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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 諸宗の動向

浄土宗

 伊予における浄土宗の布教は早く行われ、すでに中世において主要な寺院は成立しているので、この時代に特に取上げるべきものは少ないが、松山市大林寺、宇和島市大超寺のような大寺がある。
 大超寺(宇和島市大超寺奥)は、慶長元年(一五九六)天誉により開創。天誉はもと土佐中村一条氏菩提寺の住職であったが、隠居の身となって宇和島に来たり、笹町に安養寺を建立、慶長五年現地に移建、のち大超寺に改めた。伊達侯の外護を受けて栄え、境内の墓地には初代藩主秀宗夫人の墓がある。なお、中世末期以来行われ九時宗遊行上人の伊予回国の際、一行が豊後臼杵から宇和島に上陸するとこの寺に入って本陣とした。
 大智院(伊予郡松前町筒井、単立)は、慶長一〇年、松前城主加藤嘉明の命により建立したと伝える。境内に後藤又兵衛の墓といわれるものがあり、又兵衛がこの地に隠れていたころ、水利の便をひらいて水田を開発、その恩を忘れないようにするため村人が墓を建てたと伝える。又兵衛はもと嘉明と交友があり、のち敵味方にわかれた恩讐の間柄にあった。
 不退寺(松山市御幸)は、慶長年間(一五九六~一六一四)の建立、開山諦道(慶長一七年寂)という。松山藩から重んじられ公儀支配(弘化二年『松山藩寺院録』)、また寺格として中本寺が与えられていた。
 大林寺(松山市味酒町)の地には、古くは法性寺があり、河野通純を弔った寺といい、現在も通純の墓がある。ついで蒲生忠知が入封、見樹院を建立して香華院とした。忠知の墓は興聖寺に移されたというが、この寺にも残し祀られている。さらに松平定行が入部すると、寛文一一年(一六七一)、菩提寺として、浄土宗崇源院を建立、のち大林寺に改めた。この寺の開創は旧領伊勢桑名時代にさかのぼる。すなわち、以前の旧領遠州掛川天然寺の住職であった伝誉三甫(~一六三一)を開山として桑名に創建した照源寺に始まる。松山移封にともない、三甫の弟子で第二代大誉三恕によって崇源院として移建した。三恕はのちに円樹院(現正安寺、松山市湊町)に隠棲した。大林寺と改称したのは七代直絃の時である。三代報誉無住は英才のほまれ高い学僧で、著作に『金玉拾輯集』六〇巻、『諷誦指南要句集』三巻がある。九代演誉団達は元禄一一年(一六九八)入院、同一五年、米五〇俵を代償に、久米三蔵院(浄土寺)から法然・聖光・良忠の三像を譲り受け、また、野間郡神宮(今治市)西明寺からも善導大師像を遷座、三像とともに新しく建てた常念仏堂に祀った。藩侯家の菩提寺として二〇〇石を給せられ、中本寺の寺格を与えられて藩内浄土宗の触頭に任ぜられた。
 この寺の一四代目にあたる行誉学信(一七二二~一七八九)は、ゆえあってこの寺を去ったので歴世には数えられないけれど、まれにみる英傑であるとともに学僧でもあった。享保七年(一七二二)、越智郡鳥生村(今治市鳥生)に生まれた。父楽誉浄安は当時同村明積寺(現在は真言宗)の住職、母の墓が同寺境内にあるといわれる。幼にして円浄寺(今治市本町)真誉に従って剃髪、二〇歳江戸に出て芝増上寺に掛錫、おりから江戸にいた華厳僧覚州に唯識を学び、また京都に上って長時院湛慧に菩薩戒・八斎戒を受け、さらに日向の古月について臨済を究め、そのすすめで長門妙慶寺雲説に浄土教を学んだ。その後安芸国宮島光明院を訪れ、高野では密門に三密の秘軌を受けた。こうして少し繁雑ながら修行の経過にふれたのは、学信の修学の幅が広かったことを知るためである。
 やがて学信の名が遠近に知られるようになり、越智郡岩城村の信徒の懇請により同村浄光寺の一〇世として入った。父浄安を呼び寄せて孝養を尽くしたが、父は宝暦七年(一七五七)同寺に没した。現在この寺には父の墓と学信の木像があり、木像は学信寂後四三年の天保二年、島の檀家白石氏の法施によるものである。その後間もなく、明和三年(一七六六)京都法然院に入ったが、数か月後の同年末厳島光明院内の加祐軒に隠棲した。四五歳の時のことである。しかし、長建寺(松山市御幸)の檀家の懇請をことわり切れず、安永三年(一七七四)同寺に入り、教化と講説に専念し、檀家の葬送や追福などには一切携わらなかった。そのうち藩侯定静の帰信を得てついに大林寺に招請された。定静の嗣定国も学信に帰依、政治の要諦まで教わったが、天明元年(一七八一)、藩の軍法の達人石原勘介が罪に問われたとき、赦免を願う学信の意見が容れられず、大林寺を去って厳島光明院の加祐軒に帰ってしまった。途中粟井坂(松山・北条市境)で「すめる世にまたもあわ井の水ならバたち帰り来てかげうつさまじ」と詠んだ。その歌碑が粟井坂に建てられている。隠棲とはいうもののなお諸方を遊歴、岩城浄光寺、今治来迎寺に留錫したこともあったが、寛政元年(一七八九)加祐軒に没し、不浄を忌む厳島の習わしから、対岸の二十日市汐音寺墓地に葬られた。著述に、『蓮門興学論』、『一枚起請文符会決』、『一念邪正決』、『詩文集』『幻雲集』がある。主著『蓮門興学篇』(資料編七五六~六八頁)は、宗門の衰廃は僧徒の放逸より始まり、その放逸は文盲のゆえんであり、その文盲は檀林の廃学によると、宗門の僧と檀林全体を戒めたあと、さらに、檀林の廃学は法主の策励がないからである、口先だけの策励では人が信服しないから、身を以て策励し、自然と徳風に化するようでなければならないと、浄土宗の法主までをも批判、宗内全体に興学の風を振起させようとしたもので、まことに意気盛んである(『学信和尚行状記』)。
 善導寺(西条市朔日市)は、寛永一三年(一六三六)、さきの西条藩主一柳直盛の開基、開山然誉と伝える。江戸時代の時宗遊行上人の回国に際し、その本陣となるのが常であった。
 本善寺(小松町新屋敷)は、一柳氏に従って伊勢国神戸から入り、小松藩初代藩主直頼に仕えて家老となった荒木重勝(伊丹城主荒木村重の末子で、信長によって滅亡の際のがれた)が建立したもので、開山は玄誉崇阿(慶安五年=一六五二寂)。本尊阿弥陀如来は恵心作と伝え、鎌倉期以前の作とみられ、伊勢より遷座したものである。また観音は行基作と伝え、四代頼邦の母延寿院の念持仏で、逝去後遺命によりこの寺に祀っている。なお、この延寿院は、存命中踊躍念仏を好み、毎年七月一七日この寺で諸人に踊られ、今後も踊りを続けるよう遺言されたので、今に至るまで盆踊り「トンカカサン」として残っているという(『小松邑志』)。
 本誓寺(大洲市中村、もとの本寺寿水寺が管理)は、寿永寺第五世学誉景光(一六五六寂)が開創した寿永寺の末寺である。本尊阿弥陀如来は、慈覚大師作と伝える優品で市の文化財。本誓寺はしばらく無住の時代がつづき、第二世となった総誉安西には稀なる大往生伝がある。安西があまりにも有名になっだので、俗に安西寺と呼んだ。
 安西(二八四〇~一七一〇)は、宇和郡奥浦(吉田町)の漁夫六之亟の子、幼名村松。四三歳で母を失い、その七回忌にあたり、遺言に従って四国霊場を巡礼、その年寿永寺高誉の門に入った、時に四〇歳。やがて当時無住であった本誓寺に入ることを師から勧められ、霊験あらたかな本尊阿弥陀如来につかえて念仏三昧の年月を過ごした。元来無学文盲ゆえお経を唱えることさえ心得ず、戒名を与えることもできず、念仏を唱えるだけであった。かくして宝永六年(一七〇九)、安西六九歳の三月、本寺寿永寺の高誉、大蓮寺(高誉の開創、現廃寺)の誓誉(共に高誉の弟子で安西の法兄)を招待、その他の法類、有縁の檀越などを招き、ある夜の夢に本尊の如来があらわれ、願う極楽へ早く行きたいならわが名を称えよと声をかけてくれたこ
とを喜び、喜びのあまり皆さん饗応したと語った。のち同年一〇月二日の告げに、往生の期を知りたいなら教えてやると、来年三月一五日必ず浄土に迎えるとのことに喜び、四日寿永寺に行ってこのことを話すと、忽ち城下の人々に知れ渡ったが、嘲り笑われるばかりであった。やがて同年一二月晦日の通夜念仏に、来年三月一五日己午の中間の刻にまちがいなく迎えに来るとお告げを聞き、翌元日大蓮寺誓誉にこのことを話し、嬉しさのあまり城下に出て家々に入り、来たる三月一五日の日中往生をとげるから、皆さんも念仏してあやかってほしいと言うので、年の初めから狂乱かと噂された。その後も同様のことが続くので人々が疑ううち、三月一〇日ごろから、人々は怪しみながらも本誓寺に集まり、一四日に例月の念仏会も終えて、さて三月一五日、未明より道俗男女が本誓寺に群集、目付役人列座の前で、参詣の群集に別れを告げ、みんなも念仏して私のように往生をしてほしいと言葉を残し、南無阿弥陀仏を唱えて西方に三拝すると、予告の時をたがえず、身体踊躍の体で立ちながらしばし諸人とともに念仏、正座して三度目の南無阿弥陀仏の声が低く聞きとれたところで息が絶えた。この浄業を世の人々に知らせるため、大蓮寺誓誉が没後二年目に上京して獅子谷の忍徴に語り、忍徴の口述を三井寺観智院の竜河が編集し、正徳二年(一七一二)獅子谷清浄華院から公刊したのが『総誉安西法師往生記』(資料編七四八~五六頁)であり、右に記したのはその摘要である。この住生伝はしばしば増刷され、その後文化版・天保版・嘉永版・安政版と改版された。ことに最後の安政版は、安政六年三月一五日の安西法師一五〇年忌を前に、前年の忌日に、本誓寺の檀家によって大洲で出版されたもので、発行所は本誓寺、版木の施主は竹地仙蔵等となっている(小西さくら木「安西法師伝」)。
 こうして改版を重ねて出版されたのは、浄土宗布教の手段として安西の往生を知らせるためであり、浄土思想の流布に貢献するところが大きい。また、これは往生伝の一種で、古くは平安時代の説話集としての往生伝の系列にあり、無学文盲の庶民に対する説話のいわば種本となったものでその意義は大きい。
 松源院(現廃寺、今治市風早町)は、今治藩主松平家の菩提寺であった。寛永一二年松平定房が入部すると、来迎寺(もと同市室屋町)を菩提寺としていたが、明暦二年(一六五六)この寺を建立、来迎寺の三汲を迎えて開山とし、定勝山松源院雲巌寺と号し、のち松源院と呼ばれるようになった。開基定房が父母の菩提を弔うために建立、定勝山は父の名定勝、松源院は母の法号から取ったもので、松平家の菩提寺として寺領一〇〇石を給せられた。明治二年、松平家の先祖供養が神式で行われることになって廃寺となり、本尊阿弥陀如来は正法寺(今治市風早町)
へ移遷された。

浄土真宗

 中世末におげる浄土真宗の流れについてはすでに前節で述べ東西両本願寺の対立のことにも触れた。以下には、江戸時代初期に開創された主な寺院を両派別に取上げることにする。
 まず、東本願寺を本寺とする大谷派の寺院としては幡勝寺(今治市風早町)がある。この寺には聖徳太子開創という伝承があり、太子の道後温泉入湯の史実にからめて他にも同様の伝えのある寺もあるから、古寺であったことは想像できないことはない。もと日吉村にあって上宮山太子堂と称し、天台・真言兼修の寺であったという。延元三年(一三三八)の兵火で焼失して草庵だけになっていたのを、慶長一五年(一六一〇)、幡勝入道浄円が播州より下向、米屋町に移して浄土真宗を布教、上宮堂浄円坊道場と呼ばれるようになった。のち寛永一二年幡勝寺に改め、二度の火災のあと寛文九年(一六六九)現在地に移建したという。
 浄満寺(宇和島市中央町)は、寛永三年(一六二六)建立、もと常満寺といい、汲鸞が開創した。汲鸞がこの寺を開創する前、宇和島には専修念仏の僧が五、六人いたが布教が進まず、これを嘆いた汲鸞が、紀州加太浦正立寺の前住宗清を招いて布教につとめ、この寺の開創に至った。もと宇和島には大谷派寺院が六か寺あり、それらの「取置寺」であったというから、この地方の中心寺だったのであろう(『宇和旧記』)。
 満福寺(西条市朔日市)は、承久元年(一二一九)、源海(~一二五四)によって武蔵国荒木に開創されたのがはじまりという。源海は、藤原鎌足の後裔安藤隆光で、武州豊島郡荒木の領主であったが、出家して親鸞の弟子になった。一五代海応(一六二〇)の時、当時帰信を受けていた一柳氏の伊勢神戸への移封に従って寺を移し、ついで一六代寂応(~一六五二)の時寛永一三年、一柳氏によって西条に移され、その外護により基礎が確立、つづいて松平氏の外護により栄えた。本堂は太子堂と呼ばれ、松平初代侯母堂が所持仏としていた太子像を祀っている。さきにあげた今治幡勝寺が聖徳太子にまつわる寺であるといい、ここにまた真宗の寺に太子堂があることは、親鸞の太子信仰に発して、真宗において太子崇敬の念が厚いことの一証左である。松平氏の外護を受けた時代、菩提寺なみの扱いを受け、葵の紋の使用を許され、時報の鐘をついていたという。
 円光寺(松山市湊町)は、もと千舟町にあって清涼庵といい、豊臣秀頼の家臣郡主馬頭良列が、元和元年(一六一五)大坂落城して自刃のとき、遺言により嫡子信隆が出家して清念といい、来松してこの庵に主君と父を祀ったのにはじまる。慶安二年(一六四九)西本願寺法主良如より本尊ならびに寺号を賜って円光寺と称した。だから最初は本願派であったが、七代明月のとき現在地に移建して大谷派に転じた(寺院由緒鑑)。開山清念(~一六六二)、字は西卯、父休清と母妙念からそれぞれ一字をとって清念と称した。七世明月(一七二七~一七九七)は、享保一二年周防国屋代島願行寺に生まれ、名は明逸、字は曇寧、明月のほか解脱隠居・化物園主人などと号した。一五歳来松して円光寺義空の法嗣となり、二〇歳京師に遊び、また江戸に遊学、服部南郭らとの交友を通じて古文辞学(徂徠学)を学んだあと帰郷して宇佐美淡斎・杉山熊台などを指導、松山におけるけん園学派の先駆者となった。一方、京阪の間に遊学したとき、泉州堺の食佐太郎(名は宜周、号南山人)に寄寓して書を習い、南山人から王義之・顔真卿など晋唐の書風を学び、特に草書に巧みで、越後の良寛、備中の寂厳と並び称され、郷土にあっては蔵沢の竹画とともに称賛された。また、詩文にも秀で、著作に『扶桑樹伝』・『通機図解』・『西遊記』・『明月什』などがあり、ことに扶桑樹伝は光格天皇乙夜の覧に供され、のち唐人町茶屋吉蔵によって開板されると名月の名が高くなった。師義空のあとを嗣いた義潭が退院すると、三四歳円光寺に嗣席、翌年、藩の反対を押し切って唐風の楼門を構えて普照楼と名づけるなど、奇行の多い傑僧であった。寛政九年(一七九七)この寺に没した。八世はその子徳成(一七六四~一八一〇)も父に劣らぬ英傑の僧であった。信児・禿城などといい、父に学問と書道を学び、一五歳のとき父に代わって寺務を主宰、その時藩士近藤某が本堂内陣内に入って太子像に不敬の所作あり、徳成がその無礼をなじって箒で打擲、そのため三年間幽閉されたという逸話もある。二五、六歳のとき松山を去り、最初に播磨国(摂津国とも)雲松寺の義端を訪い、倶舎論について論争し、破れて大いに発奮、さらに薬師寺の学僧基弁に倶舎・因明・法相を学んで究めるところあり、本山をはじめ真宗教学の世界で認められ、大谷派高倉学寮で因明その他を講じ、また、高野山・叡山その他にも出講、当時の宗学界の権威となった。しかし、病のため四七歳(文化七年)で美濃国墨俣万(満)福寺(岐阜県安八郡墨俣町下宿)に没した。著作には、『因明大疏考決』など因明学に関する諸著、『教行信証講義』、華厳や唯識に関するもの、浄土教に関するもののほか、詩文集に『紫幅抄』・『傾筺集』などとおびただしいものがあって、伊予の輩出した学僧中でも凝然につぐ大学僧であるにもかかわらず、あまり知られてもいないし、宗門での研究も進んでいない。
 なお、円光寺の開創が大坂落城にかかおることに関連して、なお同様の縁起をもつ寺がある。専念寺(松山市玉川町)は、豊臣秀頼の臣安斎市之進とその子慶宗の創建、碧泉寺(東予市北条)は、もと真言宗であったが、僧了順の弟大岩重俊が大坂落城後この寺に入り、随入と改め真宗の寺にしたという。
 本願寺派(本寺西本願寺)の寺でこの期に開創した寺で古いのは光明寺(西条市大町)である。もと現新居浜市泉川東田にあった古寺といわれ、慶長年間(一五九六~一六一四)、西条に寺地を与えられ、僧常真がこの寺を建て、のち現在地に移った。常真は讃岐国多田郡広田の領主入江氏の末裔といわれ、加茂川の流れを変えて氾濫を防いだ功徳により土地の人からあがめられ、今も常心という地名が残っている。
 蓮福寺(松山市中の川)は、藩主松平家にかかおりのある寺である。その前身は遠州掛川の真如寺である。慶長八年一一月、その春征夷大将軍に任ぜられた家康がお礼言上のため上洛の途次掛川城に入ることになっていた。城主定吉は定勝の嫡子(松山藩主となった定行の兄)であるが、その日家康の不興をかって叱られ、家老のいさめを聞くことなく、家康の入城を前に一九歳の若さで自刃、家康が入城したころ城内の騒ぎはおさまっていた。定吉自刃の前に付げ家老久松対馬守は割腹しており、近習の者二〇余名も追い腹を切って殉死した。もう一人の部屋家老加藤信宗(~一六〇四)、(犬山城主加藤清信の孫、加藤清正の甥)は、剃髪して唯宗といい、定吉の遺言により主君と殉死の家来の菩提を弔った。翌九年東本願寺の末寺となり、開祖教如の寿像を賜った。三世慶円代の元和三年(一六一七)には定勝に従い桑名へ、四世慶順は定行の松山入部に従い、寛永一五年(一六三八)城の北麓杉谷に蓮福寺を建立、寛文八年火災による焼失後現在地に移り、八世慶随代の安永八年(一七七九)西本願寺末になったという。
 西方寺(大洲市椎森)は、元和三年加藤貞泰の大洲入部に従った高覚(~一六三二)の創立、のち衰退して五世菊堂が中興、六世鳳仙は学僧として名が聞こえていたという。
 なお、善宗寺(松山市三津、真宗本願寺派)は、顕如に帰依した道空(土佐の人)による開創といい、また、顕如の子で西本願寺を開いた准如の弟子明円の創建した寺に西性寺(松山市三津)がある。さらに、明楽寺(松山市一番町)は、開山了祐によって寛永年中に建立、のち蒲生忠知の入部に従った三世祐賢(~一六七五)が松山に移したといわれ、蒲生氏郷と忠知を祀った。
 正覚寺(松山市北夷子町、現廃寺)は、開山を了知(一六五四寂)とする。この寺の六世乗信の二男が克譲(一七八七~一八六五)である。幼名は恵忠、字は二洲、大痴・石室・玩石・道楽山人などと号した。一六蔵石州学派履善の学寮に入り、また浄泉寺鵬溟にも師事、二二歳のころ越後国新潟の治天に学ぶこと三年、その後本願寺図書冊検事の職にあることを幸いに秘庫の珍籍を渉猟、悟道大器の素因をつくり、布教巡錫にその後の生涯を終始、足跡は四〇余国に及んだ。その間たびたび石州を訪れて石州学派との交渉が深まる中で、彼の著作『新続妙好人伝』が撰述されるようになった。この妙好人伝に「新続」の二字が付けられたのは、石州学派の仰誓の二五回忌にあたる文政元年(一八一八)、その記念に出版が計画され、結果として天保一三年(一八四二)に出版されたのが、仰誓の『妙好人伝』(その跋文によると、最初に編集にあだったのが履善と克譲であったことがわかる)であり、克譲の著作はそれにつづくという意味である。文政一一年三月二日、母が正賢寺(中島町熊田、真宗本願寺派、母は夫の死後生家であるこの寺に老後の生活をおくっており、住職は甥の相応であった。克譲は帰国すると母を訪ねて孝養を尽くしていた)で亡くなると、六月石州を訪ねる間撰述の構想をたて、資料を収集、母を追悼する意味を込めて、翌一二年の正月ごろまでに原稿を完成したとみられる。(朝枝善照「克譲撰『新読妙好伝』の研究」)この妙好人というのは、真宗の篤信者のことをいい、無学文盲の人でも世に稀な阿弥陀仏の信者を妙好人と讃え、その現世における幸福と往生にあやかろうとするものである。克譲はこの中に二四人の妙好人を取上げているが、その中に母妙順の生涯を物語り風に書いて追孝のまごころを表しており、伊予国の他の二人、久米七夫婦と於美佐の物語りも見える。この書は、『妙好人伝の研究』(昭五六、土井順一)の中で、仰誓撰妙好人伝と共に全文が収録され(伊予史談会蔵書による)、にわかに注目せられるようになった。克譲は、元治元年(一八六四)仮寓中の中島熊田正賢寺に歿した。著作には妙好人伝と同類の遠久留麻のほか、雪窓雑抄・石室日記鈔など多数がある(愛媛県史『資料編学問・宗教』参照)。
 こうした妙好人伝は宗門における布教の手段として用いられたもの、古代の往生伝、さきにあげた安西法師の往生記などと同じ系列のもので、庶民の教化に大いに貢献した。

日蓮宗

 江戸時代初期の日蓮宗寺院中注目させられるのは、松山・西条・大洲などの藩侯家菩提寺である。
 法華寺(松山市御幸、久遠寺末)は、その開創年代が必ずしも明らかでないが、元和二年とみられ、開山は日侃(~一六三〇)とされる(寛政一二年「寺譜」)。五世日量(江州奥村氏の出)は、二代城主定頼の夫人養仙院(京極高広女)の招請で来住二九年、寺領五〇石を賜り、延宝六年本堂を建立という(檀徒長谷川止水撰『妙向山法華寺中興之記』による)。したがって、一般に言われているように、三代定長の母養仙院の帰依を受け、定長によって中興され、以後松平家の菩提寺になったというべきであろうか。さらに、『松山叢談』では、元禄三年四代藩主定直より寺領五〇石寄進(寛政一二年の『寺譜』に一〇〇石とあるのは、さきの寄進と合わせたものであろうか)とあり、以後の外護の記録も多い。また、日量の退院後法嗣になった六世日竟(~一七三四)は久遠寺三六世として出世するなど高僧が住持していた。ここに祀られている藩侯家の人々は、養仙院殿了栄妙護日立大姉(二代定頼室)、光雲院殿秀栄日珠大姉(定頼女)、春光院殿瓊玉妙樹日栄大姉(三代定長室)、鏡智院殿妙行日理大姉(定長妹)、恵光院殿妙達日源大姉(四代定直女)の五人であり(位牌記)、定頼の女日珠大姉の墓が現存する。
 妙昌寺(西条市東町、もと立本寺末)は、寛永一一年一柳直盛が伊勢国神戸から西条に転封になり来予の途中、母栄法院殿が大坂(大阪)で卒去、家老門川八左衛門の中出により、同一三年、その菩提を弔うため創建、難波利庵八百屋清太夫の願いにより、讃岐国高松妙朝寺から法性院日慧(~一六七七)を招いて開山とした。寺号は栄法院殿妙昌日繁大姉の妙昌をとり、山号を日栄山という(西条誌)。のち、松平頼純が入封、この寺を代々の菩提寺とした。なお、松平氏の祖廟東照宮が境内にあったが、明治初年の神仏分離で西条神社へ遷座した。妙昌寺の末寺にあたる寺に林昌寺(西条市氷見)がある。元和年間、信濃国松本から来た馬場勘助がこの地の土居に移した蓮生院が前身で、やがて一柳氏により西条妙昌寺が開創されたとき同じ開山を迎え、のち林昌寺に改め現在地に移建した。その後も松平氏の尊崇と外護を受け、境内に霊屋が設けられていた。
 法眼院(保内町須川、もと本法寺末)は、もと大洲にあって加藤家の菩提寺であった。初代藩主貞泰夫人法眼院殿亮悟日俊大姉(一六三六年没)の菩提を弔うため、寛永一三年(一八三六)その子泰興が建立、開山は日能である。末寺として四か寺を有した大寺であったが、明治二年焼失、版籍奉還ということもあって現在地に移建した。もとこの寺の末寺であった法眼寺(大洲市新谷)の方が今は盛んである。寛永一五年、新谷初代藩主直泰が、母法眼院の菩提を弔うため、日登(~一六八〇)を開山として創建、万治二年(一六五九)完成、新谷加藤家の菩提寺になった。なお、境内墓地には初代直泰、六代泰賢の墓がある。
 一乗寺(吉田町立間尻、もと妙顕寺末)は、万治二年、日蓮宗に帰依した吉田藩主宗純夫人お松の方のために同侯が建立したもので、開山は宇和島妙典寺七世日要であるから妙典寺末であったのであろう。また、法円寺(宇和島市神田川原、もと久遠寺末)は、寛文四年、伊達家内奥比企ノ局と家老鈴木信好を開基、日純(~一六八四)を開山として創建した。

不受不施派と日述

 京都妙覚寺の日奥(一五六五~一六三〇)の始めた一派を不受不施派という。その派の主張は、他宗寺院と神社には参詣しない、他宗信者の布施は受けない、他宗僧侶に対して施しをしない、というものであって、ある意味では法華経にもとづく極めて純粋なものであり、日蓮以来の反体制のエネルギーを秘めていた。日奥はこの主張のため、さきには秀吉による方広寺大仏供養の千僧会(文禄四年)に出席せず、また、家康が大坂に衆僧を招いたとき(慶長四年)、これに応じず、ために対馬に流された。
 ところが寛永五年二代将軍秀忠夫人の葬儀が行われたとき、池上本門寺の日樹が将軍家の布施を受けなかったことに端を発し、同七年、幕府は受不施派である身延山の日暹との間で討論をさせた結果、日樹らを信州伊那に流して不受不施派を弾圧、さらに寛文五年、寺社領朱印の制度が改められる際、受派の訴えにより不受派が処分せられた。この時、各寺の寺領を、三宝を尊び、祖先を追善のための供養として安堵される敬田供養としての手形を徴することになったが、小湊誕生寺の日映らは、貧窮孤独に施す悲田であるという立場から反対、また、野呂の日講や下総平賀本土寺の日述らは、国主から恩恵として賜る恩田だといって反対、それぞれ流論の刑に処せられた。
 日述(~一六八一)は、寺領安堵に対する感謝状の提出を拒み、寛文五年二一月、大野法蓮寺の日完とともに伊予吉田藩預りとなり、翌年正月一七日吉田に到着した。日述は庵室に入り、藩は番人一人をつげ、六人扶持を給して好遇した。その跡は後世聖人寺と呼ばれ、今は吉田町の斎場地になっている。日述と同道した日完は、寛文一二年二一月一九日夜、日述の庵に忍び入って諸道具を窃盗、そのため翌延宝元年二月二六日死罪に処せられた。日述の吉田閉居は一六年間、延宝九年七二歳で没して聖人山に葬られた。聖人山はもと罪人の埋葬地で、日述が時々一乗寺を訪れる際、人目を避げて通る道筋にあたっており、いつも感慨にふけっていたという。のち山頂に立派な墓碑が建てられて人々の崇敬を集めた。明治九年不受不施派の再興が認められ、同一三年には下総国和気郡益原村正妙院日寂らが分骨を持ち帰って祀り、昭和六年の二五〇年忌には、同派管長妙覚寺(岡山県御津郡)日寿ほか僧侶六名、信徒一七〇余名が特船を仕立てて参詣、墓前に石灯篭を寄進した(藤蔓年譜)。
 伊予における不受不施派のまとまった動きは全く見られないが、長久寺(松山市御幸)にわずかな伝えがある。天正三年(一五七五)創建のこの寺は、四世日有のとき不受不施を奉じて小湊誕生寺の末寺となり(当時真浄寺と称した)、八世日縁代の寛文五年、先非を悔悟して旧本山本法寺末に復し、長久寺と改称したというから、四世から八世までの長期間不受不施派だったわけである。

その他の動き

 江戸時代の天台宗における大きな動きは、家康の知遇を受けた天海によって代表される。慶長二八年武蔵国川越喜多院に入って家康から寺領三〇〇石を受けて学問所とし、寛永二年には上野に東叡山寛永寺を建立して比叡を牽制、仏教全般の中心にしようとした。一方、これよりさき慶長一八年(一六一三)天海は日光山光明院座主となり、家康の死後その祖廟の建立を計画、天海の死後元和三年東照宮が造営され、寛永一五年後水尾天皇第三皇子幸教親王が天海の法嗣として日光に入り、さらに承応三年(一六五四)東叡山に住して天台座主となり、天台の実権は江戸に移った。天台寺院と権現としての家康を祀る日光輪王寺との習合である。
 常信寺(松山市道後祝谷、天台宗)は、松平定行が松山に入部すると、慶安三年(一六五一)、古寺の跡に天台寺院として再興、天海の弟子憲海(~一六八二)を開山としたもので、境内を同じくする東照宮御社の別当寺である。のち寛文八年定行が没すると当寺に葬られ、以後松平家の祖廟として祀られるようになった。この寺には、ほかに定行の弟定政(不白)、定行の妾塩穴氏の墓があるが、明治維新の際当寺に入って恭順の意をあらわし、明治五年に卒去した定昭をも祀っている。
 真言宗では、高野山における学侶方と行人方の抗争もあって、高野山派の宗勢はあまりふるわなかったのに対し、新義真言宗では学僧が輩出して教学が発達、智山派・豊山派ともに栄えた。伊予においても両派の展開があったはずであるが、特に記すべきことがらが見られない。
 禅宗の宗学において顕著なのは曹洞宗において宗統復古運動とともに道元の『正法眼蔵』を中心とした宗典の研究が盛んになったことであるが、伊予ではあげるべきことはない。ただ末期に出た物外が有名なだけである。物外(~一八六七)、譚は不遷、泥仏庵と号し、俗に拳骨和尚と称された。父は松山藩の足軽三木兵太信茂、その墓は西竜寺(松山市持田町、曹洞宗)にあり、物外が建てたもので、三津浜の石屋から自身で背負ってきたという。六歳で竜泰寺祖灯に預けられ、一二歳広島伝福寺円瑞に入門、そこを追放されて諸寺を転々、宇治興聖寺西堂に認められ、駒込吉祥寺を経て永平寺学寮で修行、その後も各地に転ずる間武芸をみがき柳生流秘伝を免許せられた。そしてようやく備後国御調郡栗原村済法寺(尾道市栗原町)に落ち着き、諸堂宇を整備して教化にあたる一方、武術の教授に励み、晩年は京都に出て国事に奔走、慶応三年(一八六七)帰途大坂の旅宿に没した。