町一丁目(現在大街道二丁目タイガー劇場)押川方義所有の寄席を借りていたが、同町巽小学校跡を信者の献金で買い取り移転した。これは戦災で焼けるまで教会堂であった。
 教会は二宮牧師を中心に、菱田中行らは伝道に主力を注いで松山監獄内に囚人伝道・青年会大演説会、市内は魚町・花園町、市外は高井村・郡中・久万、さては宇和島まで足を伸ばし講義所を開設、一方、吉田清太郎、増田シズらは教育に力を入れて松山女学校の教師となり、長屋忠明・東正信・杉浦忠直らは、教会と学校との経営の責任を負うた。
 吉田清太郎(一八六三~一九五〇)は、文久三年、松山市玉川町に生まれ、同志社に学ぶ。当時、貧困学生山室軍平(のちの救世軍中将)に会い、その非凡なるを見抜き、学費生活費を与えて激励、自らはそのため死猫を食べて飢えを凌いだという逸話の持主である。松山女学校を数回にわたって無償で助げたこともあり、松山監獄に囚人と起居をともにして回心を促がし、また、妓楼全廃の建議案を県議会に提出するなど、社会的にも活動した。東京千駄ケ谷教会牧師となって一生を終おった。
 明治三四年一〇月五日、松山教会員大本新次郎は宣教師シド二ー・ギュリックの助けを受けて、魚町三丁目に松山同情館を作った。それは日清戦争後の好景気から続々建設された繊維工場女工を受げ入れる、寄宿舎を持つた夜間教育施設であった。女子勤労者が特に低賃金、長時間労働という悪条件で酷使され、悪い生活環境から発病したり転落したりするものが多数に上ることから、彼女たちを救済するためであった。そのうち工場と幼稚園を併設して、福祉コミュニティーとして発展したが、一般紡績工場が機械の改良、工員福祉の向上に意を用いるようになって、その使命終われりとして大正一〇年閉鎖した。
 初代牧師二宮邦次郎は、明治三三年より全国巡回教師となって松山を離れていたが、教会は同三六年一月、組合教会及び本人の意志を尊重して東京へ送ることに決し、涙をのんで松山市駅に一家を見送った。

 古町教会郡中教会

 明治三七年(一九〇四)七月八日、長年松山教会の伝道所であった古町講義所が、大本新次郎、菱田中行ら信徒九名をもって母教会から独立し、古町教会として発足した。大本の経営した松山同情館の他、大正初年創立の勝山幼稚園は、時に経営責任者の変更はあったが、常に古町教会と一体となって城北地区の幼児教育に大きな貢献をし続けている。
 古町教会とともに、松山教会の伝道所の一つであった郡中講義所も、独立して郡中教会となった。松山教会日誌の明治二五年四月五ヨの項に「郡中講義所ニオイテ説教会ヲ開キ、二宮牧師、松岡伝道師、菱田中行兄の説教アリ」というのが最初の記事であるが、それ以後何時自立して教会となったか明らかでない。
 なお、共産党活動においてキリスト教信仰を実践せんとした赤岩栄(一九〇三~一九六八)は、明治三六年に生まれ、一〇歳まで愛媛県で過ごした。父赤岩長吉は肱川小学校長も務めたが、神学校を出て明治四五年一一月より大正三年まで西条、小松両教会の主任伝道師であり、その前郡中教会を牧会していたので、栄は明治末、郡中教会で小学校時代を送ったことになる。
 郡中教会は、不幸にして無牧の時代が多かったが、常に松山教会より牧師や伝道師、信徒らの応援を得てその活動を続けて来た。昭和三八年より専任者を得ている。

 宇和島信愛教会

 カトリックの宇和島における伝道は、前述の如く明治二四年に始まったが、プロテスタントはそれより七、八年前、聖書や書籍の販売、路傍伝道や講演会を催し福音を伝えた者があったという。(宇和島信愛教会七拾周年史)そののち、明治一八年(一八八五)松山の人小林某が税務属として来任、松山教会信徒であった夫人虎子は、近隣の人々を自宅に招き、聖書を読み祈祷会を開くなど熱心に道を説いた。そのあと、たまたま、高松教会員尾沢忠元が宇和島電信局長として赴任し、世の嘲笑にもめげず、自宅を集会所として伝道していた。
 明治二一年七月二日、松山教会牧師二宮邦次郎と村上俊吉が来て受洗志願者に洗礼を施し、次第に求道者も増加して来たので、同年一二月、桜町一六番戸西本満衛所有の一軒を借りて正式に講義所を設けた。宇和島信愛教会創立の日である。
 翌年一月、日本伝道会社は、宇和島をその直轄地として定住伝道師大橋信義を送ってきた。その後一五年間に男女合わせて一一名の伝道師を迎え、世間の妨害にも屈せず教会は盛んとなり、同時にその余勢をかって卯之町に伝道の手を伸ばした。しかし、明治二九年、教会は経営上の困難のため、ミッション・ボードの付属となり、外国伝道団体の力を借らざるを得なくなった。ミッションは人・財ともに大きな力を注いでくれた。
 それより先、明治三一年一二月に、宇和島地方繁栄策として遊廓設置の議が起こったことがある。教会は挙げてこれに反対し、宇和島実業青年会と連携して、市の有力者を説き、また地方書記官を訪ねて設置取り消しを陳情した。そのため、三二年一一月、遊廓設置は不許可となった。
 明治三二年三月、松山夜学校校主であった宣教師C・ジャドソンが、教会応援のため宇和島に定住した。伝道熱心な彼女は、常に微笑をたたえ惜しみなく施し、誰に対しても深い思いやりの心をもって父わり、常に明るく優しい雰囲気を醸し出した。その上、シド二ー・キュリックもやって来って卯之町・松丸・近永・宮野下・三間・野村まで福音を述べ伝えたので、教会の気勢は大いに挙がった。
 ジャドソンの宇和島滞在中、しばしば西村清雄(松山教会員であり、松山夜学校長)が来援した。当時、松山、宇和島間の交通は、陸路、犬寄・鳥坂・法華津の三峠を往来する。片道一泊二日の旅であり、ジャドソンは籠に乗ったが、西村は徒歩、草鞋がけであった。昼夜を問わず孤独の山路を越えてゆく旅は、夜は寂寥と不安と退屈の長時間であったが、彼は大自然の中自分の好きな賛美歌の譜(ゴールデン・ヒル)に合わせて作歌しつつこれに堪えるばかりか、これを楽しんだ。この歌が明治三六年以来、賛美歌に入れられ、わが国のみならず国外にまで愛唱者をもつようになった四〇四番「山路越えて」である。後年「山路越えて」を愛する信者たちが、その歌碑建設の募金をなし、一つは作者の学校松山城南高等学校々庭へ(昭和二八年)、もう一つは現地、法華津峠に建碑した。(昭和三〇年七月二〇日 資料編九六〇頁)
 明治四〇年、丸之内一番地に会堂敷地を購入、当時組合教会が全国集中伝道を実施していたのに参加して、中央より宮川経輝、沢村重雄、牧野虎次らの牧師を招き、説教、伝道集会、個別訪間などに力を注いだ。その結果、会員数も増加し自給独立の実力も備おってきたので、同四二年二月、独立式を挙行、ミッション・ボードの手を離れて自立した。
 その後、経済界の不況、思想界の変遷など時流の影響を受け、不振の時もあり、また、これに抗して発展の時もあり、かくして苦楽の歴史を編んでいったが、大正四年(一九一五)、一六年間祈り求めた会堂の新築を遂げ、無牧の時にも絶えず組合教会本部や松山教会の応援を得て、教会としての光を輝かし続けた。

 3 旧メソジスト教会

 明治六年(一八七三)、アメリカ美以教会とカナダ美以教会より、明治一九年、アメリカ南美以教会より、それぞれ宣教師が来日した。美以とはメソジスト・エピスコパルの頭文字に美以を当てたものであるが、この三派はのちに合同して日本の伝道に当たるようになる。明治一九年、アメリカ南メソジストのJ・W・ランバス夫妻は、日本宣教師部員に任ぜられ広島に居を定めて、中国・四国地方の宣教に努めた。

 宇和島中町教会

 明治二〇年春、岡健太なる人物が大阪より宇和島に帰省中、篠原資(明治二二年受洗、宇和島中町教会員)と同船し、話題がたまたまランバスのことに及んだ。これを心にとどめていた篠原が、宇和島にて開校の宇和島英語学舎校長西村静一郎に話し、ランバス招聘を提案した。両人はその後熱心に来宅を望んだので、J・W・ランバス(父)はついに五月、岡健太とともに来訪した。昼は英語学舎で教え、夜は宿舎居村旅館(裡町)に集まる約四○名に聖書を講義した。プロテスタントの種が最初にまかれたわけである。
 同年九月、息子のW・R・ランバスも来宇し、ちょうど旧藩主、伊達宗紀(春山と号す)が九九歳の高齢で病臥していたのを、請われて診察した。その時、ランバスの応接態度が礼にかない丁重であったので、側近は大いに感動したという。宇和島は従来、進取・開化の気風があり、キリスト教及び宣教師は、迫害のあった他の市や町と異なって好感をもって迎えられた。ちなみに、父のランバスは広島女学院を設立し、息子のランバスは関西学院を建て、初代の院長となった。そして、九月二五日、南メソジスト宇和島教会は設立された。牧師は父ランバスであり、一一月、中村草友と笠原隆行の二人が受洗した。キリスト教が伝わってのち約半年にして教会が創立される例は、他にないであろう。その後、宣教師W・A・デヴィス(6年)、W・P・ターナー(11年)、W・J・キャラハン(4年)、J・W・フランク(13年)、J・D・スタット(10年)らが昭和一六年までに定住し、日本人伝道師、牧師と協力して伝道した。
 明治三〇年、教会婦人会として「建徳婦人会」が組織され初会を賀古町柳原宅に開いたが、これは信者のみでなく一般婦人をも含み、自己の信仰と交わりを深めると同時に、月一回貧しい独居老人を招いて会員手づくりの寿司を御馳走し、聖書をぱじめ種々の話題を提供して慰安の時を持った。婦人伝道師は、のちに神戸婦人同情会を開いた城のぶで、明治三一年には遊廓設置に反対する運動や石井十次の岡山孤児院を助ける慈善音楽会を、組合教会及び宇和島実業青年会とともに共催するなど、社会福祉に対する活動は早くより活発であった。
 明治三三年(一九〇〇)に就任した三戸吉太郎牧師(のちにメソジスト教会日曜学校局長となる。)は、児童の宗教々育にとくに関心を持ち、教会のほか、須賀通・元結掛・田内などに出張して、日曜学校教育に力を注いだ。
 明治四〇年(一九〇七)、メソジスト三派が合同するに及び、日本メソジスト宇和島教会と改め、大正六年(一九一七)、創立三〇周年を記念して、ターナー記念鶴城保育園を開いた。これは現在の鶴城幼稚園となっているが、広島女学院(保育科)出身児玉春枝は、宣教師キャラハン夫人とともにユニークな幼児教育を実施した。
 昭和一六年六月二四日、殆んどの全国プロテスタント諸派諸教会が合同して、日本基督教団を設立したとき、宇和島中町教会と改称、昭和五年建築の会堂も戦炎を免れて今日に至っているが、鶴城幼稚園で育ち、教会出身である岩村昇は、昭和三七年(一九六二)ネパールに赴き、キリスト教医療に献身した。そして、岩村博士への絶えざる物的・心的援助は、教会をはじめ宇和島市を中心に全国的規模に発展している。宇和島市は、岩村昇博士を、同市の名誉市民に推戴した。また、当教会員三好麟児は、宣教師エリノア・ワーンと、昭和三一年より滑床において公私立中学・高校生を対象とする英語キャンプを続け、英語と青少年教育に貢献している。

 八幡浜教会

 八幡浜教会日誌(明治二三年)に、「明治一七年キリスト教宣教師ハースト並に桜井の両氏当地に講演会を開く。同一九年同人社卒業生西村静一郎教師となり英語学校を開校す。同志五、六名相集まり聖書の研究会を開く。疑惑の箇所は在神戸ランバス師に正す。」と出ているが、その集会が定期的に続くのは、明治二一年(一八八八)一〇月一一日、旧港にあった西村静一郎宅での聖書研究会からであった。そして、教会はこの日を創立記念日と定めている。会員は西村を含んで八名、しばらくして二名の参加がある。週当たり二日(日曜日と水曜日)の研究会を持ち、クリスマスには「会員一同集会し互に祈とうし互に賛美し互に談話し実に各々心中愉快を覚」(同日誌)えたのであった。
 そののち、西村の転出があって会は二宮茂俊に引き継がれ、二二年、J・W・ランバスの来訪を受けて八幡浜・川之石などに伝道旅行をなし、力を得て会員の増強、日曜学校と英語夜学校の開校、大伝道会の開催など、教会形成は着々と進行した。その間、二五年一二月一日には、教会最初の結婚式がデヴィス宣教師の司式で行われている。
 明治二八年に本町に移り、南メソジスト八幡浜教会と改称、宇和島教区より分離し、一教区としての歩みを確立した。同三六年一月、八幡浜教会にて受洗した佐渡高堅・森分小稲や森分家の人々がそれぞれ牧師、伝道師となって母教会の牧会と伝道に力を尽くし、教会内各グループの結成、中央講師を招いての特別伝道、早天祈とう会の開始など活動を活発にし、大正一〇年(一九二一)、牧師館並びに土地買入の計画を立て、同一二年、思い切って補助教会より自給独立教会となった。同一五年、八幡浜幼稚園を経営、昭和四年、教会堂建築募金に入り三年をかけて、ついに昭和七年(一九三二)五月一五日、待望の献堂式を挙行した。
 教会は、八幡浜周辺の各地に伝道し、教会や伝道所を産んでいる。日土教会・保内教会とは特に関係深く、三教会一体の心構えをもって活動、地方教化の使命を果たしている。

 松山番町教会

 明治二一年八月、南メソジスト教会年会は、当時、和歌山中学教師であったC・B・モズレーを広島部松山巡回に任命したが、彼はその任務が終わるや、翌二二年一月一一日、松山に来た。そして、その五月、須山忠政を校長とする実用英語学校を三番町に開設した。集まるもの一五〇名、その中から永井文吉、須山忠政ら五名が信仰を告白して受洗し、やがて松山講師所が作られた。
 英語学校は、主として男子のためであったが、それと平行して伝道婦学校なるものがあった。そして、講義所の男性が路傍伝道、トラクトの配布などに努力する傍ら、女性は各戸を訪問、伝道に協力した。
 伝道日誌をひもとくと、伝道婦一〇人の名が並び、浅山けん(三三回)、林よし(三二回)と訪問回数が書かれている。その中に、城のぶの名前も見える。
 城 のぶ(一八七二~一九五九)は、温泉郡川上村の出身、向学の志強く明治一九年開校の松山女学校へ通学していたが、伝道婦学校にも入り、遠く一二㎞の道のりを男装、草鞋がげで通った。男装というのは、当時田舎道、夜道は大そう危険であったからである。その後、上京して神学校を終え、弘前女学校に勤めていたが、父の死により帰郷、自宅を開放して神の道を説いた。これが後に川上教会となる。
 大正五年(一九一六)、神戸に出て摩耶山上、三日三晩の熱とうを捧げ、神より恵まれざる女性のため一生を捧げよとの示しを受けて神戸婦人同情会をつくった。当時、職業に身をくずす女性が自殺しようとして行きついた須摩、明石の海岸に、「ちょっと待て、神は愛なり。死なねばならぬ事情のある方は、すぐにいらっしゃい。」の看板を立て、それを見て救われた女性は数千を数えたという。
 明治二四年(一八九一)二月一日、モズレー宣教師司式の下に会員一五名で礼拝を行い、引続いて第一回教会会議を持ち、教務の分担を決めて教会組織ができ上がり、松山美以教会が誕生した。時に会員二四名、洗礼志願者二六名であった。
 明治二〇年、教会は、僅少なメンバーで苦心献金し、金五〇〇円をもって二番町一四番地に教会敷地を購入した。しかし、英語学校や伝道婦学校は余り振わず、数年間は沈滞の域を脱出することはできなかった。
 しかし、その中にあって明治二二年の当初より三津浜へは衣山を越えて伝道、講義所を設げた。力を入れたのは、デュークス、ホーキンスの両伝道師と西村静一郎であった。
 教会は設立されたが教勢は振わなかった。数年間とはいえ、明治二七年七月一三日は、ランバス会堂と称する教会堂の定礎式を行い、瓦葺洋風平屋四〇坪の会堂と二二坪の牧師館を建築した。そして、従来、多度津と一緒であった松山巡回を分離して、松山、長浜、三津浜を連合して一教会を樹立することとし、献堂の日(一二月二三日)をもって、松山メソジスト教会の設立日として県に登録した。
 明治三一年、マイアス宣教師の後を継いだデマリーは、大正一二年まで実に二五年の長きにわたり働いて、エホース同盟会や旭光運動などを通して、「旭光を多数の人心と家庭に」を標語とし、貧しき家庭へのクリスマス・プレゼントや、当時、在松していたロシア人捕虜への親切運動、また、メソジスト三派合同を記念した特別大伝道会などを催した結果、教勢は向上、従来、アメリカ南メソジスト・ミッションに連なっていた教会も、その手を離れて日本メソジスト教会に属することとなった。明治四一年三月である。
 同年一〇月五日、デマリー宣教師は付属幼稚園を開き、園児一四名をもって出発したが、これが現在七六年の歴史をもつ親愛幼稚園の始めである。これを明治三七年の保育園開設からとすれば八〇年の歴史となる。
 その後、西堀端講義所を合併して大正一三年三月二三日、日本メソジスト松山中央教会と改称し、教会体制を整え、昭和二年九月、一四五坪の大教会堂を完成した。
 キャラハン宣教師は、その勢をもって愛媛天幕伝道隊を砥部へ派遣し、また、砥部農民学校を開き、それ以来二四年に渉り出張伝道地として育成して来た砥部は、昭和二五年(一九五〇)五月、独立して砥部教会となった。翌二六年八月、教会堂を献堂、愛育幼稚園を経営して、地方の伝道と教育によき働きを続けている。
 メソジスト松山中央教会は、講義所時代から三津浜の伝道に力を入れて来たが、同三七年今井昭徳伝道師が三津浜に定住できるようになり、独立へ向かって充実しつっあった。そこで、大正一〇年(一九二一)、三津桂町(現神田町)に教会を建て、日本メソジスト三津教会として発足した。その後、高浜にも伝道所を置き兼牧、港町にキリストの光を輝かしているが、とくに、藤田茂牧師のとき、昭和二四年社会福祉法人愛隣園を設立し、愛隣保育園を経営するとともに、同四八年、老人福祉施設ガリラヤ荘を川内町松瀬川、川上教会に隣接して開設し、寝たきり老人の養護に尽力している。
 明治二八年、城のぶが自宅を開放して始めたキリスト教の集会は、松山メソジスト教会に受け継がれて、日曜学校や子ども家庭集会となり、やがて明治四五年一〇月二日、福地平之進牧師によって川上講義所となった。川上教会の誕生である。現存している会員名簿によると、設立はもう、五年から七年遡るとも考えられるが、確かなところは未詳である。しかし、農林開拓を目指す川上教会は、特異な存在であって、『メソジスト五十年史』には、「川上に定住して伝道せしは、大正五年頃、熊石太郎を初めとせしものの如く、福地平之進は大正七年より十か年定住して此地に勤労をつくした。宣教師キャラハン、農村伝道に関する使命を感ずるや、此地に力を注ぎ、自給自足を主体とする農村教会の設立を計画した。昭和七年一個の自給教会となし、農家経営の設備を整え、約二五〇〇円を費した。昭和一〇年には教会堂、牧師館を建設し、今後に対する特殊の希望と使命とに燃えて居る。」とある。
 戦後は、松田鈴雄牧師が専任となり、昭和二五年より三三年間、農業牧畜を営みつつ自給伝道を続け、昭和四八年、教会と隣接してガリラヤ荘の設けられたときから、ホームの老人たちの精神的な救いと支えの使命を果たしている。

 卯之町教会

 明治一八年(一八八五)、大洲の桜井昭悳(八四四頁参照)が卯之町へやって来た。彼は五年前より大洲、八幡浜、卯之町、吉田などでキリスト教を説いていたが、大洲で強い迫害に遭い難を逃れて卯之町に来り米倉秀雄宅に一か月滞在した。これがプロテスタントの、卯之町への第一歩であった。卯之町はシーボルトの門人であり、また、彼の娘イネを養育し、天保三年(一八三二)帰郷して医業を務めた二宮敬作の里であったので、外国に対する感情もおおらかでキリスト教への迫害はなかった。
 さて、明治一九年三月、末光類太郎・清水伴三郎・清水徳太郎・末光平十郎・古谷久綱らは、東京遊学のため故郷をあとにし、中途京都に一泊したところ、伊予商人の定宿湯浅旅館(東洞院)の主人が彼らの雄図を知り、「それなら東京まで行くには及ばず、ここ京都に一風変わった同志社というものがある。是非に」と勧めた。そこで、五名は早速新島襄に面会を請うた。玄関を入ると下男が出て来て彼らの下駄を揃える。そして応接室に待つ間もなく現われた主人新島は、驚いたことにさきほどの下男であった。米国事情、生活、人情の話から、これからの日本青少年の使命などに話がわき、帰途彼らは異口同音に東遊を断念して京都同志社に学びたいと言い合った。
 明治二二年七月、同志社に学び、新島の教えを受けてキリスト教に入信した清水や末光らは、夏期帰省して日曜学校を開いたが、(出席者は一〇〇名~二〇〇名であった。)これが継続されて、教会設立の大きな原動力となった。
 なお、清水と末光らは卯之町庄屋の一族であり、町政の責任を負った家柄であるが、この二家族を中心に続々と同志社や札幌農学校に遊学するものが出た。そして、東宇和郡立農蚕学校から宇和農業高等学校に発展してゆく地方教育に、北海道大学・同志社大学出身の学士教諭が多く奉職して、学業とともに人格的な感化を与えた。
 一方、宇和島組合教会(明治二一年創立)では、教会内の体制を整えると、吉田、卯之町への伝道をはじめ、常任伝道師を置き、宇和島組合教会牧師東正義・宣教師ターナーやジャドソン、あるいは吉田メソジスト教会等も応援して、大正一一年(一九二二)七月四日、卯之町教会は誕生した。
 教会堂は、大正一五年三月に完成したが、清水伴三郎の子息二人が、日曜学校に通い教育を受け、是非とも日曜学校校舎を建てたいと決意し、二人して父に依頼して畑を預かり、野菜を作って町に売りその金をためて五〇〇円とし、同志社入学の時、父親に手渡して日曜学校校舎の建築を懇望した。父は純粋な熱意に感じ、金を足して息子たちの志を実現したが、この話に感激したアメリカ・メソジスト教会の信者たちからも多額の献金が贈られたという。地方の教会としては立派な教会堂たるゆえんである。
 卯之町教会には、末光績(農蚕学校第三代校長)、末光信三(同志社大教授)、荒川重理(別府大学教授)、末光千代太郎(元伊豫銀行頭取)など有名人が多い。

 4 旧日本基督教会

 大洲町若宮に桜井昭悳なる者がいた。神官宇都宮若狭の長男に生まれ、家を継ぐことを望まれたが喜ばず、東京に遊学した。しかし、学費が続かず方向を変えて海軍に入り少尉に任官した。明治九年八月、米国宣教師タムソンより受洗し入信、気性は激しく僧侶と激論するなど熱心に伝道した。士官として北海道に航行した際、ロシアに対する北方の守りに心を配り自らその地にとどまったが、伝道心も旺盛で遂に軍を去って伝道者となった。函館教会は昭悳の創立したものである。明治一三年(一八八〇)、故郷に帰り大洲・八幡浜・吉田・卯之町にて初めてキリスト教を説いた。彼はその伴侶たるべき女性は、信仰とキリスト教的教養の持主であるべしとし平野ちかを選び、彼女を横浜共立女学校に入れ、卒業を待って結婚した。間もなく函館を去り上京し、桜井女学校(のちに現在の女子学院と合併)を創設した。

 大洲教会

 昭悳は東京では浅草教会をはじめ牧会したが、明治一七年病を得て帰郷した。そのころ、松山第一基督教会(日本基督教団松山教会)牧師二宮邦次郎らも三度にわたり大洲へ伝道していたが、桜井昭悳にこれを委任した。翌一八年(一八八五)、昭悳は末広町一丁目堀江九八宅にて数名の求道者と安息日を守り集会を続けていたが、迫害を受けて一時、卯之町に逃れた。その後、帰郷して中村殿町安川静石宅に講義所を設け、日本基督一致教会より宣教師アレキサンドル及びハーストを迎えて一二月一〇日、初めて洗礼聖餐の式を挙げた。受洗者は一三名、この中には、のちに牧師となった者五名あり大洲教会を牧した者もあって、これら一三名は教会創設に大きな力となった。
 明治二〇年三月一七日、アレキサンドル宣教師の司式にて教会設立式を挙げた。日本基督教会(プレスビテリアン)系として愛媛県最初の教会である。

 松山山越教会

 明治三〇年七月、大洲教会牧師に就任した皆田篤実は、風光明媚、人情醇厚、しかも中江藤樹以来の学問の伝統をもつ城下町大洲も、宣教において重要ではあるが、やはり県都松山に進出してそこを中心とすることがより重要であると判断し、松山の山本政元宅に同信の友九名を集め、大洲教会伝道所開始礼拝を行った。時に明治三一年三月であった。席上、
  (一) 聖書の真理に立脚する純正福音的な教会の建設
  (二) 伝道を第一使命と自覚する信徒の集い
  (三) 信仰的、物質的に教会の独立を堅持するため、各自二円以上の献金
を申し合わせ将来への方針とした。そして、皆田牧師は一年の後大洲を辞して松山市出淵町二丁目九番地イの一四番戸(借家)に移住し、「日本基督教会松山講義所」の看板を掲げた。その日は明治三二年四月一三日で、現在の日本基督教団松山山越教会の誕生である。
 松山は既に組合教会(大街道)、メソジスト教会(二番町)とが、十数年に及ぶ伝道をしているので、軍人や政党関係など未着手の方面に道を説き、困難な中にも次第に信徒の数を増していった。プレスビテリアン宣教師団は、アーサー・ブライアンを派遣、彼は第二代浜田政重牧師とともに働き、教会堂建築のための献金をアメリカに訴え、信徒また自ら献金を集めて、ついに榎町五番地の空屋敷を購入移転した。しかし、屋敷は荒れ果て瓦は落ち軒は傾き庭に雑草が繁っていたが、一同が精魂を込めて清掃整理したので、見違えるようになった。
 その後、八〇名を越す教会員たちは、待望の教会設立を議決し、明治四一年(一九〇八)六月一八日、名称を「日本基督教会榎町教会」として県に出願し、続いて教会堂建築に踏み切った。
 第四代佐々木国之助牧師は、「伝道は礼拝説教にあり」との信念から、主力を聖日の説教に注ぎ祈りを重んじた。自転車による家庭訪問に努め、和服で跨る自転車姿は、紋付羽織が風を含んで、あたかも古武士が甲胃に身をかため母衣を負うて出陣するように見えて評判であった。
 当時、愛媛県師範学校教員に赤井米吉がいた。石川県の生まれであるが、一四歳の時洗礼を受け石川県立師範学校に学ぶとともに、校内に聖書研究会を設け、広島高等師範学校に進んでは基督者グループ光塩会の代表として活躍したが、松山に来て榎町教会に属した。彼は新教育ダルトン・プランを研究し、学校のみならず教会における日曜学校でも校長として優れた指導をなし、生徒数も倍加して一二〇名から一三〇名となった。
 その後、福井県水産試験場に転じたが、昭和一一年六月、英国における第七回世界新教育者会議に招かれ、昭和三二年一月、全国市町村教育委員会会長にも推され、教育功労者代表として藍綬褒章を受けた。
 大正六年(一九一七)、佐々木牧師は、結婚二〇年を記念し教会のため心を新たにして努力することを神に誓い、その一つとして大講演会を開いた。東京富士見教会牧師植村正久・高知教会多田素・名古屋教会吉川逸之助を講師とし、県公会堂は聴衆で一杯となった。ところが、定刻となっても佐々木牧師が来らずどうしたことかと心配していた幹事の耳に、連日の過労で流行性悪疫と診断され隔離病舎に運ばれたとの報が届いた。やむをえず多田牧師が司会して植村正久の講演を終え、あと二日の会は佐々木牧師の快癒を待って開会することを約し、中止の旨を述べ会衆の了解を得た。しかし、残念なことに翌日、佐々木牧師は神の召したもうところとなった。
 第六代山口重太郎時代、教会の独立を念願し、聖書に基づく信仰の確立、特別伝道(講師は金森通倫・川俣義一・和田方行ら)集会、家庭訪問などを通して信徒倍加運動に励み、大正一一年(一九二二)九月一四日、教会建設式を挙行、長年援助を惜しまなかったミッションに対する感謝と各教会員の決意を披露して、自給独立を宣言した。講義所を創設してより実に二三年六か月後であった。
 独立を期した教会は、当時の伊予郡原町村宮内・同郡砥部村・温泉郡坂本村久谷・同郡拝志村・同南吉井村・荏原村など松山市郊外東南部一帯の農村伝道に力を入れた。砥部村の伝道は、のちに番町教会が継承し、砥部教会になっている。
 第七代牧師鈴木伝助。大正二一年、後にカトリックに転じた田中忠夫が、松山高等商業学校創設のため教授に招かれて来り、榎町教会に入会、とくに日曜学校校長として熱心に伝道し、それを期に宣教師ダスカーの父の献金もあって、日曜学校校舎と牧師館がささげられた。これには教会員たちも生活を切り詰て献金するとともに、手編みネクタイの制作、家宝の換金、設計料の謝絶などもあって、一同の信仰と赤心とが生んだ建物であった。 昭和四年(一九二九)一一月八日、愛媛県知事は県令第九四号をもって「神仏道以外の宗教に関する規則」一八条五二項を発布した。これによると教会は人口によって制限せられ、神社、学校、病院の近く二〇〇m以内に建てられず、警察署長の調査報告によって教会の設立可否を定め、宣布方法、区域、布教者の変更、信徒参集の禁止、さらには急迫の時、それらの権限を警察署長にゆだねうるというようなものであった。
 これに対し、キリスト教を始め各宗教関係者は、教派を超えて一致、愛媛県信教自由連盟を組織し、県会は著しく信教の自由を阻害無視するものとして、その撤廃を求め、抗議運動に立ち上がった。そのため、県内外より精神的、物質的な援助が相次ぎ、一二月一四日、約一か月ののち、信教の自由に抵触する部分はことごとく除かれた。
 昭和六年二月、鈴木牧師は既成の教会よりも自由な宣教を望んで新しい教会の設立を求め、青年男女二〇数名とともに、鮒屋町に移り、新しく松山城東教会を設立した。同六年、後継者として平松実馬が着任、以来二六年を超える牧会伝道に従事した。平松牧師は、和服と鬚と詩吟の牧師として市民に知られ、伝道者として国内のみならずアメリカを巡回すること三回に及び、亀ケ谷凌雲・植村環・藤本寿作・城のぶ・森好春ら特別講師を招いての大伝道集会、教会員の転居をきっかけとした新居浜伝道所の開設など、幅広い宣教活動を展開したが、新居浜伝道所は、やがて新居浜梅香教会として独立した。

 5 アライアンス教会

 カナダのノヴァスコシアに一人の信仰深い医者がいた。彼は一二人の子だくさんで、男子一〇人のうち七人が牧師になったという家庭である。長男エドワード・フランシス牧師も三男四女の子福者であったが、その二男トーマス・フランシス、二女ルーシー・メーベル・フランシス、そして四女のA・F・デビンドルフ(夫デビンドルフとは結婚後一年にして死別)の三人は、明治四二年(一九〇九)より相次いで来日、アライアンス教団宣教師として日本伝道に献身した。
 アライアンス(協同)教団は、一八八九年、A・B・シンプソンによって始められ、特に全世界において他の教派がいまだ伝道の手を延ばしていない地域に対する使命を持つもので、わが国もその対象の一つであった。しかも、その中で、農村都市を巡回した。広島に本部を置き、中国(山陽15、山陰4)、四国(18)、関西(3)に力を入れている。そして、四国(18)はすべて愛媛県なのである。( )内は教会及び伝道所数。

 松山協同基督教会

 初め、広島県庄原で伝道したが、松山へは、T・R・フランシスが大正七年に三四歳で赴任、市内柳井町河内宅で第一回集会を開いた。大正一三年(一九一二四)、ミス・フランシスが来松し、翌年教会を湊町新町に移し、開拓伝道に着手、各地各所を歴訪した。たまたま、福山郵便局長を退いて牧師となった緒方繁造も加わり、毎年一か所ずつ伝道所を開く計画の下に、郡中・北条・柳原・岡田・松前・今出・高浜・内子・宇和島・今治など、持ち回った大天幕の中や、借り受けた劇場、公会堂などにて集会を持ち、フランシス・
緒方のコンビによる伝道は大いに力を発揮した。
 ところが、アメリカにおける経済恐慌のため、アライアンス本部から外地宣教活動費削減の故をもって、日本伝道中止の報が入った。昭和九年であった。しかし、フランシス兄妹は、「神よりの引掲げ命令はまだ来ていない。」として踏み止まり、全く孤立無援の中で神の助けを祈りつつ堪え抜いた。
 その後、わが国は戦争体制に突入し、日米関係はひっ迫してミスター・フランシスは帰国を余儀なくされ、ミス・フランシス姉妹は、前回同様、米国政府の引き揚げ勧告も退けて滞留し、そのため東京拘留所に転送された。
 終戦となった。フランシス姉妹は、昭和二一年、松山へ帰り、牧師緒方繁造と直ちに教会の再建にかかり、伝道を再開しのぞみ幼稚園を併設して幼児教育にも努めた。アライアンス教会は、文字通りミス・フランシスと緒方との協同によって栄光を顕わして来たが、緒方牧師は昭和三六年に永眠、彼を記念して翌々年見奈良教会が建てられた。その建築費に捧げられた資金は、戦時中アメリカへ帰国して死去した弟T・R・フランシス牧師の遺産であった。
 なお、フランシス女史は、自教会のみでなく松山市全般の救いにも心を留め、特に戦後は市内各教会の青年たちが連合して信仰を養い伝道に励んだ時、彼らの顧問として、助言と助力とを惜しまなかった。わが国における女史の献身と犠牲の一生(六五年間)に対し、国は叙勲し、昭和四〇年八五歳にて帰国の際、松山市は名誉市民の称号を贈り、その感謝送別の会に集まった市民は県民館に溢れた。
 昭和八年(一九三三)、伝道を開始した今治教会は、第二次世界大戦前から戦後にかけて非常に困難な時期にも拘らず、宮地達牧師がこれを死守し、基礎を築いて同三一年に新会堂を建てた。四八年より松山刑務所大井作業所(造船)教誇師に選ばれ、地域と提携して刑務所伝道を続けている。

 松前教会郡中南教会

 大正一五年(一九二六)五月一日より八日間、T・R・フランシス夫妻、大江邦治、緒方繁造らは、郡中栄町(伊豫市)に天幕伝道をなし、また、昭和五年(一九三〇)、ミス・フランシスが松前町に特別伝道集会を開いた。
 そののちは、松前、郡中の両教会は、昭和四一年(一九六六)まで、常にどちらかの担任者が他方を兼任し、例えば日曜朝の礼拝は郡中にて、夕拝は松前にて行うという予定表を立て、すべては二つにして一つの教会として伝道と牧会がなされてきた。
 とくに、松前では「教会堂が建つならば、目でコンコ(沢庵漬)をかんでやる」とまで言われたが、米岡寅次郎・戸田義雄(松前町出身)牧師の献身的な活動によって、福音の種が蒔かれてより三七年後に、信者の並々ならぬ努力とあいまってそ九が実現した。
 この二つの教会は、初めアライアンス教団の伝道で育てられ、昭和一六年、わが国プロテスタント教会の教派合同が成立した時、日本基督教団に入った。そして、戦後となり昭和二六年アライアンス教団ほとんどの教会が教団を離脱したときもそのまま止まり、現在もなお日本基督教団教会として伊予郡における宣教の一翼をになっている。

 柳原教会北条教会

 大正一四年(一九二四)、ホーリネス教会信徒沼田通一(のち、柳原教会員となる)が、柳原にて路傍伝道を行ったことがあるが、翌年、ミス・フランシスが戎座において集会を持ち、家庭集会などにより伝道を続け、昭和五年伝道所としての形が整った。戦前は松山や北条から兼任教師が来り牧会していたが、同二
二年、当時疎開して柳原に滞在していた曽川清牧師を迎えた。曽川牧師は定住し教会堂を建て保育園(園名は白百合)を設け教勢を高めたが、昭和三七年、現在地に移った。
 北条教会は、昭和五年、林牧師が定住、柳原教会を兼ね、これを育ててきたが、戦後は逆に柳原の方が大きくなり、倉敷紡績の女工員も柳原へ通う状態であった。しかし、現在は再起し、それぞれ、独立して宣教に努めている。

 6 日本聖公会

 日本聖公会は、世界各国の聖公会と同じく英国聖公会とその起源を一にする。主イエス・キリスト自ら宣言せられて、預言者と使徒の上に建てられた聖なる公(公=普遍の意味)教会は、紀元二世紀の末英国まで伝えられた。その点では、カトリック教会の信仰と伝承とを受け継いでいるが、ローマ教皇の教権と統治に逆らった点ではプロテスタント(反抗・抗議)である。つまり、旧教と新教の中間者といえるのであって、現在行われている教会再一致運動(エキュメニカル・ムーブメント)には、新旧両教の仲介役として、イ二シャティヴを取っている。
 日本へは、安政六年(一八五九)、米国聖公会より二人の宣教師が来り、そのうちC・M・ウィリアムズは最初の江戸主教となって、わが国の主要都市を回りその基を築いた。その後、明治に入って英・米・加の聖公会も宣教師を送ってその教えを広め、明治二〇年(一八八七)二月一一日、主教、聖職、信徒たちが大阪に会合し、第一総会を開いて日本聖公会を発足させた。
 愛媛県では、大洲聖公会が最も古く、明治三四年(一九〇一)福音の種が蒔かれ、明治四三年、下関より神戸へ向かう途次、イギリス人ケテルウェルが肱川をさかのぼって大洲に来り、翌年講義所を開いた。
 大正一〇年(一九二一)、大洲聖公会は松山市に伝道所を開き、翌年、中野忠治長老(のち司祭となる)が市内玉川町に定住して講義所を作り、昭和六年、御宝町に間借りして聖アンデレ教会を設立した。南持田の現在地に移ったのは、昭和八年であった。
 八代欽一司教が松山在住の折、昭和二四年(一九四九)、新居浜市に教会を建て、県下における三教会はともに大きくはないが、地に着いた歩みを続けている。

 7 日本バプテスト連盟

 バプテスト教会の日本伝道は、万延元年(一八六〇)、横浜に来たゴーブルによって始められた。彼は嘉永六年、ペリー提督黒船来航の乗組員としても来ていたが、のち漂流民仙太郎を伴って来日したのであった。横浜・東京・大阪・九州と伝道圏を広げていった。
 そもそも、アメリカ・バプテスト教会には、北部及び南部のバプテスト教会があったが、ともにわが国に来り、北部バプテストが日本の東部地方を、南部バプテストが西部地方をそれぞれ分担した。昭和一六年プロテスタント教会合同のときは、日本基督教団に入ったが、終戦後、まず、西部が分離独立し、日本バプテスト連盟を、のちに東部も分かれて日本バプテスト同盟を結成した。愛媛の教会は、全部戦後に出来たもので連盟のほうに属している。
 連盟が出来たとき、宣教の方針を日本全国県庁所在地にまず教会を建設することに決め、それに添って昭和二七年(一九五二)六月、ミス・エリザべス・ワトキンスが松山へ赴任、開拓伝道を始めた。天野五郎牧師、ミス・フランシス・ターレーも加わって翌年に松山バプテスト伝道所とし、続いて教会堂を建てた。
 ワトキンスと踊俊雄とは、昭和三〇年七月今治へ、同三三年六月八幡浜へ開拓伝道を始め、それぞれ八年、一一年をかけて会堂を建て教会を組織した。
 昭和四八年一〇月、松山教会より信徒三〇名が分離し道後教会を産み、バプテストは県下四教会となった。連盟の援助を受けつつも、自給を目指して進んでいる教会は、礼拝重点主義、個人伝道に徹し、地道な歩みを続けている。

 8 日本ホーリネス教団

 ジョン・ウェスレー(メソジスト教会創始者一七〇三~一七九一)のメソジスト教会より分かれて、東洋宣教会を設けた中田重治(一八七〇~一九三九)が、さらにこれを改めて大正六年(一九一七)に作ったのが、日本ホーリネス教会である。新生・聖化・神癒・再臨の「四重の福音」を高調する。昭和一六年、新教各教派がほとんど合同して日本基督教団を作ったとき、これに参加したが、翌年、政府の弾圧により解散を命ぜられた。
 戦前、愛媛のホーリネスは、松山・菊間(昭和七年)・今治(昭和一三年)・新居浜(昭和二年)にあったが、やはり弾圧のため牧師は拘留、教会は解散させられた。終戦後、教会は再建に入り、今治出身の青野雪江教師は郷土伝道を志し、東予を中心に努力的に巡回、新居浜・壬生川・西条・宮窪・菊間・北条に次々と教会を建設した。ホーリネス教会にとって忘れ得ぬ教師である。
 そののち、新居浜からは土居が、北条からは松山北が生まれた。松山桑原教会は、松山在住の柳谷教会会員四名が中心となって、開拓設立した教会である。ホーリネス教会は、松山と新居浜の間に十一の教会があり、絶えず連絡交流し、相互に協力しあい、特に青少年伝道に力を入れている。他の教会の多くが、保育園・幼稚園を併設しているが、ホーリネスには一つもない。

 9 日本キリスト改革派教会

 神戸で履物工場を経営していた平岡伝四郎が、昭和三年(一九二八)、アメリカ宣教師マヤスと賀川豊彦とによって開拓された岬伝道所(のちの須磨の浦教会)に通い、信仰告白して熱心な信者となり教会の中心的役割を果たしていたが、戦災にあって故郷松山に帰って来た。やがて終戦となり平岡は廃墟松山にキリストの福音を伝えることに使命を感じ、自宅を開放して近隣の高校生を招き、ともに聖書を読み賛美歌を歌い合った。香川県に赴任したL・W・モーアー宣教師の来松をチャンスに、横河原国立療養所をはじめ、田窪・平井・堀江・荏原と伝道を拡大し、二二年九月、日本キリスト改革派松山伝道所の看板を出した。中央より講師を招き興居島にて修養会を開き、信仰の確立と教会形成の準備をなし、昭和二四年五月二九日、平岡の家で教会として正式に発足することとなった。(男女合計一三名)
 愛媛大学学生寮に呼びかけ、農村伝道に自転車を走らせ、東奔西走、小さいながらも今治まで伝道を拡張し、二六年四月、専任牧師宮道夫を迎えた。翌年、松山市一万町六ノ四に教会敷地を求め続いて新会堂を完成した。その資金集めには教会員の並々ならぬ努力があり、絶えざる祈りの中に、青年たちは道後駅や国鉄松山駅前にて靴磨きをなし、老人たちは好きな風呂の回数を減じ、婦人たちは石けんを売るなどして益金を教会のためにためた。一方、モーア師は会員の熱意に感じ、ミッションへ働きかけてアメリカよりの寄付三〇万円を捧げた。
 青年は、機関誌「ぶどうの樹」を発行、お互いの信仰の研鑽に資し、愛大工学部(当時新居浜市)に学ぶ学生三人が発起して始めた聖書研究会には、牧師・長老の応援もあり、やがて、それは新居浜伝道所となった。

 10 単 立 教 会

 どの教団どの教派にも属さず、独立して宣教に励んでいる教会がある。松山信望愛の家(養護)と松山乳児院を経営する信仰告白コイノニア教会、聖園墓地を管理する愛媛聖園基督教会などがそれであるが、中でも強力な教会として活動しているのは、松山福音センターである。牧師万代恒雄は、昭和三〇年松山における開拓伝道を志し、重病に苦しむ人たちを親しく慰問して神癒を祈ったが、不思議に回復した二〇名を中心に集会を始めた。時に同三一年六月、付き添いを含めて三〇名の者が母体となり松山福音センターは生まれた。現代精神医学に添いつつ注射と薬なしでいやすクリニックや、企業講演に出張し真に人を生かす方法や、ミニFM・救いのダイヤル(三分間)、また、ラジオ放送(全国一四局)によってキリストの救いを伝え、さらには海外伝道にも力を入れて毎年二六か国を巡り、既成のものに囚われず新しい発想とノウハウをもって救霊と教会形成に努めている。