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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第三節 石鎚修験道

 石鎚山の開山

 石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である・それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかわり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。
 この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である。
 右説話は、大同四年(八〇九)神野郡の郡名を「新居郡」と改称したのにからませた説話であるが、石鎚山の神秘性を都人に強調したものでもある。
 一般に石鎚山の開山は役小角であるとされるが、芳元であるともいう。彼は役小角五代の後継者で、石鎚山に熊野権現を勧請した(村上俊雄『修験道の発達』)といわれ、養老四年(七二〇)に生まれて弘仁七年(八一六)に入滅したというから、寂仙辛上仙とぱほぼ同時代の人物であると思うが、相互の関係のことは不明である。
 さて、右文献における寂仙と灼然は秋山英一も言っているように音通であるので、『霊異記』ぱ師匠と弟子とを取違えているのではないかとみられており、また『文徳実録』の上仙は、石鉄山前神寺や仏光山横峯寺縁起にいう石仙、石鉄山正法寺縁起にいう常仙と同一人物であろうと解釈されている。正法寺は新居浜市大生院にあり、小松町北川の法安寺とともに当地方における古代寺院趾が、認められる古寺で、しかも石鎚山をのぞむ土地にある。従って、石鎚山と関係していたことは充分推測されると宮家準も言っている。
 なお、これら縁起に関連して言えることは、石鎚山に関係した寺院の開基を見ると、前神寺と横峯寺が石仙、正法寺縁起が常仙、石中寺が峰仙、山中の今宮部落の修行者が法仙、というようにいずれも仙という字が用いられている。これは石鎚山が奈良時代から仙人の住む山として恐れられていた事を物語っているのかも知れない、と宮家は見ている。
 さらに石鎚山は延喜式名神大社の伊曽乃神社とも関係があったようで、いわゆる神婚説話を伝えており、同社社頭に石鎚神が山上から投げたという大石がある。そこからも石鎚山を拝することができる。
 このように奈良時代以降、石鎚は仙人や聖たちの修行道場として知られていたのであって、空海や光定もここで修行している。空海は『三教指帰』の中で「或るときは石峯に跨がって粮を絶って轗軻たり」と記し、石峯に「伊志都知能太気」と自注を付しているので事実と考えることができよう。光定(七七八―八五八)は伊予国風早郡菅沢(松山市)に生まれ、のち比叡山第三世の法燈を継いだ傑僧であるが、彼も石鎚山で修行したとされている。光定は幼にして父母を失い、山林に隠遁して修行し、その後最澄に師事しており、師の死後、再び山に入ったという。その山は石鎚であるとされ、横峯寺は光定が同寺開基の石仙(灼然)について修行し、第二世になっている。
 こうして、平安時代には石鎚は大和の葛城山・大峰山、伯耆の大山、加賀の白山、越中の立山などとともに広く知られるようになった。そのことは「聖の住所はどこどこぞ、大峯・葛城、いとのつち、箕面よ、勝尾よ、播磨の書写山、南は熊野の那智新宮」と『梁塵秘抄』に歌われているのでも知られる。すなわち、石鎚は聖があつまる霊所として知られていたのである。
 つぎに石鎚は熊野権現と密接な関係があった。既述のように芳元が熊野権現を勧請したというのであるが、『長寛勘文』の「熊野権現御垂迹縁起」に熊野権現が九州の彦山から四国の石鎚、淡路の譲羽をへて熊野の神倉、新宮さらに本宮に鎮座されたとの伝承がある。さらに香川県大川郡大内町大字水立に鎮座する水主神社にはかつて石鎚権現の宝物であった平安時代の大般若経を永延元年(九八七)に運んだと伝えられる。この大般若経は旧国宝で、現在は重要文化財に指定されているけれども、これだけの古写経が石鎚社にあったことは石鎚の信仰の深さと古さを物語っているとみられるが、ともかく石鎚の開山に熊野信仰が深くかかわっていることは確かであろう。

 石鎚山と別当寺

 石鎚連峰は石鎚山(一九八二m)を主峰に、東に連なる瓶が森山(一八九七m)、笹が峰(一八六〇m)、子持権現などの連山からなる。一般に石鎚山信仰といえば主峰の石鎚山を信仰対象とするものと理解されているが、なお瓶が森や笹が峰にも蔵王権現が勧請されていてともに信仰されていた。明治四年神仏分離令によって現在の石鎚神社が成立するまでは、別当前神寺の管轄下にあって石鎚蔵王大権現として崇拝されていた。現在は、石鎚神社(本社または口の宮)―成就社(中宮)―頂上社(奥宮)の三位一体の信仰形態を形成しているけれども、以前は現石鎚神社が前神寺の寺域であり、常住(成就)は奥前神寺と称し、山頂を弥山とする信仰形態になっていた。垢離取場、女人返し、無言禅定、鎖禅定、覗の禅定、三十六王子などの諸行場は修験道の修行からつくられた行場である。
 前神寺と石鎚の関係は上記のようなことであるが、伝説によれば石鎚権現はもと瓶が森に祀られていたのを、西之川村(西条市西之川)の庄屋高須賀氏の先祖が背負うて石鎚山に遷したといわれる。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は峠をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になっていたというのである(『西条誌』)。また「石鎚山は瓶が森より、扇子の要だけ高い」との俗一言もある。この伝説は石鎚信仰の信仰主体が瓶が森から石鎚山に移動したことを物語っているのであるが、前神寺が石鎚の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降であろうと推測されている。
 瓶が森を霊域として主張したのは山麓にあった天河寺や法安寺などである。天河寺は瓶が森の石鎚権現の別当を主張し、瓶が森の常住には坂中寺があり、山頂には弥山がある。これに対し西側では法安寺、横峰寺、奥前神寺い弥山、天柱石(お塔石)などが一連の霊地を形成していたと見られる。つまり、石鎚には東西二つの霊域が存在したのである。新居浜市大生院の石鉄山正法寺(往生院)は、石鉄権現を寺内鎮守に鎮斎しているが、ここから笹が峰に登る道中には、大門・杖立などの地名があり、「当院往古ノ仕成残リ、年々阿州の石鉄山参詣人ハ来テ先達ヲ頼シガ、文化年中西条ノ実相院(前神寺)ト言ヘル修験へ先達ヲ譲リシト云」(『小松邑志』)とあり、前神寺の管下に所属したのである。すなわち、前神寺が石鎚の主導権を掌握することになり、そのため横峰寺と別当、境界争論が発生したりするのであるが、これについては触れないでおく。

 石鎚三十六王子

 石鎚山には山麓の石鉄山社(現在石鎚神社境内)から山頂の弥山(頂上社)ならびに天狗嶽の間に「三十六王子」が設けられている。これは大峯三十六童子を模したものと思われるが、近世になって石鎚修験が案出したものと推定される。石鎚登拝道は、昔から現在まで時代的変遷を経ながらもこれまで一〇以上のコースが開かれている。しかし、大別すれば表参道と裏参道の二つであり、三十六王子は表参道にある。裏参道側にもあるということであるが確認できていない。表参道側の三十六王子についてはあとで述べるが、裏道の三十六王子の一番は松山市窪野町の旧久万道の峠入口付近にあって「一之王子」と呼ばれる。雑木林の中に祠跡らしき所があり、土地の者は一之王子と称している。二之王子は久万町東明神樅ノ木にあるといわれ、三之王子は井内峠(久万町・川内町)にあるといわれている。それ以上のことは全く不明である。
 表道の石鎚三十六王子の名称・所在地・由来等については前石鎚神社宮司十亀和作調査にょる『旧跡三十六王子社』の著作がある。なお古い資料では文政五年(一八二二)「大宅政寛覚帳」(伊予史談会文庫蔵写本)記載のものがあるが、両者のあいたにはかなり差異がある(表8参照)。
 さて、この三十六王子はどのような教義を意味しているのであろうか。これについて宮家準はっぎのように述べている。「以上の王子を全体としてみると六風の修行を示すとも思われる六地蔵、今宮、西之川、常住の民間の信仰を包摂した諸王子、天柱石、窟の薬師、裏行場、天狗岳などの修行を見ると、石鎚山を遥拝し、身をきよめ(垢離)、懺悔(のぞき)しながら山をのぼり、天柱石や窟の薬師で修行をし、鎖禅定をへて、都卒の内院に入り、水禅定により灌頂水をいただくことによって成仏するという峰入の思想がよみとれるのである」というのである。

 石鎚系修験

 石鎚信仰に基づく宗教団体には次のような機関がある。
 ○石鎚本教 西条市西田に鎮座する石鎚神社に所属する宗教法人団体であり、修験道信仰を受容して石鎚神の神徳を知・情・意の三態の神像に象徴して宗教活動を行っている。石鎚神社の隆昌気運に伴って昭和二四年四月二三日創立された。現在本教所属教会一〇六教会。
 ○石鎚教 大正一四年(一九二五)九月、西条市大町の世良久胤開祖。はじめ扶桑教の一分派と称していた。石土毘古命の霊徳を信じ、宇宙の実相・幽顕死生、安心立命を究明体験し、国家の大理想の顕現を期するのを教義の中心とする。昭和二一年二月一日、神道の一派として独立。支部があり、北海道から九州にわたっており、その数一二四に達している。
 O真言宗・石鎚山極楽寺 西条市大保木にある。昭和二〇年一二月二八日宗教団体法が廃止されて宗教法人令ができたのを機会に、本山御宗派から独立した。九品山浄土院。本尊阿弥陀如来。尊像は天河寺より移した。石鎚別院。

  その他の修験

 ○天台系修験寺院・玉蔵院・実相院・大福院・万福院(以上『西条市誌』)
 ○修験道常楽院 北条市久保にある。明治六年(一八七三)天台宗に属し、昭和二一年独立し、昭和三一年宗教法人修験道常楽院を創設した。
 ○青面山養護院 北条市北条。修験 河井隆英。真言宗醍醐派。本尊 青面金剛、脇仏 釈迦如来永禄年間(一五五八~七〇)廻玄法印開基。中西村、北条市本町明星川、法然寺脇と移転し、大正九年現在地に移した。

石鎚山の天柱石(『愛媛面影』より)

石鎚山の天柱石(『愛媛面影』より)


石鎚山三十六王子一覧

石鎚山三十六王子一覧