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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

六 寺院と民衆の信仰

 檀家と寺院

 檀家と寺院の結合は、古代の氏寺以来のものというべきだろうが、地方寺院における顕著な例は、中世後期、観念寺における鉄牛継印と越智氏、善応寺における正堂士顕と河野氏の間に結ばれた師檀契約に見られるように、地方領主・戦国武将や地方豪族と寺院との関係であった。その後、古代以来存在する寺院やこうした寺院を足場に各宗派が競って布教につとめ、信者を獲得して、葬祭や祈禱を通じて寺院と庶民が結ばれ、やがて宗門改めによって進められた寺請制度によって檀家制度が確立するようになった。
 寺請けを得る必要上いずれかの寺院に属しなければならないという社会的要因は別にして、どうしても寺を必要とした個人的理由は死者の葬祭であった。引導を受け、中陰の弔いをしてもらわなければ極楽に行くことはできないと信じられていたし、なお、月忌・年忌を必要とした。そのため寺には年忌法要を繰り出す過去帳が整備されるようになった。過去帳は、時衆で往生をとげた僧が過去帳にのせられ、庶民が遊行上人による過去帳入りを願ったように、記入されることによって往生する、往生した者が過去帳にのるといったような信仰上の意味があったとみられるが、寺にとっては年忌法要の台帳、ひいては檀家の台帳のようなものであった。また、寺は、仏教的習俗と信仰にもとづき、盆・彼岸・縁日などを通じて檀家との結びっきを強め、寄進や布施によって寺の経済を維持した。

 集合菩提寺

 近世に限っていえば、領主はみずからの菩提寺を持ったが、庶民の寺は、広く地域の住民とともに菩提寺とする集合菩提寺的なものであった。また、寺院が地域社会でもつ役割のもう一つに祈禱があった。寺院は、地域内個々の檀家の葬祭のための寺院であるとともに、悪疫や凶作から社会を守るための祈禱寺でもあった。領主は自己と藩のための祈禱寺を持ち得たが、庶民は共同で祈禱寺を持った。藩主の菩提寺や祈禱寺はその外護で栄えたが、封建制度の崩壊で衰微、村落共同体によってささえられた集合的な菩提寺または祈禱寺としての寺院は強固であった。寺の経済は零細ながら多くの檀家によって維持された。
 庶民の集合菩提寺である寺院は、檀家総代を通して寺院財産が監督され、また、総代は、畦職の人選について同意を与える権利をもち、時として住僧を排斥することもあった。一方、檀家は本堂や寺家の造営や修理を負担し、葬祭、年忌にはもとより、盆・彼岸・縁日その他の布施で寺の経済を維持した。また、寺は、年中行事として檀家や部落の招福攘災のための加持祈祷を行なって祈禱札を配ったり、要請によって祈禱を行って喜捨を受けた。
 しかし、本来の寺院のあり方は、葬式や祈禱にあるのではなく、布教による人々の心の救済にあった。しかし、寺檀制度が整って固定化し、葬祭や祈禱によって寺院の経済が安定すると、本来の布教活動を怠るようになり、古代以来の天台・真言はもとより、鎌倉新仏教でさえ立宗の熱意を失い、たとえば禅宗寺院のように宗教活動の形骸化するものがあった。そうであっただけに、盤珪が平易な言葉で仏心の不生を説いた説教は、多くの民衆の心を動かし、宗教界への警鐘となった。これは、さかのぼっては月庵の法語の系列にあるものである。禅宗を沈滞から救った白隠禅の流れにある古月派の樵禅は、大洲曹渓院に入ってからも、出身地の九州や伊予を遊説して庶民教化につとめたが、『九江夜話』を著して明治の新政を精神的に援護した。ことに説教による民衆教化に熱心なのは浄土教系宗派と日蓮宗であった。浄土宗の学信、浄土真宗の徳成の二人は、それぞれの宗学を興すとともに庶民教化に実をあげ、同じく浄土真宗の克譲は妙好人伝を著して説教の話題を提供、篤信者の実例をあげて人々の心を動かした。これは、古代の仏教説話の系列を継ぐものであり、大洲市安西寺の安西法師往生伝も同じ性質のものである。彼岸や盆、施餓鬼法要など、あらゆる機会をとらえて説教の席を設け、人々を善男善女の信心に導くのが僧の役目であり、教化に寺院本来の姿がある。
 庶民の信心を深くすることに役立ったものの一つに有名な寺院本尊の開帳または出開帳がある。ことのよしあしは別にして、本尊には秘仏とされるものがあり、年回を決めて開帳が行われた。安永二年(一七七三)、三、四月の六〇日間太山寺で開帳が行われたという記録や、文化四年(一八〇七)の繁多寺の開帳に中村万太郎一座の芝居興行があったことが、たまたま『三田村秘事録』に載っているが、このような例はほかにも多かっただろう。また、きわ立って注目を集めたのは著名寺院の本尊の出開帳である。宝永元年(一七〇四)一〇月二〇日より二五日まで、大林寺で善光寺如来の出開帳が行われた。出開帳を行う場合藩の許可が必要で、はじめ常信寺で行う予定のところ、六月二八日に同寺が焼失のため大林寺に変更したのであった。善光寺如来というのは、善光寺様式といわれる一光三尊の阿弥陀如来のことで、三国伝来の秘仏とされて絶対に公開されないので、普通に拝する前立て三尊仏を出開帳したわけであろうが、この時の参詣人一一万四四二人、散銭高銀二九貫九八七匁二分とある(予松御代鑑)。ただし、『三田村秘事録』では参詣人を六二六人としていて大差を示している。いずれにしろ大変な話題になって、国中の善男善女が群集したわけである。なお、善光寺如来の出開帳は寛政九年(一七九五)にもあり、この時も大林寺で行われ、参詣人一六万六四三人、散銭高金四六〇両余であったという(同)。当時、江戸を中心に有名寺院の出開帳がひんぱんに行われており、この傾向は明治時代までつづく。なお、郷土寺院の本尊についても出開帳が行われた。享保三年(一七一八)の石手寺における菅生山大宝寺観音の出開帳、宝暦四年(一七五四)の梅本村における福見観音の出開帳などが記されている(三田村秘事録)。これも寺院が教化の場となったことを示すものである。
 なお、あとで記す遊行上人の回国のごときは、生き仏としての上人からお札を受けるため、一日に数千人もの参詣があった。

 講と巡礼

 地域集団がそのまま同一寺院の檀家集団であるとは限らないから、地域集団は檀家集団とは一応別であるが、地域集団内に互助的な組があって、たとえば葬礼の手助けをするなどのことがあった。また、宗派を超え、また同一宗派内で講をつくって仏教行事を営んだ。広く行われた大師講・念仏講・観音講・地蔵講などである。こうした講の種類や内容は、仏教的習俗に関連して多様である。
 また、組や講をつくり巡礼する風が盛んになった。近くは六地蔵詣り、七薬師詣り、十三霊仏詣り、地四国詣りなどの地域霊場巡り、さらには四国霊場巡り、西国三十三観音巡り、果ては東国・秩父の観音巡りや六十六部回国など、個人あるいは講による巡礼、また、講または地域社会の人々を代表する代参巡礼などが行われた。特に参拝を目的とする講を参拝講(代参講)と称し、おおむね同一宗派の者で構成してかわるがわる本山詣りをした。浄土真宗の本山講・報恩講、日蓮宗の身延講、成田信仰にもとづく成田講、善光寺詣りを目的とする善光寺講などがそれである。さきの出開帳は地域に出帳して要請に答えるものであるが、これらはその寺院へ参詣するための講である。
 なお、民衆の信仰にかかわりの深かった四国遍路と遊行上人の回国については次項以下に述べる。