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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

八 河野氏と戦国領主の寺院

 河野氏と仏教

 古来、河野氏は越智氏と同族とされるが、その関係は、中世、婚姻による姻戚関係は認められるものの、系流としての関係は、少なくとも史実の上からは全く認められないといってよい。一方、越智氏の方は、中央の史実に、主として郡司級の人物が登場することもあって、古代以来の豪族であることは歴然としている。だから、一般に河野氏は越智氏から出たとされるわけであり、河野氏に関する諸書や一般に流布されている諸系図にも明記されているけれども、分流以来の初期三代は幻の中にあって、ほとんど伝承の域を出ない。
 ともあれ、仏教の尊崇についても、河野氏は越智氏の古代における仏教尊信の事蹟を継承するものであることは明らかである。本稿古代の節で述べたように、氏神大山祇神社の尊崇とともに、益躬・玉興・玉澄以下の仏教信仰は厚く、寺院を建立し、再興し、外護した事蹟に乏しくない。河野氏はこれを継承して、三島の神を氏神とし、熊野の神を崇め、越智氏の建立した寺院を再興し、あるいは新たに建立した事例が多い。こうしたことは、寺院縁起に見え、その寺院の範囲は、概ね現在の西条市から喜多郡・大洲市に及び、かつて河野氏の勢力下にあったことが顕著な地域と一致し、また、越智氏ゆかりの寺院の分布ともほぼ一致するから、たしかな史実によらず、ほぼ伝承による縁起といえども、あながちこれを退けるわけにもゆかない。
 ところで、河野氏の系譜中、その台頭するまでのことは伝承の域を出ない通信ではあるが、ともかくこの通信以後は史実に照らして明らかであるにしても、それ以前の三代、すなわち
  親 経―親 清―通 清
のことは、すべて伝承によって知るだけである。しかし、通信にしても、伊予一国の守護職はおろか、半国の守護職(分国の守護はあり得ないとの景浦勉説がある)もおぼつかなく、ただ、源頼朝の有力な御家人として、少なくとも現西条市から大洲市・喜多郡地方までを支配しただろうことは、諸種の伝承や寺院縁起の上からも推察されるところである。そして、河野氏が伊予の国の守護職を得たことが確認されるのは、足利尊氏から守護職を安堵された河野通盛以来とされる(景浦勉による)。
 以下の叙述に必要な範囲で、通信以下の略系譜をあげると次のようになる(景浦勉『河野家文書』ならびに同氏作成の河野氏略譜を参考に構成)。
(参照 「河野氏系譜」)
この系譜で注意すべきことが二つある。一つは、通久の弟通継が兄通久の継嗣となり、得能通村も兄通純の後を継いでいるので、この関係を=で示してあることである。だから、たとえば、一遍上人と通有は実際は従兄弟ということになる。また、河野家歴代の中に通直が四人、通宣が二人いて、甚だまぎらわしいことである。寺院縁起にこれらの人名が出た場合困るので、一応の目安とするため、それぞれが惣領職にあった年代をあげると、四人の通直については、
 1 通尭(通直) 正平一九年(一三六四)~康暦元年(一三七九)
 2 教通(通直) 永享七年(一四三五)~長禄元年(一四五七)
 3 通直(弾正少輔) 永正二(年(一五一九)~天文一三年(一五四四)ころ
 4 通直(牛福丸、兵部少輔) 永禄一一年(一五六八)~天正一三年(一五八五)
となる。とはいっても、右の年代は寺院縁起に出る年代との関係で直接の決め手にはならない。つぎに二人の通宣については、
 1 通宣(刑部大輔) 寛正五年(一四六四)~永正一六年(亘九)
 2 通宣(通賢)(左京大夫) 天文一三年(一五四四)~永禄一一年(一五六八)
となるが、これも惣領職にあった年代であるから、寺院縁起に出てきた場合、決定的条件にはならない(以上、いずれも景浦勉『河野家文書』による)。

 河野氏にゆかりの寺院

 河野の始祖とされる親経は、多分に伝承的な人物で、史実の裏付けが全くない。予章記その他は北条太夫親孝の子で河野新太夫と称し、伊予国の国司源頼義と心を合わせて国中四九か所の薬師堂、八か所の八幡宮を創建したまれなる善根の者としている。この四九か所の薬師堂について、寺院の縁起をみると、頼義と親経を合わせて、または親経が建立したと伝える寺院が幾つかある。すなわち、繁多寺(松山市畑寺、真言宗、五〇番札所)は、頼義・親経により再興、薬師堂を建立したというから、右の四九の一つであることは明らかであり、石手寺(松山市石手、真言宗、五一番杜所)も、延久五年(一〇七三)頼義・親経による再建と伝え、やはり薬師如来を本尊として「伊予七薬師」の一つとされている。また、東禅寺(今治市蔵敷、真言宗)も、同じく延久五年頼義・親経の再建と伝え、旧薬師堂はもと国宝であった。これらの寺院が河野氏にゆかりが深いことは周中予地方にそれらしい寺が幾つかある。王至森寺(西条市飯岡、真言宗)の本尊薬師如来は、もと八幡山薬師寺から移されたものと伝え、薬師寺は頼義・親経の建立とみられる。今は地名となって残っている福王院(東予市福王院)は、源頼義が京都に建立した七薬師を移したもので、四九か寺の一つであると伝え、浄明寺(丹原町田野、真言宗)は、古くは道場寺といって念仏の寺であったが、中ごろ頼義・親経によって再建、寛永一二年(一六三五)になって浄明寺に改めたと伝え、現在の本尊は不動明王という。中予に移ると、薬師堂(北条市庄、現在無住)は、源頼義の国司時代親経の建立と伝え、医王寺(川内町北方、真言宗)は、延久三年(一〇七一)頼義再建といい、寺名の示すとおり薬師如来を本尊とする。また、大蓮寺(松山市東方、真言宗)は、延久四年(一〇七二)頼義の再建という。以上、現存の寺院中知られる範囲で、頼義・親経による四九の薬師堂とみられるもの八か寺を数えることができた。なお、佛性寺(松山市菅沢、天台宗)にも頼義・親経による再建の伝えがあるが、本尊は十一面観音である。
 つぎに、親経の子親清を『予章記』は頼義の第四子とするが、もとより中央の源家にその史実は認められず、親経の事績に見える頼義との関係とともに、のちの通信が源家に味方する伏線とみられなくはない。この親清については、右の石手寺に、永久二年(一一一四)再興の際、親清が供養を行ったという伝えがあり、医王寺にも、親清以来河野氏の外護があったという。また、親清の子通清は、親清に継嗣がなかったので、氏神三島の神に祈って得た子とされ、多分に伝説的な人物で、のち子通信と共に源氏に味方して高縄山城に籠城、平家方の奴可入道に攻められて討死にしたといい、菅沢仏性寺ではこの通清の外護を伝える。
 ついで登場する通信については、突如として高縄山に籠城したことからは明らかになってくるが、それ以前は伝承の域を出ず、源氏に味方して嚇々の武勲を立て、河野の最盛期を迎えたものの、源氏の御家人としての地位は明らかであるにしても、守護職についてはたしかでなく、まして、伝承がほとんどある寺院縁起の上でも確かなことは言えないが、数々の伝えがある。通信に最もゆかりの深いのは前記の東禅寺である。この寺の創建以下については必ずしも明らかではなく、推古天皇代に越智益躬が創建(すぐ隣りに益躬を祀る鴨部神社もある)、さきに記したように、のも源頼義と河野親経が再建以来河野家の菩提寺であったと伝え、また一方では、通信は幼名を若松丸といい、府中若松館に育ち、長寛元年(一一六三)この館を修して若松寺とし、のち文治元年(一一八五)通信が七堂伽藍を再興して東禅寺と改め、貞応二年(一二二三)通信が奥州江刺で没すると、東禅寺殿観光西念大居士として祀られたとする。また、同名の東禅寺(大洲市中村、臨済宗)があり、通信を開基とするが、このことはたしかでないにしても、通信を祀っていることは確実である。その他、文治三年(一一八七)通信・通俊父子が再建したと伝える理正院(砥部町麻生、真言宗)、承元二年(一二〇八)同じく通信・通俊父子が再建したと伝える宝珠寺(伊撞市谷上山、真言宗)などその例に事欠かない。
 兄通信と共に父通清の仇敵奴可入道を討取ったと伝えられる宗賢は、出雲房といって出家していたが、父通清が近江国坂本の辺りで捨てられていたのを拾って育てられたといわれ、のち通信配下一八将の一人となり、桑原氏の祖となって子孫が繁栄したという(予章記ほか)。この宗賢を祀る寺に桑原寺(松山市桑原、真言宗)がある。ちなみに、通清が捨て子を拾ったとき、その子の守り袋にはいっていた一寸八分大の観音と、あわせてあった地蔵ならびに毘沙門天の三像は、以後河野家代々軍中の護身仏と崇められ、河野通治(のち通盛)が京都の戦いで嫡子通遠を失ったとき、家臣森田通賢に持たせて郷里に帰し道後に一寺を建立させたのにはじまるのが不論院(松山市高砂町、浄土宗)であるという。
 通信の長子通俊は、惣領職を継ぐことなく、高縄山城で敗死したといわれ、得能家の祖となっている。その通俊が父通信とともに再建したといわれる寺の例はさきにもあげたが、建久九年(一一九八)正法寺(松山市御幸、浄土宗)が聖光によって中興して浄土宗に改宗される際の開基を通俊とする伝えもある。おけても、南北朝時代勤皇で有名な通綱については、さきにあげた東禅寺に寺領を寄進して再建した(元弘三年、一三三三)といい、また、全く同様な伝えが正観寺(松山市北梅本、天台宗)にもある。あるいは、父通村(元亨三年=一三二三、松山市藤野町円福寺を再建とも伝える)とともに正円寺(伊豫市上三谷、真言宗)を再興し(元弘ごろ)、以後河野家祈願所となったといい、神宮寺(東予市成福寺、真言宗)も得能氏の疵護を受けたという。さらに、一般に知られているように、宝厳寺(松山市道後湯月町、時宗)の門前に立つ「一遍上人誕生之地」という石碑は、元弘四年(一三三四)通綱が建てたものとされ、その際、通綱の寺領寄進により、門前に並ぶ塔頭一二院も含めて宝厳寺を再興したと伝え、また、今も残る本堂の大きい位牌は、通信とその子通俊・通広とそれぞれの妻のものであって、宝厳寺にとって得能家がどのように大事であるかを示している。
 一遍の父通広と一遍、および時衆にゆかりの寺院については、さきの「一遍と時衆」という項で触れたので再説しない。
 通信のあと河野の惣領職を継いだ通久は、末弟通継を継嗣とし、その子が通有である。蒙古の役で多くの部下を失った通有は、その霊を慰めるため弘安四年(一二八一)長福寺(東予市北条、臨済宗)を創建したといわれ、応長元年(一三一一)死亡すると、長福寺殿天心紹普大居士としてここに祀られ、今もその墓と称せられるものが境内にある。通有による再興と伝える寺に西法寺(松山市下伊台、天台宗)があり(弘安ごろ)、また、理正院(砥部町麻生、真言宗)は、通有が通純と共に弘安四年再興したという。通純というのは、この寺が再建されるより前、さきに記したように、通信・通俊により再建されており、通俊を祖とする得能氏ゆかりの寺であるから、通俊の孫通純のことであろう。
 通有の弟通成は土居氏の祖であり、その孫土居通増は一族得能通綱とともに勤皇の士として著名である。その土居氏の菩提寺が万福寺(松山市南土居、真言宗)である。通増の後裔通建(天正一三年=一五八五、竹原で戦死)の館址に建てられ、通建を祀ったもので、土居氏の祖通成(通有の弟)の母安古禅尼の冥福をも祈る河野・土居氏の寺である。
 再び河野の嫡流に帰って、通有の孫通盛(もと通治)は、さきに記したように、史実の上からは河野家として最初に守護となった人であり、仏教上の事蹟も多い。最も著名なのは善応寺(北条市善応寺、臨済宗)の開創である。建武の中興を崩壊に導いた足利尊氏に味方して、建武二年(一三三五)、尊氏により河野家の惣領職として通信以来の旧領を安堵された通盛は、翌三年、居館土居館を改築、七堂伽藍を整え、一三の塔頭を擁する善応寺を創建、開山として正堂士顕を迎えた。士顕は、当時周敷郡北条長福寺にあったが、鎌倉建長寺の南山士雲の高足であるところから、通盛の懇請によって迎えられたのであった。その後通盛は貞治二年(一三六三)善応寺に隠退、翌年この寺で逝去した。このほか、通盛に縁故の寺に安国寺(川内町則之内、臨済宗)がある。善応寺の造立より四年後の暦応二年(一三三九)、天竜寺夢窓の法嗣普明を迎えて開山とし、名目上の開基を足利尊氏として通盛が建立した。これらより早く、通盛が京都にあって北条に味方していた元弘三年(一三三三)、北条に反旗をひるがした足利尊氏が六波羅を攻めた際の戦いで、通盛は一六歳になる嫡子通遠を失うと、その遺骨を家臣森田通賢に託して帰郷させ、道後に寺を建立して祀らせた。のち現地に移しだのが不論院(松山市高砂町、浄土宗)で、通称森田寺といったと伝える(学信筆「千手観音井地蔵毘沙門霊像記」)。なお、通盛にゆかりの寺と伝えられるものが幾つかある。道場寺(東予市河原津、臨済宗)は、もと「河原道場」といわれ、天台系の念仏道場とみられるが、建武年開通盛により河原寺として再興、南山土雲の法嗣枢浴玄機を開山としたといい、西念寺(今治市中寺、臨済宗)も、もと平安時代建立の天台宗寺院であったが、尊氏の恩に報いるため、元弘元年(一三三一)、当時枢浴が住持していたこの寺を整備し、南山士雲を勧請開山としたという。しかし、元弘元年というのはまちがいで、時代を少し下げなければならない。また、弘願寺(松山市御幸、浄土宗)と長建寺(同)にも通盛による再建の伝えがあり、ともに元弘四年(一三三四)のこととしている。なお、盛景寺(中山町出淵、臨済宗)にも通盛が寺領を寄進したという伝えがあるなど事例に乏しくない。
 通盛の子通朝が惣領職を継いだのは貞治二年(一三六三)、やがて翌年讃岐細川氏の侵攻を受けて桑村郡世田山城に籠城して破れ、ここに自刃した。ちなみに、この時の兵火で父通盛の再建した河原津道場寺は焼亡した。この通朝が平安の古寺趾に開創したのが大通寺(北条市上難波、曹洞宗)で、開山は大暁、貞和年中(一三四五~一三五〇)のこととされる。
 その後、通堯・通義・通之(予州家)と相続、その後通義の死後に生まれた通久が、通義の遺言に従って家督を継いだ。仙遊寺(玉川町別所、真言宗)には、通久をはじめ教通・通春・通篤以下の文書があるから、通久以下歴代の尊崇を受けたのであろうという(景浦勉、仙遊寺文書解説)。
 本流の通久が予州家の祖通之から家督を相続したあと、通之の子通元との間に対立が生じ、双方の子教通と通春の時代になると抗戦にまで発展、応仁の乱には敵味方にわかれ、河野家衰微の原因となった。この教通は神仏に対する信仰が厚く、出家して道基(さきに道治)と号し、文明一三年(一四八一)石手寺本堂と山門等を修理、同一七年(一四八五)太山寺(松山市太山寺、真言宗、五二番札所)の三重塔婆を建造(予陽河野家譜)、ほかにも、右の仙遊寺のほか金蓮寺(伊予郡松前町西古泉、真言宗)の外護(明応二年、一四九三の禁制)が伝えられる。教通の子通宣が宗家を継承すると、予州家の当主通篤との抗争はつづき、一時は湯築城を通篤に奪われたこともあったが、永正三年(一五〇六)いったん和議が成立し、高音寺(松山市高木、真言宗)で調印した(築山本河野家譜など)。その時、寺に残された「白玉の図」は河野家
絵師の筆になるという。ところが、翌年には和議が破れて交戦状態となり、宗家が予州家を制圧した。通宣のあとを継いだ通直(弾正少弼)の時代配下武将の反乱と隣国からの侵入でますます衰退した。通直には嗣子がなかったため、女婿で信頼を寄せていた来島城主村上通康に家督を譲ろうとしたが、家臣団こぞっての反対で実現せず、通直はかえって湯築城を去って来島城に移らねばならなかった。その後家臣団の推す予州家の晴通を後継者とすることを承認、間もなく晴通は若くして死亡、嗣子がなかったので弟が跡を継いで通宣(左京大夫)といった。通直は通宣との間の対立を解くことなく世を去り、通宣にも嗣子がなかったので、宗家の傍流にある通直(牛福丸)が継承したが、豊臣秀吉の四国統一に屈し、所領を奪われて芸州竹原の長生寺に没し、河野氏の歴史は終わった。
 これらのうち、まず通宣については、宗家の通宣(刑部大輔)と予州家の通宣(左京大夫)とがあって、関係のある寺院を調べるのに厄介であるが、宗家の通官】(惣領職在位一四六四~一五一九)にゆかりの寺院に天徳寺(松山市御幸、臨済宗)があり、延徳二年(一四九〇)、通宣が創建したもので、通宣は天徳寺殿天臨宗感大禅定門として祀られている。さらに、さきにあげたように、通直と称するものが四人あるが、そのうち通宣の子の通直(弾正少輔)の開創した寺に龍穏寺(松山市御幸、曹洞宗、現廃寺)がある。天徳寺と同様延徳二年、月湖契初を開山として通直が開創、通直はこの寺で没し、竜穏寺殿海岸希清大和尚と諡せられている。
 なお、時代はさかのぼり、伝承に不明な点を残す寺に義安寺(松山市道後、曹洞宗)がある。現地前方の平地に出土品を出す所があり、そこをもとの義安寺とすると古代の開創になるけれども、この寺の縁起に関する最も確実なものは、『伊予国免田注記』に「儀安寺」と見えることで、これは建長七年(一二五五)に書かれているから、義安寺はそれ以前の建立ということになる。そうすると、一般に言われているように、義安寺という寺名から、河野義安が、天文八年(一五三九)、廓宝清融(天正五年=一五七七寂)を開山として創建したというのは誤りで、曹洞宗寺院として中興したということであろう。すると、建長七年(一二五五)以前の創建(または再興)者はだれかということになると、河野通有の叔父(通久の子)通時が、兄の菩提を弔うために建立したという説の方に整合性がある。ちなみに、境内の上部に二つの古い墓があり、右が通時、左がその娘の墓と言われている。なお、河野義安については、河野景通の子彦四郎というが(愛媛面影)、河野の宗家との関係など明らかでない。
 また、時代が下って江戸時代に入るが、道後にもう一つ興味深い縁起をもつ寺がある。市隠軒(曹洞宗)は、正徳年間(一七一一~一七一五)、龍穏寺一四世大享義賢がこの寺に隠栖して市隠軒と改めたもので、「市」というのは、石手寺に通ずる門前市として、この道後地区に上市・今市などがあったところからきた名であり、この時から龍穏寺末になっている。ところで、この寺の開創は、足利幕府最後の一五代将軍義昭の側室となった河野通宣(予州家、左京大夫)の嫡女章子(母は毛利元就の孫春禅院)が、郷里に帰り落飾して智印尼となって開創したと伝え、東照院殿月海智印大禅定尼として祀られている。章子と将軍義昭が結ばれたのは、通宣が官位を得るため将軍に近づく方便であったのか、天正三年義昭が京都を追われて備後に下り、毛利輝元の援助を受けたときのことであるのか、いずれも推測の域を出ないが、いずれにしても毛利のあっせんによるものであろう。ともあれ智印尼の開創したこの寺は、江戸時代を通じておおむね尼寺であったという。なお、このことについては余聞がある。義昭との間に生まれた昭王丸は章子と共に帰郷して河野家に養育されたが、河野氏の没落によって越智郡玉川町竜岡に移り、河野の部将正岡経政に養育せられて河野通勝(この地に没す)。それより三代目の通昌が伊予郡西古泉に移り、その末裔から出た通遠は、宝暦五年(一七五二)京都に出、閑院宮家に仕えて栄進した(以上、道後市隠軒の由来、伊予史談一〇四号)。この通遠が所持した河野系図は、遊行五二代一海上人により写本となって遊行寺に収まり、皇室にも献上、のち天明三年(一七八三)、河野の偉業を讃える「伊予河野氏しょう先碑」を時宗七条道場金光寺に建立、同寺が廃寺となって今は一遍の弟聖戒の開創した歓喜光寺(もと六条道場、現在山科区大宅)に移されている。
 そのほか、一般に河野氏の外護を得た寺院は周桑郡から喜多郡にかけて多いが、ここには省略する。

 西園寺氏ゆかりの寺院

 藤原純友の乱で越智郡押領使河野好方らとともに功績のあった伊予国警固使橘遠保は、天慶四年(九四一)その任を解かれたあと京に帰ったが、その時以来宇和郡の一部を所領とした。遠保は、公卿の名門橘氏の傍系の出である。その後平家の全盛期にはその勢力下に置かれていたが、その動向は明らかでない。下って、橘公業は、平家追討の軍に加わり、頼朝の御家人になったが、その所領の中に宇和郡小立間と野村があり、建久四年(一一九三)のころ野村に下向している。その後宇和郡内における橘氏の所領の大半は、嘉禎二
年(一二三六)、前太政大臣西園寺公経の懇望によりその所領となり、橘氏は換え地となった九州に去ったが、同郡来村郷北灘浦に地頭職を留保し、また、西園寺領の庄官を務める者もあった。
 宇和郡の大半を所領とした西園寺氏は、現地に下向することなく、各地の土豪を荘官として支配したので、中世後期、これらが小領主となって分裂の様相を呈した。西園寺公良が初めて伊予に下向して宇和荘松葉へ入部して武士化した時期は不明であるが、やがて正平二三年(一三六八)、筑紫から帰国した河野通尭が花見山城を攻めるとき援軍を出し、康暦元年(一三七九)通堯が細川頼之と桑村郡佐志久山の戦いで敗死した際、通尭の父通朝の女婿であり、したがって通堯の義兄弟である公俊も自刃した。室町時代中期、西園寺領宇和荘では、郷ごとに荘官が置かれていた。そのうちの一人立間郷の西園寺公広は、宇和荘全体を支配することになり、最後の領主となった同名の公広は、来村来応寺に住持していたが、戦死した公高のあとを嗣ぐため還俗して松葉城に入った。永禄一一年(一五六八)、河野通直が大洲の宇都宮豊綱と争った際、公広は毛利氏とともに通直を助けて勝利を得、その後もたびたび通直を助け、自らも、さきには土佐一条、後には長宗我部、豊後大友氏の侵攻を防いだが、最後に豊臣秀吉の四国征伐に当たり、小早川の軍に属し、下城して九島成願寺に蟄居、のち天正一五年(一五八七)宇和・喜多二郡を領した戸田勝隆により大洲城において殺害され、大洲市法華寺に葬られた(須田武男『中世における伊予の領主』)。
 光教寺(宇和町卯之町、臨済宗)は西園寺氏の菩提寺である。初めその香華所として松葉山麓に建立、開山を明遠(建治元年=一二七五寂)とするが、創建年は不明、明遠の寂年以前とするしかない。とすると、この地が西園寺領となった嘉禎二年(一二三六)より間もなく後のことである。その後西園寺の居城が黒瀬山へ移された天文年中、この寺も移築、下って元禄一〇年(一六九七)現在地へ移されたという(光教寺沿革史)。境内にある西園寺廟の草創は文化一〇年(一八一四)、西園寺最後の当主公広の墓が大洲市法華寺から移されて現存する。
 等妙寺(広見町芝、天台宗)は、古く延暦二二年(八〇三)開創と伝えられるが、元応二年(一三二〇)、天台戒壇設立の使命を帯びて下向していた天台宗京都法勝寺の理玉により再興したのが元応二年(一三二〇)、西園寺宣房の外護を得て元徳二年(一三三〇)までに堂舎を整え、元弘元年(一三三一)には後醍醐天皇の勅願寺として延暦寺円頓戒場会天下四箇寺の一つとなり、末寺七二か寺を擁する大寺であった。当時はまだ西園寺の下向はなく、この地方は荘官とみられる開田善覚が支配していたから、西園寺からの援助はこの善覚を通じてなされた。この開山理玉と実質上の再興開基ともいえる開田善覚が、等妙寺開創のすすんでいたころ協議し、これまた古寺を再興したのが歯長寺(宇和町伊賀上、天台宗)である。すなわち、この寺はもと歯長峠下にあり、天平勝宝二年(七五〇)創建、治承年間(一一七七~一一八〇)再建と伝えられるが、理玉と善覚により元応二年(一三二〇)以前に再興したとみられる。したがって、この寺の中興開山は理玉、開基は善覚、中興第二世は善覚の子寂証で、寂証によって等妙寺と歯長寺の両寺に開する縁起が書かれたのが歯長寺縁起である。西園寺氏とこの寺の関係は等妙寺の場合と同様で、享徳二年う公俊の位牌が祀られているという。また、善福寺(松山市馬木、真言宗)は、暦応四年(一三四一)、西園寺氏が当地を領有していたとき、荘官として下向していた良円が、開山良賢を迎えて創建、のち河野氏の祈とう所として栄えたという(同寺縁起)。なお、西園寺氏直属の下臣である郷内城主三善春澄が、天正四年(一五七六)に再興した西林寺(宇和町郷内、曹洞宗)は三善氏の菩提寺である。

 宇都宮氏ゆかりの寺院

 大洲を本拠地とした宇都宮氏は、下野国宇都宮出身で藤原北家の出であるという。ところが、宇都宮氏の大洲地方における動向はあいまいで、その初め、守護・地頭のいずれとして下向したか不明である。予章記は、道後七郡の守護職は河野通信に与えられたが、義経の逃亡から幕府は河野氏を疑い、喜多郡を梶原景時に与えたといい、のち梶原を討伐した功績により、宇都宮信房が代わって喜多郡守護職に任ぜられたという説もあるが、これらはいずれも疑わしく、ただ、元応元年(一三一九)、伊予国守護として宇都宮貞宗が赴
任したことは「小早川文書」にみえる(景浦勉『伊予の歴史』上)。この貞宗は、もちろん北条高時に任命された守護であるから、河野通盛らと共に幕府方であった。また、貞宗の弟貞泰も地頭として下向しており、根来山城に拠って兄貞宗を助けた。これとは別に、同族の宇都宮親房は、元徳二年(一三三〇)地頭(守護という説もある)に任ぜられて翌元弘元年(一三三一)来任、地蔵ヶ嶽城(のちの大洲城)に拠ったが、五郎村に城願寺(臨済宗)を建立して菩提寺とし、また、故郷宇都宮から法華寺(開基宇都宮朝綱、開山慈善、天台宗)を大洲に移して先祖朝綱を弔った。法華寺は、その後、加藤泰興の室万寿院の遣言により龍沢寺一六世宗てんを中興開山として曹洞宗になった。ちなみに、宇都宮朝綱は、現宇都宮市南大通り(もとは城中にあった)の応願寺(時宗)を養如元年(一一八一)に開創、もと天台宗であったが、遊行二祖真教の教化により時宗に転じたという。以上の二つの系流は、喜多郡を中心に宇和郡まで及んで、宇都宮氏の繁栄をもたらした。
 根来山城に拠った地頭貞泰(蓮智)の部将津々喜谷行胤は滝之城に拠っていたが、観応元年(一三五〇)、真空妙応を請じて西禅寺(大洲市手成、臨済宗)を開創、貞泰も寄進して寺運を助けた。また、これより早く、右とは別系の宇都宮永綱が地頭として宇和郡にあり、嘉暦元年(一三二六)、東山堪然を勧請、月浦を開山として開創したのが大安楽寺(宇和町伊延、臨済宗)であり、のち天正の兵火のあと後裔宣綱が復興したが、大洲に入封した戸田勝隆に破壊された。ちなみに、この宇都宮氏は、多田殿宇都宮氏といわれ、西園寺の配下であった。また、同様に西園寺配下であった萩森殿宇都宮氏は、大洲宇都宮氏八代豊綱の弟で、かつて他大納言家が領有した矢野荘を地頭として支配した萩森房綱は、永禄二年(一五五九)長谷寺(八幡浜市高野地、臨済宗)を開創した。そして、右の大洲宇都宮八代豊綱は、天正七年(一五七九)長宗我部元親に滅ぼされた最後の城主で、その開創した寺に清源寺(大洲市柚木、臨済宗)がある。永正八年(一五一一)の創建でもと東山根にあった。

 御荘谷氏と勧修寺氏

 中世の御荘は、まず、比叡山延暦寺の一門跡である十楽院の末寺勝蓮華院の所領であったが、建武中興が成って建武二年、叡山の諸門跡が統合された際、青蓮院門跡領に変わり、青蓮院から預所を司る坊官が派遣され、それが土着するとやがて武士化した。坊官として御荘に下向したのは谷氏で、以後土着して預所を支配、その惣領家は御荘氏、庶子家は竹中氏を名のった。荘園は観自在寺(御荘町平城・真言宗、四〇番札所)を中心とした現在の南宇和郡を主とし土佐国にまで及ぶもので、観自在寺は、青蓮院門跡で行われる仏事に要する費用や、青蓮院の末寺十楽院境内にある十禅師社の神供料を上納した(須田武男『中世における伊予の領主』)。坊官はこの寺にいて荘園を支配したから、観自在寺が荘園を支配する観を呈し、御荘が観自在寺領のようであった。
 坊官隆賢の子定尋は、帰信する心寂(永仁三年=一二九五寂)を開山として真宝寺(城辺町、浄土宗)を開創した。その年代は明らかでないが、開山心寂の没年以前とすることはできる。真宝寺を中心に御荘地方に浄土宗が普及し、土佐にかけて末寺五〇か寺を数えた。ついで南北朝時代の康永三年(一三四四)、坊官宏賢は、弥阿(興国五年=一三四四寂)を開山として来迎寺(御荘町平城、浄土宗真宝寺末)を開創した。下って室町時代の応仁元年(一四六七)、坊官宗祐(赤岸殿法眼宗祐大庵主)が、直心宗柏を開山として開創したのが興禅寺(御荘町平城、曹洞宗)で、山号を赤岸山というのは開基赤岸殿からきている。初め天台宗、中ごろ真言宗、のち曹洞宗に転宗した。この寺は末寺一〇か寺をもつこの地方曹洞宗の本寺で、浄土宗の本寺真宝寺と双壁をなしている。かくして永正年間(一五〇四~一五二〇)まで谷氏坊官による御荘の支配は存続した。
 これにとって代おったのが勧修寺氏である。勧修寺氏は、土佐中村の領主一条家に従って土着した町氏の一族である。すなわち、応仁の乱を避けて荘園中村に下向して土着、武士化した一条氏は、永正から天文にかけてのころ御荘を武力で制圧、家司である町顕賢に支配させたもので、これより勧修氏を名のるこの一族が繁栄し、その支配は幕藩体制の成立までっづいたが、かりに天文の初年(一五三二)からとしても、江戸幕府の成立(一六〇三)までのわずかな期間にすぎない。この間、観自在寺をはじめ、さきの谷氏の歴代が開創した真宝寺・来迎寺・興禅寺を保護してその発展を図るほか、勧修寺顕賢(左馬頭)は、すでに応永五年(一三九八)に開創されていた智慧光寺(城辺町緑、浄土宗、開山明阿)を勧修寺家の菩提寺にしている。

河野氏系譜

河野氏系譜