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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 明治政府の宗教政策

 近世末期の動向

 明治維新における宗教界の大変革は、突然起こったのではなく、近世末期に始まった変化の流れにそったものであった。
 その大きな流れは排仏思想である。幕府は、五倫五常の道徳を説く儒教によって封建的秩序を樹立、仏教を協力者としてうまく取り込んだが、もともと両者は相いれない関係にあり、特に幕府の御用学であった朱子学の中でも、林羅山は、仏教が人倫の道を説かず、身分的秩序に反する思想であることをあげて排仏説を唱えた。こうした初期の排仏思想は、仏教の世俗を超える思想や宗教的絶対性に走る傾向を抑えて、仏教を封建的体制に組み込んだのであった。しかし、政治的立場からする朱子学の排仏論にとどまらず、他の学派においても、現実的な倫理主義から排仏論を唱えてやまず、その多くは、神儒一致思想を根底とするものであり、特に山崎闇斎に代表されるように、儒学者による神道論が目立っている。しかも、排仏説をなした儒者の主たった者の中には、仏門から転向して儒者になり、その中からさらに神道家になった者があったという皮肉な現象がみられる。
 一七世紀末にようやく勃興しはじめた国学においても排仏思想が顕著であるが、荷田春満の『創学校啓』に見られるように、その立場は儒学や仏教によって国学が衰退したとするものであり、賀茂真淵を経て本居宣長になると排仏論はより鮮明になったものの、批判は主として儒教に向けられていた。それが末期の平田篤胤になると、これまでの国学を数歩進めて、復古的な国学から復古神道へと宗教的色彩を強めると、いきおい仏教への排撃は積極性を増し、さらに、その国家主義的神道思想は、明治新政府の採用した神道主義的王政復古をもたらした。
 こうした排仏論に対して、当然仏教側からも、臨済宗白隠の『続神社考弁疑』をはじめ多くの反駁書が各宗から出され、真言宗寂本は『神社啓蒙邪証論』など数書によって最も熱心で、神道・儒教・国学を批判した。一方では、神・儒・仏・道の一致を説く護法論もあったが、主として禅宗の立場からのものが多く、のちには平田派国学の排仏論に対抗して各宗の学者が神儒仏一致を唱えた。これらは仏教護法論というよりは神・儒との融合論で、排仏論に対する積極的反論となり得ない妥協的なものであった。
 また、近世末期の復古神道とならんで王政維新の思想的源動力となったのは水戸学であり、神道を主とし、儒教を翼とする立場から尊王を唱え、攘夷論とその実践にまで及んだ。後期水戸学を代表する藩主斉昭の排仏は激しく、藤田東潮や会沢正志斎の著作は維新の変革に動いた志士たちの思想的背景になった。明治の廃仏毀釈のさきがけをなしたのは水戸藩で、天保三年(一八三二)につづく同一四年の寺院廃合は一九六か寺に及び、さらに、僧侶に還俗をすすめ、他国生まれの僧を国外に追い出し、領内の僧は十分の一に減少するというありさまであった。また、これらにあわせて神葬祭を実施して氏子組織をつくり、神仏分離を行って神社をすべて唯一神道に統一した。
 こうした水戸藩の廃仏毀釈を先縦として、復古神道の浸透していた諸藩では廃仏が徹底的に行われた。藩主島津久光廬まる薩摩の廃仏は維新まで継続して行われ、寺院総数一〇六六か寺のすべてが破却せられ、僧侶二九六八人が還俗させられた。また、津和野藩では、藩主亀井茲監以下、復古神道を奉ずる大国隆正・福羽美静などにより、藩主菩提寺の寺領を没収、領内の葬祭をすべて神葬祭に統一したが、ここでははなはだ不徹底なものに終おった。一方、主として水戸学の影響による廃仏の動きも各地にあったが、その実施は明治時代に入ってからであった。

 新体制への展開

 復古神道と水戸学を思想的背景として神道を国教とする維新体制が進められる中で、すでに神道側には用意された体制ができ上がっていた。すなわち、京都の吉田神社は、すでにほとんど全国の神社を配下に治め(白川神道は少数派であった)、神葬祭と氏子組織によって仏教体制に代わろうとしていた。その思想的背景は、鎌倉時代に発する吉田神道(唯一神道、元本宗源神道)である。吉田家は古来神祇官の役人を世襲、独自の神道説を形成してきたが、その大成者吉田兼倶(一四三四~一五一一)によって大成、それを背景に全国の神社の統一を企図した。すなわち、吉田神社の末社太元宮に式内社三一三二座と天神地祇のすべてを祭って全国の神社を統べる斎場所とし、果ては外宮宗には伊勢の外宮、内宮源には伊勢内宮を奉斎して野望を果たそうとした。兼倶によれば、この斎場所は日本国中大小すべての神の太元で、ここから神体を国中の神社に渡したと称し、神社の創建や再興にあたってはここから神号と神体を付与した。こうして全国の神社は次第にその配下に入った。兼倶の主著『唯一神道名法要集』は、神道理論を体系化したものとして歴史的に意義はあるものの、神道をもって儒仏に汚されない日本固有の根本道であるとするにかかわらず、実は仏教理論に裏づけられたもので、その法は密教の秘儀にとり、庶民を神社に引きつける要素ともなっていた。こうして一七世紀末までにほぼ全国の神社を支配下に入れ、神社神道として独立、明治維新における宗教的変革の主役をつとめることになった。
 さらに具体的には、仏教的体制に代わるものとして進められたのは神葬祭である。寺院による葬祭が寺檀制度の実質的中核であるとすれば、これに代わるための重要な手段は神葬祭以外にはない。神葬祭に影響を与えたものに儒葬祭があり、幕府の儒官林家や水戸徳川家で行われていたものである。吉田神道の元締吉田家では当然寺檀関係からの離脱を企図し、神社でも神職の神葬を願っていたのであるが、これには幕府の承諾が必要であった。そして、寺社奉行が最初に出した指令は(天明五年=一七八五)、吉田家からの訴状があれば、神職当人とその嫡子は神葬祭を行ってもよいが、他の家族は宗門によって仏式葬祭をしなければならぬというものであった。その後も吉田家により神職家の家内一統の神葬祭についての願い書が出され、なしくずしに神葬祭が行われていったとみえ、地域によってその顕著な所が生じた中で、今治領がその一つにあげられている(文化二年=一八〇五、『神道宗門諸国類例書』)。こうした神葬祭は、当然檀那寺の反対と藩の規制で容易に実現しなかったが、今治藩では、藩主自身の神社崇敬により、神葬祭が早くから実現したものとみられる。
 本地垂流説による神仏習合は、神の本地を仏とすることによる寺院上位の習合であり、中世以来の風潮の中で近世末まで継続したが、近世中期になると、神宮寺または別当寺として上位にある寺僧の支配に甘んじない神官との間に確執を生じ、従来の権限を侵犯されたとする寺院側が藩に訴える例が見えるようになる。森正康は、伊予におけるその事例一〇をあげ、特に多伎宮(越智郡朝倉村古谷)の例を中心に、神仏習合の変容過程から今治藩における神葬祭に至るまでのことを説いている(「近世村落における社寺の習合と分離-伊予国多伎宮の事例を中心として―」『伊予史談』二四八号)。多伎神社(通称多伎宮)は、古代以来の式内社で、建長七年(一二五五)の免田註記にも免田となった寺領が記されている名社であり、時代による変遷はあるものの、近世には真言宗光林寺(中本寺)を「別当惣司」、その末寺竹林寺(真言宗、朝倉村古谷)・観喜寺(真言宗、今治市町谷)を「下別当」として習合していた。しかし、近世前期においては、おそらく中世以来と思われるのであるが、多伎宮の氏子としての村連合、おけてもそれを代表する有力農民層が神社と社人を支配していたものが、中期の宝暦四年になると光林寺以下の別当寺に移行して一般の神仏習合の典型的な形になり、さらに安永期以降、社人と社僧の対立が緊迫化するなかで、神社の祭祀権を象徴する「鍵預り」が藩の寺社役所を通じて社人串部上総大夫にゆだねられ、鍵の借用証文を光林寺が預かるという形式上の権限だけを寺側に残して、実質上の祭祀権が神社側に移った。また、今治藩主の参詣や雨乞いの祈祷についても、別当寺の管轄であったが、天明二年(一七八二)には、藩主の参詣や代参にはお初穂を両別当寺へ納めるが、雨乞いなどの諸祈祷は別当寺にかかわりなく社人で行い、祈とう料も別当寺へ納めなくてよいことになった。その後文化年間に入ると両者の確執はさらに熾烈になり、文化一三年(一八一六)には、公文書で社人が神主号を無断で借用したことから抗争は激しくなり、藩の裁定の結果、社人に神主号の使用が認められる代わりに、本殿の鍵は藩の寺社役所が召上げ、社人がこれを借りることになり、さらに文政九年(一八二六)には、別当寺には遷座祭における遷宮別当たることの権限のみを残し、藩主の参詣や武運長久の祈願は神主の職掌とし、神饌を神社側が受けるが、参詣の初穂料は旧例どおり別当寺が受けるという勤式が認められた。こうした情勢は、伊予においては今治藩領においていち早く起こった現象で、ちょうどそのころ、今治藩では神葬祭が公認されていたことは、さきにあげた文化二年(一八〇五)の記録によっても明らかである。こうした神仏習合の変容の中で神社の独立がすすみ、社人ならびに家族の神葬祭が徐々に行われるようになるが、仏教になじんできた庶民の葬祭は依然として檀那寺で行われた。なお、前に記したように、今治藩侯家の菩提寺は浄土宗松源院であったが、明治二年、先祖の供養を神式で行うことになり、同寺は廃寺になった。
 神仏分離の政策に実現可能の見通しを与えた最大のものは吉田神道にもとづく神社神道の成立と神葬祭の進展であったが、あわせて寺檀組織に代わり得る師檀関係のあったことも見のがせない。この場合の師檀関係というのは直接には伊勢神宮の布教にたずさわる御師と檀家の関係を意味する。古代における伊勢神宮は、天皇家の宗廟として、また古神道の中心として崇められたが、早くも天平神護二年(七六六)には神宮寺が建立され、中世に入ると、外宮の神主度会氏により、外宮の発展のため、密教の金剛界・胎蔵界の体系を借りて両部神道としての伊勢神道を構成、いわゆる神道五部書を創作して伸長をはかり、仏教と習合を図るなかで庶民化を進めた。建治元年(一二七五)蒙古襲来にあたり神宮崇拝が盛んになるにともなって朝廷は神宮に法楽舎を建立、供僧二六〇人を擁する神宮寺になっていた。仏教を借りて現世利益を取り入れた伊勢信仰は、この法楽舎の僧を中心に庶民の信仰を集めることになった。すなわち、法楽舎の七坊(宇治)と三坊(山田)の僧が諸国の檀那に巻数を配り初穂を得たもので、これがいわゆる御師のはじめである。
 巻数というのは、供養などのために読誦した経典や陀羅尼などの目録を短冊型の紙に記し、花枝につけて願主に贈ったもので、神宮がそれにならって中臣祓を読誦した度数を記した文書を願主に渡した。後には数取りの麻を箱に納めて御師が檀那に配布した。箱は御祓箱といわれ、中に納めた麻は大麻という祓いの具が神体そのものとされたのであった。御師は信者である檀那の依頼を受けて伊勢神宮に代参し、代祈とうしたから御祈祷師などと呼ばれたが、内宮関係の宇治には二四一軒(正徳ごろ)と少なく、外宮関係の山田には五七三軒(宝暦五年)と多かった。御師の家には神楽殿があり、そこで檀家のために祈とうし、代官を諸国に派遣してお祓いの大麻を配って初穂を得るほか、檀家の参宮をあっせんして自坊に宿泊させるという旅館業的経営もした。檀家の側は、同族または地域的なまとまりをもって御師と関係を結び、安永六年(一七七七)には、御師の数四四六軒に対して檀家は四五八万戸にのぼったといい(師職檀家諸国家数帳)、この関係は明治四年七月の神祇官布達による禁止まで続いた。四五八万戸といえば当時の全戸数(当時の人口は約三千万人)の大半にあたる。これだけの家の神棚に皇室の祖神を祭ったのであるから、天皇制国家の確立に好都合だったわけであり、神中心の祭政国家への用意ができていたともみられる。以上は、寺檀関係に代わる師檀関係が成立していたという説を紹介したわけであるが、この二つは言葉の上では類似しているけれど、具体的にはその内容がかなり違っている。むしろ、寺院と檀家の関係に比せられるのは神社と氏子の関係で、吉田神道にもとづく神社神道の普及で、氏子組織も整ってきていた。宗門改めにおいても、現に寺請けに代わって神社にあたらせようとする動きもあって、明治四年には氏子調べの制度を作ったが、同六年キリシタン禁制が解除になってその必要がなくなった。

 神仏分離

 明治維新の理想は王政復古にあった。初め建武中興にかえるという方針もあったが、玉松操らの意見によって神武創業への復古がめざされ、天皇親政が実現したが、同時にその目的となったのは祭政一致で、神祇官再興のもとに神道中心、神道の国教化がはかられ、結果として神仏分離の政策がとられ、わが国宗教史上の大変革が行われることになった。
 明治元年三月一七日の神祇事務局通達は、「諸国大小の神社において、僧形にて別当あるいは社僧などと相となえ候輩は、復飾仰いだされ候」と命じ、ついで同月二八日には、権現・牛頭天王そのほかの仏語を神号としている神社があるので、それを改めるため神社の由緒を届け出ること、仏像を神体にしている神社はこれを改めること、本地などと唱えて仏像を社前にかけ、あるいは鰐口・梵鐘・仏具の類を置いている分は早く取り除くことが指令された。これら二つの法令が神仏分離の基本で、その後の相つぐ補足的通達で、八幡大菩薩号を改めて八幡大神と称すべきこと、別当・社僧の輩は還俗のうえ神主・社人などの称号に改め、神道をもって勤仕すべきこと、もしあくまでも仏教を信じて還俗しない者は立ちのくべきことを指令した。当時、称号だけは別当・社僧を改めて表面をつくろいながら、神前で読経する者が多かったのを戒めたものである。
 こうした神仏分離令は神道中心のものであった。明治二年、神祇官は太政官の上位に置かれて神道の国家的地位はさらに高まり、神祇官の任命する神職が全国の神社の祭祀を司るようになると、神道国教化の体制は整った。そして、神道国教化を推進したのは平田篤胤派の復古神道で、平田銕胤・矢野玄道・大国隆正・福羽美静などが中心となり、平田派国学者が神祇官の要職をしめて神仏分離を推進した。平田銕胤と矢野玄道は共に伊予大洲の出身者である。(『明治文化史6宗教篇』「明治仏教史」、『日本仏教史Ⅲ近世・近代篇』)