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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

八 遊行上人の伊予回国

 一遍は、あまねく人々を教化し、伝法の人を多く得ようとしたが、寺や宗派の後継者を得ようとはしなかった。それは、寺を持ち、宗派を立てようと思わなかったためである。一遍にとっては遊行がすべてであって、寺を持って止住することはさまたげになった。しかし、後継者である二祖真教は、一遍に随従して遊行、一遍の没後もさらにそれとほぼ同じ一六年間を遊行に過ごしたが、老齢と病弱のため晩年は当麻無量光寺に止住した。時宗ではこれを独住という。そして、真教は、自分は独住の身であっても、つねに遊行の心でいたいと言ったが、やむをえぬこととはいえ、遊行に果てた一遍の志に反することであった。その後三祖智得が遊行上人になり、以来真教のような隠棲者を独住とか古跡と呼ぶようになり、独住が死亡すると、年齢に関係なく、それまでの遊行上人は、後継の遊行上人を決めて独住するならわしが近世末までつづいた。一方、一遍は宗派を立てようとはしなかったが、一遍に帰信する人々による集団があり、これを時宗とは呼ばず、中国浄土教の例にならって時衆と呼んだ。六時念仏衆という意味である。しかし、二祖真教は、師一遍の意を体して時衆集団を解散し、一遍のあとを慕って自らの身をなくしようとしたが、淡河の領主のすすめもあって願意、これまた一遍の意志に反して宗派を立てた。それは、各地の信者によって寺が建てられ、要請によって弟子を下して止住させ、そうした拠点によって布教を図ることになると、いきおい宗派を立てる必要に迫られたからであった。そして、四祖呑海によって清浄光寺(遊行寺)が建てられると、次第に時衆の本拠地となった。ただし、当初の遊行寺は時衆内諸派の一つである遊行派の中心寺にすぎなかった。一遍の弟聖戒が京都歓善光寺に立てたのは六条派であり、やはり弟である仙阿が道後奥谷宝厳寺に興したのは奥谷派といわれた。そうした一二派が次第に統合されて今口いの時宗になったが、時衆が時宗になったのは室町時代といわれる。
 こうして、一遍の寺を持たず宗派を立てないという志は、早くも二祖真教以来曲げられてしまったが、それは必然的結果としてやむを得ないことで、一遍の遊行の心とその実践は、おおむねその嗣法者によって継承され、歴代を遊行上人と呼び、遊行上人の在位中の生活はすべて遊行であり、本山は遊行寺と呼ばれるようになった。ところで、ここにいう遊行の心とはどういうことであるか、一遍はなぜ遊行に終始し遊行に果てたのであろうか。それは、一つには「捨て聖」といわれた一遍の「捨てる」ということの必然的結果であった。家を捨て、経論までも捨て、一切の執着を断つというのであれば、すべての人為を捨てて自然の中に入る以外にはなかった。しかし、一遍にあっては、それは隠遁ではなかった。一所に隠遁する念仏の聖も多くあったし、人の入らぬ山林に籠るのも隠遁者のならいであったが、一遍の選んだ遊行はこれらとは全く正反対の道であった。われわれはその心を一遍が窪寺の閑室で到達した十一不二頌に見ることができる。それは、伝承上は祖師証空にはじまる浄土宗西山派の思想によるものであるが、無量寿経にある弥陀の十八願に根拠がある。十劫の昔阿弥陀仏と衆生が同時に成道したことを教えるのがこの願であり、それと同じように、一遍もまた衆生が成仏するのでなければ自分も成仏しない、衆生と共に即身にして仏となることができるというのである。すなわち、できるだけ多くの人びとに念仏をすすめるためには、あまねく諸方を遊行しなければならなかったのである。この遊行の精神が歴代遊行上人に継承され、遊行は江戸時代を経て明治時代まで行われた。

 中世後期の遊行

 遊行寺に残っている応永二三年(一四一六)二月の将軍義持の御教書によると、藤沢道場清浄光寺の藤沢上人、七条道場金光寺の遊行上人およびその時衆の人や馬や輿が関所を通過するときは押手判形だげで通して「勘過」(関所で徴収する関銭を免除すること)するようにということであり、他にも応永二六年(義持時代)、永享八年(一四三六、義教時代)の同様の御教書があるというから、当時こうした保護が加えられていたことがわかる。それは、遊行上人についていえば、ほぼ一五代尊恵と一六代南要の時代にあたる。しかし、こうした関銭勘過の保護も、室町幕府の権威が失墜するとともに空文化したであろうし、幕府は、遊行上人に限らず、所々の領主の公用や多くの社寺に対しても同様の御教書を発しているから、時宗に対する殊遇というほどのものではなかった。
 これより早く、足利三代将軍義満のころから、世阿弥元清など時衆の芸能・工芸の徒が将軍に愛され、特別の保護を受けたことが知られており、また、義満が六条道場歓喜光寺の一遍聖絵を借覧したといわれることからもわかるように、時宗が保護を受けたことも明らかである。また、前記の遊行一五代尊恵が入洛する際、将軍義持は七条道場金光寺の門前に輿をとめてこれを迎え、歳末別時念仏に詣ることを喜んだということから、帰信のほども窺えるのである(四条回心記)。こうした外護もあって、南北朝時代以来の時宗の繁栄は室町初期までつづいたが、その後の室町幕府の権力の衰退と時期を同じくして、時宗も著しく衰微した。
 いま、中世後期における遊行上人の伊予回国についてみるのに、郷土における記録を披見することができるものはつぎのとおりである。それぞれについて確認できた資料をあわせてかかげる。

 1 興国五年(一三四四)四月~ 七代託何
    条条行儀法則(時宗宗典上巻)
 2 永享二年(一四三〇)一〇月~一一月 一六代南要
    遊行十六代四国回心記(時宗宗典下巻)
 3 永正年中(一五〇四~一五二〇) 二一代知蓮
    宮床山願成就寺往昔開聞縁起相続記 真宗要法記中「廿八 方切念仏事」
 4 天文一七年(一五四八)七月二日 二七代真寂内子願成寺で入寂
    遊行藤沢御歴代霊簿(時宗宗典下巻)願成寺真寂上人廟に詣でて詠んだ和歌(四九代一法、五一代賦存、五三代尊如、五四代尊祐、願成寺文書)宮床山願成就寺往昔開聞縁起相続記

右のうち、第一の興国五年は将軍足利尊氏時代、第二の永享二年は足利義政時代、第三の永正年中は足利義澄(義高)時代、第四の天文一七年は足利義輝(義藤)時代である。
 時宗教学の大成者である七代託何に『条条行儀法則』がある。これによると、興国五年(一三四四)四月、九州の遊行を終えた託何は、四国の巡行もほぼ終わって予州に入り、道後宝厳寺に留錫した。当時の住持であった尼僧珍一房は、開山仙阿(一遍の弟)の法弟で、奥谷派を守っていたが、託何との縁で奥谷派を解消して遊行派に吸収されることになった。また、珍一房が六月二一日に没すると、託何は、奥谷の門派のため特に九か条にわたる『条条行儀法則』を与え、時衆の行儀とその教義を教えた。これは伊予における託何の遊行の成果であるが、国内における他のことについては何も具体的に知ることはできない。また、九代白木は、貞治二年(一三六三)春、備後国尾道から伊予に渡り、一一代自空は、赤間関を経て伊予に入り、永徳二年(一三八二)には九州におもむいたというが、これだけのことしかわかっておらず、伊予における資料もない。
 つぎに、南要の『遊行十六代四国回心記』がある。永享二年(一四三〇)七月下旬阿波九品寺に逗留していたことにはじまり、その後一一月までの間、阿波・土佐・伊予にあったが、その間、一〇月一〇日に土佐森山の河津柳を発って願成寺に来たことがわかるだけで、ほかに具体的なことは何もわかっていない。
 ついで、『遊行二十四祖御修行記』によると、宝厳寺住持其阿と親しい関係から、「廿一代宝厳寺へ下向せられき」ということである。二一代は知蓮で、宮床山願成就寺往昔開聞縁起相続記にも、永正年中(一五〇四~一五二〇)ごろの秋、当寺に来て伽藍の営造を志したが果たすことができず、わずか二夜三日留錫して民衆を教化したとあるだけで、宝厳寺と願成寺以外のことは何もわかっていない。また、この御修行記によると、二四代不外も、永正一六年(一五一九)一〇月宝厳へ下向しているが、その後国内を巡錫した形跡は見られない。
 天文一七年(一五四八)七月二日、願成寺滞在中に示寂した二七代真寂は、遊行藤沢御歴代霊簿によると、越後石川氏の出で、天文五年一〇月越中府中称念寺から三七歳で遊行上人になり、天文一七年七月二日、四九歳で願成寺において示寂した。願成寺の縁起相続記によると、六月に留錫してこの寺の衰廃を愁えた真寂は、遠近の檀越に勧進して再興を図ろうとしたが、はからずも病を得て七月二日午の刻に入寂、堂の東に遺骸を納めて一基の宝塔を建てたとあり、これが現存の真寂上人廟にある墓碑である。その後願成寺に来錫した遊行上人は必ずこの廟に詣ったが、それら上人から賜った和歌がその詞書きとともに残されている。

  月すめる松のこの間や時雨るらむけさのこほりに顔をうつして     四九代 一 法
  とく法の声も涼しく吹風に昔や通ふ二本のまつ            五一代 賦 存
  あふぐぞよまつの木の間に影とめて西にいりぬる月のひかりを     五三代 尊 如
  えにしあればけふの手向もあはれみてそなたにうけよ南無阿弥陀仏   五四代 尊 祐

今も夏の夜の祭典として親しまれている願成寺の「お上人さま」という縁日行事は、八月一日の追善法要とともに、天文二三年の七周忌に始まったものであるという。

 近世の遊行

 天正一九年(一五九一)一一月には清浄光寺に寺領一〇〇石の朱印が与えられていたが、慶長八年(一六〇三)に江戸幕府が開かれると、同一八年(一六一三)には伝馬御朱印五〇匹が許された。これは、各地遊行の際に馬五〇匹を徴発することができるというものであり、馬一匹には少なくとも人足一人が必要であるから、馬五〇匹、人足五〇人を徴発する権利を得たことになる。このことは、遊行が幕府によって公認されたことをも意味し、その結果、諸藩から宿泊・饗応の便宜を受け、大名行列なみの偉容をもって民衆に接することになった。ちなみに、大名の参勤交代における行列でも伝馬五〇匹が限度であったとのことである。こうした遊行上人への朱印は、代替わりごとに遊行上人が幕府へ挨拶に出府した際に与えられる例であった。
 家康が特に時宗を保護したことについては理由がある。遊行一二代尊観法親王(応永七年=一四〇〇、長州赤間関専念寺で示寂、五二歳)は、大塔宮の御子とも、亀山天皇皇子とも言われるが、遊行藤沢御歴代霊簿では、亀山天皇第二皇子恒明親王の第四子とされ、その活躍により遊行上人の権威を高め、時宗を隆盛におもむかせたが、この尊観法親王が徳川氏と関係があると見なされていた。すなわち、新田義貞の一族得川氏は、義貞滅亡後流浪の身となり、のち有親が足利義満に取り立てられて上州得川の地を安堵されたものの、応永年間に小山氏の反乱に加担したかどで氏満に討たれ潜伏の身となった。折から桐生青蓮寺に留錫中の遊行一二代尊観法親王に身を寄せて弟子となり、父有親は徳阿弥、子親氏は長阿弥と名のった。その後遊行上人に随行して三河国大浜称名寺で行った連歌の会を機縁に、子親氏は坂井郷の土豪酒井氏の婿になったが、後に妻と死別したため松平郷の松平氏の養子になった。そして、家康はこの親氏から八代めであるという。しかし、これは、家康が征夷大将軍としての地位を権威づけるため、源氏の系統である三河の吉良氏の系図を譲り受け、松平氏を源氏の正統新田氏に結びっけた作為であって、史実でないことは明らかであるといわれる。ともあれ、家康は、遊行上人尊観法親王を利用して源氏の正統であるという系譜をつくり上げたのであるから、遊行上人と時宗に恩誼を感じ、これを保護したのであった(橘俊道『遊行寺』)。
 近世における遊行上人の伊予回国に関する資料があるのはつぎのとおりである。頭部の数字は中世以来の通し番号である。

 5 明暦二年(一六五六)四月~ 三九代慈光
    松山町鑑
 6 延宝三年(一六七五)四月~閏四月 四二代尊任
    遊行四十二代西国御修行之記(藤沢文書館紀要第四号)
 7 元禄一三年(一七〇〇)三月 四六代尊証(高知で入寂)
    遊行藤沢御歴代霊簿 松山叢談(松平定直代) 三田村秘事録(ただし元禄一二年とあり)
 8 正徳五年(一七一五) 一一月~同六年二月 四九代一法
    遊行日鑑 松山叢談(定直代) 願成寺文書(真寂上人追悼和歌) 三田村秘事録
 9 延享四年(一七四七)五月 五一代賦存
    遊行日鑑 願成寺文書(真寂上人追悼和歌) 三田村秘事録 清家日記 堀内文書
 10 安永三年(一七七四)六月 五三代尊如
    遊行日鑑 遊行様御移記録(願成寺蔵) 願成寺文書(真寂上人追悼和歌) 三田村秘事録 清家日記
 11 寛政七年(一七九五)七月~八月 五四代尊祐

    遊行日鑑 遊行上人御通行二付要用留(愛媛県立図書館蔵「小野家文書」) 遊行上人御行烈(列)の次第(同) 松山

    叢談(定国代) 願成寺文書(真寂上人追悼和歌) 清家日記

 12 文政九年(一八二六)七月~九月 五六代傾心

    遊行日鑑 遊行上人御通行要用留(愛媛県立図書館蔵「小野家文書」) 松山叢談(定通代) 積塵邦語

なお、久門家文書(県立図書館蔵)に「遊行上人御通行二付諸入用」があり、文中に「戌九月」とあって「戌」年は右のうち永享二年(一四三〇)と文政九年(一八二六)の二つがあるが、文政九年のものとみられる。

 初期の遊行

 近世における遊行は、遊行寺に残る遊行日鑑に詳しいのであるが、その初出は正徳のもので、右にあげた8の四九代一法の遊行からであり、それ以前のものについては簡単な記録しかない。ことに、明暦二年(一六五六)三九代慈光の遊行については、松山町鑑に、つぎの延宝三年尊任の遊行より一九年前とあるのによったもので、この年にあったかどうかさえもたしかでない。すなわち、延宝三年三月、遊行上人回国の知らせが飛脚によってもたらされると、急ぎ前例を知るため、島谷宗信に尋ねて作った書付けによると、右のほか、四月一〇日ごろ使僧が来て升屋喜三右衛門方に泊めたこと、上人は豊後から伊予へ渡り、四月二〇日ごろ当地へ到着して奥谷宝厳寺へ入り、藩の扶持により自分の賄いで逗留の上、石手寺に一〇日ほど滞在の後、三津を発って播州赤穂へ渡ったことが記されている。
 延宝三年(一六七五)四月から閏四月にかけての尊任の伊予遊行については、『遊行四十二代西国御修行之記』(高野修校註)がある。延宝元年(一六七三)摂州尼ヶ崎から始まり、延宝三年大和郡山で終わる記録で、その間伊予での遊行は、同年三月、豊後臼杵から宇和島に渡り、四月、久万山を経て高知に至ったものである。すなわち、その経路は、四月一六日宇和島着、同月晦日宇和島出船、閏四月朔日大津(洲)着、四月一〇日大津出発、船で松山着、二八日松山出発、久万山を経て二九日土佐国池川着、高知へ向かった。この経路は、後の遊行経路に比べると特異な点が二つある。それは、宇和島-大洲-松山と船によったこと、松山以東の巡行は行わないで、久万山を経て高知へ向かったことの二つで、このことは、後の遊行が、ほとんど陸路をとり、松山から東予地方を巡行して、新宮から土佐へ出だのに比べてのことである。なお、この遊行日数は四二日間であった。
 つぎに、この遊行における各地滞在期間と宿坊についてみると、宇和島藩領では一四日間、宿坊は一向宗真教寺(宇和島市北町、真宗大谷派)、大洲藩領では一〇日間、宿坊は浄土宗寿栄寺(大洲市西大洲寿永寺)、松山藩領ではおよそ一九日間、宿坊は真言宗石手寺(松山市石手、真言宗豊山派)、最後は久万大宝寺(久万町、真言宗豊山派)に一泊している。これら宿坊のうち、後の遊行の場合と一致しているのは大洲寿永寺だけで、他はいずれも異例である。ことに、松山では宝厳寺を宿坊とするのが通例であるのに、石手寺を宿坊としたのは、寺側に破損か改築中などの特別な事情があったため、河野氏ゆかりの石手寺を選んだのであろう。
 元禄一三年(一七〇〇)三月伊予を遊行した四六代尊証は、遊行藤沢御歴代霊簿によると、生国は伊予とのことであるが全くわかっていない。元禄一〇年三月遊行相続、同一三年四月土佐国高知称名寺(浄土宗)で入寂、五七歳であった。『松山叢談』定直代の巻に、「同月(元禄一三年三月)七月遊行上人松山へ来着、同三十日三の丸へ入来御対顔被遊、四月三日当地発足」とあり、出入りの日をあわせて二七日間、おそらく宝厳寺に滞在、「参詣男女九万四千二百四十一人、散銭四貫八百四十目七分五厘」(松山叢談の割り註に「本藩譜云」とある)と化益を受けたことが記されており、その後を通じて人数が最も多いことに驚く。
 その後の正徳から文政までの遊行については、遊行日鑑によって詳しく知ることができるが、日鑑に記録された先例に従って以後の遊行が行なわれたためか、コースや宿坊、あらましの日程かほぼ同じになっているので、以下後期に行われた遊行を一括して、特異な点を指摘しながらまとめていこう。

 順路と日程

 遊行日鑑は、遊行上人に随行する記録係によって細かく記されたものである。遊行は前例にもとづいて行なわれるもので、後の遊行のためにさらに細かく書き残した。したがって、正徳以後の遊行は、遊行寺に残された遊行日鑑によって細かく知ることができる。ところで、正徳・延享・安永・寛政の四度の遊行の順路と日程はほぼ同じであるから、その代表的な例として最後の寛政の場合を記してみる。

 寛政七年(一七九五)七月一二日~八月一六日
 豊後国臼杵-宇和島(大超寺泊、七日)-立間村(医王寺昼休)-峠(小休)-卯之町(光教寺泊)-東多田番所-鳥坂村(竜光寺昼休)-鳥坂峠-百合ヶ久保-札掛村(接待所小休)-大洲(清源寺泊、五日)-(船渡し乗船)-新谷町(篠崎金三郎宅小休)-内之子願成寺(泊、四日)-(御立場二か所)-中山村(庄屋弥三郎宅昼休)-(御立場二か所)-出淵村(泊)-(御立場)-寺町村(金蓮寺小休)-(出合川舟渡、御立場)-和泉村松原(水茶屋小休)-宝厳寺(泊、一〇日)-如来院(小休)-志津川村(庄屋文五左衛門宅泊)-桧和田村(小休)―与四郎宅(小休)-千原村(大庄屋元蔵宅昼休)-落合村(小休)-田野村(野口正左衛門宅泊)-妙口村(御立場)-小松-氷見村(大庄屋高橋市郎左衛門宅昼休)-西条(善導寺泊、五日)-船木村(鈴木幸四郎宅昼休)-上野村(万蔵宅小休)-津根村(徳之丞宅泊)-具定村(庄屋定之右衛門宅泊)-三島(三島大明神参詣)-半田村平山(五郎兵衛宅昼休)-水ヶ峯(御立場小休)-(新宮村浦山川舟渡)-熊野宮-馬立村(太兵衛宅泊)-はらぼふてふ-笹ヶ峯(仮小屋昼休)-立川(土佐国)

 正徳五年以後のコースはほとんどこれと同じで、豊後臼杵(河野氏末裔稲葉氏領)から宇和島に渡り、宇摩郡馬立村から土佐の立川に入って高知へ向かう。ただし、最後の文政九年の順路では二つの異例がある。一つは、普通の順路をとって内之子願成寺に達したあと、再び同じ道を新谷まで引き返し、大谷川・肱川を川船で長浜に下り、海船に乗りかえて三津浜に達し、宝厳寺に入っていることである。これは、およそ二か月前の五月二九日の大雨による洪水で中山越えの道が破損し、復旧していなかったためであることが『積塵邦語』の記録によって明らかである。もう一つは、さきに記したように、宝厳寺を発って、堀江・北条・浅海・浜村・新町・今治・国分・桜井・中村(三芳)・壬生川を経て氷見に達する経路をとったことである。
 宿泊には寺院または庄屋宅が本陣となった。寺院では、時宗寺院である願成寺と宝厳寺のほか、時宗に近縁の浄土宗寺院が選ばれるのが普通であった。宇和島市大超寺は、延享四年以後すべての場合本陣となり、大洲市寿永寺は寛政七年度を除くほかのすべて、西条市善導寺は正徳以後のすべての遊行に本陣になった。浄土宗寺院以外で本陣になった寺には、宇和島市西光寺(大浦、臨済宗)(あるいは寺名の似た西江寺かも知れない)が正徳の遊行に一度だけ本陣になり、卯之町光教寺(同)は延享以来のすべてに、大洲市清源寺(同)は寛政七年に一度だけ、中山町大興寺(曹洞宗)は正徳五年に一度だけ、東予市壬生川本源寺(臨済宗)は文政九年に一度だけ本陣になった。いずれも藩の指図によるものである。昼食時の休憩に選ばれたのも寺院や庄屋宅であった。そのうち、寺院としては立間医王寺(天台宗、延享以来のすべて)、鳥坂竜光寺(曹洞宗、宇和町久保、寛政と文政の二度)、松前町金蓮寺(真言宗、文政以外のすべて)、そのほか小休止に使われた寺には松山市如来院(真言宗、南久米、寛政七年のみ)、今治市桜井国分寺(真言律宗、文政九年のみ)などがある。

 行列と巡行

 遊行上人には、役寮筆頭の修領軒をはじめ洞雲院・興徳院・東陽院の四院などが随行し、遊行中の宰領の実務は交替制により「御番頭」がこれにあたり、その下に「近侍司」と「内近司」がいた。随従者をすべて「大衆」と呼び、その中には賄い人などの俗人もまじっていたらしく、寛政七年の受け入れ側記録「遊行上人御通行二付要用留」には、「松山へ御入込人数僧三十九人俗十六人」とあるから、これによると総人員五五名である。また、この時の船木村における昼休みの際の休憩所別と思われる人数では、本坊一九人、修領軒・洞雲院宿一一人、興徳院・東陽院宿九人、手回り宿一三人の計五二人で、土佐への先僧二名と家来一名を加えると総数はさきの五五名とみあうから、伊予における遊行の一行の人数はほぼこのような数であったろう。
 つぎに行列の次第であるが、日鑑の伊予の部に関する限り具体的なことを的確に知ることはできない。ところが、幸いなことに、寛政七年の要用留と同じ小野家文書に「寛政七卯年八月遊行上人御行烈(列)次第」(時宗教学年報第十輯、橘俊道「遊行上人御通行に付要用留について」所載)があり、行列内容を具体的に知ることができる。これによると、先導の人足や荷物のあとに「神輿」が行くが、これは時宗の守護神とされる熊野権現の神輿である。ついで荷物が間に入って、「宝物御杓子」が行くが、どういう意味で杓子が宝物であったかわからない。また、杓子以外にも宝物を運んだらしく、宝厳寺ではこれら宝物を参詣者に公開している。宝物のつぎにも道具の荷物が行ったあと、「御朱印」・「金紋先箱」・「上人乗物」とつづく。御朱印というのは、遊行にさき立って将軍から賜った伝馬五〇匹の朱印状のことであり、上人の先を行く箱には金紋がついていて、藩侯の行列の例のとおりである。この場合、通行の道路脇では民衆の土下座こそなかっただろうが、上人を生き仏として拝んだであろう。諸道具の行列がっづいたあと、修領軒以下役寮の籠がつづいた。
 この行列次第に記されている人馬の数を合計してみると、馬はわずか二一匹で朱印の五〇匹よりはるかに少ないのは、馬の代わりを人足で補ったためであろう。人足の数はそれぞれの組頭まで入れると実に七七四名となり、まさに大名行列なみである。その多くは昇ぎ荷に要したもので、延享四年の日鑑にわずかに見える「本坊荷物合而数百三十計也」とあるのよりはるかに多いのは、これが本坊の遊行上人の荷物だけであるからかも知れない。こうした人足は、西条藩の命により、郡奉行や代官の支配のもとに、直接には庄屋たちの指図でかり出
されたもので、人夫賃は藩から支払われた。
 伊予国は八藩に分かれた上、さらに天領といわれた幕府直轄領があり、また、藩の飛び地が入り交じった宇摩郡のような地域もあったから、頻繁に人馬の継替えをし、受け入れのための役人が送迎した。特に郡奉行または代官、それに賄い役と医師は終始行列に従い、町年寄や庄屋が受け入れの直接の責任者として随行したことはいうまでもない。ことに藩境での送迎や人馬の継替えが頻繁に行われたのは西条以東であった。いま、文政の遊行の例をあげると、西条を出て一里で西条・小松の領境、ここで小松藩の出役に交替、ただし人馬の継ぎ替えはない。一里半ほどで再び小松・西条の領境、ここで西条藩の出役に交替して西条の人馬はそのまま。それより船木を出て一里ばかりで西条領と松山藩預り領との領境、ここで西条藩の出役と人足はそのまま宿泊地上野村まで行き、ここで人馬・出役とも交替。翌日上野を発って一〇丁ばかりで松山預り領と西条領の領境、ここで出役は西条藩に交替、人馬継替えのところ、上野村と申し合わせて三島まで通すことになり、津根村で昼休みの後一里半ばかりで松山預り領具定村で小休。それより四、五丁で松山預り領・西条領境、ここで西条藩出役に交替。さらに二〇丁で西条・今治領境、今治藩出役に交替、今治領三島に宿泊。翌日、三島から半道ばかりで今治・西条領境、西条出役に交替、それより一里で西条・今治領境、今治出役に交替、山を越えて松山預り領新宮、松山預り領出役人に交替、一里で今治領馬立村、交替した今治藩出役人によって今治・土佐領境笹ヶ峰仮小屋まで送りここで人馬継替えといったぐあいであるから、受け入れ各藩も大変だったが、遊行上人側も困難を感じたにちがいない。
 宿泊には寺院や庄屋宅があてられた。上人の宿所を宿坊・本坊または本陣といい、役寮以下には別に下宿があてがわれ、荷物だけの場合は荷物宿といった。本陣にあてられた寺院のことはさきに記したが、下宿にも付近の寺院や庄屋宅、それに民家があてられ、年によってかなりの変動がある。
 到着のときから藩の責任において賄いをした。賄い方を中心に出役が本坊と下宿に常駐した。短期間の場合はすべて藩の出費で藩が一切を取りしきったが、長く滞在した宝厳寺の場合「手賄」といって、遊行に随行している賄い方によって料理が行われたが、経費はすべて藩持ちであった。最も丁重なご馳走は二汁七菜、あとで茶菓の接待もあったが、倹約を旨とする藩では、上人でさえ一汁三菜という所もあり、総じて大衆の料理は少なかった。時宗の行儀によって夜の勤行があるので夜食としてうどんがふるまわれ、巡行中の昼食にもうどん、小休止時にも茶菓の接待を受けた。そのほか、藩や役人、庄屋や商人、それに寺の檀家などからの献上も多かったが、遊行上人側からも、これらに対してはもちろん、賄いや宿泊の世話になった人々にも何かの返礼を欠かさなかった。

 賦算と化益

 時宗における布教の方法として特色のあるのは賦算と踊り念仏である。踊り念仏は、普通日中礼賛(一日六度行なう六時礼賛中の一つ)のあとで行うのが例で、遊行中も行ったであろうが、日中礼賛を行なったことは日鑑にも時に見えるが、踊り念仏のことはほとんど記されてなく、寛政七年の宇和島市大超寺の遊行で、「躍念仏御執行」とあるのが唯一の例である。また、賦算と呼ぶ札くばりの札は、タテ七・五cm、ヨコ二cmの小さな紙に、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と木板で印刷した念仏札で、これを配って念仏をすすめる機縁としたもので、賦算によって念仏をすすめ、民衆を教化することを「化益」、「御化益」と呼んでいる。遊行はそのために行うものであるから、あらゆる機会を通じて賦算をしたし、寺に本陣を構えて数日滞在した場合、毎日行う六時礼賛(時宗という呼称はこれから出たといわれるほど、時宗としては大切な勤行で、晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時に念仏を行う)を欠かすことはなく、特に庶民の集まった日中から初夜までの礼賛には、おびただしい賦算をしたとみられるが、最も大切な宝厳寺と願成寺について日鑑には全く記されてなく、ただ、『松山叢談』に記す元禄一三年の遊行に、宝厳寺において、二七日間に「九万四千二百四十一人」の参詣人があったとあるだけしかわからないが、単純な計算によると一日約三五〇〇人に賦算したことがわかるから、他の場合も多くてこんな数になるのであろう。このように、日鑑では、本坊における賦算のことは記してあっても、その数はほとんど記していないが、巡行途中での昼休み場所になった寺院や庄屋宅、小休止や御立場の場所では、参詣の群集が多い場合その数が記されている。一〇〇〇人以上の多いものから順に摘記すると、最も多いのは田野村庄屋野口九郎右衛宅の五〇〇〇人(安永三年)、ついで、船木村大庄屋鈴木留右衛門宅の四〇〇〇人(文政九年)、出淵村庄屋の三八〇〇人(安永三年)、国分村国分寺の三〇〇〇余人(文政九年)、卯之町光教寺(文政九年)・松前町金蓮寺(安永三年)はともに二五〇〇余人、その他新谷論田屋篠崎金三郎宅、長浜の人家、妙口村御立場、堀江村庄屋角屋市郎次宅、浜村(菊間町)会所、氷見大庄星局橋宅、新宮村熊野宮などにおける化益の数は、一〇〇〇人から二〇〇〇人までである。
 なお、伊予における化益は土佐とともに低調で、阿波と讃岐は盛んであった。文政九年の遊行で、阿波で最高を記録した一 〇月八日には実に一万三〇〇〇人を数え、わけても讃岐では高松地方を中心に連日一万数千人に賦算したという。
 民衆がありかたくいただいたものには、この念仏札のほかに名号書、お守り、祈祷札があり、また、回向、過去帳入りなどを願った。それは、遊行の世話になった人々への謝礼として、また供養の布施への返しとしてであった。
 最大の世話を受けた藩公ならびに藩に対しては、城下の宿坊に入ると使僧を出し、城下を離れるときにも使僧を出してあいさつし、お礼として名号書やお守りなどを贈った。藩公へは神勅名号と武運長久の御守、奥方をはじめ藩侯家の人々にも神勅名号と武運長久の御守、または除矢・除雷の御守、家老に対しては神勅名号と除矢の御守、以下奉行・代官、勘定方・賄い方などの出役、そして料理人・給仕人・掃除人に至るまで、その段階に応じて小名号や除矢などの御守が贈られた。右に神勅名号というのは、縦書きに大書した名号書のことで、開祖一遍の熊野成道にちなんで神勅名号と呼んでいる。武運長久と除矢の御守は武士にふさわしいものであり、当時恐れられた落雷からの守りを意味する除雷にもその時代として意味があった。
 宿坊となった寺院にはお礼として「本尊名号」が下された。時宗では、一遍上人の教学に基づき、阿弥陀仏が本尊ではなく、機法一体を意味する「南無阿弥陀仏」すなわち名号が本尊である。これは、おそらく半折以上の大きさの紙に縦に大書したものであったろう。こうした名号書や藩公などに奉ったものはいわば大名(号)であるが、庄屋や町年寄、本陣などに贈られた名号書は「小名」であり、「行小」「草小」などと記されている。それぞれ行書の小名号書、草書の小名号書という意味である。また、御守には、右にあげたもののほか安産・砂除・血脈・疱瘡というようなものなど多様であった。遊行中これらを大量に出すので、「御賦名号千幅、血脈・安産六七百、庖盾壱万」(宝暦一〇年七月六日の日鑑)というように多量用意し、遊行中も板木を持参して刷ったとみられる。民衆はこれらをありかたく押し頂いた。
 時宗では名号を一〇回唱えることを十念という。遊行上人は機会あるごとに十念を授けた。日鑑にしばしば「十念二上」ると出ているのは、十念を授けてもらうために上人の前に参上することをいうのであろう。そのほか、願いにより加持祈とうをしてもらって御守をいただき、祖先の供養のため「回向」をしてもらった。また、生前の逆修により、予め自分の戒名に院号・居士号・大姉号を上人から賜わるよう願った。延享四年の日鑑には、本陣となった田野村庄屋野口彦兵衛夫婦が、院号と居士・大姉号付きの戒名、それに名号を一幅に書いたものを拝領したことが記されている。
 また、時宗の信徒として最高にありかたいのは「過去帳入り」であった。他の日鑑では見られないのに、文政九年の日鑑で、道後宝厳寺では、同寺の多くの檀家からの願いで過去帳入りが行われている。すなわち、「同旦中内井筒や源治金百疋ト貳百疋上御過去帳入願」とあるのがそれで、つづいて道後や松山の富裕な町人を主に、記されている者が一八名、その他に加持・回向とあわせてなお願う者がたくさんあったと記している。生前自己の菩提を弔うための逆修をし、遊行上人の携行する過去帳に載せてもらうことを「お過去帳入り」と称して随喜したのである。

 ゆかりの社寺

 遊行上人が伊予を回国したころ、前記の宝厳寺・願成寺のほか、伊予にどれほどの時宗寺院があったであろうか。全国的にみて、南北朝時代から室町時代にかけて最も盛んだったといわれる時宗である。ことに伊予は、開祖一遍の郷国であり、播州とともに最も有縁の土地で、国内をくまなく遊行した所であるから、時衆の寺院も多かったであろうが、伝えの上で一遍にゆかりの寺院であることが知られているのは、前節で述べたようにごくわずかである。まして近世に入るとほとんど衰退してしまって数が少ない。
 その消息を伝えるものに『時宗末寺帳』なるものが三本あり、それらによると、伊予にあったとされる時宗寺院の数は。
  内閣文庫本 寛永一〇年(一六三三) 一
  七条道場本享保 六年(一七二一) 六
  水戸彰考館本 天明 八年(一七八八) 三
となっている。寛永の一か寺は宝厳寺で、願成寺は古くからの時宗寺院であるにかかわらずここに出ていないのは、一時他宗に転じていたか、あるいは衰退していたのかも知れない。享保の六か寺は寺名が記されていて、松前定善寺・奥谷宝厳寺・八蔵入仏寺・円福寺・宮床願成寺・陽保寿寺である。天明の三か寺は、宝厳寺・願成寺と願成寺の末寺吟松庵である。
 右のうち、松前定善寺は金蓮寺(伊予郡松前町西古泉、真言宗智山派)の一塔頭寺院で、明治初年までに廃絶していたとみられる。すなわち、明治時代に金蓮寺の僧がまとめた記録によると、今は失われた同寺の鰐口(同寺のは別個のものを合わせて一つにしたもの)の一方の銘に、「佐川備中守寄進 天文廿二癸丑年三月日 伊予松前定善寺」とあることをあげ、「定善ト云フハ燈籠堂ノ辺ニ有シ寺ナル由」としている。本寺金蓮寺は、大同三年(八〇八)越智氏による開創、天安元年(八五七)唐僧明実による中興、貞観元年(八五九)玉生八幡の別当などの伝承があるもののいずれも明らかでなく、下って寛喜三年(一二三一)唐僧明海により中興して性尋寺となったといわれるあたりからたしかになってくる。代々河野家の外護を受け、永く河野氏ゆかりの高野山金剛三昧院の末寺であった。のち加藤嘉明が松前城築城の際、城地にあったこの寺を現在地に移して外護、さらに松山藩の外護も受けて栄えた。遊行上人がこの地を通過する際は、すべてこの寺が昼食休憩の場所となり、寛政七年の遊行のとき、この寺での御化益二五○○余人というほど群集の参詣があり、「河野家祈願所之由也」といって、この寺を重視していた。
 八蔵人仏寺(伊豫市八倉、真言宗智山派)は、古く弘仁元年(八一〇)空海開創と伝え、中ごろ河野氏の外護を受けたといわれるがいずれも明らかでない。のち元禄六年(一六九三)谷上山宝珠寺の宥実(初め宥善、上野村水口氏)がこの寺に隠居して中興したといわれるから、さきの時宗末寺帳七条道場本(一七二一)に載ったころはこの中興より二八年後のことである。この寺は、のちの寛政八年(一七九六)、十世代に作られた興教大師覚鑁像を祀ることからも明らかなように、新義真言宗の寺で、覚鍍系の高野聖に近い住持のとき、一時時宗に属していたのかもわからない。
 つぎに、円福寺については末寺帳に場所が記されていないので明らかでないが、松山市木屋町の円福寺(真言宗豊山派)とみられる。伝えによると、寛永年間(一六二四~一六四三)松山藩主蒲生忠知の祈願所として道後祝谷に創建、のち松平氏の入封にともない、常信寺を拡張して菩提寺とするため現在地に移建した。現に寺宝として残っている蒲生忠知肖像画と蒲生系図は、蒲生家断絶とともに菩提寺であったこの寺に残されたものであり、これらとともに一遍筆と伝えられる名号書が所蔵されている、が、これも、時宗の盛んであった近江出身の蒲生氏のことであるから、近江から持って来たものか、あるいぱこめ寺自体、が当時時宗であったことを示すものでぱないかと思われる。享保の六か寺の最後にあげられている保寿寺については、たしかなことはわからないが、加藤嘉明がのちに松島瑞巌寺を中興した雲居禅師を開山として再興した「宝樹寺」がそれでないかとも考えられる。また宝樹寺を大林寺(松山市味酒町)とする説があり、同寺が河野通純を弔って法性寺、蒲生忠知により再建されて見樹院、松平定行によって崇源院、そして後に大林寺に改められ、歴代の支配者が香花院としているから、あるいは蒲生による見樹院以前に加藤による宝樹院として再興していたともみられる。最後に、天明八年(一七八八)の水戸彰考館本にある三か寺中の吟松庵は、願成寺の末寺で、その跡は現在知清(内子町知清)の公民館になっており、安永三年(一七七四)の遊行日鑑と遊行様御移記録によると、この時の遊行に際し、寺の希望により、遊行上人に随従の洞雲院を通じて大洲藩に働きかけ、そのあっせんで願成寺末となったものであった。
 宝厳寺滞在中に上人の参詣した神社が幾つかある。延享以後の遊行では、伊佐爾波神社・岩崎明神・湯神社・七郎明神に詣って温泉の霊の石を見て帰るのが習わしになっている。しかも、文政九年の日鑑には行列の次第を記しており、威儀を整えているのは、神社を尊敬したためとはいえ、権威と儀礼を示したふしも感じられる。伊佐爾波神社に参詣したのは、もと宝厳寺がこの神社の別当寺であったという関係にあり、松平定長が寛文七年(二八六七)に造営した本殿回廊の宝厳寺に最も近い左奥隅に、一遍上人の遊行姿を表した蛙股彫刻があるほどである。また、河野の居城跡道後公園の丘にある岩崎神社に詣ったのは河野氏にゆかりの神社であるためであり、冠山(出雲岡)の湯神社に詣り、霊(玉)の石を拝観し、温泉別当明王院へお礼の金を納めるのは、温泉を愛した一遍を偲ぶためでもあろうが、直接には、宝厳寺滞在中この温泉の世話になったからである。すなわち、寛政七年の日鑑によると、「尊鉢ハ此方へ御汲寄、一日二両三度位御入湯被仰付」とあるように、六時礼賛のうち二、三度、身を浄める「こり」をとるため、湯を寺に取り寄せて入湯したのであった。ちなみに、随従の大衆は、昼間三度の勤行の合い間で、一般の入湯をとめて「一の湯」で入湯したという。なお、玉(霊)の石は、少彦名命がふんばって立ち上がり、その足形を残したという伝説の石である。
 つぎに注目させられるのは、延享の遊行以後に記録の見える三島大明神(伊予三島市)への法楽の奉納である。この神社は、『愛媛面影』に記す社記によると、養老四年(七二〇)越智玉澄が上柏に閑居して遷祭したもので、もちろん大山積(祇)神社と同神であり、河野氏の氏神であったためである。また、伊予での遊行も終わりに近い新宮村では熊野神社に参詣するのが恒例になっていた。この神社は、伊予では最も古い熊野神社で、大同二年(八〇七)紀伊新宮から移住して来た社家田辺氏によって勧請されたといわれ、時宗の守護神であるからである。