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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

七 浄土真宗と日蓮宗

 浄土真宗

 親鸞の示寂(一二六二)後、その遺骸は、娘覚信尼により、いったん鳥部野に葬られたが、のち文永九年(一二七二)、吉水の北に御影堂を建て、大谷本廟として祀られ、亀山天皇から本願寺の号を賜った。その留守職は覚信尼の子覚恵、さらにその子覚如と継ぎ、その後は善如・綽如・巧如・存如と相続したが寺勢は振るわなかった。存如の嫡子蓮如(一四一五~一四九九)が本願寺第八世として積極的な布教をすることにより、浄土真宗は大いに興隆した。しかし、その生涯は苦難の連続で、それを克服しての宗勢拡張であった。すなわち、叡山西塔の衆徒による攻撃を受けた寛正六年(一四六五)の法難後、蓮如は、北国・東国などの諸国を流浪、越前吉崎を中心に北陸に教化、そこを退去して山城・摂津・河内・大和・紀伊に行化したあと山科に松林山本願寺を再興、さらに、明応六年(一四九七)には摂津石山(後の大坂城の地)に大坂本願寺(石山別院、石山本願寺)を建立、以後、ここを関西布教の根拠地としたが、翌七年この寺で発病、同八年山科本願寺に示寂した。その後天文元年(一五三二)。一〇世証如のとき、山科本願寺は日蓮宗徒に攻められて焼亡、一一世顕如は本寺を石山本願寺に移し(天正八年=一五八〇)て造営し、後の大阪発展のもとをつくったが、元亀元年(一五吉)以後織田信長と兵火を交え(石山合戦)、一年後の天正八年(一五八〇)和を結び、顕如は紀伊の鷺森に移った。その後二一世准如のとき、天正一九年(一五九一)、豊臣秀吉から寺地の寄進を受けて造営を始めたのが西本願寺、それとは別に、顕如の長子教如が、慶長七年(一六〇二)、徳川家康から寺地を与えられて創建したのが東本願寺で、その後、前者は本願寺派本山、後者は大谷派本山として対立していることは周知のとおりである。ちなみに、伊予における末寺は、本願寺派六六か寺、大谷派三〇か寺(昭和四四年)であり、特に顕著なのは、本願寺派が松山市に二〇か寺と多いことである。

 伊予の浄土真宗寺院

 この時代の浄土真宗の布教は、大坂石山本願寺を中心とする活動によるものとは思われるが、組織的・集中的布教の跡は伊予ではみられない。いまは、ほぼ開創の時代を追って、主な寺院をあげておきたい。
 長敬寺(東予市周布、本願寺派)は、成然(信州塩崎氏)により古く弘安六年(一二八三)の開創というが、再興後の三世西念代に本願寺三世覚如から寿光山無量寿院という寺号を賜わって浄土真宗になったというから、伊予では最も古い真宗の寺とみられる。ついで古いのは浄蓮寺(松山市本町、本願寺派)で、享禄四年(一五三一)河野通直が道後に開創、その後伊予郡松前町に移されていたが、慶長一一年(一六〇六)、善了の代に現在地へ移建したという。江戸時代には中本寺という寺格をもち、浄土真宗の中心寺院であった。しかし、この寺が初めから浄土真宗の寺院であったかどうかはこれだけでは明らかでない。また、同じような変遷をたどったと伝えられる寺院に法泉寺(松山市松前町、大谷派)がある。この寺はもと松山市持田にあった真言の寺で、河野家の菩提寺であったが、その後伊予郡松前へ移され、さらに、慶長八年(一六〇三)、加藤嘉明の松山城築城にともなって現在地に移建、時の住持道鎮(慶安三年=一六五〇寂、加藤嘉明の伯父)が東本願寺教如に帰依して浄土真宗になったといわれる。この方は開創が明らかでないが、右の浄蓮寺とは違って浄土真宗への転宗のことは明らかである。ちなみに、この寺も、江戸時代には中本寺の寺格を与えられ、浄蓮寺と双壁をなしていた。
 つぎに、明勝寺(小松町新屋敷、大谷派)は、遠く延暦一五年(七九六)、学僧・(「行」の間に「さんずい」が入った形の下に、「食」)担が、文徳実録にいう橘嫗の跡(橘郷楢木)に創建、のち大同元年(八〇六)真言宗松林寺となったが、永正・大永の間兵火により衰廃、寺を周敷郡小松原に移し、天文一五年(一五四六)真宗となって円龍寺と改めた。さらに、寛永一三年(一六三六) 一柳頼直が小松入封、二代直治の時、家老喜多川久勝・久明兄弟が真宗東本願寺門徒だったので檀家となり、万治元年(一六五八)、両家老の名をとって明勝寺に改めたという(小松邑志)。
 さらに、定秀寺(松山市三津、本願寺派)は、永禄元年(一五五八)、風早郡中西村に開創、開基は鹿島城主河野通定、開山はその子通秀(宗徳、永禄四年=一五六一没)。父通定は蓮如に帰信し、その直筆名号等を賜わって国に帰り安置、子通秀は石山合戦に参加して籠城、その功績に感じた顕如から父子の名をとって「定秀寺」という寺名を賜った。県下の寺院中、石山合戦に参加した僧を出した記録のみえるのはこの寺だけである。このことを裏づける史料に天正四年(一五七六)七月一五日付けの毛利家文書がある。この年四月、顕如は石山城に拠って再度信長に反抗、六月には信長による攻撃を受け、七月には毛利氏が兵粮を石山本願寺に送ってこれを助けたが、毛利氏は兵を出して直接の援助もしたようで、毛利氏を救援した村上水軍の諸将(村上吉允・武満など一〇余名)から、毛利家の家臣とみられる児玉三郎右衛門などにあてたもので、紀伊の雑賀衆と共に木津川口の舟戦における功績をたたえている。
 つぎに、明教寺(新居浜市松神子、本願寺派)は、元亀年間末年(~一五割)までに、佐々木光清(天正七年―五七九没)による開創と伝えられ、大楽寺(吉田町河内、大谷派)は、もと大楽院といった天台の古寺跡に、天正一九年(一五九一)、九州よりの落武者宇都宮弥三郎(出家して正永)が開創したという(大楽寺系譜)。また、明源寺(宇和島
市追手、本願寺派)の開山順信(元和七年=一六二一寂)は、三河の人、天正年間九州を経て伊予に来錫して説法、文禄元年(一五九二)阿弥陀如来を奉遷すると崇敬する者がふえたので笹町に草堂を建て、慶長二年(一五九七)現在地に創建した(宇和旧記)。最後に、常高寺(今治市風早町、本願寺派)は、慶長五年(一六〇〇)開創、開山了雲は、加藤嘉明の従弟加藤常高で、豊臣秀吉に仕えていたが、出家して安芸豊田郡の島々で浄土真宗の布教に努め、藤堂高虎から現在地を拝領して建立したと伝える。江戸時代には中本寺の寺格を有する大寺であった。
 中世後期浄土真宗の布教の跡をたどってきたが、江戸時代にさしかかったのでこのくらいにとどめる。日蓮宗日蓮(~一二八二)には本弟子として日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持など六老僧があり、それぞれ門流を開いて布教したが、その地域は関東を中心に東海東部に限られていた。日興(~一三三二)の法孫日尊は京都に上行院を開創してはじめて洛内布教の端を開き、教線は安芸・出雲に及んだ。同じく日興の法孫日華は、その弟子日仙とともに教線を土佐・讃岐まで延ばしたが伊予には及ばなかった。
 一方、日朗(~一三二〇)の門下には九鳳と呼ばれる九人の高弟があり、うち日像(~一三四二)は、日善・日行らの助けを得て洛内の弘通をはかった。日像の開いた法華堂はやがて妙顕寺(京都市上京区)と呼ばれ、建武元年(一三三四)には後醍醐天皇の綸旨により勅願寺になった。しかも、建武新政の崩壊後、建武三年には室町将軍の祈願所、さらに翌年には北朝光厳天皇の祈願所となり、妙顕寺の地位は保たれた。その信徒には富商が多く、その外護によって繁栄した。やがてその弟子大覚は瀬戸内海地域への布教を始めた。また、京都における日像の布教の成功が伝えられると、各派が競って西国に下り、洛内に多くの法華寺院が開かれた。
 ここで、日蓮宗の主要寺院をみると、もとより久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町、日蓮宗総本山)は、日蓮が佐渡流罪から帰って文永一一年(三茜)に隠栖の地、弘安四年(三八一)伽藍造営、翌年日蓮が示寂すると遺骨をここに収め、さきに記した六老僧が輪番で護持、のちそのうちの一人日向が第二世となり、現地に移建されたのは文明六年(一四七四)である。ついで本門寺(東京都大田区池上)は日蓮入寂の聖地で、池上宗仲の創建、ついで日朗が伽藍を建立した。また、法華経寺(千葉県市川市)は富木常忍(日常)の創建、これら久遠寺・本門寺・法華経寺の三つが関東布教の中心になった。
 関西で布教の中心になった寺としてはまず妙顕寺(京都市上京区)がある。永仁二年(一二九四)に京都布教を始めた日像の建立で、右にあげた関東の三寺と共に日蓮宗四大本山の一つに数えられた。これにつづいて多くの寺が洛中に建立され、いわゆる「洛中二一本山」を数え、競って地方に教線を延ばしたが、その中で伊予に関係の深いものに本法寺(京都市上京区、永享八年=一四三六、日親の創建、豊臣秀吉が現地に
移建)・立本寺(京都市上京区、初め四条大宮、元亨元年=一三二一「日像開基」などがある。

 伊予の日蓮宗寺院

 伊予において中世末期に開創された日蓮宗寺院をあげると次のとおりである。光明照院(大洲市鉄砲町、本法寺末)は、建武元年(一三三四)、開基二条兼基が京都嵯峨小倉山山麓に建立して山号を小倉山といい、二条家代々の当主が隠栖したが、のち丹波国へ移転、安政元年二三世日敬の代に本法寺末になり、明治二五年大洲に再興したと言われるから、伊予における歴史はごく新しい。伊予において最も古い開創を伝えるのは本妙寺(東予市国安、本法寺末)で、嘉吉二年(一四四二)の創立、開山は日感(永正一一年=一五一四寂)である。つぎに中予では、天文二年(一五三三)、立本寺一〇世日経を開山とする妙清寺(立本寺末)がある。もと妙仙寺といい、松山市山越にあったが、市内三番町に移り、現在は同市伊台に移築されている。なお、この寺の旧末寺に延立寺(正保二年創立、松山市星岡)がある。また、大法寺(松山市本町、本法寺末)は、開山日芸により天文三年(一五三四)創建、もと伊予郡松前町にあったが、加藤嘉明の松山築城とともに松山市山越に移建、のち現在地に移った。つぎに、法善寺(北条市朝日町、立本寺末)は、元亀元年(一五七〇)の創建、開山日法といい、もと上難波にあった。
 ついで天正時代創建の寺が四か寺ある。長久寺(松山市御幸、本法寺末)は、天正三年(一五七五)創建、開山日観という。松山騒動で有名な山内与右衛門は、南江戸町の山内神社に祀られているが、この寺で切腹し、境内に墓がある。なお、この寺の旧末寺に正念寺(寛永年間創立、松山市神田町)がある。また、長久寺と同年に創建された寺に法華寺(今治市中浜町、立本寺末)がある。開山は日虚で、もと玉川町三反地にあったが、寛文年間今治に移建、さらに現在地へは元禄八年に移ったという。下って天正七年(一五七九)開創の妙円寺(松山市大手町、久遠寺末)は、身延山十一世日朝の法孫日潤を開山とし、加藤嘉明の祈願所として伊予郡筒井村に創立、延久寺と称したが、のち松山市中の川に移建、さらに文禄年間(一五九二~一五九五)現在地に移されて妙円寺となった。江戸時代には中本寺の寺格をもち、「四国身延」として崇敬された。この寺の旧末寺に妙寛寺(伊予郡松前町)があり、創立年代も開山も妙円寺と同じとするが、実は、妙円寺の松山移建の跡地に武井宗五郎が宗意庵を建立、明治初年妙円寺八二世日寛が再建したものである。最後に、宇和島地方で最も古い日蓮宗寺院に妙典寺(宇和島市妙典寺前、妙顕寺末)がある。文禄三年(一五九四)の創立、開山目相といい、古来寺勢の盛んな名刹である。