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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第一節 愛媛の山岳信仰

 山岳信仰

 山岳信仰は高くそびえ立つ山岳を畏霊視し、そこに神がいますとの信仰である。すなわち、単なる自然崇拝ではなく、霊魂崇拝とも言うべきものである。古代の日本人は、山中の森(杜)を「神奈備」「御室」などと呼び、そのような山中には巨巌があって神霊がこもっているとし、それを磐境とか磐座として崇拝した。本県の石鎚山信仰はその代表的な山岳信仰である。『日本霊異記』に「伊輿の国神野の郡の部内に山有り。名を石鎚山と号く。是れ即ち、彼の山に石鎚の神有りての名なり。」と記しているように、石鎚山には石鎚の神(石土毘古神)がいますと信じられていたのである。
 このように人びとの信仰対象となった山岳は県内にも多数あり、それぞれ山上には神社・寺院・祠堂がまつられ、また伝説に彩られた縁起由緒を伝えている。山上の神社には一般に「権現」を称したものが多い。権現とは、本地垂迩説から出た語で、仏が仮に人間などの姿を権りて世に現れたとする神仏習合思想である。応現・示現・化現・権化などともいう。従って権現の場合はそのほとんどが修験者が関与していると言ってよいであろう。
 さて、本県におげる山岳信仰の実態は、史料不足もあるが、まだ調査も十分されていない。もちろん研究も不十分である。それで中途半端の誇りを免れえないのであるけれども、一応著名な山岳信仰について概述しておきたい。なお、山岳信仰には、神社系(権現信仰)と寺院系の二系統が認められる。

 山人と社寺開基譚

 越中の立山は狩人佐伯有頼が白鷹を追って山中にはいったところ、山の神が阿弥陀の姿として現れたのをまつったという開山伝承があって有名である。これにはもちろん異説・別伝もあることであるが、狩人開山についてはほぼ一致している。また山陰の霊山大山は、玉造に住む俊方という猟師が山中で鹿を射止めたが、その鹿が地蔵菩薩であったことを知り、懺悔して出家し、金連と名を替えて山中にこもり、地蔵菩薩をまつった。これが大山の本尊智明権現であるという。九州の彦山は『彦山流記』によれば、継体天皇の御代に白鹿を追って山中にはいった猟師藤原恒雄が魏国の善正法師に諭されて出家し、開山したと伝えられる。さらに、古来から山岳修行者の道場である熊野三山についても、猪を追って山中にはいった犬飼なる猟師が見つけてまつったのが熊野権現であるとの伝承がある。
 このような開基譚をもつ社寺は本県にもある。すなわち、大洲市上須戒の金山出石寺、上浮穴郡久万町の菅生山大宝寺、川之江市・新宮村境にある赤土の与市権現、周桑郡丹原町田瀧の黒瀧権現などである。
 〈金山出石寺縁起〉 本尊は千手観音と地蔵の二体であるが地中から涌き出た仏像だという。養老二年(七一八)六月一七日宇和郡田野中村の住人である猟師が、鹿を追うてこの山に入ったが、日が暮れたのでここに野宿した。四更(午前二時)のころ、観音と地蔵の二尊像が厳然として涌出し立っているのを見てたちまち発心し、剃髪して名を「道教」と改めここに草庵を結んで本尊を供養した。その後衆庶の信仰によって堂宇が建立され雲峯山出石寺と号した。その後、大同二年(八〇七)弘法大師四国巡錫のときにこの山に登り、久しく留錫して修法供養をなし、山号を改めて「金山」と称し、大師の法具等をここに留めて去った、と『伊予温故録』はいう。『大洲旧記』にも同様の記述が見られるが、それでこれを世にハエヌケの尊像と称している。
  〈菅生山大宝寺〉 菅生山大覚院と号す大宝寺の本尊は十一面観音立像である。寺の由緒をはじめ『予陽郡郷僅諺集』、『伊予温故録』などの地誌によれば、豊後国から来た猟師右京・隼人の兄弟が久万山峰にて尊像を拝し奉り、そこで弓矢を折って柱となし、蓑笠を懸けて草庵をつくり安置したので菅生山と号した。その尊像発見場所は「見付の嶽」といい、ここから一里ばかり西北に当たる高山である。別に「影向の桜」があって影向伝説も残っている。当寺は大宝元年(七〇一)文武天皇の勅願によって御堂が建立されたので大宝寺と称したという。
  〈赤土の与市権現〉 川之江市川滝と新宮村上山境の山中に赤土と称する地域があり、そこに与市なる猟師がいた。ある夜怪物を見つけ鉄砲を撃ちこんだが手応えがない。それで金銀の命弾丸をこめて撃ったところ、みごとに命中し怪物は血を流しながら山中深く逃げた。与市は追跡したが讃岐の雲辺寺付近で見失った。不思議に思って寺を訪ねると本尊の観音様の胸間に鮮血が流れていたので彼は驚いて殺生をやめ、直ちに発心人道し善行功徳を積んで往生をしたという。伝えるところによれば、これは山の鳥獣が与市の手によって絶滅することを本尊が憐れみ、巨鐘を頭に被って赤土に出向き、与市を改心させようと試みたのであったという。なお別伝もあるが、いずれにしても猟師と仏像の因縁譚である。この与市を祀ったのが与市権現である。
  〈黒瀧大権現〉 周桑郡丹原町田瀧の山上にある古社についても猟師神介四郎左衛門による霊験譚がある。彼は三河国から来た弓の名人であった。権現谷で一匹の大猿を発見し、一二本の矢を射かけたが一本も当たらない。そのとき猿が「われこそは当山にすむ黒瀧十二社大権現なるぞ」と言い、一二枚の神鏡に化して現れた。神介は社殿を設けてそれを祀り、猿を当社の神使とした。これが黒瀧大権現の起源である。当社の氏子は石鎚登拝を忌む慣わしであるが、それは昔、両山が石の投げ合いをしたのによるとのことであり、「石鎚の投げ石」と伝える大石が付近に散在していたという。当社はかつて女人禁制で、奥の院へは途中の垢離取場で水垢離をとって上がり、神殿近くからは跳足参りをする慣わしであった。ついでながら本伝承は『熊野権現御垂迹縁起』に共通するところがあって興味深い。

 権現山信仰

 以上は山人(狩人)によって開基あるいは創祀された社寺縁起を紹介したものである。山に神(仏)がいて、それを祀るために祠堂を建立するに至ったことを庶民にわかり易く説明したのがこうした縁起であったと考えられるが、山岳寺院についてよくみられる伝承である。
 つぎに、各地域には孤立あるいは突出した峰があると、そこを霊地・聖地と仰ぎ神霊を奉斎して豊作や雨を祈った。そのような信仰の山を権現山と称するのであるが、本県のように地理的に複雑な地域にはそれが多い。大小いろいろあるが、地域別に代表的なものを少し掲げておきたい。
 東予地域では法皇山脈・赤石山脈におげる豊受山・翠波峰・赤星山がある。豊受山には豊受権現、翠波峰には翠波権現がある。前者は大正初年末まで女人禁制であって、当地方特有の局地風ヤマジ風の風穴があり、風鎮祭が行われるので有名である。干天時には雨乞祈とうや雨乞踊りを奉納した。風鎮祭は旧六月と九月の一三日に行われ、六月には小麦団子、九月には米粉団子を作って供える。「七荷片荷」と称し、三六五個の団子をホカイに入れて運んで上がり、神前にそれを供え、また風穴にも投げ入れて風鎮を祈願するのである。
 豊受権現と翠波権現は仲が悪く、翠波神に豊受神は焼き打ちされて死んだとの伝説があり、これにまつわる俗謡があったりする。別子山村には大瀧権現があり、山頂の洞窟に椀貨伝説を残しでいる。権現さんを村人が救ったための恩恵だという。宇摩郡土居町の五良津山は法皇権現といい、不入山とも呼ぶ。天狗のいる山で、水の神・雨乞信仰の山である。
 越智郡玉川町には奈良原権現がある。楢原山(一〇四三m)上にあり「奈良原山蔵王権現」を祀る。同山は高縄山地中の最高峰で分水嶺をなすところから雨乞神ならびに牛馬守護神として衆庶の信仰をあつめてきた古社である。子守明神・勝手明神の摂社は、ともに大和国吉野山からの勧請でやはり水源の神として鎮斎
したものである。
 当社はもと古権現(元社地)にあったのを山伏が背負って現在地に遷したと伝えられ、そのゆかりの「山伏塚」が登山道の丸山という所にある。社記によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一)勅願によって徳蔵上
人が開いたとある。別当寺は清浄光院蓮華寺(廃寺)と光林寺であった。当社について特筆すべきことは、本殿傍にある経塚及び多宝塔である。経塚は昭和九年八月に発見発掘されたのであり、鑄銅製の多宝塔・
銅製経筒・鏡・短刀・塗扇など多数の出土品が出た。平安後期の作で昭和三一年国宝に指定された。なお、経塚上にある石造多宝塔ぱ鎌倉期のもので「建徳二年(一三七〇)二一月 日 願主浄幹」の銘文が刻してある。
 中予地方には権現山信仰が少ない。伊予郡広田村総津の豊峰権現、温泉郡重信町上林の不入権現、同郡川内町井内の善神山などがある。善神山はオゼンジサンと呼んでおり、前善神社と奥善神社からなり修験者の行場になっていた。村に胎宝院という山伏がいて雨乞祈願などをしていたという。胎宝院関係の史料は少し残っている。
 南予地方は後で述べるけれども山伏の多い地域であった。また権現山と呼ばれる山が多いのも特徴といえよう。南予を代表する山岳信仰といえば、南宇和郡一本松町にある「篠山権現」である。笹権現と称し、『宇和旧記』によれば、「往古正木村庄屋助之允先祖の家へ権現が飛来し庭にお立ちになったので、はじめそれを仏の峠に移して祀り、さらに現在の弥山(篠山)に祀ったのであるという。助之允の家筋は蕨岡家と称して昔から大戸を立てないことから世に「戸立てずの庄屋」と言われているのであるが、当家は篠山権現の加護によって盗難の憂いがないからだという。それで当家の敷居には盗難除の呪力があると信じられ、これを勝手に削取する俗信がある。権現飛来の伝承はいわゆる飛び神信仰で、熊野信仰と関係ある信仰である。

豊峰山細見之図

豊峰山細見之図


南予地域における権現山

南予地域における権現山