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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 カトリックの宣教と愛媛県

 1 中 予 地 区

 キリシタン禁令が解かれ、再び布教が始まって最初にカトリック教会の神父が四国に到着したのは、明治一五年(一八八二)三月であった。パリ外国宣教会のメリー・プレッシ神父は大阪より高知県須崎に上陸し、そこから徒歩で高知に入り伝道を開始、六年後には教会と司祭館を建てている。

松山教会

 では、愛媛県ではどうであっただろうか。明治一八年(一八八五)ころ、同じパリ外国宣教会派遣として、大阪司教区より深堀達右ヱ門神父が松山に来り、数名のものに洗礼を授けた。しかし、これは一時的な巡回伝道であり定住ではなかった。そして、松山に初めて居を構えたのは、明治二〇年(一八八七)七月に来松したエンリケ・ダリトン神父であった。そのうち同二五年(一八九二)アントニオ・レイ神父、同三一年フェランド神父が松山駐在に任ぜられ、それぞれ伝道に努めたが、一般に松山はキリスト教に対する関心度が薄く、保守的なためか宣教は成功したとは言えなかった。そこでまず、不幸な病人や見捨てられた貧しい人々に心を向け、慈善事業を通じて多くの者を救い、信仰を与えて天国へ送った。しかし、長続きしないでその後三年間は宣教師がいなかった。
 宣教師不在の間は、宇和島に伝道のイシドロ・シャロン神父が適時松山に来りこれを兼牧していたが、県都こそ布教活動の舞台であり中心でなければならぬとして、明治三五年(一九〇二)に松山に移った。そして、前任者の事業を受け継ぎ、また、県庁の職員や学校の教師にフランス語を教えて文化的な活動にも力を尽くした。そして、教会のためにかなり広い土地を久保町に買い求めた。しかし、宣教はその努力にもかかわらず、労多くして収穫は少なかった。
 明治三七年(一九〇四)二月、日露戦争が始まり、突然に信徒の数が増した。それは約二〇〇名のポーランド人捕虜が送られて来たのであった。シャロン神父は当局の許可を得、捕虜たちが収容されている寺々や病院を巡回し、日曜日ごとにミサをあげた。(資科編八九七頁)
 当時、松山にはハリストス正教会もあって、捕虜たちのために宗教的慰安を与え、同時に日本にて死去したロシア人捕虜を記念するため、一番町に聖堂を建てた。(八二二頁参照)フィリッピンのドミニコ会が再び日本への宣教を願い出て、今まで四国を担当していたパリ外国宣教会と交替したのは、明治三七年(一九〇四)であった。そして、翌年五月マニラから初めて送られて来た五人の神父のうち、ファウスティノ・ロドリゲス神父は、松山教会に最初のドミニコ会宣教師として着任した。次いで、アンドレス・シモン神父が来り、市内三番町に敷地と家屋を購入して司祭館とした。
 第三代ファン・カルボ神父は、恵まれない人たちのために無料診療所を開き、第四代クラウディオ・ニエト神父は、大正一〇年(一九二一)、レンガ造りのヨーロッパ式教会堂を建築した。毎日鳴りひびいた鐘はスペインから贈られたものであった。(資料編九〇一頁)
 その頃、ファン・カルボ神父は、女学校建設の計画を立て管理をロザリオ管区ドミニコ修道女会に委託した。そして、大正一三年(一九二四)、久保通りの教会所有地に一棟の校舎を建て、翌一四年四月一四日に開校式を挙げた。美善女学校という。生徒二〇名と教師六名であった。教師のうち三名は修道女ソール・テレサ・スアレス、ソール・パトロシニオ・アルメンダリス及び日本人ソール・アヌンシアション・山内である。
 昭和三年(一九二八)、マカリオ・ルイス神父(一八九四~一九六八)が、松山教会主任司祭に任ぜられた。神父は異教の地における布教に大いに力を注いだが、中でも美善女学校が経営難に陥り、幼稚園への転換もやむを得まいと大勢が傾いていった時、その存続の必要性を管区長に強く訴え、そのため学校を女子商業として再生に踏み切らせた原動力となった。爾来、生徒数も増し加わり現在は聖カタリナ女子高等学校として生徒数県下最大の女子高校となっている。
 また、神父は四国におけるキリシタン・カトリック史研究と執筆のため、資料の収集、現地調査などに東奔西走し、貴重な資料の発見とともに、四国教会史、四国キリシタン史(昭和四四年高松にて刊行)の原稿を残した。(資料編八九三頁)昭和一四年、日華事変の真最中に所用のためマニラに出向いた神父が、門司に帰着するのを待ち受けたものは、官憲の逮捕であったが、カバンの中の史料がすべて東洋の布教史についてのものであったと知れると釈放された。太平洋戦争の時代、高松に一か月の刑務所生活を強制されていたこともあった。
 つづいて、モデスト・ペレス神父が昭和六年(一九三一)に在任、伝道と教育とに努力した。昭和一〇年ころには信徒数は約二〇〇名となった。同一二年「長崎キリシタン流謫碑」が出来上がった。(八〇七頁参照)
 昭和一〇年代に入って次第に国家主義・軍国主義の風潮が強くなり、満州事変・日華事変を経てますます激しくなってくると、政府は神道を日本社会道義の根幹となして、神社参拝、祝祭日式典参加を強制し、キリスト教を日本精神と相容れないとして、共産主義とともに敵視した。そして、国民の大半もまた、キリスト教を非愛国的な宗教として排斥し、子どもたちまでが「アーメン・ソーメン・トコロテン」と蔑視した。
 そして、これは宣教の困難と信徒数の減少を招き、神父たちは官憲の監視下に置かれ言動を制限された。しかし、神父たちの信仰は固く、正しくして道理に合致しないものは承服しなかったので、さらに政府は外人神父を辞任せしめ、日本人神父をこれに代えた。モデストーペレス神父も例外ではなく、昭和一六年一〇月、教区長を退き日本人司祭フランシスコ・田中神父が後を継いだ。
 ドイツがポーランドに侵攻し、わが国が真珠湾を奇襲して大戦はいよいよ深刻になると、教会をゆだねられた邦人司祭は全国的に約一六〇名と少なく、その上、外国人司祭は自由に活動できず、宣教は非常に困難な時に立ち至った。日本人が宣教師を訪問すると、その動機や話の内容を追及され、それらが誤解や曲解を受けてしばしば拘留された。警察は宣教師をたびたび訪問し、日本の神や天皇をどう思うか、日本が勝つか連合国が勝つかなど強硬に質問し、逮捕の口実をつかもうと努力した。そのため、宣教師はすべての者から遠ざかって行った。
 昭和二〇年六月、松山中央郵便局に近いという理由で、教会は強制立ち退きを令ぜられ、女子商業学校の一室に移転し、同時に神父もまた同校に住むこととなった。そして、七月二六日、夜松山空襲に遭った。その上、松山が軍事要地であるとして突然二四時間以内に退去を命ぜられ、日本人以外の神父、シスターたちはやむなく今治へ移ったが、今治でもまた、空襲を受けた。
 昭和二〇年八月一五日、終戦となるや、モデスト神父やシスターたちは自由の身となり、松山市へ帰り教会及び学校の復興に向かって全力を尽くした。
 昭和二四年(一九四九)七月二三日、聖フランシスコ・ザビエルの聖なる右腕がイエズス会士によって松山へ捧持され、一一月には焼跡に教会堂と司祭館が新築され、四国会長ビンセンテ・ゴンザレス神父が松山教会主任となって、司牧と宣教は堅実に前進していった。
 例えば、昭和二六年(一九五一)、青年会が発展改組されて聖ビンセンシオ・ア・パウロ会松山協議会となり、病人・身障者・精神薄弱児・精神病患者のアフター・ケアーを中心に奉仕、同二八年(一九五三)、先にマニラ会議で正式決定していた「愛光学園」の創立開校を見、熱心なカトリック信者、田中忠夫(当時松山商科大学長)を校長に迎え、「世界的教養人の育成」を目指して教育に努め、全国でも有数の進学校としての評価を得ている。
 田中忠夫(一八九八~一九七八)は、クリスチャン・ネーム〝イシドロ〟を与えられた代表的カトリック信者の一人で、東京大学出身、一生の前半を松山商科大学の研究と教育に、後半(二七年間)を愛光学園の教育にささげ、その功績に対し国からは勲四等旭日章を、ローマ教皇パウロ六世よりは「聖グレゴリオの騎士」勲章を授けられた。

郡中教会

 また、昭和二七年(一九五二)一〇月ころから、郡中の信者宮内小三郎夫人宅でヨゼフ神父によるミサと伝道が始められていたが、昭和三四年郡中地区在住の松山教会信者六五名を移籍してドミニコ・レデスマ神父が着任、カトリック郡中教会を建て、次いで郡中天使幼稚園を併設した。
 あるいはまた、セルヒヨ・サンタマリヤ神父は、温泉郡荏原村小村(松山市小村町)に伝道を始め大きな成果を得た。
 昭和三〇年(一九五五)には、ドミニコ会四国布教五〇周年を祝い、記念ミサや教会関係資料の展示、そして夜には伊豫市庁ホールにて広島エリザペート音楽大学による宗教音楽とイエズス会士ロゲンドルフ神父の特別講演会を催した。

道後教会

 昭和三二年(一九五七)、道後教会(松山市)司祭館落成を期に、松山教会より分離、主任司祭オレンシオ・ペレス神父、信者九一名の道後教会が誕生した。前年、道後聖母幼稚園を開園している。
 昭和四〇年二月、ヨゼフ・デルガト神父が松山教会主任となり、女子商業高等学校四〇周年を記念するとともに、北条市に聖カタリナ短期大学を開学した。土地は北条市の提供によるものだが、以後着実な発展を遂げ、現在音楽科を含む四学科学生数女子八六八名の大学に成長し、地方の教育文化に大きな貢献をしている。特に昭和五六年には聖カタリナ・ホールに大型パイプ・オルガンが備え付けられた。

北条教会

 昭和四三年(一九六八)一二月、北条教会(北条市)及び司祭館が聖カタリナ短大構内に建設され、松山教会より分離独立、信者七五名をもって発足した。
 昭和五〇年八月一〇日、松山教会は鉄筋コンクリートの新様式による新聖堂を献堂した。
 県都の松山市にあるカトリック松山教会は、文字通りその中心的役割を着々と果たしている。宣教の困難な歴史の中で、戦前戦中の教会は受洗者平均、年間六・二人に過ぎなかったが、戦後の教会では年平均八五人に達し、大きな躍進を続けている。それは、戦後の社会思想の変化や女子商業学校の功績、神父・童貞たちの清廉な生活、そして指導内容の時代への適応によるものと自己評価し、さらに信徒会と使徒職とが緊密な連けいを保つために創めた信徒使徒職協議会を中心に、レジオ・マリエ、ドミニコ第三会・婦人会・日曜学校・ボーイスカウト・ガールスカウトなどの組織をあげて宣教に取り組んでいる。
 今後の問題として「その国の伝道は、その国の人に」というドミニコ会の伝統的な精神にのっとり、邦人司祭の養成が強く叫ばれている。大正一二年より小神学校を設けてその養成に尽力したが、予期の成績は挙がらなかった。しかし、現在は優秀な日本人司祭も生まれて、各教会で尊い奉仕を続けているので前途は非常に明るい。

 2 南 予 地 区

宇和島教会

 宇和島は、松山より四年ほど遅れて明治二四年(一八九一)に伝道が始められた。この地方はキリシタン時代、一条兼定(洗礼名パブロ)が戸島(宇和島市戸島)に隠居していたり三名のキリシタン武士が伊達侯に仕えたりして、古くからかなりの信徒がいた。宇和島はそのような歴史を持ち、また、南予第一の都市でもあるので、パリ外国宣教会ペトロ・アウリェンティス神父が明治維新後に初めて広島から同地を訪問視察した。その際の印象が非常によかったため、まず若き伝道師を送ったが、不幸にも彼は間もなく病死した。そこで翌二五年(一八九二)、ジョゼフ・ビロー神父が派遣された。宇和島のみならず吉田町にも伝道し、少数の信者を育てている。しかし「退屈な都市」といわれたように、状勢はそれ以上に前進しなかった。
 明治二七年(一八九四)、イシドロ・アルフォンソ・シャロン神父が着任したが、折しも日清戦争の勝利に酔っていた市民は、静かに教理に耳を傾ける余裕もなく、また新教伝道師の演説に「愛国心を傷つける」言葉があったとして、警官に捕らえられた事件も起こって、キリスト教は不評判となり伝道は大へん困難をした。そこで、範囲を拡大して八幡浜、岩松(津島町)まで出かけた。
 その後、松山に宣教師が不在となったので、しばらく兼牧し、さらに明治三五年、シャロン神父は県都に移って、反対に宇和島を兼ねることとなった。(八〇八頁参照)
 明治三九年(二九〇六)二月六日、パリ外国宣教会と交替して、フィリッピン聖ロザリオ管区ドミニコ会宣教師ファウスティノ・ロドリゲス神父が、松山及び宇和島の宣教師として任命され、続いて六月二日、ミリアン・ドミンゲス神父が専任として着任した。しかし、その時には、先に信者となっていた者も教会を離れていた。
 そこで、ドミンゲス神父は、平城(御荘町)に居を移し、二組の信者の家族を発見した。松山からの伝道士が通訳をして彼を助けたが、日本語の習得と会話の練習に明け暮れた毎日であったので、約一〇か月の滞在で再び宇和島に帰った。
 (資料編九〇二頁)
 神父は約五年間の宿屋生活や借家住まいののち、宇和島城山の麓、丸の内に地所を求め「聖ドミニコ小聖堂」を建てた。
 大正七年(一九一八)着任したイシドロ・アダネス神父(一八七九~一九五九)は、以後四〇年の長きにわたって宇和島に住み、市民から「宇和島の神父さん」と慕われ、尊い宣教と教育の業に一生を捧げた。
 大正一〇年、ちょうど聖ドミニコの死去七〇〇年祭に当たり、これを記念して教会堂を大きく改築、同時に司祭館を新築した。また、イシドロ神父によって救われた田中哲太郎が莫大な寄付を申し出て、それを基金として愛和幼稚園を開いた。しかも、園児たちぱ無料か無料に近い保育料で教育を受けた。
 昭和一〇年(一九三五)、イシドロ神父は、教会堂の改築と幼稚園設備の充実を四国教区長に訴え、やがて美しいゴシック風の会堂が実現した。しかし、戦雲が覆いキリスト教は敵国の宗教とされ、神父はスパイと疑われて遂に二〇年七月一二日、戦火に遭いすべては灰読に帰した。
 イシドロ神父は田中哲太郎の家に迎えられ、当分そこを仮聖堂としたが、終戦後、幼稚園の母親たちぱ竹谷ツネを中心にいち早くその復興運動に立ち上がったので、神父も感激し一年八か月の後、愛和幼稚園は再建された。昭和二九年(一九五四)八月、神父はフィリッピンのマニラに転じ、三三年七月七日故里スペインで世を去った。宇和島市と愛和幼稚園母の会は、神父を永遠に記念するためのブロンズ胸像を園庭に建てた。なお、ローマ教皇パウロ六世によってカトリック京都司教区長に任命された田中健一司教は、田中哲太郎の長男であり、愛和幼稚園の出身である。

八幡浜教会

 八幡浜教会は、宇和島教会から誕生した。明治三〇年ころ宇和島教会のシャロン神父が時々訪れていたが、昭和九年(一九三四)イシドロ・アダネス神父が裁判所通りに借家して、伊崎貞子伝道師を派遣し日曜学校も開いて本格的な伝道を始めた。ついで、マルシャノ・ディエス神父が着任し仮教会と聖母幼稚園を建て、独立して宣教に当たった。それは昭和一二年六月一日であり、シャロン神父が一歩を印してより約四〇年後であった。
 八幡浜教会は、マカリオ・ルイス、カルロス・マルチネス、マルシアノ・ディエスの各神父が交替して司牧と伝道に当たったが、カルロス神父は昭和五二年九月より大洲市へ出かけ、希望ケ丘老人ホームで毎週懇談会を開き、また、第三日曜日にはミサを行って福音の種をまいた。

 3 東 予 地 区

今治教会

 カトリックの東予地区伝道は、今治を最初として大正一五年(一九二六)、即ち松山より三九年、宇和島より一五年遅れて始まった。それは既にプロテスタント教会(現日本基督教団今治教会で明治一二年に創立)が、明治九年(一八七六)三月、四国で初めて今治において宣教につとめ、その結果キリスト教は定着していたといってよく、信者となった有力市民が中心となって産業を興し、市の発展に大いに寄与していたからである。
 しかし、今治は県下有数の工業都市として大いに将来が期待されると同時に、現にカトリック信者も在住しているという事実から、カトリックもまた、教会創設に踏み切ったのであった。プロテスタント伝道開始より五〇年の後であった。
 松山教会クラウディオ・ニエト神父は、大正一四年一〇月半ば伝道士松本好造を今治に派遣しドミニコ会も多額の金を支出して伝道の準備を助げ、同一五年二月九日、マカリオ・ルイス神父を送って今治における宣教に任じた。最初の教会は普通の二階建日本家屋で恵美須町(現在の馬越魚市場)にあった。
 階下奥の間に仮聖堂を作り「ピラールの聖母」の御絵を飾って教会の保護者とし、翌一〇日、五人の出席者とともに最初のミサが捧げられた。その時の信者の一人越智南海子の娘通子は、その後、姉の導きで教会に通いカトリック要理を勉強し、四月四日遂に受洗、マリア・ピラールの霊名をもらったが、これが今治におけるカトリック教会最初の霊的な実りであった。
 昭和三年、マカリオ・ルイス神父は松山へ、クラウディオ・ニエト神父は今治へと交替した。ニエト神父のとき、スペインよりピラールの聖母像とイエズスの聖心の聖像とが贈られて来た。
 昭和六年(一九三一)五月、ニエト神父のマニラ転任によって、再びマカリオ神父が今治に戻った。そして、家庭訪問に力を入れたので信徒の数も増した。同七年、四国教区長は今治の重要性と神父たちの働きに注目し、初めて教区による教会、司祭館、付属若葉幼稚園の建設を決定し、土地を北宝来町に求めて、遂に同八年一〇月一日、計画は実現した。神父は教会内に新しい祭壇を作り、その上に五〇種ほどの木の台座に二五種位のブロンズのキリスト像を付けた十字架を安置した。これは波止浜村に近い旧家にあったもので、江戸時代迫害されたキリシタンの遺物であったと考えられるが、惜しくも今治空襲の折、建物とともに焼失してしまった。
 マカリオ・ルイス神父は、キリシタン史、カトリック史の上で今なお専門的、学術的に高い評価を得ている研究成果を挙げた書物を著しているが(資料編八九三頁)、教会諸設備も許される範囲で最上の品々を備えた。十字架の道行きセット、福音アルフォンソ・ナバレテの御像、クリスマスに飾る馬小屋の美しい人形セットなどは、多くの信徒たちに親しまれたという。
 昭和一二年三月二四日、ピオ渡辺吉徳神父が、最初の日本人司祭として着任した。神父は松山市出身、スペイン及びアメリカにて修養生活と司祭職のための勉学をなしたが、今治では僅か三か月の在住で、香港の修道院に転じた。そのあとアントニオ・グチエレス神父が継ぎ、吉岡某・三浦知行・米田次郎の各伝道士が助けたが、昭和一五年(一九四〇)、オレシオ・ペレス神父が助任司祭として来今し、ここに二人の司祭を持つ大きな教会として位置づけられた。
 教会付属若葉幼稚園は、保母によき適任者を得、熱心な保育がなされたので、園児は年々増加し、現在では大型通園バスの活用と相まって、園児数五四〇名を数えるに至った。この幼稚園経営は、戦時中の教会にとって経済的に大きな支えとなった。
 昭和一九年(一九四四)六月二九日、助任司祭オレンシオ・ペレス神父は新居浜に転じ、トマス・ガルシヤ神父が来りアント二オ神父を助けた。トマス神父はドミニコ会至聖ロザリオ管区で要職にあったが、三九歳にしてそれを退き、志願して日本の宣教師となった人である。
 当時は、戦争も末期に入り、物資の欠乏と行動の制限により極めて不自由な生活を送らざるを得ず、しかのみならず教会は敵視され、その上二〇年八月五日には松山に続いて今治も空襲を受け、全市は焼失した。警察の命によって松山から今治へ移住させられていた神父やシスタ―たち五名は、ここでもまた焼け出され、焼失を免がれた唯一の建物、幼稚園を仮の住まいとした。そして、先に信者の家に疎開していたため無事に難をのがれた祭服や祭具を持ち帰り、仮聖堂で最初のミサをささげたのは八月八日であった。そして八月十五日が来た。
 しかし、戦災で信者たちも市外に避難し、その上終戦時の混乱もあって教会には信者が集まらず、残った備品も松山・新居浜・宇和島に引き取られて、今治教会閉鎖という議まで起こったが、トマス神父は絶対存続の訴えをし、その熱心ゆえに願いは聴かれたという。
 トマス神父は、やがてアント二オ神父に代わって主任司祭となり、進駐して来たアメリカ兵のうちカトリック信者の力を借り、英語会話教室を開いたり、園舎の一部に洋裁学校を始めたりして、教会経済の自立に努めるとともに、それらの活動を通して種々の人々を信仰に導き、聖フランシスコ・ザビエル日本渡来四〇〇年記念の年(昭和二四年)には実に三八名の受洗者があった。
 教会復興の勢は、新会堂の建設と若葉幼稚園の再開となり、一時は近隣幼稚園の創設もあって苦労したが、信仰厚いよき保育者を得て園勢は挽回し、市民の高い評価を得るようになった。
 また、昭和二七年二月、セルヒヨ・サンタマリア神父が助任司祭として着任し、三七歳の若さと情熱をもって宣教と司牧に当たり、特に大の音楽好きで早速聖歌隊を編成し、毎日曜日のミサには美しい聖歌隊の賛美に信者たちは深い感動を覚えた。そして、聖歌隊の中から多くの受洗者が出、教会は信仰の活気に燃えた。
 世界的プリマドンナ今井久仁恵は、この聖歌隊の中からサンタマリア神父によって発見され、聖歌隊の中心として奉仕する一方、NHKのど自慢四国大会において、歌曲第一位の栄冠を得た。サンタマリア神父はトマス神父と相談の上、彼女をスペイン、マドリッド国立音楽院に送ったが、昭和三三年一一月、ニューヨーク、メトロポリタン・オペラハウスにて日本人最初のプリマドンナとして「蝶々夫人」を上演し大成功を収めた。
 その後、サトルニーノ・ゴンザレス、ホセ・デルガード、アトリアン・ペレス、レオナルド・マリンの各神父が在任し、教会墓地の建設、レジオ・マリエ、ロザリオ会及び信徒会、ボーイスカウトの創設など、着々として宣教の枠を広げ教会を隆盛に導いた。
 なお、昭和四七年三月一日、幼稚園を含む現代ゴシック式聖堂が完成した。それを記念して、スペイン、サラゴラ市大司教とドミニコ会司祭・修道女たちは、香柏の木で彫刻したピラールの聖母像を持参した。

西条教会

 昭和二四年(一九四九)、四国を担当していたフィリッピン聖ロザリオ管区ドミニコ会は、愛媛県のみを司牧することとなった。そこで、地区長ヴィンセンテ・ゴンザレス神父は、新たに西条市に教会の建設を決め、高知県赤岡町のドミンゴ・レデスマ神父を派遣した。昭和二五年三月、教会創立。初めは民家を借り受けて活動し、和裁・洋裁の外、料理学校と聖十字架幼稚園を開き、講演会を持ち地域社会との交わりに努めた。マカリオ・ルイス、パブロ・アルカス、武田義雄の各神父が後を継ぎ、同三五年現在の聖堂が献げられた。教会の保護聖人はビンセンシオ・フェレリオであり、現在の主任司祭はドミンゴ神父である。

新居浜教会

 工業都市新居浜の住友工場で働いていたドイツ人技師一家は、熱心なカトリック信者として、毎日曜日、今治教会まで出向いてミサにあずかっていたが、新居浜にも教会の建設を希望し、その資金のための献金をも申し出たので、教区長モデセット神父は、教会の新設を決意し、昭和一二年聖堂献堂式を挙げた。神父たちは、戦争中物心ともに苦しい毎日に堪え、幸にも建物は戦炎を免れたので、戦後いち早く布教と教会形成に臨むことができた。現在信徒数三二四名、県下で松山に次ぐ大きい教会である。聖マリア幼稚園が併設されている。

伊予三島教会

 県下で最も若い教会伊予三島は、昭和五一年三月に創立。宇摩地区に住む信徒たちは、新居浜か観音寺の教会へ通わなげればならなかったが、前年新居浜教会のドミンゴ及びフォンソの両神父、観音寺教会のフェルナンド神父が、それぞれ三島に来り宣教に努力して作った信仰の基礎の上に教会が建てられた。ボランティア活動・英語教室・料理学校などの社会教育的活動を通じて地域と密接にかかおり、家庭的な雰囲気の教会である。昭和五三年一〇月二八日、新聖堂を献堂した。